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2008年12月5日金曜日

ボクと空と麦畑('99)     リン・ラムジー


 <脱出の狭隘な出口が塞がれて――「ユートピアへの行進」の哀切>



1  僅かな微笑すらも消えて



一人の男の子が自分の体にカーテンをぐるぐる巻いて、その身を回転させながら遊んでいる。

何か時間を持て余しているようなその子の名は、ライアン。

母に注意され、その遊びを止めるが、少年が窓ガラス越しに見えた水路には、一人の少年が同じように暇を持て余していた。

「パパに会いに行くの」という母に嫌々同行したライアンだが、それを振り切って、母に無理やり履かされた長靴を隠すようにしてズボンの裾を伸ばし、少年はその足で水路の方に向った。

そこには、ガラス越しに見えた近所の友だちがいて、早速、男の子同士、じゃれ合って遊びに耽っていく。

自分より少し体の大きいその子に水路の中に突き落とされて、ライアンは泥を投げて応酬する。二人は浅い水路で、やがて取っ組み合いの悪戯が昂じてきて、次第に感情を乗せていく。

それは、一瞬の間だった。

軽く肩を突かれたライアンの体が水路の中に沈んだまま、浮き上がって来なかったのだ。

ライアンを無視して、その場を離れた男の子は、暫く走って後ろを振り返ると、そこにライアンがいない。男の子の表情に不安な感情が炙り出されていたが、男の子はそのまま帰宅したのである。

それが事件の始まりだった。

ライアンは水死体となって、大人に引き上げられていた。

その場面を一人の女性が、二階の窓ガラス越しに凝視している。その女性のもとに、息を切らせながら、一人の男の子が走って来た。友達のライアンを、誤って水路に突き落とした男の子である。

「お前かと・・・」

その女性は、少年の体を包み込んだ。

翌日少年は、ライアンの棺を運ぶ車を、一人で遠くから見送っていた。

少年はその後、水路に行き、ライアンが溺れたその深みを確かめた。

少年もまた、そこで危うく足を滑らせそうになって、水路の怖さをまざまざと感じ取っていた。

ライアンの死は、彼が長靴を履いていたことと関係している。だから自分のせいではない、と少年が考えたかどうかよく分らない。

しかし少年の表情からは、もうライアンと戯れていたときの僅かな微笑すらも消えている。

それは少年の心の中に、決して癒えない外傷として、いつまでもべったりと張り付いてしまう何ものかになっていることを示していた。



2  恐怖突入



グラスゴー中心部のブキャナン通り(ウィキ)
物語の背景は、1970年代初めのスコットランド、グラスゴー。

イギリスが戦後最も厳しい経済的不況を迎えていた頃のグラスゴーの町は、ケルト系(ヨーロッパの先住民族)の富裕な人々が住む一角とは離れて、貧民窟のような労働者たちの生活空間を其処彼処に作り出していた。     



物語の背景となった一角は、ゴミの収集人たちのストによって、町中でゴミ袋の山が堆く積まれている異様な風景を映し出していた。

そこに大量のネズミが生ゴミを求めて群棲し、この町はネズミと同居する陰惨なイメージを撒き散らしていたのである。

その少年も、室内に入り込んだ一匹のネズミを相手に戯れている。ネズミと遊ぶ少年の眼に、テレビのニュースが飛び込んできた。

「まさに『百聞は一見にしかず』です。この環境下に住むグラスゴー市民の健康に、害を与える可能性は否めないでしょう。ゴミの腐敗や火事が起こる恐れの他にも、ネズミが増えることにより、病気蔓延する心配も・・・」

少年の名は、ジェイムズ。12歳である。

彼にはしっかり者の姉と、生意気盛りの妹がいる。そして、引越しを夢見る真面目な母と、酒癖が悪い父がいる。

母はこの日も、ネズミに埋まった町からの脱出を考えていた。そんな妻に、夫はペンキを与えて、壁を塗り替えることで気分を変えるような提案をするが、とても受容できるものではなかった。

仕事に出る母は、息子のジェイムズに言い添えた。

「水路に近づかないでね」

特に家庭に不満を持つ訳ではないが、ジェイムズは、いつもビールを飲みながらサッカー観戦する父にどこか距離を感じている。

セルティックFCのホーム、セルティック・パーク(ウィキ)
グラスゴーは「セルティック」と「レンジャ-ズ」のダービー・マッチで有名な町である。

彼の父も熱狂的なサッカーファンだが、どこか中性的な感性を持つジェイムズには、そのサッカーがどうしても好きになれないなのだ。

父と子がスポーツで繋がれないと、情緒的結合力を恐らく稀薄化する。父の傍に絶えず甘えるように寄り添う妹とは、既にそこに微妙な距離を生み出していた。

家庭で心地良い居場所を持てないジェイムズは、水路の近くで一人の少女と知り合った。

少女の名は、マーガレット・アン。

少年より二つ年上の14歳のこの少女は、地区内の不良グループにからかわれていた。

愛用の眼鏡を水路に落とされた少女と、逃げていくグループとの汚い言葉の応酬。

「ろくでなし!」
「バカ女!」
「クソッタレ!」
「尻軽!」

その光景を目撃したジェイムズは、水路の前の石塀に座り込んでいる少女から声をかけられ、その隣に座った。

ジェイムズとマーガレット
少女から水路で死んだライアンのことを聞かれ、少年は「知らない」と一言答えた。そう答える以外にないからだ。少年の内側で封印しようとする一つの由々しき記憶は、絶えず意識の内に戻されてしまうのだ。

こんな一件もあった。

少年が母との外出で街路を歩いているとき、大人同士の喧嘩の声が聞こえてきた。どうやら、引越しの支度をしているライアンの両親のようであった。

「あんたのせいよ!」
「何だよ?」
「責任とってよ!」
「何だよ?落ち着けって」
「私の息子を・・・」
「何言うんだ。俺の息子でもあったんだぞ!俺もあの子を愛していた」
「あんたさえいれば、あの子は・・・!」
「頼むから落ち着いてくれ」
「触らないで。もう大嫌い!あっち行って!」
「何だよ、ヒスばかり起しやがって・・・」

そこにジェイムズの母が近寄って、ライアンの母の肩を包み込んだ。

「彼、出てったの。息子の面倒も私に全部任せて。大嫌い。彼が息子を・・・」

その話が耳に入ってきて、ジェイムズは母の傍を離れて行った。

母は息子を止めて、ライアンの母の隣に座らせた。

ライアンの母は、「私に抱かせて」と言って、ジェイムズを存分に抱きしめた。少年は、たまらずに自らその縛りを解いていく。

「ライアンに似ているわ。目とかが・・・」とライアンの母。
「少し似てるわ」とジェイムズの母。

ライアンの母は、「お願いがあるの」と言って、ライアンの部屋にある靴の箱をジェイムズに取りに行かせた。

少年は目を瞑るようにして、アパートの階段を駆け上がって、今度はライアンの部屋を恐る恐る開いて、静かに中に入った。「恐怖突入」を敢行したのである。

そこにはもう、子供の部屋の原形は僅かに残るだけだったが、少年は急ぐようにして箱を掴んで、階段を駆け下りかけた。

その階段の半ばに、ライアンの父が沈み込んでいたのである。その瞳は悲哀に満ちた涙で濡れていた。

表に出たジェイムズは、ライアンの母にその箱を渡した。そして、ライアンの母から、箱の中に入っているライアンの靴を、ジェイムズは譲られることになったのである。



3  麦畑にその身を深々と投げ入れて



今日もまた、ジェイムズは水路の前に佇んでいた。

魔境のような水路が、常に少年を誘(いざな)ってしまうのかのようだ。

そこに、動物好きのケニーがやって来た。

ケニーはその手に、「スージー」と名づけたネズミを大事そうに抱えていた。ジェイムズに見せるためである。この少年は、「世界一大きな動物園を作るんだ」と言って、動物愛護協会の会員証を自慢げに見せた。

ケニーとジェイムズ
ジェイムズがやがて親しくなるケニーとの出会いは、未だ少年の心を支配するまでには至っていない。

また12歳のジェイムズは、年上の不良グループに相変わらずからかわれていた。

彼らの中の二人に足と腕を持ち上げられて、水路に投げ入れられる陰湿な悪戯の描写は、本人と映像を観る者だけが知っている少年の、その心の闇を執拗に想起させる、作り手の悪意にも似た物語のラインに、しばしばうんざりさせられる程である。

その日、ジェイムズは退屈紛れに姉の乗ったバスを追って、他に乗客のいないバスに乗り込んだ。

バスの中から見える町の風景は、どこも彼処もゴミの山。

そのゴミの山の風景を突き抜けたら、少年が今まで見たことのない広々とした明るい風景が待っていた。そこがバスの終点だった。

少年は運転手に促されて、未知なる世界に踏み込んでいく。

麦畑が広がる広大な風景の中に、建設中の建物が一棟建っていた。

少年は、興味深げにその建物の中に入っていく。水の入っていないビニールに覆われたバスタブに身を沈め、仰向けになって深呼吸した。

そして、建物の中の窓に収まった風景の素晴らしさに心が解き放たれた少年は、窓から飛び出して、その空間にその身を深々と投げ入れた。

一瞬見せた少年の至福の表情は、暗鬱に流れてきた映像を断ち切るほどの鮮烈さを刻んで見せた。一幅の絵画の世界が、印象的に再現されたのである。




4  夢の探検の呆気ない終焉



しかし、少年の帰るべき場所は一つしかなかった。


ゴミとネズミ(右下)で埋まった住宅街(イメージ画像)・ブログ
ゴミとネズミで埋まった労働者の住宅街である。

そこには、涎(よだれ)を垂らして母の胸に沈む酒飲みの父、そんな父にまとわり付く妹の子供っぽさ、自分の世界で悠々と生きる姉、そして家族を束ねる献身的な母の存在が待っていた。

ある日、ケニーが最も可愛がる二十日鼠を、不良グループが悪戯して投げ合っていた。その中にジェイムズもいた。彼にはこんな連中くらいしか、仲間として遊べる友がいないのである。

ケニーがペットにするネズミの名は、「スノーボール」。

このスノーボールを、「月へ飛んで行くんだ」とうそぶくケニーに、ジェイムズは「籠に戻せよ。もう充分遊んだろ」と促した。

ケニーは籠に入れたスノーボールを抱えて、二階に上がった。そして、その愛するネズミに風船を付けて、大空に向って飛ばしたのである。それが、動物愛護協会の会員であるケニーの残酷極まる行動だった。ケニーにとってそれだけが、不良グループに唯一自己顕示できる手段だったのである。

ケニーとマーガレット・アン。この二人が、今やジェイムズの大切な友人になっていった。

ジェイムズはマーガレット・アンの髪の虱(しらみ)をブラシで梳(と)かして、必死に取ってやろうとする。

その直後の描写は、洗髪のために彼女が浴槽に入るシーン。

その浴槽の中で、彼女は心地良くその身を浮かべている。浴槽の中の彼女の体が、一瞬止まった。それを横目に見たジェイムズは、またしても思い出したくない記憶に甚振られてしまうのである。

浴槽から動きを見せた彼女を見て、安堵する少年の表情があまりに痛ましい。

一方、もう一人の友人のケニーが水路に溺れて、助けを求めていた。

ケニーを救ったのは、ジェイムズの父だった。ジェイムズの父は、この一件で一躍町のヒーローになったのである。

「パパは英雄なの」

ジェイムズの妹のこの言葉が、家族の誇りを代弁していた。

その父が、町の人々の前で表彰されることになった。

その帰途、父は町のチンピラに因縁をつけられ、傷害事件を起こしてしまう。手に包帯を覆った父は帰宅するや、父を待つ家族の前で暴力を振るう始末。その父が息子のために買ってきたサッカーシューズを、無理やり履かせようとする父の横暴さに、息子はその靴を投げ返した。

「ボクはサッカーなんか嫌いだ!」

サッカー嫌いの息子にサッカーシューズを履かせようとする父の態度は、殆ど暴力であると言っていい。

そんな父の態度に息子は激しく反応し、そのまま家を出て行った。

少年は夜の水路沿いの道をひたすら走る。走って、走って、走り抜いて、辿り着いた先は、マーガレット・アンの住むアパートの部屋。

少年は何も言わずに、母のいない少女のベッドの中に潜り込んでいく。少年はただ、心を分かち合う者の優しさの中に包まれたいだけだった。

ゴミ収集員たちの臨時の作業が始まったその日、町の中のゴミは次々に片付けられ、運ばれていく。

どこにも行くあてのない少年は、再びバスに乗って、ユートピアの地にやって来た。

ずぶ濡れの雨の中、少年が探索した建物はもう殆ど完成されていた。玄関は施錠されていて、中に入ることはできなかった。

少年の夢の探検は、呆気なく終焉してしまったのである。

その日、ジェイムズは見てはいけないものを見てしまった。

傍らには、ネズミを殺して自慢するケニーがいた。

この二人の前で、不良グループに弄(もてあそ)ばれるマーガレット・アンがいる。少年の眼には、少女の表情が、激しい抵抗感を示す者の態度には見えなかった。

少年は同時に、最も近くにいる二人の友を失ってしまったのである。



5  ユートピアへの行進



翌朝、少年ジェイムズは静かに家を出た。

母の破れかけたストッキングの親指を被せて、そのまま家を出て行ったのだ。

少年が向った先は水路だった。

水路にやって来た少年は、覚悟した者のように、その中にゆっくりと身を沈めていく。ライアンがその運命の残酷さを呪う余裕すらなく沈んでいった水路の中に、少年はそこにしかない残酷な着地点に抱かれるようにして、潜り込んでいくのである。

身を沈めながら、少年の脳裏に「ユートピアへの行進」が過(よ)ぎっていく。

そのラインの先頭には父がいて、その後に母が続き、姉が続き、ミラーを持った妹が続き、最後尾に自分が繋がっていた。

それは、少年が最も望んでいた家族の引越しのイメージである。

「ねずみが支配する町」から解放された家族がラインを繋いで、広大に広がる黄金色の麦畑の中を、新しい生活の拠点になるはずの新築の建物に向かう希望こそ、少年にとって、唯一の未来に向う約束のイメージだったのだ。


*       *       *       *



6  脱出願望を打ち砕く残酷さ



これは感受性の豊かな、中性的なまでにその攻撃性を脱色させた思春期前期の少年の、脱出についての物語である。

少年はひたすら脱出するために物語の中で漂流し、抗い、翻弄され、そしてしばしば一気に駆け抜けていく。

駆け抜けていくのは、踏み込んではならないアパートの階段であり、その記憶に深々と張り付けられた水路沿いの道であり、少年の希望のイメージが集中的に仮託された黄金色の麦畑である。

しかし少年の脱出は、艱難(かんなん)な隘路を突き抜けるほどの突破力を要求された。

12歳の少年には、その突破力が決定的に不足していた。突破力を持つには、少年はあまりに繊細過ぎたのである。

そんな中で少年は、脱出すべき僅かなカードを手に入れていた。

一つは、少しでも心が分かち合える、ほぼ同年齢の他者の存在である。

もう一つは、ユートピアの発見と、その空間内での大いなる身体疾駆である。

しかし、その二つの脱出のカードを失ったと確認したとき、少年は我が身を沈めるに至ったのである。

少年はなぜ脱出せねばならなかったのか。

そしてそれは、果たして何からの脱出だったのか。

少年が脱出せねばならなかった最大の理由は、自分が罪を犯し、それを認知する自我がギリギリに芽生えていて、そこで芽生えていたものが常に自分の心を苛み、甚振り、しばしば激しく内側を突き上げてくるからである。

無論、少年には、大人が持つような普通の自我のレベルの贖罪意識はなかった。

PTSDと呼ばれる特定の際立った精神現象も見られなかった。悪夢にうなされたり、フラッシュバックに翻弄されたり、事故に関わる過覚醒の反応もなかった。

しかし明らかに、前期思春期にさしかかった少年の脆い自我には、心的外傷とも呼べるような陰鬱な記憶が張り付いていた。

しかもこの記憶は、少年の住む狭く、不潔極まる生活空間の中で繰り返し再生産されてしまうのだ。

ジェイムズと、事故死したライアン(右)
少年の視界の中に、絶えず水路の暗く淀んだ風景が侵入してきて、この町に住む限り、この風景の侵入から少年は決して脱出できないのである。

マーガレット・アンと出会ったのも、水路沿いの道だった。

既に豊満な女性の身体を露出して歩く少女に絡みつく不良少年グループが、ラベリングされたかのようなイメージをなぞる悪戯を重ねたのも、水路沿いの道。彼女の眼鏡が投げ捨てられて、水路の浅見から、そのプラスティックの原型を常に剥き出しているのを少年は認識し、それを掬い上げようとさえ試みた。

また、動物好きのケニーが溺れたのも水路だった。

そのケニーを下着姿で救出したのは少年の父という設定は、いかにもあざとい物語的な演出で、正直、首肯し難い描写だが、いずれにせよ、その繊細なる自我に水路の記憶をより強化していく方向にしか、少年に関わる物語は推移していかないのだ。

加えて、事故の直接の被害者であるライアンの両親とのエピソードは、あまりに痛々しかった。

少年ジェイムズの眼の前で、ライアンの母は、息子の事故死の責任を夫に転嫁して、責め立てる。

夫は妻をなだめようとするが、妻の過剰な心の氾濫は防ぎようがないところにまで噴き上がっていた。

恐らくライアンの死後、この夫婦は四六時中、このような陰惨な夫婦喧嘩を繰り返してきたに違いない。既に、それ以前から関係が正常化していなかったと思われる夫婦の破綻の危機は、事故によって激発してしまったのである。

結局、夫婦は町を離れて行った。

夫に対して妻が抱く不満は、これからの二人の人生に暗い影を投げかけていくであろうことは、引越しの際の夫婦の言い争いを想起すれば充分に予想できる。

夫がなぜ、事故の際に自宅を離れていたかは、映像で観る限りよく分らない。そこには恐らく、夫婦でなければ理解できない複雑で、微妙な問題が横たわっていたはずである。

現に一時(いっとき)妻を見限った夫にしても、階段の途中でその表情を涙で濡らしていたのだ。彼もまた辛いのだ。

しかしそれ以上に、息子の事故によって、妻は既に対象喪失による深刻な精神状態を現出させていたと思われる。だからこそ夫には、妻を優しく見守り、包み込んであげるしかないのか。それもまた、夫にとって艱難な課題である。

しかしもう、それ以外に夫婦が寄り添って生きていく可能性がないのかも知れない。

二人が流した涙は、彼らの未来にどうのように繋がっていくのか、それは彼ら自身でも分らないであろう。その未来の明るい保障は全くないが、それでも二人は息子を奪った町を去っていく以外になかったのである。

そして、この夫婦の切ない遣り取りを、少年ジェイムズは一身に被浴してしまったのだ。この哀切はあまりに痛烈すぎて、観る者の心を凍てつかせてしまうのに充分過ぎた。

削り取られた笑顔
少年はライアンの母から抱かれることで、ライアンの肩代わりをさせられてしまうのだ。

それは、少年が経験した最も苦痛なる抱擁であったに違いない。さすがに少年も、その時間の重さに耐え切れず、自らの意志で抱擁の呪縛を解いていく。

しかし、その少年に、更なる試練が待っていた。

ライアンの母は、あろうことか、少年にライアンの部屋まで行って来るように頼むのだ。その理由は、ライアンに買ってあげた新品の靴をジェイムズに形見分けするため。

ライアンの母は、少年にどこまでも喪失した息子の役割を求めて止まないのである。優しい心を持つ少年は、ライアンの母の頼みを断り切れない。その辺りがあまりに遣る瀬なく、哀切過ぎる。

それにしても、この映像は、女流監督が作ったとは思えないほど残酷な物語を繋いでいく。

少年はライアンの部屋に素早く入り込み、靴の入った箱を抱えて脱出を図る。

まさにそれは、脱出としか呼べない行動の描写だった。しかし、少年は最後まで走り抜けられなかった。階段の途中にライアンの父が一人静かに、その表情を涙で濡らしていた。

この演出も、サディスティックなまでに残酷である。

なぜ一人の少年の、その本来的な脱出願望を打ち砕くエピソードを、本作の作り手は執拗に繋いでいくことを止めないのか。

映像は容赦なく、少年の束の間の安寧を奪い取って止まないのだ。その覚悟を括った演出の冷厳さに慄然とするが、私には物語のこの流し方には過剰な作り物性が見られるものの、包括的に許容できるものであった。

少年は痛ましい事故の記憶から、結局、最後まで解放されることはなかったのだ。

しかし少年にとって、記憶を消去することは不可能であっても、それを稀薄化させることは可能だった。少年自身が、自らを育てた異臭の町から完全脱出を図ればいいのだ。

しかし12歳の少年には、この艱難な課題を克服することは殆ど絶望的である。生活力のない少年が、一人で他の町で生きていけるはずがないからだ。

では、そんな絶対的制約から逃れられない少年に、どのような脱出が可能だったのか。

その一つが、ユートピアへの冒険行である。

だから少年はバスに乗り、人っ子一人いない広大なる黄金色の世界にその身を預けたのである。

少年の冒険は仮想の脱出劇であった。

それは、束の間、その仮想の世界に身を預けることで手に入れる至福の時間であった。少年のちっぽけな冒険の先に待っていたのは、明らかに、少年の脱出願望が成就したときのイメージの具現そのものだったのだ。

しかし、少年は知っていた。

今の自分が、単独生活者として生き抜く能力を持つことがないことを。だから少年は、自分が戻るべき場所に戻らねばならない縛りから解き放たれていないことを確認し、そこに戻っていく以外になかったのである。

戻るべき場所に戻った少年が出会うのは、繰り返される事故の記憶の再現である。

その中で少年が、その記憶を少しでも稀薄化するには、関係の世界に入ることでもあった。そしてその関係が、弱々しくも何とか形成されたのである。

少年が開いた、密度の薄い関係の対象になったのは二人。

その一人が、「動物好き」のケニー。

その剽軽(ひょうきん)で明るい性格は、少年ジェイムズにはないものだった。

人は自分にはなくて、自分が切望して止まない性分を持つ者に惹かれやすい特性をもつ。少年ジェイムズが、自分にはない底抜けの明るさを持つ友人を待望していたと断定するには、少し難しいかも知れない。少年は単に、心の空洞感を埋めたかっただけに過ぎないのだ。

そんな少年のパートナーとして、ケニーが相応しかったと言い切れないのは、ケニーとよくよく付き合う中で、彼の動物好きの底の浅さを知った繊細な少年が、彼を単に、「ペット転がし」のマニアでしかないことを見抜いてしまっていたであろうことが推測できるからである。少年にとってケニーの存在感は、少年の空洞感を埋める何ものかではなかったということだ。

そしてもう一人。マーガレット・アンの存在である。

彼女の存在こそ、少年にとって恐らく最も重要な関係対象であったと思われる。人は最も辛いとき、それを癒してくれる対象のもとに走っていく。

チンピラと喧嘩して荒れた父から、サッカーシューズを無理に履かされる少年は、珍しく父に向ってその思いを激しく投げつけた。その後、少年が向った先は、マーガレット・アン。

マーガレット・アン
少年は彼女に、一体何を求めたのだろうか。

少年が少女に求めたものは、異性の対象としてのそれではない。これが不良グループと少年との、少女に対するスタンスの決定的違いである。少年は少女の肌に触れるために、彼女のベッドにその身を投げ入れたのではないのだ。

二人の入浴シーンがあったが、そこには異性愛的な感情のクロスが全く見られなかった。

少年は、少女の懐の温もりの中に存分に包まれたかったのである。それだけだったのだ。それは、殆ど母性を求める男の子の直截な何かだった。少年はマーガレット・アンという一人の少女の中に、自分を丸ごと包み込んでくれる母性をこそ求めたのである。

思えば、少年には心優しき母がいた。

その母が息子を抱擁するシーンが映像の冒頭にあった。少年は母の懐に抱かれて、束の間、その遣る瀬ない思いを包み込まれたのである。

しかし、それだけだった。

映像はそれ以上、息子に対する母の抱擁の描写を映し出さなかった。映し出せなかったのである。

少年は母に対して、敢えてそれを求めるような振舞いをしなかった。少年は家庭内では、ひたすら暇を持て余す異星人に近い何者かであり、自らの心の奥深くに封印しようとする禁断の記憶を決して表現しようとしなかったのである。

父や姉は勿論のこと、あの優しい母ですら、息子が封印しようとしているものに気付くことができなかった。

もし少年が母の懐に飛び込んでしまったら、息子はその母に、いつの日か、その禁断の記憶の扉を開いてしまったであろう。それで良かったのかも知れないが、あのような性格の少年が、その類の感情表出を簡単に身体化できるなら、その直接性によって、幾分かは肯定的自己像を立ち上げることが可能であったに違いない。

だが、思春期を深めていくほどに、その自我に張り付いた記憶が贖罪意識となって成長し、それを何らかの形で表出するタイプのナイーブさを、少年は保持していたのである。

少年があのとき、母の懐に飛び込まなかったのは、その行為によってギリギリに守ってきた重い記憶が、自制が効かなくなるほど厄介な破壊力を持ってしまうと考えたのだろうか。

それにもまして、少年の母には、その懐を必要とするもっと厄介な人物がいた。少年の父である。

母の柔和な懐は、自我の抑制が効かない父の、その暴発の防波堤のために常に用意されていたのである。

少年はサッカー嫌いの自分に対して、身勝手な振舞いをするだけの父にどうしても馴染めなかったのだ。少年がそんな父に、自分の思いを正直にぶつける訳がないのである。

少年がマーガレット・アンを求めた心理は、まさに母の代行としての役割以外ではなかったのだ。

哀しいかな、鈍感な少女の懐に飛び込んでも、彼女は何も言わず、何も聞かず、それを受容するだけだった。

いや寧ろ、その安心感が、少年を少女に向わせた心情の根柢にあったと思われる。少なくとも、少女はその役割を充分に果たしてくれたのである。

そして少年は、あの日、最も大切なるものの一つを失ってしまった。


麦畑(イメージ画像・ブログより
あの黄金色に輝いた広大なる風景の中枢に建っていた、ユートピアの家。

そこには既に鍵が掛けられていて、もはや他者の立ち入りを禁止する空間に変貌してしまった。

その少年の失意を誇張するかのように、ずぶ濡れの雨に濡れた少年の孤独な身体を、映像は印象的に映し出していた。少年はそのとき、至福とは無縁な無言の帰宅を余儀なくされたのである。

そしてその日、臨時のゴミ収集車が労働者の町に溢れたゴミの束を収集し、すっかり片付けてしまっていた。それは、ゴミに群がるネズミの異様な出没を終焉させるシグナルになっていったのである。

やがて、そのネズミを殺して楽しむケニーの尖った振舞いがジェイムズを苛立たせていくが、それでもまだ我慢できたに違いない。

少年の視界に侵入してきた決定的な出来事。

それは、マーガレット・アンの不埒な振舞いだった。

不良グループに弄ばれて不快感を示しつつも、男たちの性的な欲求不満の解消の対象に自ら踏み込んでいく少女の表情には、少年が求めて止まなかった母性の片鱗すらも窺えなかったのである。少年はそのとき、失いたくない全てのものを、殆ど同時期に奪われてしまったのである。

失われた脱出口・誰も乗っていないバス
少年は遂に、脱出の狭隘な出口の全てを塞がれてしまった。

もう万事休すだった。

異臭が劈(つんざ)く澱んだ町からゴミとネズミが消えつつあったとき、少年は全て失ってしまったのだ。

ゴミとネズミが消えても、その町にはなお不良少年のグループがいて、母性を捨てた少女と、ネズミを殺すだけの「動物好き」の少年が住んでいる。

サッカーを押し付ける横暴な父が常にテレビを独占し、その父に甘えるだけの妹が共存する。

優しい母の愛は父を包み込むためだけに機能して、この家の引越しの可能性もまた困難になっている。そして何よりも、この町には少年たちの他愛ない遊びを一瞬にして呑み込んだ魔の水路があった。

最も見たくないものが自分の生活風景の一画を占めて、異様なる存在感を放って止まないのだ。

それならば、いっそのこと、その水路の中に我が身を沈めるより他にない。

少年はそんなことを考えたのだろうか。少年が最後に家を出て戻って来なくなったその日、彼はまだ眠りに就いている母の足のストッキングに眼を止めて、穴の開いた親指にストッキングを引っ張って、被せてあげた。

この辺りの描写は、さすがに、女性監督ならではの繊細な感性が充分に窺える。

然るに、こんな描写が映像をより暗鬱なものにしてしまうのだ。観る者の、少年に対する思いが込み上げてきて、却って辛い気分を増幅させてしまうのである。



7  重い時間の淀みの中に



一体、少年は何から脱出しようとしたのだろうか。

それを一言で要約すれば、自分の中で封印したいと思っている、あの陰惨な記憶からであると指摘せざるを得ないのであろう。

少年は単に異臭を漂わせる陰鬱な生活空間と、それを継続的に醸し出して止まない生まれ育った町からの脱出を図りたかったのではない。もし、あの事故さえ発生しなかったら、少年の自我はもう少し柔和に周囲と和解していたに違いないだろう。

明らかに、少年の自我は、優しい母に形成された良好な成長の様態を示していた。暴力的でわがままな父の遺伝子は、少年には繋がれていなかった。

そんな少年が、あってはならない事故の当事者になり、しかも、それを永遠に封印しなければならない運命に遭遇してしまったのである。どう考えても、少年の中性的で繊細な感受性を見せる脆い自我では、その厳しい運命を突き抜けていくに足る決定的な腕力が不足していたと言わざるを得ないのだ。

失われた脱出口・誰も乗っていないバス
そうなると、少年が何を試み、どこに向おうとも、いつまでもあの陰惨な記憶から解放される日は来ないということになる。多分そうだろう。

だから、少年は告白すべきだったのである。

少年には、その告白をサポートする真の大人の存在が必要であったということだ。

告白は、少しぐらい遅れてもいい。

悩んで、悩み抜いて、もうそこにしか辿り着けないようなシビアな情況に囲繞されて、最後にその辛い思いを激しく吐き出してしまえばそれでいいのである。

残念ながら、少年には、その環境がなかった。

少年もまた、自分を覆い隠し過ぎていた。

失われた脱出口③・幻想の麦畑
従って、ラストシーンでの少年の決断は不可避だったのである。もうそれ以外に選択肢がないという状況下で、少年はあの重い時間の淀みの中に流れていってしまったという以外にないのだ。




8  ボクと空と麦畑 



―― 最後に、本作の原題について。

それは「RATCATCHER(ネズミ駆除人)」。

この原題が、「ボクと空と麦畑」という一見牧歌的で、ハートフルな邦題となって上映されたのである。

内容を知らずに、単に感動を目当てに映画館に足を運んだ人は、本作を観終わったとき、相当戸惑ったに違いない。

館内が明るくなって、そこに淀んだような重い空気と折り合いが付けられず、急ぐように映画館を後にした人たちの表情が想像されるだけに、何とも言いようがない不思議な気持ちになってしまうのだ。

やはり映画を観るときは、ある程度の予備知識と、それなりの覚悟を持って臨むべきである。

チャンネルを回すだけで豊富な選択肢の中から、自在に番組をチョイスできるテレビメディアと一線を画する何かがあるからこそ、映像表現の固有の魅力が存在するということ。それを知るべきだし、それを認識させるような映像を創り出すからこそ、映像表現の価値があるとも言える。

そのような作品を創り続ける映像作家たちを支持し、そこに考え抜かれた、様々な感懐や批評を加えていく努力を惜しまない態度もまた、観る者に求められて止まない何かであると肝に銘じておく。勿論、これは私が、自らに自戒を込めて語りたかった一言。

それはともあれ、なぜ原題が「RATCATCHER(ネズミ駆除人)」なのか。

正直、私にはよく分らない。

例えば、本作がその物語の展開を劇的に変えた瞬間が、臨時のゴミ収集車が町に突然入り込んで来たその日を期して、集中的に発生したことと関係するのだろうか。

ゴミ収集車が意味するものは、ゴミに寄生する群棲したネズミを駆除することであり、同時にネズミと同居するような生活を送る町の人々の、その不潔感や非日常性をも駆除するイメージをそこに重ねたのだろうか。

町全体が、ネズミ駆除人によって擯斥(ひんせき)されねばならない暗鬱な生活風景を常態化していて、まさに新鮮で澱みのない空気をそこに吹き込むことで浄化されていくような、言ってみれば、時代の冷徹なるシフトを刻んでいくときのリアルな様態を、作り手は映し出したかったのだろうか。

それもよく分らない。

リン・ラムジー監督
私には、「ボクと空と麦畑」という邦題名の方が、却ってアイロニカルで面白いように思えるのだ。

なぜなら私には、本作を観た印象が、先述したように、中性的なまでにその攻撃性を脱色させた思春期前期の少年の、脱出についての物語であるという把握に尽きてしまうからである。

そこに社会派的な作品のメッセージを読み取るのは可能だが、私には、遂に、「ユートピアへの行進」を手に入れられなかった少年の哀切極まる物語というラインこそが、本作の中枢的テーマに据えられていると思えるのだ。

それ故にこそ、本作は痛切に私の胸を打ったのであり、いつまでもその余情が自我に張り付いて消えないのであろう。



【余稿】  〈ラットキャッチャーの町〉



本作の舞台となったスコットランドの大都市であるグラスゴーについて、簡単に触れておく。

グラスゴーはクライド川の水運を利用して、既に16世紀には、港湾都市として発展していたが、何と言っても、グラスゴーの飛躍は産業革命によって固められていった。

「産業革命が始まると、ランカシャーで採掘される石炭と鉄鉱石によってグラスゴーでは綿工業を中心とした産業が盛んになり大英帝国第二の都市と呼ばれるようになった」(ウィキペディア「グラスゴー」より)

蒸気機関を改良して、産業革命の父とも思しきジェームズ・ワットを生んだ町こそ、グラスゴーだったと言っていい。

ジェームズ・ワット(ウィキ)
「グラスゴー大学に出入りしていた機械技師ジェームズ=ワットが18世紀後半に蒸気機関を改良し、以後の産業の発達に多大な貢献をもたらした。これがグラスゴー及び周辺地域の重工業発達を促し、最大時には蒸気船の建造が世界の20%、蒸気機関車の建造が世界の25%という驚異的な数字を誇っていた。つまり、当時世界最大の海洋国家であったイギリスの歴史はグラスゴー抜きには語れないのである」(DIVINA EUROPE HP『コラム:蹴玉茶話』より)


ところが第二次世界大戦後、「ゆりかごから墓場まで」という福祉政策を掲げた労働政権等の経済政策の失敗によって、いわゆる、「英国病」が蔓延し、かつての大帝国としてのイギリスの威信の失墜と相まって、この国は長い構造不況のただ中に置かれることになった。

グラスゴーもまた、その不況にどっぷりと漬かってしまって、映像で紹介された暗鬱な時代を経験することになったのである。


「1970年代から80年代にかけてスコットランドは英国の失敗そのものであった。産業革命が始まったグラスゴーには失業者があふれ、"ヨーロッパ最悪のスラム"とまで言われた。79年に誕生した政権は、自由競争経済導入の掛け声のもと、スコットランドの基幹産業であった炭坑、造船所、鉄鋼所を閉鎖し、80年代には失業率が15%を超えた。犯罪率も高く、一時グラスゴーは危険都市の代名詞となった」(財団法人国際平和協会HP「季刊誌国際平和」2002年秋『スコットランドの経済開発と日本』より)


一切の問題の根源を、「ウィンブルドン現象」と揶揄され、新自由主義の政策を断行したサッチャリズムに還元させるという、定番的な指摘を象徴するかのような、この類の一文を、正直、額面通りに受容しかねるが、映像で提示されたイメージは、まさに、1970年代初頭のグラスゴーの労働者住宅の一角は、「ラットキャッチャー」によって清掃され、浄化されねばならない町そのものであったということだろう。

因みに、現在のグラスゴーは文化都市へのイメージ脱出に成功し、他のスコットランド低湿地やウェールズ南部の伝統的な都市と共に、観光を中心とする文化産業都市としての役割を充分に担っている。

だから、現在のグラスゴーには、映像で描かれたような、「陰鬱な掃き溜めの町」というようなイメージは相応しくないと言っていい。

グラスゴーは今、イギリスという国が伝統的にそうであるように、階級社会の矛盾を依然として内包しつつも、「ラットキャッチャー」によって駆除されるべき、ネズミと共存する一画を典型的に抱える町ではないということだろう。

(2006年7月)

2 件のコメント:

Daiki Yamagishi さんのコメント...

素晴らしいです。

Yoshio Sasaki さんのコメント...

読んで下さり、ありがとうございます。