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2008年11月6日木曜日

鬼畜('78)       野村芳太郎


<ネグレクトから子殺しへの地続きなる構造性>



序  心理学的なテーマ性を中枢に孕んだ深甚な提起



「竹中宗吉は三十すぎまでは、各地の印刷屋を転々として渡り歩く職人であった。(略)彼は十六の時に印刷屋に弟子入りして、石版の製版(注1)技術を覚えこむと、二十一の時にとびだして諸所を渡り歩いた。違った印刷屋を数多く歩くことを、技術の修行だと思っていたし、実際そうでもあった。宗吉は、二十五六になると立派な腕の職人になっていた。(略)二十七のときに彼は女房をもった。お梅という女で、働いていた印刷所の住みこみの女工であった。(略)S市まで来て働いているうちに、市内の小さな印刷屋が居抜き(注2)のままで売りに出ていることを知った。宗吉はそれを買いとることをお梅に相談した。貯金はそれだけ溜まっていたから彼女も賛成した」


(注1)版の上に直接紙を置き、石面に直接文字や絵を書くなどして、版面の化学特性によってインキを定着させることで(水と油の反発性を応用)印刷する平版印刷。            

(注2)商品、設備、家具、備品などを設置したままの状態の建物のこと。


これは、原作者の松本清張による「鬼畜」という短編の書き出しを、途中省略しながら抜き取った文である。

これだけの文章を読むと、いかにも在り来りな人情小説のプロットをイメージさせるが、清張の小説は甘くない。この短編で開かれる世界の陰惨さは、尋常ではなかった。

そして、この短編を映像化した世界で展開した陰惨さは、それに違わず、おぞましい内実を曝け出していて、しばしば眼を背けたくなるほどであった。

しかし、紛れもなくその世界は、人の心がその者の容量の少なさの臨界点を呆気なく超えていくときの、だらしないまでの人間的様態を晒すものとなっていて、それだけに却って、それを狭隘な自己基準によって裁断しない限り、無視し難い心の弱さに対する、人並みの想像力による把握を可能にさせるものであったと言える。

松本清張
それ故、私にとって、本作が内包する厄介な問題の、そのあまりに人間的な様態について、フラットな倫理学的カテゴリーには収まらない、言わば、極めて心理学的なテーマ性を中枢に孕んだ深甚な提起を擯斥(ひんせき)できない何かがそこにあった。

本作を繰り返し観た私が、今回改めて、その何かを整理するために、以下、そのオリジナル・シナリオの文献を参考にして言及した次第である。



1  夜の闇の中に置き去りにされた男



―― 映像の世界に入っていこう。


原作とは異なって、その印刷屋の主人公の名は、竹下宗吉(そうきち)。

その住まいは、埼玉県川越市にあった。ところが最近、印刷工場が火災に遭って、子供のいない竹下夫婦は、今や細々と印刷屋を経営していた。

ある日、その竹下宗吉の元を、一人の女が三人の子供を連れて訪ねて来た。
菊代と子供たち

女の名は菊代。その菊代の長男である利一が、竹下宗吉に会うなり、とんでもない言葉を口走った。

「父ちゃん!」

その言葉に、宗吉は勿論のこと、彼の妻のお梅は仰天する。

階段の途中で身動きできない宗吉を、菊代は「ちょっと、出られない?」と促して、彼を外に呼び出したのである。

「お金の都合がつかない?それで放っておくんですか?そんなのってある?母子四人、どうやって暮らしてると思っているんですか?」

激しい相手の口調に、宗吉はたじたじの体を晒している

「だから明日、明日は必ず出かけていくから・・・今夜のところは・・・」
「明日、明日って、あんたの明日が当てになるもんか!」
「間違いねえよ・・・金の都合のつく当てもあるんだから」
「今まで放っておいて、どうして急に当てができるのよ!いい加減なこと言わないでよ!」
「そう大きな声、出すなよ・・・」

激しい母の口調に、菊代がその背に負った子供が泣き出した。

「どうすりゃいいのよ!どうしたらいいか言ってよ!」
「お前がそんな子供みたいなこと言って、どうするんだよ!」

子供の泣き声が大きくなって、家屋からお梅が出て来た。

「あんた、みっともないよ、ご近所に。家の中に入ってもらいな。泥棒猫じゃあるまいし。暗いところじゃなくたって構わないんだろ」

宗吉の妻・お梅(左)
事情を既に呑み込めていた宗吉の妻は、皮肉たっぷりに言い放って、家屋に戻って行った。

その言葉に、菊代も反応する。

「利一、良子、いらっしゃい!」

そう言って、子供たちを家屋の中に入れようとした。

「ど、どうするんだよ?」と宗吉。
「はっきり話をつけるのよ。ちょうどう良かった」
「な、何を言い出すんだよ。止めてくれよ」

そう言い放つや、菊代は家の中に入っていく。その背に負う乳児を含む、三人の子供を連れて。

「奥さん、あたし、宗吉さんのお世話になっています、菊代と申します。申し訳ございません。こちらにお世話になって七年になります。その前あたし、働いているときに・・・」
「鳥料理屋でだって?」とお梅。嫌味たっぷりである。
「女中してました」と菊代。その口調はきっぱりとしている。
「歌が上手で、いい声だったんですってね」とお梅。嫌味を重ねていく。
「バカバカしい。何の話してるんだ」

宗吉が二人の中に入ろうとした。しかし女房のお梅は、自分を裏切った夫を怒声で制した。

「黙ってなよ!人を7年の上もだまくらかして!どんな経緯(いきさつ)でこうなったんだか、ちゃんと聞かしてもらおうじゃないの」

そんなお梅の啖呵に拮抗するように、自分を愛人として囲っていた男との経緯について、菊代は堂々と説明したのである。

菊代の話によると、付き合いの要領が悪い宗吉の善良さを感じ取って、本来のお節介焼きの性格から、予算の見積もりや会計を見てあげている内に、宗吉と次第に懇ろになっていったらしい。まもなく菊代は宗吉の子を孕み、店に居辛くなって、妾宅を持たせてもらったということだ。

その妾宅で三人の子を産んだという経緯を、菊代はお梅に語ったのである。

そして宗吉の店が火災に遭って以来、宗吉からの援助が途絶えて、遂に困り果てて訪ねて来たということだった。

そこまで聞いて、激昂したお梅は矢庭に立ち上がり、子供のいる前で自分の亭主を手当たり次第叩いたのである。

「あんたなんか、あたしが一緒になってなかったら、ただの渡り歩きの職人だったんじゃないか。ろくな給金も取れなかったくせして!この店だって、あたしが一緒になったから持てたんじゃないか!・・・何だい!こんな女に大きな口叩かれることないだろ!」
「こんな女にって、どういうこと?」

菊代が強く反応する。

「トルコにでも行って働いたら、ピッタリだって言うこと!」

お梅も負けていない。

「奥さん、あたし、商売女じゃないよ」
「そうかしらね・・・本当にあんたの子供かしら?」
「え?」と宗吉。
「三人ともあんたの子かっていうの?」
「何言うのよ!」と菊代。
「ウチの人に聞いているのよ」
「あなた!なんで黙ってんのよ!ちゃんと言って頂戴よ!あんたの子供が疑われてんのよ!」
「俺の子供だよ」

宗吉はオタオタしながら、自分の子を指差して、遠慮げに答えた。

「へぇー!月に三晩も泊まっていないはずなのに。ほんとにあんたの子?」
「それがどうしたのよ!」
「もう止めてくれよ!子供が聞いてるじゃないか・・・」

珍しく声を荒げて、悲鳴を刻んだ宗吉。

その直後に、「帰ろうよ」と泣きながら訴える良子の言葉が、その場の険悪な空気を少しばかり中和させた。

「分りました・・・あんた、あたしを騙したのよ。あんたのような男にくっついていったばかりに、あたしはこんな目に遭わされた。ちょうど良かった。奥さんにも聞いてもらえたし・・・決まりを付けて、スカッとしようじゃありませんか」
「スカッとするって、何を?」
「もう、沢山!責任とってもらいますからね・・・あたしはこの通り、手のかかる子供が三人抱えたんじゃ、働こうにも身動き取れないんだから。貯金なんて一円もないんだし。そこんとこ、考えて下さいね」
「家(うち)だってね、火事からこっち、余分な金なんかありゃしないよ。あんた、人から借りてくるなり、泥棒するなりして形をつけるんだんね」
「話がつくまで、あたしはここから動きませんからね」
「ああ、いいよ。その代わりね、家は夫婦もんで、蚊帳(かや)一つ貸してあげられないよ」

そう言い捨てて、お梅は押入れから布団を出した。それを菊代に投げつけて、床に敷いたのである。

その夜、板の間で咽び泣いていた菊代は、突然笑い出し、累積した恨みの思いを込めて、宗吉とお梅が眠る部屋の障子を開いた。

その表情は、まさに鬼の形相だった。

「鬼!畜生!それでも人間か。ちゃんと分ってんだよ。あんたが何を頭に来ているんだかさ、言ってあげようか。あんた、自分じゃできなかった子供が三人もできたんで、頭に来ているじゃないの?アハハハ!亭主を返してやるよ!大事に金庫でも閉まっておきな!その代わり、この子たちはこの男の子供だからね、この家に置いて行くよ!」

菊代は叫ぶように言い放って、障子を荒々しく閉めた後、表を飛び出して行った。

「菊代!菊代!」

川越駅(イメージ画像・ウイキ
宗吉は菊代の後を追って、川越の駅まで走って行った。しかしそこに菊代はいなかった。

帰宅した宗吉を、お梅の冷たい視線が突き刺してきた。

「あんたの子だって?・・・似てないよ」

そんな捨て台詞を残して、お梅は茶の間に入ってしまった。夜の闇の中に、宗吉は置き去りにされたのだ。

そして眠り続ける三人の子供たちもまた、見知らぬ部屋に置き去りにされたのである。

因みに、その子供たちの名は、利一(6歳) 、良子(4歳)、庄二(1歳半)の三人だった。



2  殺人的ネグレクトを確信的に遂行する女



翌日、次男の庄二を背に負って、利一と良子を連れた宗吉が、菊代の家を訪ねて行った。

しかしそこに、菊代はいなかった。

部屋の中は荒れ放題で、「ママいない・・・」と嘆く良子と、その現実を受け止めるだけの長男の利一の涙が捨てられるばかり。

呆然とする宗吉。そこに近所の主婦がやって来て、菊代から預かっているという大きな風呂敷包みとダンボールを、宗吉に手渡したのである。

「今の若い人のやることは恐ろしくて・・・」
「お父さんも、これから大変ですよね」

主婦たちの表面的な同情の言葉が、宗吉を柔和に包み込むが、全く捜す当てのない現実を前にして、宗吉はそのまま川越の自宅に戻るしかなかった。

しかし、自宅の前に立ち竦むだけの優柔なる男は、三人の子供を連れて中に入れず、市内の遊園地に連れて行くことになる。子供たちにキャンディーを買ってあげる宗吉に対して、利一と良子は「お家へ帰ろうよ」と言うばかり。結局、宗吉が子供たちを連れていった家は、川越の印刷所を兼用する自宅だった。

「言っとくけどね。あたしは他人が産んだ子供の面倒なんて、金輪際みませんからね」

彼らを迎えるお梅の言葉は、毒々しいまでに悪意に満ちていたが、彼女の思いとしては当然でもあっただろう。

そんなお梅だが、取引先の男に対しても、自分の亭主の不始末を平然と嘲罵する。子供たちに対する扱いも一方的に攻撃的で、それは紛れもなく、確信的なネグレクトと言ってよかった。

「地獄だね。全く」

唯一の従業員である阿久津も、殆ど閉口気味。それもまた当然であった。

そんな阿久津が、自分と無縁な夫婦のプライバシーに、強い口調で口出しすることになった。

卓袱台(ちゃぶだい)で遊んでいた庄二を折檻するお梅の虐待に対し、おろおろするだけの宗吉を見かねて、お梅から庄二を引き離し、思わず主人を叱咤したのだ。

「旦那、しっかりしろよ!旦那の子だろ!」

阿久津(右)と、庄二を抱く宗吉
我が子を従業員から受け取る宗吉の惨めさが、そこに捨てられた。

まもなく、乳児の庄二が激しい下痢をして、総合病院で看てもらうことになった。医師の話によると、「慢性の消化不良で、栄養状態が悪い」ということ。

明らかに、子供たちの食生活を全く管理しないお梅のネグレクトに因るものだった。

仕事をそっちのけで、一人宗吉だけが子供たちの世話を焼く現実の中で、少しずつ、男の自我の許容臨界点が近づきつつあった。

そしてそれ以上に、最初からネグレクトを確信的に遂行するお梅の方こそ、間尺に合わない「擬似共存」に対する嫌悪感が炸裂しつつあったのだ。

その日、オムツを干していた宗吉が作業場に入って来て、お梅がいないのに気づき、何か不吉な予感がしたのか、宗吉はそっと二階に上がっていく。

恐る恐る、階段の下から見上げると、そこにはお梅が踏み台に乗って、片付け作業をしていた。

物音でお梅が振り返った瞬間だった。

棚の上に被せた古いシートが落ちて、昼寝する庄二の体をスッポリ覆ったのである。そのシートを拾い上げたお梅は、なおその場にいる宗吉を見て、一喝した。

「何よ、何さ!」

宗吉は何か口ごもりながら階下に降りていき、作業に戻ったが、二階の光景が気になって仕方がないようだ。従業員の阿久津が「店を辞めたい」という言葉をかけても、耳に入らず、震えているようでもあった。

宗吉の意識を捉えて放さない階上では、お梅がシートを元の場所にかけるとき、そこで安らかに眠る庄二の姿を、明瞭なる視界に捉えていた。

まもなく、外出した宗吉は菊代を捜しに行くが、全く手がかりを掴めない。

そんな中で、菊代が住んでいたアパートの管理人の下に行くものの、そこでも全く埒が明かなかった。あろうことか、そこで宗吉は、菊代に自分以外の男がいたらしいことを聞かされて、深い衝撃を受けた。

外出から戻ったその夜、宗吉は苛立っている。

一人で子供たちの食事の世話まで焼くことのストレスが、殆ど飽和点に達していたのだ。

そんな宗吉がミルク瓶を持って、二階に上がった。

その瞬間、彼は恐るべき光景を見てしまう。

シートに覆い尽くされた中で、庄二が仰向けになって寝ていて、そこで動かなくなっているのだ。それが何を意味するか、直ちに察知できた宗吉は、慌てて病院に連れて行ったが、手遅れだった。

宗吉が帰宅してからの、夫婦の短い会話。

「チビは置いて来たのかい?」
「死んだ・・・消化不良による衰弱死・・・医者に怒鳴られた。一週間も十日も診せに来なかったのかって・・・」

その後、宗吉は火葬場の手続きのための書付を確認していた。その書付をお梅は乱暴に取り上げて、冷たく言い放つ。

「助かったろう?一つだけ気が楽になってさ!」

女房のこの言葉に、宗吉は何も答えられない。

シートが庄二の体を覆っていた外出前の光景を思い出した宗吉に、お梅は狂ったようにしがみついて来て、呻吟を刻んだ。

「あー!あの子供たち見てると、あの女のこと思い出して、気が狂いそうになるのさ!」

その夜、恐怖感からの解放を求めるようして、二人は夫婦として睦み合っていた。珍しく媚を見せるお梅は、宗吉の体に擦り寄って、猫撫で声で絡み付いていく。

「あんた、あの女にまだ気があったんだろう?白状しなよ・・・」
「止してくれ。あんな女」

珍しく、口調を強める男がそこにいた。



3  恐怖突入の中でネグレクトを遂行する男



何日かして、宗吉は良子を連れて外出した。

東京のデパートに立ち寄った宗吉は、良子と食堂に入ったのである。

「よっこ、お父さん、好きですよ」

良子にその言葉を耳元でかけられても、宗吉の気持ちは穏やかではない。その不穏な感情の中で、宗吉は良子に、父親の名前や住所が言えるかどうかを確認した。

しかし、それを問うても、「お父ちゃんの名前は、お父ちゃん」と言うだけで、4歳児の良子には何も答えられない。我が子を遺棄する覚悟を括ったはずの男の内側では、得体の知れない感情が氾濫し、暴れ回っていた。

まもなく、父と娘は東京タワーの展望台に立っていた。

宗吉は良子に望遠鏡を見せながら、「何が見える?」などと質問する。

「ママのお家が見える」と答える娘に、真顔で反応する父。

しかしそれが嘘だと分っていても、父には何か腹立たしかったのだ。得体の知れない感情の氾濫が、その内側で上手に折り合いが付けられていないようだった。

そんな父は娘に望遠鏡を見せっ放しで、トイレに行くと言って、その場所を離れた。

父は娘の背後にあるエレベーターに乗り込み、その中から娘の行動を見守ったのである。

娘の良子は父を捜して後ろを振り返り、宗吉と眼を合わせた瞬間、エレベーターの扉が閉まった。


それは、全てが終わった瞬間だった。


ネグレクトされる良子
少なくとも、この日宗吉が良子を連れ出して遺棄するという目的が、子供からの情感的なストロークの求めを弱々しく拒んだ後、凄惨なまでに遂行されたのである。

そこだけは密室と化したエレベーターの中で、父であることを確信的に捨てようとする男は、打ち震えていた。打ち震える男は走るようにして外に出て、その震えを増幅させている。

朦朧(もうろう)となる意識の中で電車に乗り込んでも、男の震えは、いよいよ増幅するばかりであった。





4  ラインを超えた夫婦の袋小路



翌朝、良子がいなくなって、妹を執拗に捜す長男の利一。

少年は宗吉に執拗に絡み付いてきて、父はただ凄い形相で拒むばかり。そんな宗吉に、お梅はダイレクトに茶色の小瓶を渡した。

「青酸カリ・・・いっぺんにじゃなくって、少しずつ・・・段々体が弱ってきて、気づかれないで済むって・・・良子のような訳にはいかないよ。歳だって六つだし、所番地だって、家の名前だって、ちゃんと言えるはずなんだから」

一瞬、仰天した宗吉は、明らかに逃げ腰だった。

「あんた、あいつの眼、まともに見れる?あいつの眼は何もかも知っている眼だよ。庄二のことも、良子のことも・・・どんなはずみで喋っちまうか。今朝みたいなこと、やだよ。心臓が止まっちまうよ」
「まさか、六つの子供だよ・・・」
「嘘!あんただって、今朝、青い顔してたじゃないか。喋っちまうんじゃないかなって、そう思ってたくせに」
「でも・・・庄二は俺じゃない・・・」
「あたしが殺ったってぇの?あたし一人に押し付ける気?」
「俺は何もしなかったし・・・」
「とぼけないでよ!」

そう言って、お梅は宗吉の顔を叩いた。

「・・・あんただって、シートがずり落ちたらって、そう考えてたじゃないか!ちゃんと分ってんだから。いいよ、チビのことはどうなったって。でも良子のことはあたしゃ、これっぽっちも知りゃあしないよ。あんたが一人で始末したんだから・・・」

そこまで言われた宗吉は、凄い形相でお梅を睨みつけた。お梅はその形相に、一瞬たじろいだ。

「嫌だ、嫌だ。もう、こんなの沢山!」

そう言って、お梅はその場を離れて行った。これが、その日の夫婦のおぞましい会話の顛末だった。



5  恐怖突入の中で狂気が空転する男



翌日、利一は母を捜しに、川越の家を出て行った。

お梅は自分たちの犯行がバレることを恐れて、宗吉に相談するが、宗吉は「喋りゃあしないよ」と取り合わない。

逃げ腰なのである。

しかしそう言われて、不安を抑えられなくなった宗吉は、利一の持ち物を引っ掻き回した。

するとそこから、「おにばば」と添え書きされた絵が出てきて、お梅の感情を激しく逆撫でさせたのである。

利一が警官に連れられて戻って来たのは、そのときだった。

利一は満足に反応しないで、部屋の中に入っていく。

利一の思いは、明らかに、帰りたくない場所に戻された無念さで溢れていたのだ。

ところが、そこで警官がもたらした情報は、夫婦の心を凍てつかせるのに充分だった。警官に保護された際に、利一が川越の住所と宗吉の名を説明できたからである。

二階に上がった利一を横目で見ながら、お梅は宗吉に決意を促した。

「どうすんだよ、あの子・・・」 
「何とか、俺が・・・」

それが、悲愴な表情を大きく映し出した宗吉の決意だった。

上野動物園(イメージ画像・ウィキ
まもなく宗吉は、利一を連れて上野動物園にやって来た。

閉園し、ベンチに坐る宗吉は、あろうことか、青酸カリを入れたパンを利一に食べさせたのだ。

思わずパンを吐き出す利一に、宗吉は「食え!食え!」と迫るが、通行人の邪魔が入って、そのおぞましき犯行は頓挫することになった。

一人嗚咽する宗吉が、そこに蹲(うずくま)っていた。



6  息子の安らかな寝顔が日没の残光に照らされたとき  



数日後、お梅に促されるようにして、宗吉は再び覚悟を決めて、新幹線に乗り込んだ。

そこに、未だ無邪気さを垣間見せる利一がいる。

東尋坊・三段岩(ウィキ)
彼らが着いた先は、北陸の東尋坊(注3)。

切り立った断崖の下の荒波を見に、利一は勇んで降りて行く。

それを崖上から、宗吉は凝視する。しかし何もできない。

何もできないが、自分が何を為さねばならない覚悟を決めたかのような男の顔が、アップで映し出されていた。

或いは、それは男の内側の深い迷妄をも映し出していたのかも知れない。


(注3)福井県北部にある断崖絶壁の景勝地。青木ヶ原樹海(山梨県)と共に、「自殺の名所」としての悪名があり、それを防止するための地道なボランティア活動も継続されている。



翌日、砂浜で無邪気に遊ぶ利一と、それを追う宗吉。

その夜、父と子は地元の旅館に泊った。

酒の入った宗吉は、利一に向かって、自分の過去の苦労話をしみじみと語っていく。

「父ちゃんはな、真面目に仕事一本、脇目も振らずに一生懸命働いてきた・・・石版磨き、辛かったなぁ・・・石版に使う石に砥石をかけて、ツルツルに磨くんだ。何年も、何年も朝から晩まで・・・

だから指だって、ツルッツル。父ちゃん、石版の印刷にかけちゃ、日本一だ。名人だぞ・・・父ちゃんの父ちゃんは、もう生まれたときにはいなかったんだ。どんな顔してたのかなぁ・・・

六つの時には、母ちゃんがどっかに行っちまった。それっきりだ。それから父ちゃんは、あっちこっちの親類や知り合いを順繰りにたらい回しだ。どこの家でも貧乏で、どこの家でも厄介者で、誰も構ってくれない。着る物だっておめぇ、恥ずかしいみたいな格好して・・・

一番嫌だったのは、弁当持たずに学校に行くの・・・昼飯の時間になると、一人で外に出るんだ。あの景色、忘れられないな。人の誰もいない運動場・・・印刷屋に奉公に出て二年目にな、やっとお給金が頂けるんだ・・・

ところがお給金の日に、父ちゃんだけ出ねえんだ。父ちゃんのこと奉公に出した叔父さんが、父ちゃんの給金を前借りしちまってたんだ。向こう何年分もそっくり・・・

その叔父さん、あっちもこっちも借金してて、にっちもさっちも行かなくなって、夜逃げしちまったんだ・・・父ちゃんのこと、奉公に出したまま、捨て猫みたいに置いてきぼりだ・・・ひでぇもんだ・・・ひでぇもんだ・・・」

そこにたっぷりと感情を乗せた宗吉の長広舌が、涙の中で閉じていった。

大人の話のリアリティを、まだ六歳の子供には理解できない。

利一は途中から眠りこけてしまったのである。それでも語って止まない男の胸に溜まる心の澱は、殆どモノローグのように排泄せねばならない記憶を、溢れるほどにプールさせていたのだろう。

翌朝、二人は切り立った断崖の上に立っていた。

蝶を採るために、少年は一人で断崖の先端まで走って行く。それを父が追う。

疲れ果てた利一は、絶壁の上に用意されたかのような草原で、いつしか眠りの世界に入っていく。

少年は父の膝の上で、これ以上ない至福の時間と出会ったときの、束の間の安寧の中で眠りこけている。

「利一・・・利一・・・」

父は静かに息子の名前を呼んだ。

息子からの反応はなかった。

父はその息子にレインコートをかけ、そのまま抱き上げて、静かに断崖の際まで歩いて行く。

断崖の際で、息子にかけたレインコートが下に落ち、息子の安らかな寝顔が日没の残光に照らされた。

一瞬、父親の顔が歪み、決意が鈍るが、その決意を決して壊さないほどに固定化した感情の押し出しによって、子供一人分の重量感を伝える男の両手が、そこだけはもう合理化できない世界の中で放された。

それは、少年を放した男の行為が、決定的な犯罪に結ばれた瞬間だった。

しかし、少年は死ななかった。

翌朝、沖の船が断崖に引っかかっていた利一を発見し、助け出したのである。

まもなく地元署の駐在が、本署に連絡し、事件と睨んだ捜査が開かれた。

利一の衣服に付けられているメーカーのマークが、全て切り取られていたことや、利一が持っていた小石が、石版の欠片と特定されたことで、本格的な捜査が始動した。

その間、利一は事件についての刑事の質問に、一貫して何も語らないのだ。



7  土下座し、呻き、蹲り、嗚咽を撒き散らす男    



数日後、竹下宗吉の印刷所の前に、事件を捜査する刑事たちが現れた。宗吉はその場で逮捕され、能登の所轄署に連行されて行ったのである。

新幹線の中で、刑事の一人が相棒に語った。

「おかしな男だよ。自分が殺し損なったくせに、生きてたと聞いて、本当に助かったって顔してやがる・・・」

その刑事の言葉を裏付けるように、宗吉は移送される車内で、安堵したような表情を刻んでいるのだ。

所轄署の暗い一室に、宗吉は坐っている。

刑事は宗吉の自白の裏づけを取るために、利一と対面させることで、捜査上の手続きを完了しようとしたのである。

刑事たちは、一貫して事件について語らない利一のことを宗吉に話して聞かせ、宗吉の罪深さを強く詰(なじ)った。

「・・・あんな目に遭いながら、庇うなんて、やっぱり親子なんだよなぁ。おい!よく罰が当らなかったもんだな!」

そして、婦人警官に連れられた利一が、宗吉のいる部屋に入って来た。宗吉は涙ながらに、慈しみに満ちた表情で我が子を見つめている。

「さあ坊や、見てごらん。あの人、知ってるよな?誰だか言ってごらん。さあ、言いなさい。坊やのお父さんだろ?」

じっと宗吉を見据えていた利一は、首を大きく横に振った。

宗吉の表情は驚きのそれに変化する。

「どうしたんだい?坊や、もういいんだよ、本当のこと言ったって。皆、分ったんだから。坊やのお父さんだな?」
「違うよ!父ちゃんじゃないよ!」
「坊や、何を言うんだ!え?どうしたんだよ、坊や」

少年の意外な言葉に、寧ろ刑事の方が驚愕している。

「父ちゃんなんかじゃないよ。知らない人。父ちゃんじゃない・・・」

利一は、今度は明瞭な意思をそこに突き出して、きっぱりと父を認知することを否定したのだ。

少年の瞳から涙の粒が光っている。宗吉の表情も、映像で見せたことのない感情で溢れ返っていた。 

「知らないよ。父ちゃんじゃないよ」

利一の否定は終わらない。

その利一に、宗吉は這うようにして近づいた。顔は涙で濡れている。

宗吉は思い余って、呻くように、自分を責めるように、それ以外にない言葉を押し出した。

「勘弁してくれ!勘弁してくれ!」

最後は殆ど嗚咽だった。

息子の前で土下座して、それ以外にない言葉を呻き続けていく。

自分の足元に蹲(うずくま)る宗吉を見下ろす利一の眼から、涙の粒が止まらない。

そんな言葉で癒されることのない、絶望的な経験を通過した少年の表情は、このときだけは無垢な気持ちで受容するかに見えた。

ラストシーン。

利一は施設に預けられることになった。

パトカーに乗り込む際、婦人警官に、「ママが迎えに来るまで、いい子でいなきゃダメよ」と励まされて、利一は小さく頷いて見せた。

恰もそれは、最も重苦しい映像を、ほんの少し救うために用意された描写のようでもあった。


(参考:「78 年鑑代表シナリオ集」シナリオ作家協会編 ダヴィッド社刊)



*          *          *      


8  「展開と描写のリアリズム」によって貫徹された、秀逸なる人間ドラマ



映像本体のヒロイズム、作り手のナルシズム、そして観る者のセンチメンタリズム。それらが分ち難く睦み合って、現在の邦画界の映像文化の薄気味悪さを作り出してしまっている。

そんな薄気味悪さの中から、絶対このような映像は生まれないであろうと思わせる作品が、ここにあった。

「鬼畜」がそれである。

大辞林によると、鬼畜とは、「(鬼や畜生のように)人間らしい心をもっていない者」という意味である。言葉を代えれば、「人間らしい心をもっていない者」とは、「理性と良心の欠如したもの」というような意味だろうか。

人間である限り、「理性と良心の欠如したもの」が多く存在しても全く不思議ではないが、それを完全に失った者が、少なからずいるとはとうてい思えない。

だからこの定義を本作に当て嵌めてみれば、鬼畜とは、「人間らしい心をもっていない者」というよりも、「人間らしい心に届き得ない状況に置かれた者」という風に把握できるだろうか。

野村芳太郎監督・ブログより転載
まさに本作は、そんな者たちの心の闇の奥深くを抉り出した傑作だった。

本作は、「現在の邦画界の映像文化の薄気味悪さ」の中からでは、殆ど届き得ないであろう、「展開と描写のリアリズム」によって貫徹された、秀逸なる人間ドラマである。

決して、簡単に忘れられてはならない作品なのだ。少なくとも、私はそれを信じて疑わない。

「リアリズム」という言葉の響きが、近年とりわけ懐かしく思われてならない邦画界の有りように、ひときわ辟易する私の老いの繰言でもある。



9  ネグレクトから子殺しへの地続きなる構造性



―― 評論に入っていく。

本作を評論する際の中枢的テーマ。それを私は、「ネグレクトから子殺しへの地続きなる構造性」という視座によって把握した。以下、そのテーマを、心理学的文脈によって論じてみたい。



 「ネグレクトから子殺しへの地続きなる構造性」①


     (適応戦略の様態)    ←  (事件の推移)  →   (夫婦の共犯性の流れ方)

    実母への二児の保護要求④  菊代による半ば確信的、     共犯性の起点③
          ↓              且つ積極的ネグレクト②       ↓
                             ↓

     実母喪失によるシフト⑦    お梅による庄二殺し⑤      共犯性の成立⑥
          ↓                  ↓                 ↓

    良子の戦略の強制的破綻⑩  宗吉による良子への        共犯性の確立⑨
          ↓              確信的ネグレクト⑧          ↓
                             ↓

     利一の異議申し立て⑬     利一の家出事件⑪      共犯性の暴走の発火点⑫
          ↓                  ↓                 ↓
  
     利一の確信的拒絶⑯     利一への殺人未遂事件⑭      共犯性の暴走⑮




以上が、私なりに本作を把握する基本的文脈である。

それぞれ言及していく。

まずについて。

言わずもがななことだが、私の基本的把握は、本作で描かれたおぞましい事件を単に遺棄、殺人、或いは殺人未遂事件として捉えるのではなく、それはどこまでも、親の身勝手によるネグレクトの延長線上に出来した事態であるということだ。

ネグレクトされた子供たち
ここで登場する三人の大人たちは、そこに血縁の有無に関わらず、子供たちに対して、「自分で面倒を看ることができない」か、それとも、「面倒を看ることを明瞭に拒絶する思い」によって、彼らと否定的に関わり、遂には忌まわしき暴走にまで地続きに流れ込んでいったという、極め付きの醜悪さを露呈したものであるということ。

恐らく、それ以外ではないのだ。



10  女による確信的、且つ積極的ネグレクト ―― 共犯性の起点 



について。

菊代が三人の我が子を川越にまで連れて行った最大の理由は、仕送りを放棄した宗吉に対して責任を取らせることであった。

この時点で、生活保護を受けていなかった彼女には、宗吉以外に頼る術がなかった。後に、菊代が別の愛人を持っていたらしいことが描かれるが、真偽のほどは定かではない。

或いは、自分の子ではないと断じるその愛人によって拒まれた子供たちを、宗吉に預ける確信的目的を持って、川越訪問が具現したであろうことも充分に推測し得る。しかし、映像はその真偽を描かないので、どこまでも推測の域を越えないのである。

菊代(中央)
一つだけはっきりと言えるのは、菊代のこの行動によって、全てが開かれてしまったということである。

菊代に、このような行動を選択させた宗吉自身に、その全責任があるのは言うまでもない。

従って、最も手のかかる時期に当る、三人の子供を押し付けられた竹下夫婦が、その保護に関わるスタンスを明瞭に分けつつも、やがてネグレクトの共犯性に流れ込む文脈は、ある意味で必然的だった。

なぜなら、夫婦が経営する印刷所は火災に遭って以来、凋落の一途を辿っていて、今や満足な融資も受けられず、取引先をも確保できないという零細なる印刷店の現実に直面して、当時オフセット印刷全盛下にあって、その印刷機械も中古の一台(?)しかなく、僅か一人の従業員しか雇えない現実的な生活の厳しさが、そこに紛れもなく存在していたのである。

これが、③の問題のバックグラウンドにあった。



11  実母への二児の保護要求と、実母喪失によるシフト



について。

既に離乳期の終盤にシフトしていた庄二の場合は、自らを保護する大人の変化に敏感に反応しつつも、幼児自我の形成が未だ不充分なため、その適応は物理的に保証されている限り、特段の問題が尖って顕在化しなかった。

だから卓袱台(ちゃぶだい)の上の調味入れで無邪気に遊べるし、堂々と昼寝することも可能だったのである。

実母を求める利一と良子
それに対して、長男の利一と妹の良子は、実母の保護を特定的に求める感情が強く、それが充足されないことからくるストレスは無視し難いものがあった。

しかし、彼らのその当然すぎる要求は、実母によるネグレクトによって完全に破綻してしまったのである。

難しい児童期に差しかかった利一の適応戦略の崩れと、なお「良い子戦略」(自分を保護する大人を強く求める子供の、半ば本能的な戦略)を捨てられない良子の違いが際立っていくことになるのも、そこに大人の心理の輪郭を一定程度読み取れる防衛的自我を身につけた兄と、未だ「快不快の原理」のみで生きる妹の幼さとの、自我形成上の相違が存在するからであろう。

因みに、⑦の時点での二人の心情的流れは、引き続き④の内実と特段に変わることがないので、その言及は省略する。



12  女による庄二殺し



について。

お梅の中に、無論、初めから子供たちに対する殺意は存在していない。しかし彼女の場合の難しさは、彼女の自我が二重の裂傷を負っていたことと無縁ではない。

それはこういうことだ。

まず、彼女が夫との子供を産む性から見放されていたこと。

これは明らかに、彼女の奥に秘めた言い難いコンプレックスになっていた。

もう一つは、自分の夫に裏切られた現実に直面したばかりか、その現実の理不尽極まるリアリティ(夫が他人の女に産ませた子供の養育を、一方的に押しつけられたこと)に耐性限界を感じてしまっていたこと。

加えて、憎むべき夫の愛人に、石女(うまずめ)であることを嘲笑されたことは、彼女の自尊心が暴力的に蹂躙された経験以外の何ものでもなかったであろう。

当然、彼女は、女が連れて来た三人の子供が夫によって孕ませた子でないことを信じることで(現に、子供たちの顔が夫に似ていないことを指摘していた)、その自我が負った裂傷を少しでも軽減しようと努めたようにも思われる。

お梅のネグレクトから分娩された事件への起点
それ以上に、夫婦のDNAと切れた子供たちであるという認知によって、彼らへの積極的ネグレクトを肯定したとも言える。

そしてこのような感情形成が、「完全犯罪」への選択を開いてしまったと考えるのは、決して無理ではないだろう。

しかし、お梅のこの行動が、「事件性の否定」という安心感を得ることで、次なる負性のプロセスを導いてしまったのである。

これが、本作で描かれたおぞましい全ての事件のプロローグとなっていったのだ。



13  共犯性の成立



について。

宗吉もまた、押しつけられた子供の世話を独力で果たさねばならない現実の困難さに直面して、早々と戦線離脱の感情を形成してしまった。

彼には本来の印刷の仕事のノルマもあって、養育との兼務は殆ど不可能であると言えたのである。

だから彼の中に、「この子供たちが自分の前から姿を消して欲しい」という思いが、確実に胚胎されていたはずだ。

共犯性の成立
更に、この難しいテーマの遂行を、その現実を最も嫌う女房の前で継続させていかなければならない。気弱なこの男には、そんな困難な状況の突破力が決定的に不足していたのである。

それ故、彼はどこかで祈っていたに違いない。一人でも子供が合法的に消えてくれることを。

そして、その思いを見透かしたかのように、彼の女房が殆ど確信的に遂行してくれたのだ。

当然、彼は心の中でその事態を歓迎したはずである。

しかしこの男の狡猾さは、結構性質(たち)が悪い。気弱な自我が概してそうであるように、この男もまた、自分の「良心」を必死に守ろうとするのである。

彼は庄二の死を妻のせいにすることで、深い贖罪感から逃れ出たつもりだった。

そんな男の身勝手な物語を許容するほど、現実は甘くなかったが、少なくとも、この男のこの時点での心理の文脈を、「暗黙の了解による共犯性の成立」という枠内で収めるのは、決して間違っていないのである。



14  男による良子への確信的ネグレクト  



ついて。

「お梅による庄二殺し」によって、印刷業を細々と営む夫婦の中で、「暗黙の了解による共犯性の成立」が紛う方なく形成されていた。

禁断の世界を突き抜けた者の自我には、その事実が持つ重量感の感覚はいつしか鈍磨され、済し崩しにされていく。この感覚がなければ、次のステップに踏み込めないのだ。

一人の幼い命を完璧に遺棄したお梅の中では、次なるターゲットは4歳の良子以外ではない。お梅は未だ、それを明瞭に口に出していない。

しかし、お梅のその黒々とした感情を読み取っている宗吉には、それが自分の本来的な願望であることを認知したくない感情も手伝ってか、そのお梅の思いをプレッシャーと受け止めることで、自らを「委託遺棄」の実行犯として仕立て上げていく。

そして東京タワーの展望台に良子を連れ出して、確信的な遺棄を遂行してしまうのだ。

それは気が弱くて、ある種、狡猾なる宗吉が、名実共に「悪魔」に化けたターニング・ポイントとなったのである。



15  共犯性の確立



について。

宗吉とお梅は、今や完全に共犯性を確立してしまっていた。

それにも拘らず、宗吉はなお狡猾なる欺瞞性の世界に縋りついている。

女房は殺人犯だが、自分はそうではない。自分が娘を遺棄した行為も、女房の精神的圧力の故である、などという虚構の物語に逃げ込むことで、辛うじて良心の在り処を自らの内側で確認し、安堵しているようでもあった。

それはまるで、「苦悩する者が受ける神罰は、苦悩しない者が受けるそれより遥かに軽い」、などとう欺瞞性に身を預ける卑劣さと同義であるとも言えようか。



16  良子の戦略の強制的破綻



について。

「よっこ、お父さん、好きですよ」

デパートの食堂で、良子が宗吉の耳元で囁いた言葉である。

父娘が坐るテーブルの前で、母子が柔和な風景を醸し出していた。

そのとき、名も知らぬその子が母に、「お洋服とママセット」を強請(ねだ)っているのを見て、良子はその言葉を、そのままオウムのように繰り返した。宗吉の耳元での良子の囁きは、その直後だった。

自分も親に甘えたいという感情が、良子に、この無邪気な振る舞いを演じさせたのである。

東京タワー大展望台2階(イメージ画像・ウィキ

明らかに、良子の「良い子戦略」がそこに読み取れるが、恐らく、兄の利一のように、実父夫婦に対する猜疑心が形成されていない良子には、なおこのような戦略を可能にさせる自然な思いが、その幼児自我に刻まれていたのであろう。

展望台で大好きな父に決定的に遺棄された瞬間、この子には、そこでどのような事態が出来したか、全く判然としなかったに違いない。

それは、本作で最も凄惨な描写であったと言えるだろう。

僅か4歳の自我が蒙った心的外傷のリアリティは、いつしかそれが、決して小さくないものであることを予想させるからである。



17  利一の家出事件



について。 

利一の中で、実母を特定的に求める感情が壊れていなかった。

少年の自我には、「おにばば」と嫌うお梅を否定するに足る充分な理由を、既に、川越での「仮の生活」の中で経験的に学習してきてしまっている。

少年にとって、自分を含む三人の兄妹を遺棄した菊代に対する感情は、金銭面で苦労する実母の現実を目の当たりにして、恐らく、騒々しいほどの愚痴を散々聞かされてきたであろう目立った記憶の内に、それでもなお、同情して止まない少年なりの感性によって、そこに一定の共有感覚を現象化させていたとも考えられる。

だからこの子は、川越での生活に於いても、その金銭の現実感覚を捨てていなかったのであろう。

そんな意地らしい少年にとって、実母と住んでいた場所への家出を図ったのは、当然の帰結でもあった。

それにもまして、この少年には、「母は必ず自分たちを迎えに来てくれる」という物語に縋るしかなかった現実の重みがある。

「親に捨てられた子」を認知する惨めさを、少年は一貫して否定して止まなかったからである。

そんな少年が、実母を憎悪の対象にするのは、恐らく、思春期に入ってからであることを想像させるに難くない出来事が、まさにこの一件であったと言うことである。



18  共犯性の暴走の発火点



について。

利一の家出が、少年の思惑のラインで自己完結しなかった。

少年はかつて家族で住んだ町に戻って来ても、そこにはもう誰もいなかった。

そんな少年が町を彷徨っていたら、当然、補導されることになる。

少年は川越の「仮の住まい」の住所と、父の名を特定できたから、本人が望まない帰宅を果たすことになったのである。

この事実が、竹下夫婦にもたらした衝撃は決定的だった。

利一だけは、良子のような遺棄の方法によって処理できないのだ。

お梅はこのとき、確信的な「鬼婆」と化して、明瞭なる殺害を夫に教唆するのである。夫の宗吉もまた、お梅と同様に、この闇の状況から、もう自己欺瞞を仮装することが不可能になった。

男はここで、殆ど確信的に、殺人犯の犯意を持つ人格を立ち上げていくことになっていく。

ネグレクト(イメージ画像)・ブログより転載
夫婦の闇の暴走は、もう行き着くところまで辿り着いてしまったのだ。



19  利一の異議申し立て



について。

利一には、良子のような「良い子戦略」に縋る自我が存在しなかった。

この少年にとって、会った瞬間から敵対的な感情を剥き出しにするお梅の存在は、自分たち兄妹がその身を寄せるべき対象ではなく、不快極まる「おにばば」以外ではなかったのだ。

だから少年は家出したのである。

その時点で、少年の弟妹は自分の視界から完全に消えていて、その疑問を父の宗吉にぶつけても、大人の居丈高な態度の前で弾き返されるだけだった。

弟妹の不在は、少年にとって、単に、「仮の住まい」でしかない川越の家との決定的な決別を告げるシグナルになったが、6歳の少年がその身を寄せるべき場所は、実母と暮らした家屋以外ではなかった。

少年の家出は必然的だったのだ。

しかし、少年を受け入れてくれる何ものも存在しないと感じたとき、少年は自分を補導する警官に対して、不快ながらも、川越の住所と父の名を伝える以外に方法がなかったのである。

このとき少年の能力では、自分の川越行きが何を意味するものであるかを想像する術が全くない。

少年はそのとき、決定的に遺棄されるためだけに川越行きを果たしてしまったのである。

少年の不幸は、ただ単に自分の精神年齢が、弟妹たちのそれと比べて、ほんの少し高かったことのみであると言っていい。



20  利一への殺人未遂事件



 ⑭について。

事件が遂に起きてしまった。

上野動物園の帰りである。人通りの少ない寛永寺(?)の境内に続くベンチで、父に与えられた青酸カリ入りのパンを、少年は口にして、それを吐き出したのである。

だから、事件は未遂に終わったのだ。

犯人は宗吉。そのシナリオを書いたのは、お梅である。

宗吉のその行動は明らかに、今までの二人の遺棄の方法と比べて無防備であり過ぎた。

仮に、この一件が既遂になったとしたら、間違いなく夫婦に容疑がかけられ、逮捕されて起訴されたに違いない。

このような無防備な行動に走るほど、この夫婦の心境は強迫的に追い詰められていたということである。

それは、このような愚かな行為に流されゆく者の、それ以外の選択肢を合理的に作り出せない心理的文脈であると言っていいかもしれない。

ともあれ、何もかも知り尽くしていると判断した利一の賢明さが、夫婦を追い詰めてしまっていたのだ。

しかし、越えてはならない一線を通過してしまった夫婦には、目先の不安の除去だけが先行していた。

これが宗吉の北陸行きに繋がったのである。

今度ばかりは絶対にしくじれないと考えるほどの余裕をほんの少し持った男は、断崖での遺棄事件の後、証拠隠滅を図っていた。


だが、そんな姑息な行為が、利一の幸運な救助を介して、事件性の濃度を却って深めることになり、遂に宗吉が逮捕されるに至った。

それは、夫婦が懸命に守ろうとした一切が破綻し、崩壊し去ったことを意味する。ネグレクトから子殺しへの地続きなる地獄の行程は、菊代の極めて攻撃的な訪問の日によって、殆ど必然的に開かれた悪夢の時間だったと言えるだろう。


初めからネグレクトを決め込んだ女房がいて、その女房と同居する空間の只中で、その女房が忌み嫌う子供たちの世話を焼くという、圧倒的に困難な事態に立ち会った男が為すべき行動は限定的だったし、その臨界点も既に男の意識を囲繞する辺りにまで忍び寄っていたのだ。

絶対に起こってはならない事態が、かなりの確率で起こり得る条件を揃えてしまった状況下にある者の、必ずしも狂気に捕縛されなかった自我を食(は)んでしまったのは、最悪の条件が、最悪の状況をダイレクトに繋いでしまったからであろう。

しかしそこで出来した現実こそ、最もあってはならない事態の展開であったということ。それが、最大の不幸であったということだ。



21  共犯性の暴走



について。

夫婦の共犯性は、遂に暴走してしまった。

暴走は自壊へと至った。

それは暴走のメカニズムの、極めて通常なる展開の帰結でもあった。

そしてそれは、この夫婦が置かれた心理状況の、殆ど必然的な流れ方でもあっただろう。

暴走に流れ込む以外にない状況を作り出したものは、この夫婦がそのような状況を開かせるに充分なほどの最悪な条件を、内的にも外的にも分娩したり、或いは、誘発せしめてしまったりしたからである。

既に言及したことだが、その最悪な条件を要約すれば、内的には経済的な困窮であり、外的には、男の愛人によるネグレクト的状況に搦(から)め捕られてしまったからである。

しかし後者は前者の産物なので、結局、最悪の事態を出来させた根柢にあったのは、零細な印刷屋を経営する困難さであると言えるだろう。

その困難さの中に、夫婦の情愛関係を破綻させるネグレクト的状況が深々と絡みついてきて、男の妻の許容臨界点を超えてしまったこと。それが、事件の構造の中枢に位置していたと考えられる。

男の暴走を炸裂させた全ての熱量を支配したのは、一貫して男の妻の存在性それ自身にあったと言えるのだ。

夫婦の共犯性が確立したとき、既に暴走のイニシャティブを掌握していたのは、男の妻以外ではなかったのである。

しかし男の妻の心情世界は、極めて人間的な文脈によって把握されるものであった。

妻の炸裂した感情の行方が事件の構造を説明するものであったとしても、その炸裂した感情を決定づけたのは、紛れもなく、男それ自身であった。

これは、人間的に最もだらしない様態を晒した男の、その際立って人間的な振舞いを刻んだ一篇であったということなのである。

そんな男が、殺し損ねた息子の前で土下座し、号泣するさまは、それ以上ない人間的な感情の炸裂であった。

その炸裂は、恐らく、自らの内側で想像し得る範囲の表現であったが故に男は安堵し、更にそれによって、贖罪の決定的な自己完結を初めて身体化できた時間の中で、より確信的に男は安堵できたのではないか。

そんな男の愁嘆場(しゅうたんば)を目撃する観客は、そのあまりに人間的な振舞いに心を撃ち抜かれたのである。



22  利一の確信的拒絶



 ⑯について。

しかし少年は、遂に黙秘を破り捨てて、決定的に自分の父親を拒絶したのである。

拒絶する以外にない最悪の状況に搦め捕られた少年の涙は、父親のダイレクトな号泣を弾き返すが、連行されていく父親の、それ以上ない悲哀な姿を視界に収めるときの少年の悲哀こそ、映像のラストを括る究極なまでに悲哀なる描写であった。

しかし原作にもなく、その脚本にもないラストシーンが、まだその先に待機していた。

婦人警官に、「ママが迎えに来るまで、いい子でいなきゃダメよ」と励まされた少年が、そこで小さく頷いて見せたのである。

少年は自分を殆ど確信的に遺棄した実母を、なお信じようとしていたのだ。

それは、自らの自我の拠って立つ基点であるべき存在性に縋るしか生きていけない子供の、それ以外にない選択的行動であったということなのだろう。


以上で、本作への評論を括りたい。



23  母性なるものの幻想



―― 稿の最後に、「母性なるものの幻想」について一言。

結論から言えば、「母は善なり」という浮ついた俗言に深入りすべからず、ということだ。

命をかけて愛児を守った母の話も、被爆直後の死屍累々の惨状の中で、我が子を踏みつけて走り去った母の話も、人の世界では、当然の如く真実であって、それらを特殊化する感覚の貧しさに一縷(いちる)の救いが窺えようとも、自らがその状況に置かれれば、自然なる振舞いを刻む身体表現の答えのイメージに近づいてしまうのだ。

我が子の危難に愛情に目覚めた母がいるかも知れないし、愛児を残して去った母が深々と悔いる可能性も高い。咄嗟の判断による行為のみを切り取って、それを物語化する着想の中から胚胎された俗説には近寄らない方がいいのだ。

「母は善なり」ではなくて、「母もまた人なり」の方が正解なのである。




【本稿の幾つかの画像は、ブログ「なにさま映画評 →→→→→() プロフェッサー・オカピーの部屋[別館]」より拝借致しました。感謝しています】 

(2007年1月)

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