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  • アジサイはアートである 「我が町・清瀬」2017初夏 - アジサイを接写していると、色相のグラデーションの鮮やかに驚かされること頻りである。 だから、毎年、初夏になったら「我が町・清瀬」で写真を撮る。 この一期一会の思いでアジサイを観賞していると、アジサイが一つのアートであることを実感する。 アジサイはアートなのだ。 時々刻々に変色していくアジサイは...
    2 週間前

2010年6月13日日曜日

レオン 完全版('94)    リュック・ベッソン


<「静」によって支配される「動」が炸裂するとき>




1  復讐劇の時間の中へ



ニューヨークのリトル・イタリーに住む、ウオッチキャップ(米国海軍の水兵が防寒用に被ったニット製の帽子)を冠る、一人のイタリア人。

ファーストシーンでの、殺しの描写の緊迫感の導入は見事。

これで、観る者を一気に映像に惹き付ける。

父の眼を盗んで、煙草を吸う少女。

同じアパートに住む、仕事帰りのレオンとの交叉。

「親に言わないで」

少女はレオンに懇願した。

「殺しのプロ」であるレオンは、特段の反応をすることなく自室に戻っていく。

完璧な健康管理のため、一日2パックの牛乳と厳しい肉体鍛錬を必要とする男は、アパートの自室で、鉢植えの観葉植物に水を与える細(ささ)やかかな行為に喜びを見い出していた。

翌日のこと。

「買い物に行くの?2パックの牛乳いる?」と少女。

肯くだけのレオン。映像での2度目の交叉である。

事件は、その直後に起こった。

ヘロインを盗んだ少女の父親が、如何にも物騒なマシンガンを手にした麻薬取締局のスタンフィールドらに襲われ、家族もろとも情け容赦なく殺害されたのだ。

その中には、4歳の男の子も含まれていた。

買い物に出掛けていたため、難を逃れた少女はレオンに助けを求め、事情を知悉していたレオンは一瞬躊躇するが、少女の涙ながらの訴えに反応し、自室に匿った。

マチルダ
「名前は?」とレオン。
「マチルダ」と少女。嗚咽している。
「お父さんが・・・」
「いずれは、私が殺してたわ」
「お母さんも・・・」
「継母(ままはは)よ。姉さんの関心は、体重を減らすことだけ。腹違いよ。本当に最低の奴だったわ」
「じゃ、なぜ泣く?」
「弟のためよ。まだ4歳だったのに・・・悲しいとき、私によく抱きついてきたわ・・・」

そんな暗鬱な身の上話を聞かされたレオンは、豚の指人形をはめ、声色を変えて、少女を慰めようとした。

微笑む少女。

「あなたの仕事は何?」


レオンの拳銃ケースを開いた少女は、唐突に尋ねた。

「掃除屋だ」
「殺し屋ね」
「ああ」
「素敵。誰でも殺すの?」
「女と子供以外は」
「弟の仇を討つのに、幾らいる?」
「一人5000」
「何でもやるから、殺し方を教えて?」
「ダメだ」
「どうすればいいの?帰る所もないわ」
「今日はもう寝ろ」

ベッドで休む少女。

「あなたみたいな優しい大人もいるのね」

熟考の末、秘密を知られたレオンは少女を殺そうとして、寝姿の少女に銃口を突き付けるが断念した。

「女と子供以外は殺さない」という男のルールが、少女の命を救ったのである。

翌日。

その少女、マチルダを追い出そうとするレオンに、少女はクレバーな反応をした。

「今、私を追い出したら、助けなかったことと同じになるわ。追い出されたら殺される。死にたくないわ」
「マチルダ、君はまだ子供だ。殺し屋にはなれない」

レオンの拳銃を使って、窓の外に向かい乱射する少女。

「これでも?」

呆然とするレオン。

結局、二人は安ホテルに宿泊することになった。


そこで、レオンはマチルダに殺しのテクニックを教え、マチルダはレオンに読み書きを教えていくという、尋常ではない関係を形成していった。

18歳と偽るマチルダに、首を傾げるレオン。

どこにいても観葉植物を育てるレオンを見て、マチルダは尋ねた。

「大事なの?」

そのときのレオンの反応は、印象的なものだった。

「最高の友さ。無口だからいい。俺と同じで、根がない」

笑って答えるレオンの言葉を受け、少女は、より本質的な答えを返した。

「大地に植えれば根を張るわ。私も、その鉢植えと同じね」



2  復讐劇の暴走と、その終焉



「あなたに恋をしてみたい。初めての経験よ」

ベッドに仰向けの大の字になって、思いを吐露するマチルダ。

「初めてで、なぜ分る?」とレオン。
「感じるの?」
「どうやって?」
「ここが暖かいの。締め付けられるような感じが消えたわ」

自分のお腹を擦りながら、マチルダは答えた。

「マチルダ、腹痛が治って何よりだ。恋とは関係ない」

防衛的反応で逃げるレオンは、その直後、「仕事に出る」と言って、安ホテルの部屋の戸を開けて少女との距離を取った。

しかし、心の秩序を明らかに乱されたレオンは、そこで立ち止まり、ホテルの壁に凭(もた)れかかって、マチルダの告白を反芻するように悩み込むのだ。

一方、堰を切ったように感情を吐き出したマチルダは、安ホテルの老フロントに、「彼は父じゃないわ。愛人よ」と言い放って驚かせた。

そのマチルダは、警察の包囲網を潜って、事件のあった自宅に戻り、親が隠した現金や自分の縫い包みなどを持ち帰るが、そこで弟を殺した犯人が麻薬取締局のスタンフィールドである事実を知り、彼の後をタクシーで尾行し、職場を確認するに至る。

少女の復讐劇への思いは本気なのである。

まもなく二人は、安ホテルを追い出されたが、当然の帰結だった。

別のホテルに移った二人。

マチルダはレオンに、自宅から持ち帰って来た金を渡して、スタンフィールド殺しを依頼するが、レオンは「ヤバイ」と言って、にべもなく断った。

「君のゲームには疲れた」とレオン。
「人を優しくする素敵なゲームを知ってるの」とマチルダ。

そのときマチルダは、レオンにロシアンルーレットを提案し、「私が勝ったら、生涯あなたと一緒にいさせて」などと言って、強引に自分の思いを通そうとする。

「君は負けるぞ。装填したときの音で分る」とレオン。
「私が死んだら悲しむの?」とマチルダ。
「いいや」
「それは本心ね。私への愛がないことを願うわ。もし、私への愛がひとかけらでもあったら、このことを後悔するから」

マチルダは、嗚咽しながら話すのだ。

自分のこめかみに銃を向けたマチルダを、レオンは発射寸前に止めた。

「私の勝ちね」

彼女の言う通り、覚悟の一端を開き、〈状況〉を支配したマチルダの勝利だった。

二人は、風邪の予防のためにウオッチキャップを冠り、意を決して、最も危うい復讐劇の時間の中に踏み込んでいくのだ。。

相手が特定できなくなるから顔は撃つな。依頼人から金を貰えなくなる。

サイレンサーで何発も連射するときは、黒い布を巻け。サイレンサーが過熱するから。

そんな詳細な指示を下す、レオンによる「殺し」のプロの指導が開かれた。

「君に会ってから全て変わった。少し、自分だけの時間が欲しい」

このレオンの言葉は、一貫して〈状況〉を支配し続けるたマチルダとの、適正な距離の均衡感が崩されていく中年男の不安を吐露したもの。

その中年男の不安は、まもなく最悪の形で現出した。

復讐劇の時間の中に踏み込んだマチルダの感情剥き出しの行動が、自らの危機を招来してしまったのだ。

スタンフィールドを付け狙うマチルダが、逆に「仇」によって捕捉されてしまったのである。


ここでも、レオンが少女を救出するに至った。

麻薬取締局の捜査官・スタンスフィールド
しかし、レオンによって悪徳仲間を「掃除」されたスタンフィールドは、その凶暴性を露わにしていく。

彼はレオンのボスであるトニーを恫喝して、レオンとマチルダが宿にするホテルを聞き出すや否や、無数の警官隊を動員してホテルを包囲した。

少女の復讐劇と、汚職麻薬捜査官の抹殺作戦がガチンコ対決したのである。

「映画の嘘」で固められた、アメリカ映画らしい超ド級のアクションシーンは、殆どテロリストとの「殲滅戦」の動画映像だった。

その「殲滅戦」の狂騒の中で、マチルダを逃がした後、深傷を負ったレオンは、背後から狙い澄ましたスタンフィールドの凶弾に撃たれて絶命するが、レオンの仕掛けた爆弾トリック(リングトリック)によって、憎き「仇」もまた爆殺されるに至ったのである。

少女の復讐劇の終焉は、最も大切な男の命をも喪う羽目になり、一人残された少女は、結局、施設に戻って行くことになった。

少女マチルダがレオンの鉢植えの観葉植物を庭に植えるという、ラストシーンの象徴的イメージの内に映像は閉じられていった。



3  ブロックラインによって塞がれた「欲情的邪心」




およそロリコン男でもない限り成立しないような中年の殺し屋と、12歳の少女の関係が、たとえそこに、少女からの「愛の告白」が経由し、少女の要望によってベッドを共にしたとしても、この二人の関係の情感的逢着点に、「ドロドロの情欲」による〈性〉が待機しているという発想は初めから排除されていた。

少なくとも、そのような「欲情的邪心」が入り込む隙を、本作は巧みなブロックラインを敷いて、その危うい広がりを防いでいたように見える。

従って、そのブロックラインによるバリアを構築するために、本作は不必要なまでの描写を加えてしまったのである。

それが、本作を説明的な映像にしてしまったのだ。

説明的な映像は、単なる暇つぶしの娯楽映画のフラットなレベルの、1回的な消費で済まされてしまうという致命的瑕疵を免れないであろう。

リュック・ベッソン監督(ウィキ)
そんな本作は、「静」と「動」の交叉によって支えられた典型的映像だった。

中年の殺し屋と、12歳の少女のみが絡む「静」のシーンと、その二人の関係に「敵対的第3者」が絡む「動」のシーンがそれである。

映像の骨格は、「静」が「動」を支配し、「動」の帰結点が、一定の「静」への自己完結を持って閉じていくというラインは、ほぼ予約された物語の構造だった。

ところが、「動」を支配する「静」の描写があまりに説明的であったため、満を持して公開したはずの「完全版」の過剰な膨らみは、却って映像全体の緊張感を希釈化させ、間延びした映画になってしまったのである。

その典型例が、中年の殺し屋と12歳の少女が絡むシーンの中で、件の殺し屋が過去を告白する場面である。

再現してみよう。

中年の殺し屋のレオンが、「もう大人よ。あとは年をとるだけ」と嘯(うそぶ)くマチルダから初体験を求められ、体よく拒否した。

その際、レオンは渡米する契機になった、19歳のときの苦い経験を語るのだ。

「彼女の父親は俺を嫌っていた。彼女は名家の娘だったが、俺の家はまるで違っていた。結局、父親は娘を殺した。事故ということで、すぐ釈放されたので、俺は父親を待ち伏せて殺した。その晩、俺は船に乗り、トニーの所で働いていた親父の元へ渡米したんだ。19歳だった。それ以来、恋をしていない。マチルダ、俺はいい恋人になれない」

〈性〉から逃げるレオンの真意を読み取った少女が、困り果てた様子の中年男に対して要求のハードルを下げていくのだ。

「その代わり、お願いがあるの。椅子で寝ないで、私と一緒にベッドへ」

この辺りの「条件提示」の「戦術」は、殆ど大人の世界の発想であると言っていい。

〈性〉や〈暴力〉が常態化した、限りなく劣悪な環境で育った少女の身体的成熟が勝ることで、「思春期」の甘美な芳香の部分を無化していかなければ状況適応し得ない厳しさが、その心象風景に垣間見えるのである。


以上の流れの中で、この日、二人の関係は最近接したが、当然の如く、ベッドを共にしても何も起こらない。

最後まで、中年男の「欲情的邪心」は封印されたままであるからだ。

然るに、この描写の導入は、最初から予約ラインをなぞっていく作り手の思惑の範疇にあったものだろうが、それを見透かしてしまう程に不必要なシーンと言わざるを得ないのである。

この描写は、観葉植物を育てることを趣味とする寡黙で孤独な殺し屋の、謎に満ちているが故に魅力的な人格イメージを、敢えて壊してしまうエピソードだったからだ。

中年の殺し屋の初恋を巡る不幸なエピソードの挿入によって、男の心情世界の全貌を露わにさせてしまったのである。

なぜ、作り手はこんなシーンを用意してしまったのか。

簡単である。

著しい年齢差による一方通行的な淡い「純愛」が、禁断の〈性〉に無媒介に侵入していくことによる、印象濃度の顕著な低減リスクをブロックするためである。

かくて、印象濃度の顕著な低減リスクをブロックするために挿入されたエピソードによって、中年の殺し屋の人格像が丸裸にされたことに起因する他方のリスクは、その直後から開かれた男のスーパーマン性が全面展開する、その得体の知れないパワーの躍動感に過剰な人間味を付与したことで、元より中途半端な映像総体を、更に中途半端なヒューマンドラマに変えてしまったという一点に集約されているだろう。



4  「静」によって支配される「動」が炸裂するとき



思うに、説明過剰な映画に張り付く宿命的な瑕疵は、ウエルメードなヒューマンドラマの不透明であるが故に、単線形のフラットな、防衛ラインが見えない奥行きの余情感をも壊してしまうのである。

元々、有り得ないような話を、「映画の嘘」によって一気に走り抜けるスピード感を最初から相対化してしまったのは、「静」によって「動」を支配するという物語の構造性に起因しているからだ。

それは、全く問題ない。

そして、「静」と「動」をリンクさせる起動点に、4歳の弟を惨殺された12歳の少女の復讐劇が物語の中枢に据えられているので、どうしても、「動」にアクセスする少女の年齢が制約されてしまうのである。

この復讐劇の主体は幼児では不可能であり、ハイティーンの少女にしたら、男との情愛関係にリアリティを持たせてしまうだろう。

だから、12歳くらいが頃合いだったということか。

且つ、殺し屋のサポートを受け、自らもプロの指導を仰ぐという設定が不可避となる絵柄を考慮すれば、当然、物語に必要な描写を嵌めていかざるを得ないので、どうしても「静」と「動」を繋ぐ中間的描写が求められるだろう。

その結果、「動」によって炸裂する「静」の描写が長尺になってしまう。

これが、映像を不必要に間延びさせてしまったのだ。

従って、この間延びを防ぐには、「静」の支配域の描写を相当程度カットする必要があった。

「完全版」では、その辺の均衡ある映像構成が必ずしも成功したとは思えないのだ。

これが、本作を中途半端なヒューマンドラマに留め、且つ、単純な娯楽アクションドラマの性格の払拭をも困難にした原因であると言っていい。

一見すると、アメリカ映画らしくなく、如何にも繊細な筆致を印象付ける映像が、結局、典型的なハリウッド映画のカテゴリーの内に、ラストシーンの流れ方を収斂させてしまった中途半端さもまた、この映画を凡作に貶めた原因だったと思われる。

加えて言えば、「映画の嘘」の中に余分な感傷を張り付けてしまったため、痛快娯楽作としての尖った個性をも削いでしまった印象も強いのだ。


更に言えば、「雨に唄えば」を口ずさむ少女の描写も含め、汚職麻薬捜査官の過剰な演技もまた、意図的に、「時計じかけのオレンジ」のアレックスの騒ぎ方に寄せてしまった描写の狙いが裏目に出て、殆ど剽窃(ひょうせつ)的なイメージしか残さなかったのである。

最後に、私が最も気になった点について、一言触れておきたい。

女子供を殺さない、万全の健康管理を心がける寡黙な殺し屋と、女子供を平気で殺す、「超暴力」に酔う狂気の麻薬捜査官という、極端な対立構図の単純さ。

それは、看過し難いほど目障りな構図だった。

吹き出してしまったのは、後者が前者のボスに殺しを依頼するという安直なオチを見せられたとき。

あまりに粗雑な物語の枠組みだったと言う外にない。

本作は、ただ単に、一回消費の面白いだけの映画の読み切り篇だったということだ。

(2010年6月)

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