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    1 日前

2011年6月2日木曜日

フルメタル・ジャケット('87)     スタンリー・キューブリック


<「戦争における『人殺し』の心理学」についての映像的検証>



  1  「狂気」に搦め捕られた「殺人マシーン」の「卵」と、「殺人マシーン」に変容し切れない若者との対比



 本作の物語構造は、とても分りやすい。

 それを要約すれば、こういう文脈で把握し得るだろう。

 「殺人マシーン」を量産する「軍隊」の、極めて合理的だが、それ故に苛酷なる短期集中の特殊な新兵訓練を通して、「殺人マシーン」の「卵」を孵化させるプロセスで、孵化する前に「狂気」に搦(から)め捕られてしまった新兵と、その「卵」を孵化する最低限の条件をクリアしながらも、既に充分過ぎるほど、「殺人マシーン」が量産されている前線に踏み入っても、「殺人マシーン」に変容し切れない若者との対比を描くことで、「殺人マシーン」を量産する「軍隊」の目的点である「戦争」の本質と、そこへの「最適適応」の困難さ、厄介さを浮き彫りにした物語構造を持った問題作 ―― それが、「フルメタル・ジャケット」である。


 「殺人マシーン」を量産する超合理的なシステムを内包する空間は、本作で言えば、南カロライナ州の合衆国海兵隊新兵訓練基地。

 そこでの、「殺人マシーン」の「卵」を孵化させるプロセスで、孵化する前に「狂気」に搦(から)め捕られてしまった新兵とは、レナード(ゴーマー・パイル)。

 “微笑みデブ”と仇名された、軟弱な新兵である。

 
アメリカ海兵隊遠征隊(イメージ画像・ウィキ)
また、「殺人マシーン」が量産されている前線に踏み入っても、「殺人マシーン」に変容し切れない若者は、ジョーカー(J.T.デイヴィス)。

 映画の前半は、このレナードへの苛酷な訓練を執拗に描き出していき、後半は、「殺人マシーン」に変容し切れない若者ジョーカーの、前線下の適応化のプロセスでの迷走を描き出していく。


 以下、本質的な部分を切り取って、物語をフォローしていこう。




 2  プライド破壊の直接性を露わにした新兵の噴火点



 まず、レナードへの苛酷な訓練について。

 全員の頭をバリカンで丸刈りするシーンから開かれた映像が、次に映し出したのは、整列した新米隊員たちへの鬼教官ハートマン軍曹による、罵詈雑言(ばりぞうごん)の連射。

鬼教官ハートマン軍曹
「貴様らメス豚が俺の訓練に生き残れたら、各人が兵器となる。戦争に祈りを捧げる死の司祭だ。その日まではウジ虫だ!地球で最下層の生命体だ。貴様らは人間ではない。両生動物のクソを集めた値打ちしかない!貴様らは、厳しい俺を嫌う。だが、憎めば、それだけ学ぶ。俺は厳しいが公平だ。人種差別は許さん。黒豚、ユダ豚、イタ豚を俺は見下さん。全て平等に価値がない。俺の使命は、役立たずを刈り取ることだ。愛する海兵隊の害虫を」

 「全て平等に価値がない」というラジカルな嘲弄には、思わず吹き出してしまった。

 まさにそれは、過激な言語暴力の洪水だった。

 海兵隊の訓練キャンプの目的は、ただ一つ。

 若き新兵たちを、酷薄な「殺人マシーン」に変容させることである。

 「殺人マシーン」に変容させていくプロセスで、テーマが内包する現実の困難さを露呈させたのが、レナードへの「教育」であった。

 微笑みの相貌を変えられないレナードは、ハートマン軍曹の手で、自の首を絞めるという行為を強いれら、いきなりの先制攻撃を受けるのだ。

 訓練キャンプに入っても、担銃の際、右肩に銃を担いで「目立ちたくて、わざと間違えたのか、アホデブ!」と罵倒され、殴られる始末。

 その直後の映像は、ズボンを脱ぎ下ろされたまま、プライド破壊の直接性を露わにする、レナードの哀れな行進。

 また、ドーナツを隠し持っていた罰で、新兵全員の連帯責任となり、腕立て伏せを強制されるのだ。

 「俺、何をやってもダメだから」

 ジョーカーに弱音を吐くレナード。

 この連帯責任の腕立て伏せへのペナルティによって、レナードは、仲間から集団リンチを受けるに至る。

 「覚えておけ。悪い夢だぞ、デブ」

 強制されて、渋々、参加するジョーカー。

 この夜以来、レナードの眼付が明らかに異様になっていく。

 やがて、銃の名手に変身するレナードだが、最悪の事件は回避できなかった。

 訓練教官室の前のトイレの中で、実弾を装填するレナード。

「フルメタル・ジャケット」と発して自壊するレナード
  その夜、当直のジョーカーが実弾であることを問うと、血走った眼のレナードが発した一言。
 
 「7.62ミリ弾。フル・メタル・ジャケット(完全被甲弾)」

 驚愕するジョーカーの反応は、トイレの前の訓練教官室への配慮のみ。

 「レナード、ハートマンに見られたら、ひでぇことになるぞ」
 「俺はもう、ひでぇクソだ」

 そう言った後、騒ぎに気付いたハートマン軍曹がトイレに入って来て、例によって、スラングの連射をするや否や、レナードの銃口が火を噴いたのだ。

 ハートマン軍曹を、1発の銃丸で射殺したのである。

 銃口を咥(くわ)えて、レナードが自殺したのは、その直後だった。

 その辺りの心理については後述する。



 3  「殺人マシーン」になるギリギリの心理状況に最近接した男



 次に、「殺人マシーン」に変容し切れない若者ジョーカーの、前線下の適応化のプロセスでの迷走について。


 戦闘報道員として、前線に踏み込んだジョーカーの視界に捕捉された状況は、ベトナム戦争の画期点でもあったテト攻勢(フエ交戦)の渦中だった。

 まさにそのとき、古都のフエがベトコンによって包囲されるに至る1968年1月のテト攻勢下で、大攻勢に打って出たベトコンとの息詰まる戦闘が開かれていた。

 「逃げる奴はベトコンだ! 逃げない奴はよく訓練されたベトコンだ!」と揶揄(やゆ)される前線下で、“BORN TO KILL(生来必殺)”と書かれたヘルメットを被り、平和のバッジを胸につける戦闘報道員のジョーカーが、それを咎める将校の前で立ち竦んでいた。

 ジョーカーはユングを持ち出して、将校に「人間の二重性」と答えるのだ。

 フエ交戦の渦中で、戦闘報道員として某小隊に随伴したジョーカーは、そこで訓練キャンプ時代の親友のカウボーイと再会し、行動を共にしていく。


 既に、爆撃により廃墟となっていた町の一角で、激しい銃撃戦が展開されるが、小隊の下士官らが次々に斃されていく状況に、苛立つアニマル・マザー。


 ジョーカーと対立したアニマル・マザーこそ、紛う方なき「殺人マシーン」だった。

 「殺人マシーン」の面目躍如と言うべきか、不気味な狙撃兵を求めて、一人突撃していくアニマル・マザー。

 カウボーイも狙撃兵の餌食になり、ジョーカーの腕の中で絶命する。


 狙撃兵が潜む、崩れた建物の中に踏み込んだジョーカーは、遂に狙撃兵を発見するが、彼の銃弾が切れていて、狙撃兵の銃丸の的になった。

 危機一髪で、仲間の銃が狙撃兵を射殺した。

ベトコン少女
ジョーカーたちが視認した狙撃兵 ―― それは、10代とも思しきベトコン少女だった。

 「狙撃兵を仕留めた!俺がジョーカーを救った!」

 ジョーカーを救った男は、歓喜の声をあげた。

 救われたジョーカーは、自分を狙い撃って来た狙撃兵が少女であることを知って、立ち竦む。

 「ぶっ殺しちゃった!すげえや!人殺しの女殺し!」

 ジョーカーを救った男は、小躍りして叫んでいる。

 倒れている少女は虫の息で、必死に何かを訴えている。

 しかしベトナム語だから、周りの兵士たちには、その意味が分らない。

 「何と言ってる?」と黒人兵士。
 「祈っている」とジョーカー。
 「助けようがねえや。死んだも同じ」と狙撃した兵士。
 「おさらばしようぜ」とアニマル・マザー。
 「彼女は?」とジョーカー。
 「知るか。勝手に腐るさ」とアニマル・マザー。
 「ここに残していけない」とジョーカー。
 「くそバカが。カウボーイもくたばったんだぜ。お前の最後のダチが。命令に従え。俺の言い分は、“ネズミに食わせろ”だ」

ジョーカー(左)とアニマル・マザー(右)
アニマル・マザーの言い分には、「敵は殺すのみ」という絶対的ルールが張り付いている。

 「指揮する気はないが、このまま残していはいけないと言ってるんだ」

 そう言うジョーカーの表情には、自分を狙い撃ちしたベトコン少女を、楽に死なせてあげたいという人間的感情が露わになっている。

 ここで、ベトコン少女は、「ショット・ミー」という英語を絞り出した。

 「撃って欲しい」と懇願しているのだ。

 「始末したけりゃ、さっさと始末しろ」とアニマル・マザー。

 彼には、ジョーカーの意思が読めていた。

 だから、彼に早く女を殺せと促したのだ。

 それを受けて、ジョーカーは少女の息の根を止めたのである。

 「ジョーカー。これで勲章もらえるぜ!悪虐非道勲章を」
 
 狙撃した兵士の言葉だ。

 笑いながら、ジョーカーに言葉をかけた。

 ジョーカーの複雑な表情が、アップで映し出された。

 ラストシーン。

 ミッキーマウスの歌を歌いながら行進するラストシーン
ミッキーマウスの歌を歌いながら、ジョーカーのモノローグが結ばれていく。

 「五体満足の幸福感に浸り、除隊ももうすぐ。私はクソ地獄にいる・・・が、こうして生きている。私は恐れはしない」

 しかし正確に言えば、それは、「殺人マシーン」になるギリギリの心理状況に最近接した男の吐露が、そこに捨てられたことを意味するだろう。

 私はそう思う。

 その辺りの心理についても後述する。



 4  戦争における「人殺し」の心理学




 「戦争における『人殺し』の心理学」で有名なデーヴ・グロスマンによると、アメリカの軍隊ほど新兵に「殺人マシーン」化教育を徹底している国はないと言う。

 視界に敵が現われたとき、直ちに発砲していく確率を高める非人間化教育によって、米兵の発砲率はベトナム戦争において90%にまで上昇したらしい。かつて、ロシア帝国下で、ツアーの兵士が処刑に立ち会う際に、良心の在り処を担保するために、必ず兵士の銃の一つを空砲にしていたという話がある。

 米軍の新兵教育は、ツアー時代のロシアにおいても存在していた倫理的文脈を包含しつつも、それを凌駕する戦争における「脱良心化」の心理学を構築してしまったのである。

 「訓練技術はその後(第二次世界大戦、朝鮮戦争のこと/筆者注)さらに磨きをかけられ、、ベトナム戦争での発砲率は90パーセントに上ったと言われている。この驚くべき殺傷率の上昇をもたらしたのは、脱感作、条件づけ、否認防衛機構の三方法の組み合わせだった」(「戦争における『人殺し』の心理学」(安原和見訳 筑摩書房刊)

 ここで言う、「脱感作」とは、グロスマンによると、「考えられないことを考える」ということである。

 要するに、「敵は自分とは異質な人間なのだ、家族もいないし、それどころか人間でさえないのだ」などと考えることで、人は昔から暴力を自己正当化してきたが、その心理機制を利用して、ベトナム戦争時のアメリカ軍隊において、所謂、「暴力の観念化」が組織的に制度化されたと、グロスマンは指摘するのだ。

 次に、「条件付け」とは、「考えられないことをする」ということ。

 即ち、それは、暴力に対する自我抑制を麻痺させる訓練であると言っていい。

 「技量が上がれば大いに報酬を与えられ顕彰されるが、標的をすばやく正確に『とらえる』のに失敗すると、軽い懲罰(再教育、同僚の圧力、基礎訓練キャンプを卒業できないなど)が待っている。この環境で教えられるのは伝統的な射撃術だけではなく、反射的かつ瞬間的に撃つ能力である。つまりこれは、現代の戦場における殺人行為の正確な再現なのだ。行動学の用語を使えば、射撃場に飛び出す人型は〈条件刺激〉であり、的を即座にとらえるのは〈目標行動〉である。命中すれば的が倒れて即座にフィードバックが与えられ、〈正の強化〉が行なわれる」(前掲書より)

デーヴ・グロスマン
以上の文脈で分るように、行動主義の心理学がここに転用され、「暴力の観念化」を「脱感作」という概念の内に具現したのである。

 三つ目の「否認防衛機構」とは、「考えられないことを否認する」ことである。

 「否認と防衛の心理機制は、トラウマ的経験に対するための無意識の手段だ。(中略)基本的に、兵士は殺人のプロセスをなんどもくりかえし練習している。そのため、戦闘で人を殺しても、自分が実際に人を殺しているという事実をある程度まで否認できるのだ。つまり、殺人行為の慎重なリハーサルとリアルな再現のおかげで、たんにいつもの標的を『とらえた』だけだと思い込むことができるのである」(前掲書より)
          
 以上の心理プロセスを継続的に、且つ、組織的に内化していく中で、人はいつしか自責の念を感じないよいうになり、少しずつ、淡々とした心理状況下で、暴力の行使に対して忌避反応を起こさないようになっていく。

グロスマンの研究レポートは、少なくとも、私にとって相当の説得力があった。

 人間が、敵対する相手への特別な憎悪感情を持つことなく、一見、簡単に殺人を犯せるのは、このような心理機制が内化されていることによってのみ、より可能になるということである。

 東南アジアの遥か彼方の戦場に、「殺人マシーン」の卵たちが大量に送り込まれた結果、本物の実戦を通して孵化した卵が、戦場を途方もない地獄のカラーに染め抜いていったのだ。

 短い徴兵期間の中で、それでもべったりと自我に張り付いていた罪悪感情はあっという間に剥落し、狂気を日常化した爛れた時間の流れに身を任せたのである。

 しかも彼らの戦争には、充分に説得力のある大義がないのだ。

スタンリー・キューブリック監督
その大義なき戦争の中で、彼らがどのような身の置き方をしたか。

 逆に言えば、このような訓練を経なければならないほど、人間の自我は、確信的な目的を持たない殺人を簡単に遂行し得ないということである。

 即ち、通常下においては、人間の自我には一定の抑制的機制が機能しているこということだ。

 しかし、人間の自我は形成的なものであるが故に、その正常な確立を果たすプロセスを媒介しないと容易に洗脳され、贖罪観念の形成が未成熟のまま年齢だけを重ねてしまうということだろう。

 人間の自我は本来的に脆弱なのだ。

 だからこそ、その自覚的な強化が不可避とされるのである。

 言わずもがなのことだった。

 (以上、「地獄の黙示録」の拙稿の評論から、部分的に引用した)

 前述したように、本作の「フルメタル・ジャケット」は、ベトナム戦争を題材にした戦争映画として有名だが、作品の前半では、アメリカ海兵隊における言語を絶するほどの、約2ヶ月間に及ぶ訓練キャンプの内実が執拗に描かれていて、まさに、「戦争における『人殺し』の心理学」の典型的なモデルを検証するに相応しいリアルな描写が鮮烈だった。


 南カロライナ州の海兵隊新兵訓練基地を舞台にした、「非人間化過程」のシビアな訓練の内実は、そこに集合する様々な自我に張り付く人並みの人間性の形成的な被膜を、計算された手法としての言語的、身体的な暴力によって剥ぎ取って、それを単に、一個の殺人マシーンに改変させていく怖さ(訓練教官による苛酷なPT=シゴキや、仲間からのリンチに自我を半壊され、精神異常の状態を露わにした一人の新兵が、遂に絶望的な殺人と自殺に至るというエピソードに象徴される)を充分に鏤刻(るこく)するものになっていたのである。



 5  「平和のバッジ」を胸に付けた男のミッキーマウスの行進



 ここから、本作の中で最も重要なシーンの一つについて言及する。

 「貴様らの女房は、鉄と木でできた銃だ」

 このハートマン軍曹の命令一下、新兵たちは自分のベッドにライフル銃を抱いて、同じフレーズの文句を唱和されるのだ。

 「“これぞ、我が銃。銃は数あれど、我がものは一つ。これぞ、我が最良の友。我が命。我が銃を制すなり。我が命を制す如く。我なくて、銃は役立たず。銃なくて、我は役立たず。我的確に銃を撃つなり。我を殺さんとする敵よりも、勇猛に撃つなり。撃たれる前に必ず撃つなり。神かけて、我、これを誓う。我と我が銃は、祖国を守護なる者なり。我らは敵には征服者。我が命には救世主。敵が滅び、平和が来るその日までかくあるべし。アーメン”」

南カロライナ州の合衆国海兵隊新兵訓練基地
まさに、このシーンこそ、「戦争における『人殺し』の心理学」を裏付けるに足る、新兵への「殺人マシーン」化教育の典型的例証であると言っていい。

 このシーンの挿入は、極めて重要である。

 なぜなら、苛酷なブートキャンプを描いた、前半のラストシーンの伏線になっているからである。

 思うに、何をやらせてもドジなレナードが、唯一クリアできたもの ―― それは、銃による発砲技術の向上であった。

 ハートマン軍曹によるPTと、仲間たちと信じる者たちからのリンチによって、明らかにレナードの自我は壊されかかっていた。

 その目付きは異様になり、今や、彼にとって唯一の味方は銃以外ではなくなっていく。

 その銃に同化していく彼だけが、ブートキャンプを「前線」に変えてしまったのである。

 これは、半壊した自我によって分娩された狂気が、その攻撃目標を発見し、それを抹殺するという行為に打って出る事態を予約させるものだった。

 まさに、彼こそがブートキャンプで真っ先に「過剰適応」した人間だったのだ。

 ブートキャンプを「前線」に変えた男にとって、そこで抹殺すべき対象はただ一人。

レナードとハートマン軍曹

 ハートマン軍曹である。

 感情を持ち得ない「フルメタル・ジャケット」に象徴される「殺人マシーン」に変容した彼は、憎悪の対象人格を抹殺した後、既に敵のいなくなった「前線」の渦中で自己を抹殺するに至る。

 レナードの過剰適応が極点に達した瞬間であった。

 レナードが最後に見せた、獲物を捜すあの異様な目付きとは無縁に、本作のラストシーンで、もう一人の主人公であるジョーカーもまた、何とも言えない複雑な感情を、「ベトコン少女」を屠る前に、その視線のうちに映し出していた。

 しかし、彼の眼はレナードのそれと違って、「殺人マシーン」に成り切れない男の情感をも露わにするものだった。

 一時(いっとき)も早く楽になりたいと願う少女を腐らせることなく、或いは、彼らが所属する本隊にその遺体を運ぶまでもなく、彼の中になお捨てられないでいる「情感」によって、ベトコン少女を屠ったのである。


 彼が、その胸に「平和のバッジ」をつけていたことは、なおこの男が、この時点においても「殺人マシーン」に成り切れていないことの証左でもあった。

 その直後のミッキーマウスの行進は、「非日常の日常」下にある戦場をディズニーランドに変えたことの象徴的構図であると言っていい。

 一見、昂揚し切ったその空気の中で、共に行進を繋ぐジョーカーもまた、このとき、「殺人マシーン」に変容したことの括りとして把握するのが普通の解釈であるだろう。

 また同時に、そこにスタンリー・キューブリック監督のメッセージが仮託されていると読むべきだろうが、私はそうは思わない。

 「五体満足の幸福感に浸り、除隊ももうすぐ。私はクソ地獄にいる・・・が、こうして生きている。私は恐れはしない」

 これが、彼の本作で吐露した最後のモノローグ。

 ここで重要なのは、「私は恐れはしない」と吐露していながらも、彼は既に銃後の世界に思いを馳せているのである。

 明らかに、ジョーカーの自我は壊れていないのだ。

 それは、殺人それ自身を自己目的化したような振舞いを捨てない、アニマルマザーと比較すれば瞭然とするだろう。

 それは、ミッキーマウスの行進の渦中においても、ジョーカーが「平和のバッジ」を外していなかった事実でも検証されるのだ。

 「平和のバッジ」を胸に付けた彼は、「殺人マシーン」に成り切れなかったのである。


 恐らく、彼のようなタイプの人間が、帰国後、ベトナム反戦運動を立ち上げていくような、所謂、「ベトナム帰還兵」の一人になっていくのだ。

 そのような映画として把握するとき、この「フルメタル・ジャケット」という作品が放つインパクトは、感傷的なラストシーンで、観る者にカタルシスを保証させて閉じていった、オリヴァー・ストーン監督の「プラトーン」(1986年製作)と比較すれば判然とするに違いない。

 ついでに書けば、「殺人マシーン」に成り切った人間の、その心の闇を描き切ったた映画でもあった、「地獄の黙示録」の主人公ウイラードこそ、戻るべき日常性を持たない「殺人マシーン」であったと言えるだろう。

 このウイラード中尉とジョーカー軍曹との間に横臥(おうが)する、人間的感情の落差感に注目すれば、ジョーカーの自我の崩れ方の小ささが了解できるのである。

 自我を半壊することによって手に入れる、「フルメタル・ジャケット」という象徴的記号のうちに、「戦争における『人殺し』の心理学」についての映像的検証を見ることができるのだ。

(2011年6月)

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