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    4 日前

2011年1月2日日曜日

バベル('06)       アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ


<「単純化」と「感覚的処理」の傾向を弥増す情報処理のアポリア>



1  独善的把握を梃子にして振りかぶった情感的視座



モロッコで始まり、東京の超高層で閉じる物語。

モロッコに旅行に来たアメリカ人夫婦は、関係の再構築のために旅に出て、そこで難に遭う。

東京の超高層に住む父と娘は、関係の折り合いが上手に付けられないで、日々を遣り過ごしている。

その原因は、聾唖者の娘の母の猟銃自殺にあるらしいが、詳細は語られない。

モロッコのアメリカ人夫婦も東京の父娘も、その関係に被膜の壁を作っていて、それが簡単に打ち破れない境界になっている。

以上のような物語設定の映画だが、「Yahoo!」の映画解説では、「それぞれの国で、異なる事件から一つの真実に導かれていく衝撃のヒューマンドラマ」という風に、如何にも本作が訴求力の高い作品のように説明されていた。


そんな本作の主題は、単に情報伝達だけでなく、「感情交叉を含むコミュニケーション」の不足によって、私たちが呼吸を繋ぐ社会の中に「内的境界」を作り出すことで、様々な不幸を生み出しているというものだろう。

相互に思い遣る精神の喪失こそ、現代人が喪失した最大の瑕疵であるが故に、自己基準で生きるエゴイズムの超克こそ、現代人が復元せねばならない最大のテーマであるという把握がそこにある。

そして、その不幸が人類史的規模にまで拡大された「現代世界」の、厄介で解決困難な悲劇を分娩しているという独善的把握を梃子にして、大上段に振りかぶった情感的視座で押し出してくるのだ。

内面描写を捨てた映像が、主題の支配力によって長尺の物語を引っ張っていくには、登場人物たちを間断なく動かし続けることで、物語の緊張感を作り出すという短絡的なアプローチが全篇を通して垣間見えるのである。

それは、情感系の濃度の深い映像と睦み合うように、これが現代社会に生きる人間たちの圧倒的な喪失感であると、くぐもり切れずに感情投入し続ける作り手の、独り善がりな、ある種喰えない使命感の如き理念系が、最後まで騒ぎまくって止まない印象だけを捨てていく何かであった。


物語の中で動かされる登場人物たちの内面深くに、殆ど這い入ることのない映像を支配する主題の大きさが、一切を処理してくれるという短絡性である。

それが何より、私には気になるところだった。

これほどに大きな問題を扱うには、登場人物たちを動かし続け、号泣させれば、何か深淵で、深刻な人類史的なテーマを掬い取ることができるなどという、過剰な情感が其処彼処(そこかしこ)で捨てられるのである。

以下、本稿では、かくも喰えない映像に関わる本質的な部分のみに着目し、言及していきたい。



2  「単純化」と「感覚的処理」の傾向を弥増す情報処理のアポリア



そもそも、私たち人間は「選択的注意」(数多の情報群の中から、一定の情報を特定的に取り出して 認知すること)をしながら、情報を捕捉し、認知し、解釈している。

そのことは、「選択的注意」から洩れた厖大な情報群を捨ててきているか、それとも拾い切れない情報群をスルーしてしまうことを意味する。

インターネットユーザーの割合/青は先進国、オレンジは開発途上国、黄色は世界平均(ウィキ)

従って、私たちが、その時代状況下で摂取し得る情報量は、常に限定的である外はない。

インターネットがこれほど普及しながらも、私たちが手に入れる情報量は拡大的に増幅しつつも、それ以外の情報量も増えていくので、この情報摂取のゲームは本質的に鼬(いたち)ごっこにならざるを得ないだろう。

しかも、自分が手に入れた情報の真実性を保証する何ものもないのだ。

且つ、手に入れた情報とは無縁に、ジャンク情報も怒涛のように入り込んでくるので、それを処理する私たちの能力が追いつけない状況にある。

これが、情報社会に呼吸を繋ぐ私たちの、最も厄介な問題であるだろう。

それらの情報に対して知的に解析し、処理する過程が困難になっていくので、私たちの情報処理は、「単純化」と「感覚的処理」の傾向を弥増(いやま)さざるを得ないのである。

そのアポリアに、怪しげな陰謀論や、「これで世界を説明できる」などという独善的な解釈を押し付けてくる、「専門家」と称する者たちによる情報が侵入してくるので、今や、情報氾濫の中で、私たちの知的能力はどこかで「感覚鈍磨」していく危うさを持つだろう。

それでも私たちには、「分らなさ」と共存する不快感を解消したい思いが常にあるので、自分の感覚的・知的レベルにあった解釈を安直に手に入れることで、己が自我を安定させるに足る物語を繋いで生きている。

これはある意味で、グローバル化社会の宿命であると言っていい。

FTA(自由貿易協定)が結ばれている地域(ウィキ)
確かに、世界は狭くなった。

しかしそれは、決して世界を解釈したと信じる能力が飛躍的に向上したことを意味しないのだ。

実際のところ、有効な方略が入手困難な、途方に暮れるような時代状況下で、世界で9.11のように震撼する事件が出来すると、今にも同質のテロルが、自分の身の回りでも惹起しそうな不安が増幅していく。

詰まる所、今まで私たちが知らなかった世界の不幸の現実が、インターネット等を通して最近接してしまうので、どこかの国で起こった事件や、或いは、自国の近接ゾーンで惹起した陰惨な事件が、身近なメディアで繰り返し報道されることによって、いよいよ、「世界と人類が絶望的に荒廃していく」という感覚を持ってしまうのである。

これが曲者なのだ。

確かに、「スモールワールド現象」(身近な関係を繋いでいけば、世界中の者に辿り着くという仮説)のように、どこかで「繋がりの輪」を持っているかも知れないが、それによって現代世界で呼吸するる私たちの心が顕著に空洞化し、類を見ないほど荒廃していると断じるのは、あまりに飛躍的な見方であると言わざるを得ないのである。

―― 以上は、「映画文化」のフィールドに数多蔓延(はびこ)る、「勘違い監督」による「勘違い映画」を、またしても見せつけられた者が、その「勘違い映画」に投入された主題に関わる表現に対して感受した視座の一端である。



3  「言語交通」の不成立と、夫婦間の「内的境界」という問題が横臥して



ここから、本作のこと。

この映画の作り手は、1丁のライフル銃によって偶発的に起こった事件が、その事件に関わる人々を不幸に陥れ、それが事件と関与しない国の人々にもリンクする現実を持ちながらも、その情報の共有を持ち得ないが故に、メディア等を介して侵入する当該事件の情報を、どこの国でも普通に起こる出来事の一つとして処理し得る危うさの認知を、観る者に突き付けてくるのである。


偶発的に放たれた銃丸が惹起した一つの事件の怖さが、恰も世界をインボルブしているという問題意識によって、あろうことか、この作り手は、「感情交叉を含むコミュニケーション」の不足のみならず、途上国に住む人々への強権的治世や偏見の氾濫、経済格差の拡大的定着と言った諸問題に収斂される、現代文明世界で呼吸を繋ぐ人々の心の荒廃を嘆いているのだ。

この作り手は、来日記者会見で語っていた。

「基本的には、一番はじめにこの映画を作ろうという、その原動力となったのは、私が、一番はじめにこれを編集して一番強く感じたものなのですが、コンパッション、深い思いやり、哀れみの気持ちです(略)問題は、言葉ではなく、言語ではなく、そういう偏見ではなく、障壁というものを、私たちは自分の中に作ってしまっているんだと思う」(『バベル』"ジャパン"記者会見・2007年3月7日 ウェスティンホテル東京にて)

まるで、「深い思いやり、哀れみの気持ち」さえあれば、何もかも解決できるような口ぶりだが、私には寧ろ、このような「芸術表現者」の短絡性こそ問題であると考える。

果たして、世界は本当に危機なのか。

危機と言うなら、一体、世界が危機でなかった時代というのは存在したのか。

それは、いつの時代なのか。

人々が心を一つにして、抑制的に殺戮を躊躇する時代や社会が、本当に存在したのか。

「シャリーア」(イスラム法)に基づいて、今なお、「名誉の殺人」(「不貞」を働いた女性を、家族の名誉を守るために身内が殺害する風習)が正当化されている一部のイスラム圏の現実に対して、行動派の人権団体が問題視しなければ、恐らく多くの人々は、同時代の他国の隅々で繰り返されてきた「蛮行」の現実を知らなかっただろうし、或いは、先進諸国の形式的なクレームに配慮して、「石投げ刑」も減ることがなかったであろう。

確かに、物語の中で描かれたケース(モロッコ・シーン)を見る限り、それが、「感情交叉を含むコミュニケーション」の、円滑な遂行によって解決される問題であることは否定できない。


しかし、英語が通じないイスラム圏にアメリカ人夫婦が旅行し、そこで難に遭遇したとき、「感情交叉を含むコミュニケーション」が成立しないことによって、自分の心情を相手に伝えることは困難になることは、ある意味で当然過ぎることだ。

それは単に、「言語交通」(会話)の困難さが招来した問題であって、「感情交叉のコミュニケーション」の含みとは別の問題である。

「言語交通」の不成立は、「境界」の由々しき問題の一つであることは確かだ。

しかし、このモロッコ・シーンでの「境界」の問題には、「言語交通」の不成立と、夫婦間の「内的境界」という問題が横臥(おうが)している。

しかしそれは、どこまでも個別の関係での心的交流のレベルの問題であって、それ以外ではないのだ。


従って、モロッコ・シーンでのコミュニケーションの不成立の問題を、使用言語が異なるが故に、民族間に立ち塞がる「境界性」の問題のうちに還元しても殆ど意味がないことである。

なぜなら、それが変りようがない世界の普遍的現実であるからだ。

単に、運が悪かっただけに過ぎない中年夫婦がいて、彼らの夫婦関係の「内的境界」をも掬(すく)い取る一連のシークエンスは、異国の国に旅立った者が、眼の前の個別の〈状況性〉に合理的に対応することで、難局を乗り切っていく様を描いているに過ぎないのである。



4  「今、こここにある、個別の〈状況性〉」の「家族の構築力」の問題



以上の文脈において典型的なのは、「バベルの塔」をイメージさせる、東京の超高層の一画に住む、父娘が抱える「内的境界」のアポリアである。


そこに、たとえ聾唖者という「言語交通」を困難にするハンディを負った、些か尖った女子高生の問題が絡んでいて、且つ、そこに社会的差別が媒介したとしても、それは今や、「感情交叉を含むコミュニケーション」の喪失の原因子とされ、偏見の氾濫や経済格差の拡大的定着にリンクした、「悪」の記号というラベリングが張り付く、グローバル化社会の総体の問題に還元できるものではないはずだ。

母親を猟銃自殺で喪った父娘関係には、「自殺遺児」に関わる、「見捨てられ児のトラウマ」が濃密に絡む原因なのか、それとも聾唖者としてのハンディを負っていることが原因なのか、物理的に最近接しているにも拘らず、心理的関係において看過し難い「内的境界」が作られ、その障壁が少女の孤独感を深めている。

物語の中で、この少女が、「感情交叉のコミュニケーション」の喪失を最も実感する存在として人物造形されているのである。

少女の切望する、「感情交叉のコミュニケーション」の対象人格として造形されていたのが、警視庁の若い刑事であった。

その刑事に対する親和動機を直感的に感受したのか、アクティブな少女の性格が、少女を大胆な身体表現に駆り立てていった。

その唐突な行動に翻弄された若い刑事は、少女を心理的に受容することで、少女の自我にヒーリング効果を生み出した。


この効果が、その夜、父との「和解」を果たすことで、「希望」の括りのうちに、映像が閉じていくという訳だ。

それだけの話である。

それは、父娘が抱える、「今、こここにある、個別の〈状況性〉」の問題であって、基本的に、「家族の構築力」の問題以外ではないのである。

そこには、「感情交叉のコミュニケーション」の喪失の問題が介在されているだろうが、偏見の氾濫や経済格差の拡大的定着にリンクした、「汎人類史的テーマ」などという大袈裟な問題とは殆ど無縁であると言っていい。


他にも指摘したい点が多くあるが、以上の例で充分だと考えるので、本稿の目的が情感的な「糺弾」にはないので止めておこう。

いずれにせよ、何もかも無理があるのだ。


―― 最後に、これだけは書いておこう。


本作の作り手は、「深い思いやり、哀れみの気持ち」が大切だと言う。(画像)

当たり前のことだ。

それを否定する者は誰もいないだろう。

ところが、仔細な視座で把握した本作の内実を要約すれば、「深い思いやり、哀れみの気持ち」の不足によって生じる、「言語交通」の困難さや「内的境界」の問題を、現代のグローバル化した世界のうちに舞台設定して描いた、現代ムービーの流行の表現技巧のカードの一つであるに過ぎないのだ。

それを、「刺激的描写」を適度に挿入させるハリウッド的手法に依拠し、深刻ぶった筆致で流し切っただけの、「初頭効果」(第一印象の影響力の強さ)のインパクトで勝負した凡作に過ぎぬ。

この程度の映像構築を露呈したことを誇る、そのズブズブのナルシズムには閉口するが、少なくとも、「人間の愚かさ・脆弱さ」の不変性の故に、いつの時代でもそうであり、なお変り得ないだろう、世界に遍く立ち塞がる様々な「境界」の問題に対して、何ら問題提起したことにはならないことを認知すべきである。

「深い思いやり、哀れみの気持ち」が〈状況性〉の只中で、本来的な意味を内包させつつ、時空を心地良く循環するには、それが形成され得るに足るだけの条件があるということだ。

そしてそれは、どこまでも個別の関係の中で具体的に表現提示されるもの以外ではないのだ。

「深い思いやり、哀れみの気持ち」を伝えられない「距離」という由々しき問題が、私たちの世界には存在するということである。

この現実を知的視野に捕捉することなく、「深い思いやり、哀れみの気持ち」という、欺瞞的な情感言語で世界が変えられると感受するのは、殆ど究極の錯誤の下降点と言っていいだろう。

それはまさに、前述したように、「選択的注意」のトラップにインボルブされたかのような、人間の「認知の限界性」に無知なる者に張り付く、ズブズブのナルシズムを推進力にした主観の暴走なのだ。

最後に、もう一度書く。

内面描写を捨てた映像が、主題の支配力によって長尺の物語を引っ張っていくには、その冒険に耐え得る表現者の、深い人間理解に基づく洗練された感性的・知的武装というものが切に要請されるだろう。

その覚悟なしに作られる情感言語の氾濫に拠った、狭隘な感覚的表現の垂れ流しだけは勘弁してもらいたいものだ。

そう思った。

(2010年1月)

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