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    2 か月前

2010年12月20日月曜日

戦場にかける橋('57)        デヴィッド・リーン


<予測困難な事態に囲繞される人間社会の現実の怖さ>


1  本作への様々な対峙のスタンス



まず、書いておきたいのは、この映画を批評する際に、史実との乖離とか、日本軍の「武士道精神」を体現したとされる斉藤大佐の描き方や、「人間らしく生きることが一番簡単なのだ」という信条を持って、収容所を脱走するアメリカの将校(階級詐称していて、実は二等水兵)の描き方の甘さとか、或いは彼らの描き方が、本作で「騎士道精神」を体現したとされる英軍将校との比較において不公平などという狭隘な見方は、初めから捨てた方がいいということだ。

史実との乖離については、特段に文句をつけるような事柄ではないだろう。

と言うのは、ラストでの橋梁爆破のシークエンスの導入によって、初めから史実に則った映画ではないことが明瞭であるからだ。

あくまでも本作は、デヴィッド・リーン監督が、この作品以降、その映像表現の中枢の主題に関与するようになった文脈、即ち、歴史的時代状況の大きな流れの中に呼吸を繋ぐ者たちの、それぞれの人生の振れ方を描き切った一篇であると見るべきだからである。

勿論、多くの鑑賞者が褒め称(そや)すような「反戦映画」のカテゴリーのうちに、本作を包含するのは一向に構わないが、私は必ずしもそのようなカテゴリー分けに与しない。

本作には、様々な対峙のスタンスがあっていいのである。

以下、私の対峙のスタンスについて簡潔に言及したい。




2  「利敵行為」よりもプライオリティが高い「奴隷に身を落とさない」生き方




拠って立つ価値観や置かれた立場が異なり、科学技術の習熟度や、それについての把握が異なる「異文化」の中枢に、「クワイ河マーチ」のメロディに乗って軽やかに行進しながら、自分の意志とは無縁に放り込まれた英軍将校とその一隊が、人生に対する基本的価値観や置かれた立場の相違によって、相互理解困難な葛藤や対立の中で、そこだけはほぼ万国共通の「男の美徳」、即ち、「信念を変えない意志の強靭さ」や「類希な勇敢さ」を身体表現することで、葛藤や対立の原因子の表層を除去し、「英雄の立ち上げ」を可能にした。

この「英雄の立ち上げ」の推進力によって、課題の解決困難な「大事業」を、科学技術の習熟度の粋を駆使して遂に成し遂げ、そこに「立ち上げられた英雄」は、「英雄の完成」の域にまで上り詰めていった。 (画像は、舞台となったクウェー川鉄橋)

しかし、「英雄の完成」は、歴史的時代状況の流れとの間に微妙な落差を生み出していく。

それは既に、「英雄の立ち上げ」以降の、「英雄」の「信念」の中に包含されていたものである。

従って、「大事業」の遂行によって成った「英雄の完成」は、同時に、微妙な落差を生み出していた歴史的時代状況の流れの中で、「英雄の崩壊」を必然化させていたと言っていい。

これは、デヴィッド・リーン監督が5年後に発表する、「アラビアのロレンス」という稀有な大作と殆ど同じ物語構造であると考えられる。

即ち、本作で「信念を変えない意志強靭さ」や「類希な勇敢さ」を身体表現した英軍将校であるニコルスン大佐は、「アラビアのロレンス」とほぼ同様の人生の振れ方を示したと見ていいだろう。

ニコルスン大佐(画像)は、「アラビアのロレンス」だったのだ。

ここに、興味深い会話がある。

それは、ジュネーブ協定違反であるとして、頑として、捕虜将校の労役従事を拒否したが故に、強烈な照射を浴びる重営倉に監禁されながら、生命を賭して耐え抜いたことで解放されるに至ったニコルスン大佐が、「英雄の立ち上げ」を身体表現した結果、科学技術の粋を誇る英軍部隊がイニシアティブを取って、橋梁建設に向かう態度を示した際の、ヒューズ大佐らとの将校同士の会話である。

「こっちの能力と、英軍の実力を彼らに見せよう」とニコルスン大佐。
「では、あなたは本気で橋を作ると?」
「今頃、分ったのか。兵隊には、目標が必要だ。それがなかったら、我々が作り出す。目標ができたからには、真剣にやれ。兵隊には、自分の仕事に誇りを持たせることが肝心だ」

これが、ニコルスン大佐の確信的返答だった。

彼は、「英軍の実力を彼らに見せる」ことと、「兵隊には、自分の仕事に誇りを持たせることが肝心だ」という理由で、明らかに「利敵行為」である橋梁建設を引き受けたのである。

これに関しては、軍医であるクリプトンとの会話の中でも拾われていた。

「敵を利する行為では?」

橋梁建設を引き受けたことに驚きを隠せない、クリプトン軍医の素朴な疑問だった。

「後世に、この橋を渡る人々は思うだろう。それを作った英軍は、囚われの身でも奴隷に身を落とさなかったことを」

これもまた、ニコルスン大佐の確信的返答だった。

彼の中には、「利敵行為」よりも、「囚われの身でも奴隷に身を落とさなかったこと」の方がプライオリティが高いのだ。

そして、ニコルスン大佐が実質的にイニシアティブを取る会議が開かれ、そこで彼は、日本人のノルマを増やし、英兵と同じ2ヤードにして競争させるという提案をした結果、ビルマ・タイ国境近くに位置する、日本軍捕虜収容所を仕切る斎藤大佐の承諾を得るに至る。

「橋の工事は間に合うか?」と斎藤大佐。
「無理だがやるしかない」とニコルスン大佐。

その会議での、領袖同士の短い会話である。(画像)

以降、「遺書」まで認(したた)め、腹を括った斎藤大佐から、言語表現が殆ど消えていく。

この辺りまでは、ニコルスン大佐の行動傾向には、彼の信念に裏付けられた確固たる意志が垣間見えていた。




3  予測困難な事態に囲繞されている人間社会の現実の怖さ





課題の解決困難な「大事業」を、科学技術の粋を駆使して成し遂げたことで、「英雄の完成」のピークアウトに達した男は、いつしか「異文化理解」の困難さを幾分克服しつつあった、収容所長の斉藤大佐に独白するシーンがあった。

「明日は軍隊に入って28年目だ。平和と戦争の2年の間、国にいたのはせいぜい10カ月だ。だが良い人生だった。私はインドが好きだ。だが時々、人生の終わりに近づいていることに気づく。そして私は、自分に聞く。私の人生は何だったのか。私の存在が何かにとって少しでも意義があったかと。殊に、他の人の人生と比べてみる。健康的な考えではないが、正直なところ、そういうことを考える事が時々あった。しかし今夜、やっと!」

心から充足する、ニコルソン大佐の穏やかな口調。

橋梁が完成した日だった。

明らかに、ここで垣間見せるニコルスン大佐の内面世界は、「英雄の立ち上げ」前後に身体表現した文脈との、微妙な乖離が読み取れるのである。

即ち、外交という政治の延長としての戦争と、英帝国軍人である〈現在性〉から離脱した男が、そこにいるのだ。

従って、英軍の特殊工作班のリーダーであって、橋梁爆破を画策するプロフェッショナルな英帝国軍人である、ウォーデン少佐との対立の構図を、そこで露呈してしまうのだ。

このような矛盾を抱え込む事態が臨界点に迫ったとき、最早、「英雄の完成」のピークアウトに達した男の崩壊が必然的であることを、この濃密な人間ドラマは検証したのである。

「英雄の立ち上げ」→「英雄の完成」→「英雄の崩壊」という流れが、そこにある。

それは、後の「アラビアのロレンス」のそれと、殆ど同じ物語構造を持つと言えるだろう。

外交という政治の延長としての戦争と、現役の軍人であり続ける〈現在性〉から離脱した男は、「アラビアのロレンス」がそうだったように、最後には自らの情感系の突出によって離脱した〈状況性〉から、「自爆」という「反戦」イメージの濃密な〈表現性〉のうちに屠られるのだ。

思うに、デヴィッド・リーン監督は、一貫して「英雄」の無前提な提示を映像化することを拒んだ作家だった。

英軍将校の華々しき「英雄」譚に簡単に流さない、デヴィッド・リーン監督の思いが読み取れずして、この映画を把握することは困難だろう。

それでも、ニコルスン大佐が斉藤大佐に吐露した思いには、深い人間ドラマの様態が結実していた。

このような映像を構築する、デヴィッド・リーン監督に脱帽するしかない。

「アラビアのロレンス」と同様に、歴史と人間の関係様態を捕捉する映像作家の、この客観的態度こそ、何より最高の達成点だった。

不可欠な登場人物の、不可避なエピソード挿入の補完による、深い人間ドラマの奥行き―― これを表現するために、激しく移ろいゆく歴史時代状況を背景にするデヴィッド・リーン監督の映像が、常に長尺になることを改めて確認した次第である。

ここに、その文脈にも関与する、一つのエピソードを紹介する。

それは、橋梁爆破を画策するプロフェッショナルな英帝国軍人である、ウォーデン少佐が思わぬ怪我で任務の遂行に支障をきたすと判断し、米軍脱走兵のシアーズ中佐(実は二等水兵)にリーダーの変更を求める会話である。

以下の通り。

「置いて行け。命令だ。今度は君がリーダーだ」とウォーデン少佐。
「俺は従わない。君は疫病のように死の影を引き摺っている。爆薬か、毒薬か。爆破か、自殺か、二つに一つだ。ニコルソンと同じように勇気という言葉に酔い痴れ、死に方のことしか考えていない。人間らしく生きることが一番簡単なのに」

シアーズ中佐の、個人主義的価値観が最も表現されていたエピソードである。

同時に、このエピソード挿入によって、橋梁爆破という困難な任務を負った、英軍の特殊工作班の使命感と、それを遂行できないジレンマが描かれていて、とても興味深かった。

然るに、このエピソードで重要なのは、既に、橋梁爆破という困難な任務が頓挫する危険性を、観る者に予見させるイメージ以外の何ものでもなかった。

ここで、ラストシーンの持つ意味の大きさを考えて見たい。

人間がその能力の臨界点の辺りで、困難な任務やテーマを遂行しようとするとき、常に当初より計画され、万全の準備を整備したとしても、必ずしも、思い通りの成果を獲得できないという現実の厳しさ ―― それこそ看過し難い把握なのである。

人間の行為は、絶えず予測困難な事態に囲繞されているということだ。

「局外者だから、高い所から見物する」と言って、〈状況性〉との距離を保持するクリプトン軍医が、   「Maddness!」と叫んだ含意には、当然「反戦」メッセージが仮託されているだろうが、私にはそれ以上に、人間の行為が当初の思惑や予測を裏切り続ける脆弱さを、本質的に抱えていることを表現した括りであったように思えるのである。


最後まで客観的なクリプトン軍医の視線こそ、作り手の視線であるだろうと思わせるに足る、当のデヴィッド・リーン監督は、人間が理解できている。

人間の脆弱さを、正確に把握している。

そう思った。

大体、人間社会は「最悪の事態」を想定しても、それを上回る「最悪の事態」が惹起されてしまう、そういう予測困難な怖さを内包している社会なのだ。

だから、脆弱なのである。

信じ難きほどに、私たちが誇る能力などは脆弱なのだ。

デヴィッド・リーン監督(画像)が、そう言いたいのか否かについては全く不分明だが、これは少なくとも、ラストシーンの含意を私なりに把握する感懐である。


それ故、化石と化したイデオロギーに拠って立つ者が、脳天気に断定する言論の一切を信じない私のスタンスでもある。

余計なことだった。

(2010年12月)

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