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    2 週間前

2011年5月6日金曜日

過去のない男('02)     アキ・カウリスマキ


<温もりのある〈生〉の確かさを再現させたお伽話>



 1  温もりのある〈生〉の確かさを再現させたお伽話



  記憶は、「情動」、「意識」、「認識」、「運動制御」と共に、脳の5大機能の一つとされている。

 「記銘」、「保持」、「想起」という、3つのステージから成立する記憶の重大な機能が、何某かの原因によって、「喪失」するという事態に陥ったらどうなるか。

 それが、過去の記憶を一切失うという記憶喪失になった場合、少なくとも、身体が学習した記憶ではなく、自分が誰であり、どこにいて、どのように生きてきたかという、「エピソード記憶」に関わる喪失であるならば、自我のルーツと〈生〉の軌跡を、同時に失うという由々しき事態に陥ったことを意味するだろう。

 自我のルーツと〈生〉の軌跡を失うということは、「自己像」の喪失をも意味するのだ。

 だから、喪失した過去との繋がりにおいて、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つ、「日常性のサイクル」(私の仮説)によって成立する人生の継続が不可能になることをも意味するのである。

 それ故に、自我の拠って立つ安寧の基盤を求められず、空洞化した「自己像」を構築させるに足る十全な時間をも崩されてしまっているのである。

「メメント」より
クリストファー・ノーラン監督の「メメント」(2000年製作)を観れば判然とするように、それ程、深刻な事態である「記憶喪失」の問題を基幹的テーマに据えた、リアリズムの社会派的映像として描くことなく、本作は寧ろ、「過去のない男」の「現在の〈生〉」と、そこから新たに開かれる、「未来の〈生〉」の再生の問題として、いつものように、オフビートの漂流感に乗せながら、そこからでも構築し得る、温もりのある〈生〉の確かさを再現させて見せるのだ。

 だから、これはお伽話になった。

 その極め付けのお伽話を、簡単にフォローしていこう。



 2  港湾の貧民地区の連中の強かさ



 強盗に襲われ、瀕死の状態で病院に運ばれた一人の男。


 脈拍が停止して、「植物状態になるなら死なせてやろう」と医師に宣告された、その男が突然、病床から起き上がり、折れた鼻を元の状態に戻して、アンドロイドの如く蘇生するのだ。

 既に、この設定自身が充分にお伽話であった。

 それは、「過去との決別した男の、その後の人生の希望の可能性」をテーマ化している物語のマニフェストと言っていい。

 ここから、事件によって記憶喪失した「過去のない男」の、「現在の〈生〉」のエピソードを拾ってみよう。

 港湾のコンテナを改造した、粗末な家の厄介になった「過去のない男」の生活が開かれた。

 「ありがとう」と男。

 無論、「名」がない。

 「話せるのね」と奥さん。

 港湾の貧民地区の水辺で倒れていた、行き摺りの男を保護した、コンテナ・ハウスの女房との会話である。

 「今まで話すべきことがなかった。親切な人だ」と男。
 「さあ、どうかしら。恵まれているのよ。住む所も、夫に職もあって・・・仕事は?」

 コンテナ・ハウスを「住む所」と言ってのけたり、僅かな勤務の夜警の仕事を「夫に職もあって」と言ってのけたり、等々、その強(したた)かさは筋金入りである。

 それでも、そのコンテナ・ハウスの亭主は、「過去のない男」に「人生は前にしか進まない」と、一端(いっぱし)の人生訓を垂れるのだ。

アキ・カウリスマキ監督
この人生訓に込められたメッセージこそ、本作の基幹テーマを収斂させるものだが、それをコンテナ・ハウスの亭主に語らせるところが、如何にもアキ・カウリスマキ監督らしい物語の世界であった。

 今度は、コンテナ・ハウスの亭主と「過去のない男」との会話。

 男の過去を尋ねる亭主に、男は無表情に一言。

 「分らない」
 「と言うと?」
 「頭を打たれたせいで、自分が誰かも分らない」
 「そんな・・・気の毒に」
 「コーヒーでも飲む?」
 「いや、いい」

 一貫して、無表情で答える男。

 「過去のない男」に、ビールを奢る男はコンテナ・ハウスの亭主が先に放った、「人生は後ろには進まん」という台詞に象徴されるように、いつまでも「不幸」を引き摺ってみたところで、「時が後ろに進むことはない」と、作り手もまた、自戒する者のように語って止まないのだ。

 「金曜だ。ディナーに行こう」

 コンテナ・ハウスの亭主が、「過去のない男」を誘うが、何と二人が向かった先は、救世軍の炊き出しの現場。

 港湾の貧民地区の連中の強(したた)かさは、ここに出て来る「住人」たちに共通するメンタリティなのである。

 「金は払う。死と同じで確かだ」

 これは、港湾地区の私有地の警備員の男。

 貪欲な警備員は、コンテナ・ハウスの「家賃」を「過去のない男」から納めさせることになった。

 「警察で何を聞かれても、俺は知らないふりをする」

 「暗黙の契約」でコンテナの「家賃」を取りに来た男は、1週間の出張のため、「ハンニバル」(食人鬼)という雑種犬の世話を「過去のない男」に命じたが、その手荒さは、胸倉を掴んでの恫喝によるもの。

 「手なずけてみろ。今度こそ咬み殺す」


 ところが、この「ハンニバル」がメスだったため、逆に、「過去のない男」に懐(なつ)くというオチがつくのだ。(画像)

 以上のように、港湾の貧民地区に蝟集(いしゅう)する連中の強かさは、尋常ではなかったという話の一端だった。



 3  「過去を捨てた男」に変容した、「過去のない男」の予定調和の物語



 こんなエピソードを繋いだ先に待機していたのは、「不幸の後の幸福」


 「過去のない男」は、救世軍の女性イルマに心を惹かれ、いつしか二人の孤独な心は通じ合い、初めてのデートにこぎつけた。

 「見違えたわ。浮浪者は卒業ね。よかったら事情を話して」

 これは、「過去のない男」が服を与えられ、フィッティングルームで着替えた際のイルマの言葉。

 「その前に、名前を教えてくれ。他人に身の上話をするのは恐いんだ」
 「イルマよ」

イルマ(左)
ここで、二人は初めて自己紹介。

 と言っても、男には名前がないので、「イルマ」という固有名詞を、「過去のない男」が知っただけ。

 そして、今度は本格的なデート。

 「昨日、月へ行った」と男。
 「どうだった?」と女。
 「静かだった」
 「誰かいた?」
 「いいや、日曜だ」
 「だから、戻ったの?」
 「理由は、もう一つある」

 男はそう言って、女の顔をまじまじと見た。

 女への愛の告白なのだ。

 「本当に、何も覚えてないの?」

 男は、幾つかの記憶の断片を話すだけ。

 「この頃、行動的ね。生き生きしているわ」

 これは、夜のドライブに誘われた女の言葉。

 「気力が出てきた。君のお陰だ」


 
相変わらず無表情な男の言葉だが、そこには「現在の〈生〉」を生きているという実感がこもっていた。

 主人公がバーで飲んでいるシーンで、壁にマッティ・ペロンパーの写真が飾っていたが、それを大きく映し出す構図には、病死によって夭折した「同志」へのアキ・カウリスマキ監督の深い思いが読み取れる。

 ここから物語は、「起承転結」の「転」と「結」に「劇的」に反転していく。

 簡潔に要約する。

 偶然、倒産間際の小さな銀行に押し入った強盗に関与した「過去のない男」は、その顔が新聞に載ったため、男の身元が判然とするに至った。

 「過去のない男」の妻から連絡があり、過去が判明した男が「再会」を果たした妻には、既に若い愛人がいて、男の入り込む余地が全くなかったが、それは彼の望むところでもあった。

何より「僥倖」だったのは、男は妻との間に離婚が成立していたのだ。

 そして、予定調和のラストシーン。

 言うまでもなく、再びヘルシンキに戻った男が目指すのは、イルマのもと以外ではなかった。

 「過去のない男」は、自らの意志で「過去を捨てた男」に変容したのである。



 4  「お伽話」の温(ぬる)さとの折り合いの悪さ



 未払いになっている給料を従業員に支払うために、銀行強盗を働く男のエピソードに象徴されるように、 「下層階級」に対する、これ程までの共感を映像化したアキ・カウリスマキ監督による本作の評価が、偏(ひとえ)に「好みの問題」に還元されるという典型的一篇。


思えば、フィンランドという国は、「ノルディックバランス」という重要な概念があるように、ソ連との危うい関係も手伝って、資本主義経済圏に属する傍ら、外交面では共産圏に近く、この微妙な国是によって独立自尊の下、長く平和を維持してきた歴史の故、内政的には社会主義的な体制を採用してきた。

 そんな歴史的・政治的風土を持つフィンランドという国にあって、淡々とした日常性を繋ぐ「下層階級」のコミュニティの映像化に多大な関心を持つ作家的感性が、本作の映像宇宙で展開されたオフビートの物語に昇華されていくのだろう。

 本作の主人公である、「過去のない男」の「現在の〈生〉」は、「下層階級」に寄り添うことで、「下層階級」の熱量を「同志」感覚で自給させ、常に「倍返し」の報酬を得られるのだ。

 まさに、温(ぬる)い映画をこそ求める、今日の我が国の需要に叶ったオフビートの漂流感覚が、そこにあるのだろうが、「母なる証明」(2009年製作) のように、存分に重量感のあるリアリズムの映像に惹かれる私には、毒気溢れる「マッチ工場の少女」(1990年製作)の辺りまでが、アキ・カウリスマキ監督との付き合いの限界だった。

 もはや、極め付けの毒気を感受させないアキ・カウリスマキ監督の映像宇宙は、「徹底したミニマリズムのシンプルさ」を貫徹するだけの、単なる「オフビートの巨匠」でしかない。

 
フィンランド・南東部の風景(イメージ画像・ウィキ)
本作において、詰まる所、物語の序盤で軟着点が読解できてしまうので、あとは、その個性的な映像宇宙をまったりと愉悦する懐(ふところ)を持ち得るかという、その一点に委ねられる「心地の濃度」の触感の問題に過ぎなくなっていくのだ。

 「趣味の悪い映像作家」とは言えても、さすがに「稚拙な映像作家」と見下すつもりは毛頭ないが、美男、美女を登場させないリアルさで大いに振れていたものの、既に「好みの問題」で決着をつけた私にとって、アキ・カウリスマキ監督の作品は、今や、本腰を入れて批評する自給熱量を持ち得なくなったということである。

 今の私には、「お伽話」の「分りやす過ぎる映画」と付き合っていく余裕がないのだ。

 「お伽話」の温(ぬる)さとの、許容値を超える折り合いの悪さに耐えられないからである。

 そんな本作の種明かしをすれば、あまりに単純明快なこと。

 記憶喪失によって、自我のルーツと〈生〉の軌跡を失った男が、溶接技術を忘れていなかったように、身体が学習した記憶が生き残されていても、最も肝心な「エピソード記憶」を削り取られてしまった以上、かつて夫婦であったに違いない美人の奥さんの元に、「離婚した元夫の生還」による、「愛の復元」などという奇跡譚は成立しようがないのである。

 従って、美人妻の愛人と決闘する必然性など起こりようがないのだ。

自我のルーツと〈生〉の軌跡を失った男には、記憶喪失によって開かれた「自己史」以降に累加された、新しい人生の航跡だけが全てであって、そこにどのような彩りを添え、温もりのある生活を構築するに足る、鮮度の高いプランに身を委ねていくかということによってしか、人生の再構築は形成し得ないのである。

 だから「過去のない男」が、「過去を捨てた男」に変容するのは必然的だった。


 「過去を捨てた男」は、カウリスマキ映画の常連である、カティ・オウティネン扮する救世軍の女と結ばれ、男に近接し、その周囲をマイペースで囲繞する、「下層階級」との者たちとのヒューマンな交叉を愉悦していくしかないということだ。

 まさに、コンテナの亭主が言ったように、「記憶がなくても心配ない。人生は後ろには進まん。進んだら大変だ」という、二度目の人生構築をポジティブに起動させる以外にないのである。

 本作は、「禍福(或いは、「吉凶」)は糾(あざな)える縄の如し」という故事のように、「幸不幸は、まさに表裏一体の関係にある」ということを言っているのだ。

 記憶喪失という不幸があっても、「今、ここからの人生」こそが緊要であるということだろう。

 大して面白くもない「ユーモア」を挿入する、この種のエピソードをごまんと満載した本作は、その種の「ユーモア」や「ウィット」が欠落していると断じる、エゴの塊の「上層階級」と対極にあって、近くの電柱から電気を引っ張る、電気業者の無償のサービスのエピソード(注)に代表されるように、マイペースで愚かながらも、「相互扶助」のコミュニティを形成する「下層階級万歳!」をオフビートの漂流感のうちに塗り込めた、ただそれだけの映画だった。

マッティ・ペロンパー
マッティ・ペロンパーへの、作り手のグリーフワークの自己完結点のように見えるからか、思いの外、感傷的な映像構成であったことが、私の心証をより悪くした事実をも書き添えておく。


(注)「礼には何を?」と「過去のない男」。「俺が死んだら情けを」と電気業者。

 これだけの会話である。私には、そこに個人差があることを承知で書くが、この種の作り物の会話の面白さが全く分らない。何の変哲もない「日常性」から自然に滲み出る「ユーモア」を描いた、成瀬巳喜男の映像宇宙を偏愛する私にとって、センスの片鱗も見られない作り物の会話の中から、思わず頬を緩めるような「ユーモア」を汲み取ることは困難だった。それもまた、「好みの問題」ということになるだろう。

(2011年5月)

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