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2011年7月22日金曜日

マルホランド・ドライブ('01)     デヴィッド・リンチ

<ゲーム感覚で「読解」の醍醐味を味わう「知的過程」を相対化する戦略的表現宇宙>



  1  局面防衛戦略としての摩訶不思議な「夢」の世界への脱出行



 「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つ、「日常性のサイクル」の継続力が、ほんの少し劣化し、それを自家発電させていく仕事のうちに気怠さが忍び寄ってくるようなときに、束の間、「非日常」の、一種、蠱惑(こわく)的な魔性の時間と戦略的に遊ぶことで手に入れた潤いによって、自給熱量を復元させることが間々ある。

 デヴィッド・リンチ監督の一連の作品には、恐らく、些か乾いた心に、この種の潤いをもたらす効果があるのだろう。

 「ストレイト・ストーリー」(1999年製作)のオーソドックスなヒューマニズムとは切れて、再び先祖返りしたような本作の構築力の高さは、観る者に一度観たら忘れない独創的な表現宇宙の魅力に充ち溢れていて、難解な内容の謎解きというゲーム感覚のレベルを越えた映像総体のうちに検証される何かだった。

 フロイトの夢分析まで含めた抑圧的意識、不安や希望の顕現や、数多の情報の処理機能。

 これが、未だに科学的に解明し得ない「夢」の世界の、摩訶不思議な内実である。

 その摩訶不思議な世界に決定力を付与しているのは、何より、それが人間の自我によって自在にコントロールし得ないという一点にあるだろう。

 だから人間は、「夢魔」にしばしば拉致され、様々に情感的攪乱を受難するに至る。

 と言っても、それはガードレールクラッシュを経験した12年前の悪夢によって、「夢」を見るのが怖くなった私自身の、その固有の感懐に集中的に表現される世界であるに違いない。

 
この「夜の果てへの旅」は、どこまでも続く、恐るべき「夢魔」のゾーンであり、それは紛れもなく、「日常の中に巣食う非日常」の違和感以外の何ものでもないのだ。

 然るに、それは、「日常の中に巣食う非日常」の破壊力が増幅した「夢魔」から「生還」したときの、「ほんの少しの安堵感」の価値を実感させるための相対化戦略であった。

 そう思うことによってしか、厄介なる、私の「日常性のサイクル」の継続力が保証されないのである。

 しかし、「現実」と思しき世界が、「夢魔」のゾーンと等価なものでしかないならば、その「現実」と思しき世界からの脱出への躙(にじ)り口を抉(こ)じ開けて、束の間、「シンデレラ・ストーリー」という妄想が詰まった摩訶不思議な「夢」の世界に、その身を預ける思いは局面防衛戦略として有効であるだろう。

 そこは、人間の自我によって自在にコントロールし得ないが故に、運が良ければ、切望して止まない希望の顕現を風景化してくれる可能性を持つからだ。


 まさに、本作のヒロインの局面防衛戦略は、彼女なりに成就したのである。




 2  「予定不調和」の究極の悲哀を炙り出していく映像の決定力



 虚飾と頽廃の象徴としての「ハリウッド」で夢を叶えたレズパートナー(カミ―ラ)を殺害した後、ハリウッドで夢を砕かれた女が自死(?)するに至るという、羨望と嫉妬、裏切りと復讐の心理を基本骨格にした、本作のヒロインのドロドロの愛憎劇を見るとき、「叶えられなかったシンデレラ・ストーリー」が、自罰によっても解決し得ない「夢」のうちに執拗に再現され、そこで暴れて止まない心情の劇的な炸裂として、「予定不調和」の究極の悲哀を炙り出していく映像の決定力は、単に、「夢」をフル稼働させた物語構成の「初頭効果」のインパクトの次元を突き抜けていたであろう。


 それは、ラストを20分に待機していた、「現実」と思しきシークエンスとの圧倒的落差よって、ヒロインであるベティ=ダイアンの心情世界にべったりと張り付く、「破れ去りし者の究極の地獄巡り」の様態を、否が応でも増幅させる高度な表現力を検証し切ったという一点にあると言っていい。

 本作は、ヒロインの「夢」をフル稼働させた物語構成の「初頭効果」のインパクトをも存分に呑み込むことによって、ヒロインのジルバ大会での地元優勝という冒頭のシーンから、攪乱し続けた果ての結末的なイメージを提示することで、観る者に、それ以外にない「余情」を保証し切ったのである。

 ハリウッドの虚飾の世界を剔抉(てっけつ)した、ビリー・ワイルダー監督の「サンセット大通り」(1950年製作)の毒素の濃度をマキシマムに高める映像の凄みは、絵画的な構図の精緻さにおいて一級の完成度のうちに顕示されていた。

 デヴィッド・リンチ監督は、今や、他に比肩されるべき映像作家の存在を、悉(ことごと)く周回遅れにさせてしまったようだ。

 映像に結ばれる個々の構図が、既に独立系の価値を持ち、それらが、ドロドロの愛憎劇を希釈化する、「現実」と思しき世界からの局面防衛戦略のシュールな展開のうちに収斂させる技巧を開いて見せたのだ。



 3  ゲーム感覚で「読解」の醍醐味を味わう「知的過程」を相対化する戦略的表現宇宙



 ヒロインの「夢」の中で錯綜し、氾濫していた情報は、ざっと思い浮かべると、以下の通り。

 「殺害依頼の成就を意味する青い鍵」、「殺し屋の過剰な暴走」、「シンデレラ・ストーリーという妄想をイメージする白い煙と死のイメージ」、「『異界の劇場』と思しきクラブ・シレンシオ」、「カミ―ラの交通事故死という殺害(?)」、「『愛憎劇の和解』(?)を歌う泣き女」、「殺害依頼のスポットで視線を合わせた男の記憶の残像が惹起した、ファミリーレストランの『ウィンキーズ』での黒い相貌のフリークス」、「レズパートナーとシンデレラ・ストーリーを剥奪した、アダム・ケシャーへのリベンジを意味する彼の受難」、「夢破れたヒロインの自死(?)=女の腐乱死体」等々。

そして恐らく、そこだけはリアリティが被されているだろう、羨望と嫉妬、裏切りと復讐の心理を推進力とする、「ダイアンのカミ―ラ殺し」と、「シンデレラ・ストーリー」をレズパートナーに奪われた挙句、パートナーを呆気なく代えたさまを、自分に見せつける行為の鈍感さに張り付く、女の「支配感覚」の自己顕示への破壊情動こそが、ダイアンの復讐の基本モチーフになっていたであろうということ。

 しかし、この辺りについても確信的に言い切れないところが、この目眩(めくる)めく訴求力の高い表現宇宙の力技を感受せざるを得ないのだ。

 このことは、ゲームの如き謎解きにのみ収斂させる、訳知り顔の「読解」の末梢性を相対化する、作り手からの痛烈な一撃になるだろう。

 要するに、「知的過程」を梃子にして、映像総体を「解読」しようとする者たちの理性的視座を攪乱させること。

 それこそが、妄想と倒錯の「非日常」の世界を、一貫して自己基準で遊泳するリンチ監督の映像の戦略なのだ。

 私にとって、最も印象的なのは、「『異界の劇場』と思しきクラブ・シレンシオ」のマジシャンの突き抜けた言辞である。

「楽団はいません。これは全部、録音したものです。ここに楽団はいませんが、演奏は聞こえます。クラリネットを御所望なら、ほら、」

 そう言って、クラリネットを演奏する音を流す「異界の劇場」。

 更に、トランペッターをステージに出して、演奏させるが、肝心のトランペットを手から離しても、演奏が聴こえることを証明してみせたのである。

 「楽団はいません。これは全部、テープです。オーケストラはいない。これらは全てまやかしです!」

 トランペッターが演奏していると信じている振舞いを、「現実」と安直に信じることの空虚さを、このマジシャンは言い放って見せたのだ。

 これは、「『異界の劇場』と思しきクラブ・シレンシオ」のマジシャンが、恰も、疎(まば)らな観客の中の二人の女(ダイアンとカミ―ラ)を、特定的に指定したかの如く放った言葉。

 「一切は幻想なのだ」

 そう言いたいのだろう。

 要するに、観る者が、ゲーム感覚で「読解」の醍醐味を味わう「知的過程」を相対化してしまうのだ。


 デヴィッド・リンチ監督の人生観が、この言葉の中に投影されていると見るのは自然である。(画像はデヴィッド・リンチ監督)

 同時に、デヴィッド・リンチ監督は、ゲーム感覚で「読解」の醍醐味を味わおうとする「知的過程」を相対化してしまうことで、映像総体のうちに情感的に分娩される、二人の女性のドロドロの愛憎劇という物語の基本骨格から眼を逸らすなと言いたいのだろうか。

 ともあれ、様々な「謎解きの因子」の主要なものは、「よう、彼女、起きる時間だぞ」というカウボーイ(「夢の剥奪者」=死神?)の言葉によって開かれた、ラスト20分の、「夢の自壊の現実」(?)と思しきシークエンスの中で、物語が舞台演劇だったことを暗示(?)するラストカットでの、女性の「静かに」という一言を含めて、観る者なりに自在に解釈し得る軟着点を用意させていて、まさに、束の間、「非日常」の、一種蠱惑(こわく)的な魔性の時間と戦略的に遊ぶことで手に入れた潤いが、そこで拾われるに至ったのである。

 本作は、私にとって、そういう映画だった。

(2011年8月)

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