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2011年4月20日水曜日

カミュなんて知らない('05)    柳町光男


<風景の断裂 ―― 或いは、公序良俗に阿らない破壊的突破への熱量>



1  不条理劇の破壊的テーマを前にして



本作は、「境界」についての映画である。

「正常」と「異常」、「日常性」と「非日常」、「生」と「死」、「恋愛」と「友情」、「教諭」と「学生」、「アニマ」と「アニムス」、「犯罪者」と「非犯罪者」、「学生」と「社会人」、「健常者」と「障害者」等々の、「境界」の曖昧さについての映画であると言ってもいい。

このように、二つの世界を分ける「境界」というものが、確かにそれまで存在した現実に対して、特段の疑義を持つ者も少なかったに違いない。

その「境界」が今、揺らいでいるのである。

「境界線」が曖昧になっているのだ。

「境界線」が曖昧になっているために、「境界」の向こうにある世界への越境のハードルがいよいよて低くなっていく。

ポイント・オブ・ノー・リターンへの内的シグナルが読み取りにくい、このボーダレス化社会にあって、加速的に曖昧になっていく日常風景を普通に繋ぐ時間の中で、いつしか「越えてはならない一線」への近接を常態化し得る状況のうちに溶融され、ルールの厳しい縛りなしに、その危ういゾーンへの越境が果たしやすくなったと言えるだろう。

しかし、そこにルールの厳しい縛りが劣化したからと言って、決定的な規範の崩壊が顕在化した訳ではない。

「博君が南アルプスに行っている間に、二人の男の人とキスした。キスしてみたらどうなるか、試してみたかったのかも知れない」

本作の中で、このような危うい表現が多く見られたが、それをチャペルで恋人に吐露した、劇中劇の助監督を務める女子大生が、自らのインモラルな行為を正当化している訳ではないのだ。

現に、彼女は恋人に謝罪し、赦しを乞うていたのである。

それにも拘らず、モテモテの彼女は、「本命」とも言える学生(劇中劇の監督)とのキスの告白を封印していたが、だからと言って、彼女がファム・ファタール的存在感とは無縁であることは了解し得るもの。

即ち、「軽薄」と言われる若者たちの倫理観は、彼らなりのモジュールのうちに保持されているが故に、彼らを囲繞する文化の現在の、その外観の風景を、安直に、「境界越え」が常態化している状況という風に決め付けられないのである。


そんな彼らが、「映像ワークショップ」の指導教授から、実在の事件(豊川市主婦殺人事件)をモデルにした、「タイクツな殺人者」というテーマの映画製作の課題を与えられたのだ。

「人を殺してみたかった」という課題映画のモチーフは、彼らの「境界越え」の範疇を、当然の如く突き抜けるものであった。

だから彼らは迷い、悩み、葛藤し、彼らなりの理屈で把握しようとするが、とうてい理解不能な破壊的テーマを前にして、課題映画製作への取り組みが散漫になり、それを監督する立場にある学生スタッフの焦りだけが露呈されるのだ。

それが特段に問題という訳ではないが、「カミュなんて知らない」という防衛機制を張ることで、生半可な映画知識を振り撒いているだけの「記号性」を露わにさせ、韜晦(とうかい)性とは無縁に「映画」と付き合っているような彼らに、理解不能なテーマと真摯に向き合い、それを自分の人生の問題意識のうちに吸収しようとする熱量を、十全に自給できないのは当然過ぎることだった。

だから相変わらず、自分サイズの青春を、キャンパスの中で要領良く拾い上げようとする以外に関心が持てないのである。

「創造」に向かう「前線」が、微温的なキャンパスの内側に構築できないからだ。

そんな中で開かれた、「タイクツな殺人者」という不条理劇。

クランクインされ、まもなく舞台は、彼らの青春を小さく閉じ込めていたキャンパスを抜け出ていくことになった。

キャンパスという、一種の閉鎖系のカウチポテトの「境界」の内側で、自己完結的な青春を謳歌していた若者たちが、課題の遂行という外部圧力によって「境界越え」を果たしたのである。



2  普通の人間が、普通の理屈によって把握できない人間的現象



「境界越え」を果たした向こうにあったのは、生活臭のないキャンパスとは切れた、「全身生活臭」の一軒の農家。

劇中劇のクライマックスが、その農家を「前線」に染め抜いていく。

「全身生活臭」のその農家で、主役となる高校生(無論、演じるのは大学生)が無断侵入し、光の差さない闇に近い家屋の奥で、動機不明の殺人事件を惹き起こしたのだ。

「人が死ぬ凄惨な現実を、この眼で見たい」というモチーフのみで押し入った一人の、一見、普通の高校生と違わぬ少年が惹起した事件を、チームビルディング化しつつある劇中劇の撮影クルーが追っていく。

しかし、「アデル」(トリュフォーの「アデルの恋の物語」から)と揶揄された恋人(注)によって、屋上から突き落とされた学生監督(画像左)に替わった、前述した女子大生の助監督(画像右)の「カット!」の声も届かず、劇中劇の惨劇に終わりが見えないのだ。


(注)このとき、警察の取り調べで、「アデル」は、「松川君を突き落としたらどうなるか、試してみたかった」と供述している。彼女もまた、「生」と「死」についての「境界越え」を果たそうとしたのである。


いつしか、両性具有的な雰囲気を醸し出す、犯人役の演劇青年の眼付が異様に変化し、明らかに、劇中劇の範疇を越えていく。


このとき、犯人役の学生だけが、「生」と「死」についての「境界越え」を果たしていくのである。(画像)

それは、この若者の「屈折した自我」のうちに「何か」が封印されてきたというような、忌まわしき情報群とは切れていて、「理性」や「規範」で押し込められない、そこに唐突に侵入してきた得体の知れない情動を、決定的な推進力によって動かされているようなのだ。

まるで彼だけが、劇中劇の殺人犯の心情を把握できたかの如く振舞い、「前線」の中枢を突き抜けていくのである。

それにも拘らず、彼の内側に渦巻く衝動が、「人を殺してみたかった」という訳の分らないモチーフにあると見るのは無理があるだろう。

彼はまさに、劇中劇の設定の異常性が分娩した、説明し難い衝動に搦(から)め捕られて暴走するに至ったのである。

それ故、極めて個性的だが、押し並べて「普通」の範疇に包含される若者が、このような心理的文脈で「境界越え」を果たしてしまう、その「境界」のハードルの低さこそ看過し難い何かだろう。

それは逆に言えば、人間がこのような情動のサポートなしに、「不条理殺人」を遂行し得ない現実を物語るのだ。

結局、「人を殺してみたかった」という「不条理」なモチーフなど、この世に存在しないのである。

劇中劇のモデルとなった事件の高校生の犯罪には、アスペルガー症候群(知的障害が見られない自閉症近似の発達障害)が起因したと鑑定されたことでも分るように、普通の人間が、普通の理屈によって把握できない人間的現象が、この世に存在することを否定できないのだ。

それは、今は分らないだけであるかも知れないし、或いは、生物学的な因果関係に関与する辺りに犯罪の根源が横臥(おうが)しているとも言えるのである。



3  風景の断裂 ―― 或いは、公序良俗に阿らない破壊的突破への熱量



このラストシークエンスの冥闇(めいあん〉の世界に突入するために、殆ど中だるみとも言っていい、「今時」の学生たちの恋愛模様が挿入されたと了解するには、あまりに異なった風景の断裂がそこに拾われ過ぎていた。

しかし作り手の狙いが、このラストシークエンスへの破壊的突破にあったと見るのは自然である。

この破壊的突破への熱量こそ、「十九歳の地図」(1979年製作)、「さらば愛しき大地」(1982年製作)という、公序良俗に阿(おもね)らない、切っ先鋭い映像を構築した柳町光男監督の真骨頂であると言える。

この作り手は劇中劇の挿入によって、映像によって支配し切れない虚構を反転することで、却ってリアリズムの濃度を深め、エンドロールと共に閉じていく、スタッフ一同による畳に溢れた疑似血液を拭き取るラストカットで、再び、それを虚構の世界に戻していくという離れ業を遂行しているが、まさにその確信犯的ギミックのうちに、「境界線」を曖昧化させる効果を際立たせていたと言えるだろう。

「さらば愛しき大地」より
とりわけ、「さらば愛しき大地」(1982年製作)の地獄の使者の如きBGMにも似て、ダークサイドの音楽による括りは、「さらば愛しき大地」や「火まつり」(1985年製作)の暴力性への拘泥を捨てられない、毒気の横溢した柳町光男監督の自負を印象付けるものだった。

それでも、白塗りメイクのアッシェンバッハを登場させて失恋させるエピソードや、ハリウッドを虚仮(こけ)にしたロバート・アルトマン監督の「ザ・プレイヤー」(1992年製作)をなぞったように、7分弱にも及ぶ、冒頭からのワンシーン・ワンカットの長回しのハイキーな挿入等々、生き生きとした現代の大学キャンパスの雰囲気を、軽やかなフットワークで描いた筆致は、私が知っている柳町光男監督の重厚な演出とは切断されていて大いに当惑したが、それもまた、劇中劇への破壊的突破との落差を際立たせるブービートラップであったのか。

或いは、劇中劇への破壊的突破に作家生命を賭けた作り手の、商業戦略に譲歩したアミューズメント的な衣裳であったのか。

それもまたいい、と思わせる一遍であったかどうかという次元の問題を越えて、「これだけは譲れない」と言わしめる挑発性だけは読み取れて、安直に一刀両断し得ない感覚的映像だった。

(2011年4月)

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