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    3 か月前

2008年12月7日日曜日

ガラスの動物園('88)   ポール・ニューマン


<ロウソクを消せ、ローラ>



1  家族という縛り



1930年代の世界恐慌のただ中、アメリカ・セントルイスの裏寂れたアパートの一角に、その家族は住んでいた。

南部の裕福な家庭に育ち、それを唯一の誇りとする母アマンダと、既に成人して靴会社の倉庫に勤める息子のトム、足に障害を持つ娘ローラによって構成される一見平凡な家族。

しかしその内実は、この厳しい時代に生きる者たちの標準的な家庭像の範疇から、明らかに逸脱していた。

それは、その生活のレヴェルに於いてではなく、その家族の心理的な距離の偏頗(へんぱ)性においてである。

その原因の全ては、母アマンダにあると言っていい。

ここに、この偏頗な家庭の骨格を象徴的に示す、三つの、およそ会話とはほど遠い親子の絡みの描写を紹介する。

その一つ。

食事する息子の傍らで、母の口うるさい横槍が次々に放たれる。

「トム、よく噛むのよ。動物には胃の分泌液があるから、咀嚼なしでも消化できるわ。でも人間は飲み込む前に噛まなきゃ。噛んで・・・噛むのよ。ゆっくり食べて・・・ゆっくりとね・・・唾液腺を働かすのよ」
「母さん!ちっとも食べた気がしない。横からいちいち指示するなよ。僕が急ぐのは、母さんがタカのように見ているからだ。ひと口ごとに・・・もうウンザリだ。食欲がなくなるよ。動物の分泌液やら、唾液腺だ、咀嚼だって・・・」

このようなタイプの母親に近い女性は、世にごまんといるかも知れないが、咀嚼の度に講釈する母親は滅多にいないだろう。

こんな講釈が成人となった息子に垂れ流されている事実から、これまでの母子関係の心理的文脈の偏頗性が容易に覗える。

当然の如く、息子トムは、自我の拠って立つ安定の根拠を家庭の内に求めていない。

母からの解放を希求するトム
心から望むことのない仕事から戻って来たトムの心を解き放つのは、自室にこもって詩作に耽る事と、夜な夜な外出して映画を観たり、酒で憂さを晴らしたりすることである。

このエピソードによって、観る者はトムへの感情移入を容易にするだろう。

二つ目の会話は、そんな息子に母が愚痴をこぼす場面。

散々愚痴を零しても、外出しようとする息子に、この日も母は切れた。

「我慢の限界よ」

息子もそれに反応する。

「僕だって我慢しているんだ。母さんは平気だろうけど、今の僕と僕の望みは少々違うんだ」

息子の気持ちを一貫して理解する態度を見せない母は、この日もまた恐らくいつものように、倍返しの反論をする。

と言っても、二人の間に議論は成立しない。そこには口喧嘩しかないからだ。

「クビになって、私たちを路頭に迷わす気?」

母にとってトムの存在は、アパートの家賃を払ってくれる唯一の稼ぎ手以外の何者でもないかのようだ。

「会社の倉庫が大好きだと思うのか?・・・あんな穴倉で一生過ごしたいはずないだろう・・・でも僕は行く。毎朝母さんが来て、“起床!”ってがなる。僕はどんなに死人が羨ましいか。だが起きて出勤する。たかが月65ドルのために、自分の夢や望みをみんな捨てて。それでも僕は自分勝手か?もしそうなら、父さんの真似をする。できる限り遠くへ行く」

この最後の言葉は、母の自我の防衛ラインに触れたに違いない。

一家の父は既に出奔して、今や家族の一員ではない。

妻子を捨てた父の無責任な行動の原因に、母の存在が絡んでいることは充分読みとれる。

息子もまた、そんな父の後をなぞっていくかも知れない。

それが単なる脅しではないからこそ、母は「謝って来るまで口を聞かない」と突き放すことで、息子の言葉の担保を性急に求めたのである。

しかしこの夜も、息子は母の制止を振り切って夜の街に出て行った。

泥酔して帰宅した弟をローラは優しく迎え、お母さんに謝って欲しいと懇願する。それが内気なローラの、家庭での役割の一つだった。

翌朝、再びローラに促されて、トムは部屋にこもる母のもとに行き、素直に謝った。

「あなただけが頼りなの。本気で頑張ればきっと成功するわ・・・」

世界恐慌下のアメリカ①(ウイキ)
息子の謝罪に安堵した母は、いかにも親らしく括って見せたが、その内心は、家庭を捨てた男にますます似てきた息子の行く末を、不安視する思いに充ちていたであろう。


三つ目の会話は、母と娘のそれである。

ビジネススクールに通っていたはずのローラが、通学していないことを知った母は、息子に対してそうだったように、今度は娘を問い詰めていく。

「毎日何をしていたの?学校行く振りをして」
「散歩してたの」
「嘘おっしゃい」
「本当よ。ただ歩き回ってたの」
「歩いてた?冬の最中に?肺炎にでもなるつもり?どこを?」

母の言葉には、どこかでいつも少しずつ毒素が含まれている。

「方々よ。よく公園に行ったわ」
「風邪を引いてからも?」
「学校に行くよりマシだわ。戻れなかった。教室で吐いたの」
「・・・学校にいると思わせて外をうろついていたのね」
「辛くなかった。寒いときは建物に入ったし。美術館に行ったわ。動物園の鳥の家にも。ペンギンを毎日見たわ・・・」

母のどのような詰問にも、娘は静かに反応していく。

弟の中にあって、姉にないもの、それは自衛のための攻撃性である。

母には、そのことが却って悩みの種になっている。

娘の過剰な内気さが、母の感情をしばしば刺激してしまうのだ。

「私を騙すためにやったの?ごまかすために?なぜなの?なぜ、ローラ答えて!」
「お母さんががっかりすると。マリア様の絵みたいに苦しそうな顔になるわ。それが嫌だったの。耐えられない」

この意味深な反応の内に含まれているのは、母への皮肉というより、寧ろ、自らの不徳を責める罪悪感情に近いものである。

娘の中にも存在するであろう攻撃性は、常に自己を対象にしてしまうのだ。

「私たち、どうするの?どうやって生きていくの?この家にぼやっと座って、漫然と日を送るの。ガラスの動物園で遊ぼうって言うの?パパが残していった、すり切れたレコードを、永遠に回し続けるの・・・仕事には就けないわね・・・私たちに残されたのは、一生、人に頼って生きることだけ・・・」

ガラスの動物園とは、娘ローラが収集している小さなガラス製の動物のことである。

彼女は、父が残した古いレコードを鑑賞することと、このコレクションを趣味にしているが、とりわけ、母が揶揄する「ガラスの動物園」の世界は、ローラの心象風景を象徴するものとして重要な意味を持っている。

それは、ローラの自我の壊れやすさを表現していると言っていい。

そこに接触しただけで壊れてしまいそうなガラスの動物を、そこに侵入しただけで壊れそうな自我が、何よりも大切に守り、育てているのだ。

ローラの思いが、一つ一つの可愛い動物たちの無機質な透明体の内に、永遠の生命を吹き込んでいく。そんな細(ささ)やかな幻想の遊泳だけが、彼女の自我のプライドラインを支えているかのようである。


トム(左)とローラ
以上の三つの会話にもならないような口論を通して、父に置き去りにされた貧しい三人家族の、その複雑で、次第に顕在化しつつある心理的関係の危うさを読みとることが可能である。

このとき既に、長男のトムは、支払うべきアパートの電気代を自分の旅立ちのための費用にリザーブしていた。勿論、母はそのことを知らない。

彼女は息子の心の波動に尖った部分を感じてはいたが、自分の思いが、未だ息子の心に届くであろうという幻想から解き放たれていなかったのだ。



2  ガラスの動物園



母アマンダの心配の種は、この時点で息子よりも、娘ローラの将来の行く末の方にこそある。

母はその悩みを解決すべく、ローラの相手になるような男性の紹介をトムに頼んだのである。

トムが同僚のジムを自宅に招いたのは、その数日後だった。

そのことを知って母は慌てるが、歓迎の意思は変わらない。

しかし、ローラの気持ちは穏やかではなかった。緊張して身震いするローラに、母は南部から持ち込んだドレスを着込んで、当時の自分の輝かしい世界を披瀝するだけ。

これから起こる現実の期待への楽観性から、母はいっとき夢心地の世界の内に酩酊していた。

「・・・このドレスで舞踏会にも出たし、ダンス大会で2度も優勝したわ・・・父さんに会った夜もこの服だった。・・・方々からご招待が来たわ・・・ピクニックやあの自然、あの景色、美しい5月・・・」

長々と続く母の心のダンスに、娘ローラは思いを乗せられない。

直前に弟が連れて来る友人が、自分のかつての初恋の相手だったことを知って、ローラの動揺と不安は殆どピークに達していたのである。

その夜、トムが友人を伴って帰宅したとき、形だけの挨拶をしたローラは、狭い間取りの奥へ身を隠してしまった。

母に促されて、晩餐の席にローラは呼び戻されるが、ジムに対面する不安からソファにもたれて、横になってしまうのだ。

ローラの視界から、自分を除いた晩餐の儀礼的な風景が捉えられた直後、その風景が闇に包まれた。停電したのである。

まもなく、ロウソクの灯で部屋に光が戻ったが、映像の後半は、この頼りないロウソクの灯による描写によって進行することになる。

それは闇に包まれた家族の部屋に、もう光が戻ってこないことを暗示するのである。

トムが支払うべき電気代が、やがて彼の旅に費消されてしまうからだ。母と娘だけがそれを知らない。

停電になった本当の理由を知らない母と娘に、束の間至福の時間が訪れる。

そしてそれは、最初で最後のあまりに短い束の間の至福だった。

友人の母に頼まれて、ジムはローラと二人だけの静かな時間を作っていく。

ジム(左)とローラ
ローラの極端に内気な性格をトムから聞いていたジムは、直裁に切り出した。

「君は内気だって、本当かい?」
「さあ」
「君は古風な女性だと思うね。素敵なことだよ・・・」

自分の脆い部分に触れてくるジムに、ローラが僅かでも反応できるのは、母の計らいと知りつつも、お互いの顔がはっきり見えない絶妙な薄明かりの中で、静かに語りかけてくる温和な空気の内に、ローラの不安が融解していたからかも知れない。

やがて、会話の一連の流れから、ローラは高校時代からジムを知っていて、同じ選択科目を採っていたことを話し出した。

「思い出したよ。君はいつも遅刻だ」

すかさずジムが反応したことで、会話が繋がっていったのである。

「あの頃、私は足に添え木をしていたの。階段を上るのが辛くて、大きな音がするし、聞こえなかった?雷のような音」 
「気づかなかったな」
「私は皆が座っているところに入って行って、自分の席まで行くの。皆の前を上がって行くのよ」

ローラは自分が最も触れられたくない部分に、自らを開示していく。既に不安を溶かした空気がそのことを可能にした。

「気にしすぎだ」
「分ってるわ。でも気になった」
「すっかり思い出した・・・いつも一人だったね」
「なぜか友だちができないの」
「なぜだろう」
「第一印象が悪いのよ」
「足か?」
「そうよ。私と他の人との壁なの」

温和な空気が、ローラの感情をここまで溶かしていた。だから相手の忠告も、彼女の心に素直に入り込んでいく。

「取り除くんだ」
「分ってる。でも駄目なの」
「だから内気なのか」
「努力したけどいつも・・・」
「挫折した?」
「ええ、そうよ」
「少しずつ、直していくしかないね」
「きっとかかるわ。時間が」
「いいかい、ローラ。人は知ってしまえば怖くない。それを覚えてとくんだ。悩みは誰にでもある。君だけじゃない。君は自分にだけ望みがないと思ってる。だが、見回してごらん。望みのない人間がたくさんいる。僕だってそうだ・・・」

ジムは自分の経験を話すことで、ローラを勇気づけようとしたのだ。

そんなジムの心が伝わって、会話が少しずつ動いていく。

ローラもまた高校を中退し、その後通ったビジネススクールも辞めてしまった経緯を話したのである。

会話の流れの中で、ジムから、「何をやってるの」と聞かれたローラは、「遊んでいるわけじゃないの」と答えた後、ガラスの収集をしていて、「その手入れが大変なの」と弁明するように説明した。

ローラは自分が棲んでいる細(ささ)やかな物語の世界を、好意を抱く相手に認知してもらいたいのである。

その相手は、より直接的に切り出した。

ジム(左)とローラ
「君の問題点を教えよう。劣等感だ・・・分るかい?自分を低く見ることだ・・・自分に自信を持っていない・・・学校をやめて、勉強をあきらめた。小さな音のために。それも聞こえないような音だ。僅かな欠点さ・・・君に忠告するよ。自分を人より優れていると思うんだ」

ここまで言い切った後、ジムはローラに、「興味があるものがあるだろう」と問いかけていく。

ジムに聞かれたローラの答えは、「ガラスの収集」だった。

そして彼女は、自分のの収集の中で最も大切なユニコーン(一角獣)を手に取ってジムに見せた。


壊れやすいから手に取るのを遠慮するジムに、ローラはそれを渡したのである。

彼女は自分の魂の入ったユニコーンを、何としてもジムの優しい心に届けたかったのだ。

そのことで、自分の壊れやすい心を受け止めてもらいたかったのだろう。

「彼は泣き言を言わないの。角のない馬の間でおとなしくしているわ。気が合うみたい」
「分るのか」
「一度も喧嘩しないもの」

一角獣であるユニコーンは、ローラ自身である。

「角のない馬」という自己像を抱懐し、一般社会の片隅にひっそりと息を潜めることでローラは世間の攻撃性から、自らの壊れやすい自我を守っている。

その過剰な防衛機制が、遂に世間の眼に殆ど触れない場所に、その自我を押し込んでしまったのである。

それは恰も、絶滅種であるユニコーンの運命に、足の障害を持つローラの行く末を暗示するかのようだ。

ユニコーンがその角を自ら切断しない限り、「角のない馬」の世界に入れないのである。

そして今、その角が切断されたのだ。

窓の外から聞こえる音楽に反応して、ジムはローラの手を取り、ワルツを踊る。

ステップに懸命に合わせようとするローラの足が引っ掛かり、ユニコーンが落ちて、その角が取れたのである。

謝るジムに対して、ローラは慌てることなく答えた。

ユニコーンのガラス細工のモデル・ブログより
「他の馬と同じになったわ・・・きっとこの方が幸せだわ・・・私はこう考えるわ。引け目を感じなくて済むように、他の馬と一緒でも堂々としていられる」

ローラという女性の奥に潜む目立たないが、しかし確かに放つ固有の輝きに触れたジムは、そのラインに思いを乗せていく。

「君の美しさは人とは違う。そこがまた素敵だ・・・君は君だけだ・・・誰かに自信をつけてもらうんだ・・・内気にならないようにだ」

男はローラに近寄って、優しくキスした。

それは、ローラが初めて手に入れた至福の瞬間だった。

「青いバラ」―― それは作り出すことが難しいとされる奇跡の花。

その花は、高校時代、ジムがローラに誤ってつけた綽名である。

その奇跡の花が内包する究極の至福のイメージを、映像は、ローラの一瞬の時間の氾濫に重ね合わせている。

しかし奇跡の花は、幻想の至福に過ぎなかった。

ローラの表情の微妙な変化を読み取ったジムは、自分がこの闇に近い空間で作り上げた空気の怖さにたじろいだ。

彼は単に空気を作り出しただけではない。

その作り出した空気に、相手の感情を解き放ってしまったのである。

その解き放たれた感情が自分に向かってきたとき、男は、時間をほんの少し前に戻すことを決断した。

男には婚約間近の恋人がいることを、眼の前のローラに告げたのである。

青いバラ・ブログより
ローラという、「青いバラ」の中枢が壊れた瞬間だった。

そんな澱んだ空気の中に、ローラの母アマンダが侵入してきた。

その深刻な空気を彼女は和ませようとするが、恋人を駅に迎えるため、暇願いをするジムの、少し後ろめたい感情を含ませた話に呆然とするばかりだった。

既に事情を追認していたローラは、帰り間際のジムに、壊れたユニコーンを思い出の記念として手渡した。

全てが終わったのである。

心地良い空気に束の間感情を乗せたローラは、ジムの訪問を知る前の自分に戻っていた。

いやそれよりももっと、簡単に他者が割り込めないような深いところに、音を立てないようにして潜り込んでしまったかも知れなかった。

ローラが失ったもので最も大きいものは、いつか自分を「ガラスの動物園」から連れ出してくれる騎士の出現への、切なくも淡い希望だったと言えようか。

元々、ジムには何の道義的責任もない。

彼は親友宅に内気な姉がいて、その女性が自分のかつての同級生であり、ましてやその女性が自分に思いを抱いていたなど、予想すべくもなかったのだ。

彼の退散劇は、彼にそのような行動を強いた空気の危うさが生み出したものなのである。

その空気を作ったのは、紛れもなく、トムとローラの母アマンダである。

「物事はうまく運ばないものね」

アマンダはそう呟いた後、その責任をトムに押し付けた。

母と息子の不可避な口論は、今夜も始まったのだ。

しかしそれはいつもの口論の枠を逸脱していた。

「出てってやる!」
「行けばいいわ!月でもどこでも、お前なんか!」

トムは、その夜も家を出た。

しかし、その行き先は映画館ではない。

この裏寂れたアパートよりもはるかに遠い、未知の空間への旅。

トムにとってそれは、自分の予定よりも少し早めた旅立ちに過ぎなかったのだ。



3  ロウソクを消せ、ローラ



トム(左)とローラ
長い放浪から戻ったトムの回想で始まる、この映画の最後もまた、トムの回想によって閉じていく。

「月へは行かなかった。もっと遠くだ。時の隔たりほど遠いものはないのだから。じき僕はセントルイスを離れた。あの非常階段を下りて、二度と戻って来なかった。以来、僕は父のような日々を送った。彷徨(さまよ)うことで失った何かを取り戻そうとしたのだ・・・

見知らぬ町で話し相手もなく、香水店のショーウインドーを通り過ぎる。いろんな色のガラス瓶が並んでいる。小さな透きとおった、壊れた虹のように微妙な色合いの瓶。その時だ。姉が僕の肩に触れる。僕は振り返って、その眼を見る。ローラ。一生懸命に君を振り切ろうとした。だが意外なほど君を思っている・・・今、世界を稲妻が照らしてる。ロウソクを消せ、ローラ」

回想がローラのことに及んだとき、トムのやつれた頬を一筋の冷たい流れが寂しく濡らしていった。

彼は母ではなく、ローラを遺棄したことこそ悔いている。

生活力のない彼女の行く末を心配しつつも、彼は父がそうであったような旅を選択した。

それは覚悟の決断であり、それ以外に考えられない選択的行動だったとも言える。

世界恐慌下のアメリカ②流浪の身となった子供達
そんな旅の険しい最中に、姉ローラの魂とクロスし、突き上げられるような思いが彼の魂を揺さぶったに違いない。それが、トムを再びセントルイスに連れ戻すことになったのだろう。

しかし、帰還した彼がそこで見たのは、既に人気のない荒廃した部屋の風景だった。

あの夜の闇の記憶が彼の中で継続力を持っていて、彼の視界に入る風景の寂しさは、彼が去った後の心的空間の闇の風景を充分に想像させるものだった。

闇をそこに残した男にも、眩い光が差し込んでこなかった寂しさと、それは重なっている。

それは社会に充分に適応することが困難な時代と、その時代の波を真っ向から受けた者たちの物語の哀切さを映し出していたのである。


*       *       *       *





4  関係の軋みによって生じる誤差を修復することの険しさ



ポール・ニューマン監督

「ガラスの動物園」という、それほど知られていないポール・ニューマン監督による秀作をどう読み取ったらいいのか。

私なりに要約してみる。

まずその基本構図は、社会に適応することが困難な家族を構成する個々の自我の、その心理的関係の軋みによって生じる誤差と、その誤差を修復することの険しさをテーマにした作品である、ということ。

具体的に書いていく。

母アマンダと娘ローラの社会への不適応性は違うが、共に幻想の世界を棲み家にしているという点に於いて共通する。

一方、「シェイクスピア」と綽名される息子トムは、恐らく、詩作を生業(なりわい)とすることを目標にしつつも、その現実は、家族の生活を保障するために我慢しながら、フラットな職務を淡々と消化する日々に追われている。

彼の存在が象徴するものは、幻想に逃げ込む母や姉と異なって、それを失ったら忽ち破綻を招く苛酷な現実の世界である。

それでも彼は現実の世界を放棄し、家族を捨てた父をなぞるようにして放浪の旅に出た。

彼のラストでの回想では、その放浪の旅が社会への適応を充分に果たせていなかったことを示唆している。

1930年代の暗鬱な時代の下で、明るい未来を楽観できたわけでもないのに、それでも彼は旅に出たのだ。

なぜか。

明らかに、母アマンダとの陰鬱な関係を断ち切るためである。

家族にも社会にも満足な適応を果たせないトムと、ガラスの動物園にこもるローラとの関係に楔(くさび)を打ったのは、母アマンダであり、そのアマンダを確信的に捨てた、写真の中の夫の存在にまで視界を広げると、この家族がその土台から既に破綻していたことが分る。

そのことを考えれば、ローラの極端な内向性は必ずしも足の障害に淵源するとは言えなし、またトムの出奔が単なる身勝手さに起因するとも言えないのである。




5  「自我の防衛ライン」と「自我のプライドライン」



―― 私はこの三人の登場人物を、心理学的に整理してみた。


ガラスの動物園
キーワードは、「自我の防衛ライン」と「自我のプライドライン」である。

自我とは本質的に、人間の生存と社会的適応を果たすための戦略拠点のこと。

その自我が自らの生命と精神の安寧を確保するために、それぞれの能力に合わせて、相対的な尺度で「ここだけは守りたい」、「ここだけは誇りたい」というラインを引いていく。勿論、これは私の仮説。

前者は、それだけは絶対侵害されたくない最後の守るべき砦。

後者は、これだけは自己顕示し、外に向かって表現したいと思わせる前衛ライン。

しかし、このラインを侵害する者に対して、その自我は激しく反応する。

密かに誇るものを傷つけられたとき、人は傷つけようとする者に対して、かなりの確率で攻撃的になるであろう。

その前衛ラインを突破されたら、自我の拠って立つアイデンティティが崩れてしまいかねないからだ。

それを、私は以下の表にしてみた。



(自我のライン)→   防衛ライン           プライドライン
-――――――――――
登場人物↓


アマンダ(母)     家族の生活
          ローラの将来の保障        南部の生活の記憶


ローラ(長女)     足の障害             ガラスの動物園


トム(長男)     自由な時間の確保        詩作を中心とする文学




この表が示しているように、アマンダとトムの矛盾は、それぞれがラインを侵害しあっている事実に起因する事が分る。

母は自らの防衛ラインの確保のために、トムのプライドラインを侵害し、同時に自らの防衛ラインが母のそれに微妙に抵触することで、二人は明らかに、人格的な対立を顕在化させてしまった文脈が自明となる。

トムの出奔は、母のライン侵害に起因していたのである。

それは、彼の夜ごとの外出がある種の自我防衛であった深層心理を示すものである。

自らの防衛ラインを確保するための母の行動もまた、彼女の自我防衛の必然的な帰結点であった。

二人の形式的な和解が、「家族」という虚構の物語に収斂される、その場しのぎの非力な契約であった事実は否定すべくもないのである。

ここで注目すべきは、ローラのラインの孤立性である。

それはローラの非自立性と他者への依存性を浮き彫りにし、そのラインの著しい狭小性を示していると言っていい。

ローラの防衛ラインは、家族の生活の保障という自我の生存戦略の根幹に関わる意識が稀薄になっていて、寧ろその意識から逃避しているようにも見える。

彼女は、本来そこに向わなければならない意識を封印することで空洞化した中枢に、細(ささ)やかな物語を仮構した。

小さな無機質の透明体の置物に生命を吹き込んで、そこに誕生した動物たちと心を通わせるという幻想の世界、それが「ガラスの動物園」だった。

世界恐慌下のアメリカ③公共事業に従事する労働者
「ガラスの動物園」という物語のあまりの矮小性は、足の障害によって内閉するローラの自我の、その押し込められたような遊泳空間の限定性に起因する。

それは、殆ど闇のような狭い空間で息を潜めて暮らすローラにとって、それ以外にないギリギリの表現様態であっとも言えるだろう。

内気な者ほど、物語のサイズを矮小化せざるを得ないのである。

内気さとは、壊れやすさと言っていい。

壊れやすいが故に物語を矮小化し、その狭さの中に自己顕示と自我の安寧を確保する。

物語のサイズを小さくすることで、悪意に満ちた他者からの侵入経路を未然に防いでいくのである。物語に隙間を作らないことで、他者の悪意の侵入し難さを確保するのだ。

壊れやすい自我が作る物語は、できる限りそれを壊れにくいものにする必要があるだろう。

隙間だらけの大きな物語が内包する壊れやすさに比べれば、自我の耐性に見合った分相応なスモールサイズの物語は、日常的な自己完結を保障できる分だけ壊れにくいからである。

自らの壊れやすさを認知するローラは、その仮想現実の世界を駆け抜けていくしかなかった。

しかし彼女は、どこかでいつも自分を連れ出してくれる騎士を待っていて、その者と自らの物語を共有するか、それができなかったら、その物語を相手に優しく壊してもらって、相手の心地良い物語の内に自己を吸収してもらうことを願っていたようにも思えるのだ。

世界恐慌下のドイツ・演説するゲーリング
しかし、映像は残酷だった。

ローラの前に、遂に騎士は現われなかったのである。

繊細な妹を救うべき最も近い立場にいた弟のトムは、ローラの自我を屠ってしまったのだろうか。

少なくとも、トムの防衛ラインの内に、ローラの存在が決定的な重量感を持っていなかったということは事実である。

意外なほどローラの存在が大きかったことを、旅の中で感じ取ったトムが帰郷したとき、既にローラはそこにいなかった。

映像のラストで見せたトムの涙は、ローラの感情世界に惻隠の情を催したかも知れない観客の涙でもあったのか。

余情含みで映像が閉じたとき、それに付き合ってきた私の心の中に、壊れやすいローラの残酷な未来像がいつまでも張り付いて、虚構の世界を超えた哀しさだけが虚ろに宙を舞っていた。


映画の感動は、思いの外深かった。


この有名なテネシー・ウィリアムズの舞台劇を映画化した監督のモチーフが、舞台劇で競演した母と娘の俳優がそのまま映像の世界にシフトして、その感銘を映像に記録することにあったという事実を知って、私はこの映画の表現的成功の真髄に触れた思いだった。

ジョアン・ウッドワード
因みに、アマンダ役を演じたジョアン・ウッドワードは、ポール・ニューマンの愛妻として有名である。 

 「ガラスの動物園」が、映像作家としての本領をも見せた、彼の渾身の一作であったのは当然過ぎることなのだ。

ローラ役を演じたカレン・アレンの哀しげな表情は、私の知るアメリカ映画の全ての女優の演技の中で、最も印象深いものである。それは私にとって、永遠に忘れられない哀しきヒロインの、痛ましいまでに哀しき表現だった。

それ故にこそ、私は切望する。

あまりに壊れやすい脆弱さの中から、いつの日か、怯えながらも肉質の重量感を備えたもう一つの物語が、確かな律動を刻んで飛び出していくことを。



6  テネシー・ウィリアムズの哀しみ



―― この稿の最後に、この映画のベースとなった戯曲と、その作者であるテネシー・ウィリアムズとの関係についての著しい誤解、曲解を無視できないので、本稿のテーマから逸脱するが、敢えてこの点に言及する。

テネシー・ウィリアムズ
テネシー・ウィリアムズの作品が自伝的要素が強すぎるという批判があり、その中に「ガラスの動物園」のローラが、作者の実姉であるローズをモデルにしているか、或いは、ローズ自身であるというかなり流布された誤解がそれである。

その上、聞き捨てならないのは、ローラのモデルとされるローズが、自閉症の疾病ゆえに精神病院に送られて、ロボトミー手術を受けたという通説である。

それらは、明らかに無知に基づく誤解である。

この文脈で正解なのは、作者の姉ローズが精神病院に送られて、ロボトミー手術を受けたという事実のみ。

この点に関して、作者はその回想録(「テネシー・ウィリアムズ 回想録」鳴海四郎訳 白水社)の中ではっきりと書いている。

「しかしみなさんはミス・ローズのことはご存じない。〈これ〉を通じてご理解くださらないかぎり、けっしておわかりにはなるまい。というのは、『ガラスの動物園』のローラと似ているのは、あの山猫女のアマンダはぜったい認めようとしなかったが、どうしようもなく人と違うという一点だけなのだ・・・」(前出P213)

ローラとローズの人格が全く異質なものであるということは、「回想録」を読む限り自明である。

小さい頃から共に物静かな振舞いを示していたが、終始内向的だったローラに対して、ローズには再三にわたる異常な行動が見られ、それは時には常軌を逸していたらしい。

ローズの自我は明らかに分裂の病理を示していて、結局、精神病院に入院することになった。

彼女の病名は、精神分裂病(現在、「統合失調症」と呼ばれている)という診断が下されている。

思春期に社交界デビューする社交性がありながら、「みんな一緒に死にましょう」と言って、弟である作者の部屋に夢遊病者のような様子で迫ってきたり、ハンドバッグに包丁を忍ばせたりして、掛かり付けの精神科医の元に出かけようとする錯乱状態を、たびたび示していた彼女は、恐らく何らかの原因で、この時期に「統合失調症」を発症したと考えられる。

ローラ役を演じたカレン・アレン
しばしば、抑制の効かない攻撃性を見せるローズの性格は母方の家系からの脈絡性が見られるらしいが、いずれにせよ、ローラにはそんな攻撃性の片鱗も見られない。

ローズは明らかに精神疾病を示しているが、少なくとも自閉症ではないと言っていい。(現在、自閉症は「広汎性発達障害」というカテゴリーの内に含まれている)

因みに、自閉症は生まれながらの脳障害であり、多くの場合知的障害を伴うが、未だその原因は特定できていない。それは心理的な原因で生じる情緒障害では決してないのである。

ローズが自閉症でなかったことは、「回想録」からも明らかなことであり、またローラの内向性は、自閉症の特徴的な症状の片鱗も見せていないことによって、脳障害であるそれと無縁であることは明瞭であるだろう。

今なお、内向的な性格やひきこもりがちな傾向を示す者を称して、「自閉的」とか、「自閉症的」という乱暴な把握をする見方が根強いので、一言、その曲解や偏見を指摘せざるを得なかった次第である。

それにも拘らず、「ガラスの動物園」のローラ像に、作者であるテネシー・ウィリアムズが、姉ローズへの思いを仮託したと思える点があるのも事実である。

それを、私なりに解釈してみる。

テネシー・ウィリアムズが姉のローズとクロスした青春期に、一つの興味深いエピソードがある。

それは両親が留守の自宅に、彼が友だちを呼んで乱痴気パーティ騒ぎに興じたときのこと。姉のローズが、弟のそんな振舞いを両親に告げ口し、以後、友だちの出入りを禁止されたことに腹を立てた弟(作者)は、その直後、姉を面罵した。

「なんていやらしいやつ、そんな仏頂づら見るのも嫌だ!」

更に作者は、このときのローズの反応についてこう書いている。

「言葉もなく、うちひしがれて、身をちぢめて、踊り場のすみにじっと姉はたちすくんでいた。私は家からとびだした。これほど残酷なことをしでかしたのは、後にも先にもないことだろう。そして、このつぐないはぜったいまともにはできないのだ・・・」

この「回想録」に紹介されているエピソードは重要である。

なぜならば、その直後姉のローズは、度重なる常軌を逸した行動を強制的に抑圧するための手術を受けたからである。あの悪名高いロボトミー手術がそれである。

「前部前頭葉切截術」と訳されるこの手術の内実は、こめかみから細い穴を開けて、そこから前頭葉の白質部分を切断するという乱暴なもの。

しかし、この乱暴な手術によって、人間の性格が全く変わってしまう可能性を持っていることから(1930年代半ばにこの手術を考え出したポルトガルのモニスは、後にこれによってノーベル医学賞受賞)、第二次世界大戦後、この手術が「統合失調症」の患者に対して広く実施されることになったことは良く知られている。

この手術がアメリカで改良され、既に1930年代後半に実施されていたのである。

ローズの手術は、殆どその先駆けになったと言っていい。

嫌がる本人を、粗暴な振舞いの多かった父親が強制的に説得して、手術に踏み切らせたようだ。「回想録」によれば、その結果、ローズの性格は「悲劇的におとなしくなった」と言われる。

当然のことである。

人間の知性や感性の司令塔である前頭葉の一部を切除すれば、感情のコントロール機能が壊れたり、極端に無気力な性格傾向を顕在化したりする事態を招来することは自明である。なぜなら、恐らく前頭葉こそ自我の中枢部位であると考えられるからだ。

この手術は、人間が人間であることの決定的な証明とも言える自我を破壊する、「医学」という名で実施された、極めて非人間的な行為なのである。

この結果、多くの人間が廃人同様になり、日本では1979年に、ロボトミー手術を受けた患者による、積年の恨みから執刀医の家族を殺害するという事件まで起きたくらいだ。

以上の文脈で了解し得るように、ローズの人格変化は、彼女の自我の解体を意味していたのである。

弟であるテネシー・ウィリアムズは終始彼女に愛情を注いでいたが、その「悲劇的」な変化に当惑し、「このつぐないはぜったいまともにはできないのだ」と思い詰めるほどの罪悪感を覚えたに違いない。

文学界へのデビュー作となった「ガラスの動物園」で描かれたローラの哀しみは、作者自身の哀しみであった。

ローラとアマンダ
ローラの著しい内向性は、実は作者自身の思春期の顕著な内向性の投影であり、それはローラの悲劇を自ら受容しようとする作者の苦悩を映し出しているとも考えられる。

作者はローラというキャラクターの内に、姉ローズの狂気や奇行のさまを決してシフトさせなかった。

そこに際立たせたのは寧ろ魂の純化された姿であり、それ故に幻想の内にしか遊泳できなかった繊細で、壊れやすい自我が、映像を決定づけるほどの役割を担ってしまったのである。ローラは、実姉であるローズではなかったのだ。

「ガラスの動物園」という名作は、作者であるテネシー・ウィリアムズの内側を抉(えぐ)って吐き出された入魂の一作だった。

映像の最後で、トムは「今世界を稲妻が照らしてる。ロウソクを消せ、ローラ」と呟いて、廃屋を去って行った。

作者は今にも襲いかかってくる稲妻から、ローラを守ることを最後まで捨てようとしなかったのである。

(2005年12月)



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