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2008年11月11日火曜日

晩菊('54)    成瀬巳喜男


<それでも女は生きていく>




1  人間の卑屈なさまをも容赦なく映し出す成瀬ワールドの中に



杉村春子、望月優子、細川ちか子。

この三人の女優の味わいのある演技の交錯が、物語を最後まで引っ張って行く。

共に昔芸者をしていたが、零落した二人が、今や高利貸しとなった杉村春子に借金を取り立てられる日々に不満を託(かこ)っている。何とも遣り切れないそうした日常のさまが執拗に描写されていても、観る者を滅入らせたりしない。日常性をきっちり描く成瀬映画の力量が、どれほど暗いテーマでも、観る者に共感的理解を起こさせてしまうからだ。

醜くも、そのように動かざるを得ない人間の卑屈なさまをも容赦なく映し出す成瀬ワールドの中に、私を含む彼の幅広い支持者たちは、恐らく、等身大の自画像を見て、どこかで安堵するのではないだろうか。

嫉妬や不信、失望、諦めや居直りが渦巻くような「晩菊」のリアリズムは、私たちの日常性そのものだった。望月優子のモンローウォークで終わるラストシーンの爽快感は、人間を見る眼の成瀬の確かさが創り出したものとしか言いようがない。 



2  「晴れのち雨」―― 借金取りの女



―― 映像を詳細に追っていく。


そこだけは何とか舗装されているように見える裏通りに、眩しい陽光が照り返し、そこを商店の宣伝カーが通り抜け、まだ歩行者が支配していた道路の傍らを子供連れの母親が、心地良い律動感を保って悠々と歩いている。両側に定間隔で並立する木製の電信柱の脇には、如何にも時代を思わせる自転車が数台並んでいる。その道路から分岐する狭い裏道を、元気一杯の子供たちが駆け抜けていく。男の子たちは一様に坊主頭で、女の子たちは一様に御河童頭(おかっぱあたま)だった。

これが、「晩菊」のファーストシーン。

成瀬映画に特徴的な映像の入り方は、大抵、このように時代を写す庶民の生活の風景描写で彩られている。それが、殆ど何も起こらない最も地味なる映画の導入部であるとするならば、一つ一つのカットがそれぞれ映像を象徴する味わい深い布石になっているので、観る方も柔和な眼差しでそれを受容する構えを自然に形成することになる。多くの成瀬ファンは、このようにして、彼の映像宇宙に這い入っていくのであろうか。

「おはようございます」

裏通りから路地裏を抜けて、一人の中年男がきんの家を訪ねて来た。

丁度、金勘定をしていたきんが後ろを振り返ると、女が二人で住むには充分な間取りの家に、ある種の風格を与えるような柱時計は11時25分を指していた。

板谷(いたや)と称するその中年男は、以前からきんの仕事上の相談相手になっていて、この日も不動産の物件の相談のため女所帯の家にやって来たのである。きんの仕事の本業は金貸しだが、それ以外に板谷のサポートを受けて、不動産投機などで貪欲に蓄財している様子だった。

一方、お手伝いさんの女の子は聾唖者で、きんの家に住み込んでいる。彼女は発語できなくても、きんとの意思疎通は万全のように見える。お互いに手話のような遣り取りを普通に交わす中で、静寂な空間に不思議な存在感を醸し出していた。

「まあ、戸締りでも気をつけてください。春はとかく物騒ですから」

手付金の20万円を受け取った板谷は、そう言って、見るからに物騒な女所帯の家を後にした。

女が一人で自立して生きていくことは大変な社会の只中に、きんは自らの才覚によって時代と繋がっている。彼女の蓄財を守るものは、彼女自身の強い覚悟の内にしかないように思われる。それが、一切の不要な描写を省いたファーストシーンが、観る者に端的に説明するカットとなっていた。

裏通りにちんどん屋の天を突くような明るいメロディが、曲線的な流れを描いて踊っている。そんな風情を垣間見せた後、夫と飲み屋を営んでいるのぶの店に、きんは裏口から入って来た。

「あら、裏から?」
「この間みたいに裏から逃げ出されたら、困ると思って」

この会話の中に、既にのぶきんの関係の優劣性が覗われる。

毎月の借金の返済を求めるきんの正当なる督促に対して、商売の稼ぎが悪かった先月は、きんの取立ての気配を感じたのぶが、店の裏口から姿を消したに違いない。

しかし、今日は違っていた。

予め用意していた返済金をきんの前に揃えて、のぶは商売が上向きかけたことを説明したばかりか、その余裕の勢いで、「子供を作りたい」と考えているなどと誇って見せた。

「止めなさいよ、今更」

きんは、手渡された金を数えながら冷ややかに答えた。

「でもねぇ、まだ産めないことないと思って・・・・」
「人参の生ばかり齧(かじ)っているんですよ」

人の良さそうな亭主は、ここで横槍を入れてきた。

「あんた黙ってらっしゃい」とのぶ
「こいつ、人前だと威張ってばかりいる」と亭主。

この子供のいない中年夫婦の関係の良好さが伝わってくるような、細(ささ)やかなシーン。

お茶の勧めを断ったきんは、去り際に皮肉を言うことを忘れなかった。

「これから、たまえさんの所に行かなくちゃ。もう、あの人には困っちゃうわ。三月も溜めてんのよ。大きな息子を持ちながら、子供なんて当てにならないものらしいわね」

子供は疎か亭主もいないきんには、のぶの話は不快な情報でしかない。勿論、それが嫉妬感情から来ているものではないことは、まもなく分ってくる。席を立ちかけたきんに、今度はのぶの方から軽いカウンターパンチ。

「ねえ、おきんさん。関さんがよく来るのよ、この頃。あんたに是非会いたいって。あたし、はっきり家(うち)教えないでいるんだけど」

きんの顔が一瞬変わった。

「来たって会いはしないわよ、あたし」
「でもねぇ、話を聞いてみれば可哀想よ。満州ずっと流れてる間、あんたのことが忘れられなかったって。そりゃそうでしょう?男の一生台無しにしたようなもんですもんね」
「人聞きの悪いこと言わないでよぅ。関さん来たら、そう言ってちょうだい。おきんも老いぼれてね。その日その日、やっと息ついていますって。逆さにしたって、何も出るもんありませんって・・・・」

そう言い放って、きんは足早に立ち去った。「また来月も宜しく」という言葉を残して。

「あの挨拶の立派なこと・・・」とのぶ
「しかし、何となく違うね」と亭主。
「何が?」とのぶ
「芸者していただけあってさ、あの首筋の辺り・・・」
「ふん・・・・男を手玉にとって、阿漕(あこぎ)なお金稼いでさ。関さんだって一度は心中までした仲じゃないか。おまけに男の方だけ殺人未遂で刑務所に入れられてさ。ろくなことないから、あの人」

この中年夫婦の会話によって、きんの過去の一端が明らかにされる。少なくとも、彼女の過去が男の問題でトラブルを起し、かなり苦労したに違いないことを。

きんが今度訪れたのは、たまえの勤めている旅館。しかし、そこで掃除婦をしているはずのたまえは病気で休んでいた。

その足で今度は、きんは雑役婦をしているとみを訪ねた。

彼女は生来の元気者らしく、ギャンブル三昧の生活を送っていて、いつも金欠状態が続いている。そんなとみにひと通り愚痴を零した後、きんたまえの家を訪ねた。彼女は病気で床に伏せっていた。

「仮病かと思ってさ、おとみさんのとこ寄って聞いてきたの・・・どこも悪そうに見えないじゃないの」
「心臓なの。立ち上がると眩暈(めまい)がしてね」

散々愚痴を零すたまえに対して、きんは借金の返済を迫るだけ。

「二、三日待ってちょうだい」と弁明するたまえ。昔芸者で売った色気を残す中年女も、今や、そのひ弱さを露呈するばかり。

そこに、彼女の唯一の生き甲斐である息子の清が戻って来た。

就職試験で不調だった息子の愛想が悪く、「早く返しちまえよ」との聞こえよがしの厭味がきんの耳に入って、「二、三日したらまた来ますから」という一言を残して、きんは退散した。この日不調だったのは、まさに借金取りが不成功に終わったきんの方だった。



3  愚痴を零す女、悪口を言う女



借金取りが退散した後に残された、母と一人息子。そんな母たまえの前に、息子の手から千円札が二枚置かれた。

「どうしたの?これ」と母。
「夕べはどうも済みませんでした。泊まってきてご心配だったでしょ」と息子。
「このお金、どうしたっていうのよ」と母。
「あいつの顔に叩きつけてやりたかったな」と息子。母の質問に答えない。
「清、あんた何か悪いことでもして・・・」と母。

答えない息子を余計に案じて愚痴を零すだけ。そんな母に、息子は突き放すように言った。

「だからね、僕はママの代わりに、他の女に可愛がってもらうことにしたのさ」

息子は年上の妾に世話になっていることを告げて、心配性の母を深く傷つけた。母は今、息子と大喧嘩をする気力をも失って、足早に家を後にした息子のいない寂しい部屋の隅で、頬杖をつくしかなかった。放心状態なのである。

夜になって、寝床に臥しているたまえの家にとみが戻って来た。二人は同居しているのである。元気のないたまえに、とみはパチンコの景品を並べて見せた。

寝床から這い出して来たたまえと、とみの会話。

「ねぇ、おきんさんたら何でしょ、あの、人を小馬鹿にしたような顔つきは。昔は私の方がずっと売れっ子だったんだわ・・・・ねぇ、何様だっていうのさ。たかが金貸しのババァじゃないの・・・・今度こそ競輪行って稼いで来るわ。競輪で稼ぎ、パチンコで稼ぎ、まだまだ稼ぐ手は沢山あるんだ」
「大変な元気。幸子さんお金でも届けてきたの?」
「ううん、あんな子、ちっとも来やしない。せっせと働いて、お金貯めてるんでしょ」
「ねぇおとみさん、清に女ができたらしいの・・・・それも、よそのお妾なんですって」
「へぇ、洒落てんじゃないのよ」
「・・・・あたし幸子さんが羨ましい、しっかりしてて。きっといいお嫁さんになるわ。あんたも早く孫でも持っておきんさんに見せてやんなさい、悔しかったら」
「おきんさんも、ああもコチコチになって貯めて、一体、幾ら位持ってるんだろう」
「さあねぇ」
「あの人も貯めてばかりいないで、少しは施しゃいいのよ。色恋一つただじゃしないって風だもの・・・」

一頻りきんの悪口を言ったとみに、たまえは問いかけた。

おとみさん、あんたもこれからずっと一人でいく気?」
「そうよ。そのつもりよ。なのに何だかんだって、うるさくてさ、人が。たまえさん、あんただってそうでしょ。ホテルにいりゃぁ面白いことが・・・」
「何にもないわ。あたしは清のことばかり。なのにあの子ときたら・・・」
「つまんないわよ、ヤキモキしたって。それより若いつばめでも探して、自分の子代わりに可愛がってやるのよ。あたしが今眼をつけてんのはね・・・」

とみの言葉を遮って、たまえは息子のことばかり。

「ほんとに清、今夜帰って来ないのかしら・・・」

息子のことしか頭にないたまえに対して、とみは最後まできんの悪口に終始する。彼女には、遥か昔、きんの世話をした恩を仇で返されたような恨みがあるのだろう。二人の殆ど生産的でない会話の中にこそ、芸者を辞めた後の苦労多き人生の真実のさまが露呈されていた。



4  クールなしっかり娘と、だらしなく依存心の強い母



ラーメン屋でのこと。

儲けた金ですぐにとんかつを食べてしまうような、経済観念の乏しいとみは、麻雀屋に勤めている娘の幸子を職場に訪ね、金をせびっていた。テーブルの横の鏡に向かって髪を整える娘と、その鏡に自分の顔を写し鼻毛を抜く母。

このユーモラスな描写の内に、それぞれの人生の躍動感の違いがコントラストに映し出されていて、それは、「あたしも話がある」と言って、母を誘い出した娘の告白の布石にもなっていた。

「お母ちゃん、あたしね、結婚するの」と娘。
「え、結婚?」と驚く母。
「どうしても、結婚したいって言うのよ。あたしがとっても好きだって」

その相手が、店に来る少し年上の腕に職を持つ男であることを説明する娘に対して、母は自分の経験から娘が男に騙されていると信じて反対する。しかし母の本当の心根は、結婚によって経済的に頼れる対象を失う不安感にあった。

クールなしっかり娘と、だらしなく依存心の強い母の好対照ぶりは、如何にも、母に頼らず生きてきた娘の自立心を際立たせていた。珍しくうな垂れるとみの表情が滑稽ですらあった。

娘に頼れなくなったとみは、あれ程までに罵っていたきんの元に駆け込んだ。借金のためである。

とみきんの前で、思いっ切り愛想を振り撒いた。その価値観や生活観念が何もかも異なる二人の中年女の会話には、情感的に噛み合う必然性などありようがない。その表情が醸し出す、学習的年輪の重量感の差は歴然としていた。



5  憤怒する女たち



きんの家に一通の手紙が届いたのは、借金を言い出せないとみが些か腐っているときだった。手紙の差出人の名は田部。それを知って、きんの表情は緩んだ。田部こそ、かつて惚れ合った男だったのである。

そんな上機嫌な表情のきんだったが、とみの前では決して隙を見せることがない。古い馴染みの継続力はとうに壊れていたのである。結局、とみは目的を果たせずに、無愛想な態度を置土産にして、きんの家を足早に立ち去った。

たまえが掃除婦をしている旅館に、息子の清が訪ねて来た。

彼の訪問の目的は、新しい就職先が北海道にあり、そこに単身赴任するということ。母の淡々とした意外な反応に、息子は憎まれ口を叩いた。

「良かった。俺はもっとママがびっくりするかと思ったんだ。そうだ、ママだっていいね。厄介払いができてね」

沈黙を守る母の態度に何かを察知した息子は、今度は励まそうとする。

「でもママだって、いつまでもて若かないんだから、体大事にしてね・・・北海道だって、汽車に乗ればわけないんだしさ、良かったら、今に来ておくれよ。汽車賃くらい送るよ」

掃除をしていた母の手が止まって、すかさず反応した。

「分ったよ、お前さんが悪い息子だってことを。だって、そうじゃないか。ママの知らないところで、一人前なことをちゃんちゃん(きちんきちん・筆者注)とやってのけてるんだもん。女と別れたり、就職決めたり・・・」
「金もあるんだ。北海道行きの支度金。一万円もらったんだ。ママに半分置いておくよ」
「バカ、そんなお金もらえるかい。バカ、バカ!」

母の我慢はここで切れてしまった。今や泣きながらでも、掃除の作業を続けるしかなかった。

遣り切れない思いの女がここにもいた。とみである。

彼女は金ズルを失って、のぶの店で酒を飲んでいる。そこにもう一人、遣り切れない風情の男がいた。きんのかつての心中相手であった関である。しかしとみは、その男をまだ特定できないでいた。相手が誰であっても、きんの話題に触れると、とみはその感情を抑えられないのだ。

「え、おきん?真っ平!あんな名前は酒の味が不味くなるわ。何だって言うのよ。小金を貯めたからって偉そうに、昔の朋輩見下して。この辺、自分ばかりが人間でございって顔してさ。あんな奴、どっかの犬に喰われちまえばいいのよ」

とみは自分の話し相手の関が、きんのかつての心中相手であることを、ようやく思い出した。

「あ、そうそう思い出した。おきんさん殺した人?」
「いえ、殺したんじゃありません。一緒に死んだんです。死に損なったんです・・・」
「あんたそのとき、きれいさっぱり殺しちまってくれりゃよかったのに」
おきんに、会われたんですか?」
「そうなの。会ってね、振られてきたの」

物騒な会話が飲み屋の一角で捨てられていたが、そこでまだ捨て切れないとみは店を出て、辺りを荒れ回っていた。それを止めるのぶと、その亭主の狼狽ぶりが滑稽だった。



6  最後通告をつきつける女



一方、きんは田部からの手紙を舐めるように読んでいた。

「一度ゆっくり、会いたいと思いながら、なかなか時間がありません。二、三日中にやっと暇が作れそうなので上がります。いずれはお目にかかって・・・・」

この映像を通して、初めてきんという金貸し女が見せる、何とも言えない柔らかな喜びに溢れた表情が、そこに印象的に映し出されていた。若い頃の芸者時代の写真と、田部の写真を取り出して、それをまじまじと見るきんの顔には、恍惚感のような思いが滲み出ている。彼女は一日千秋の思いで、かつての恋人を待っているのだ。

しかし、きんの家に現われたのは、田部ではなく、関だった。

この男もまた、きんと因縁浅からぬ関係を持つ人物。その訪問の目的は分らないが、きんにとってこの男は既に過去の人物。

だから関が入ってくる早々、「何しに来たんですか?」と素っ気ない。

「俺は大いに会いたかったんだがね。どこもかしこも、昔と丸っ切り変わっちまうと、せめて昔の人にだけは会いたい、そういう気持ちになるんだがね」
「どうも、お生憎さまですいませんけど、あたし、昔のことなんて、考えたってぞっとすることばかりなんです。昔の知り合いだって、殆ど付き合ってなんて、いやしません」

男は自分の過去の不遇を嘆くばかり。それを非難されて、男は弁明する。

「・・・・いちど躓(つまづ)くと、なかなか立ち上がれないのが人間だっていうことさ」
「お互いさまよ。あたしもあんたって人に会ってからこっち、人間なんて誰も信用できないんです。上手いこと言って、皆相手を騙すばっかり。あたし、お金には汚いけど、人さま騙したことなんてないですよ。お金さえあれば、身寄りがなくたって野垂れ死にすることなんてないものね」

ここまで言われても、男には誇りがなかった。

おきん、俺に一万円貸してくれ。一万円あったら、俺は東京をずらかって、九州から船に乗れるんだ。な、頼む、頼むよ」

男は警察に追われているのである。

「あたしがどうして、あんたにお金をあげなきゃならないんです?」

きんの冷淡な反応に、男は愕然とする。

「そんな薄情な」
「死ぬのが嫌だって言うのに、無理やり咽元に刃物を刺したのは誰なんです?女の初めの出だしの日に、ピシャリといきなり平手打ち喰らわしておいて、よくもやって来られたもんだ」

最後通告のようなきんの言葉には、女一人、厳しい世の中を渡ってきた意地と誇りがある。この描写で、きんの過去の事件が無理心中であったことが露呈された。男はもう何も反応できない。

おきん、ごめんよ、来て悪かったね」

その言葉を残して、男はきんの家を去って行った。その寂しい後姿は、人生に敗れた者の無力感を晒していた。



7  束の間の欣喜雀躍



きんたまえの家を訪ねた。

溜まった借金を、今度こそ返済してもらうためである。きんを迎えるたまえの表情には笑顔が満ちていた。

「すいません。長いこと延して。これで、三月分全部ありますけど」

笑顔の内に借金を返済するたまえの胸中には、何かが吹っ切れたような感情が見え隠れしていた。「いいの?」と確かめて、その金を受け取るきんに、たまえは気持ち良さそうに反応した。

「ええ、いいのよ。先のことは、また先の風が吹くから」

まもなく、息子を失うことになるたまえにとって、きんに対する債務感情をも払拭したかったのだろうか。未来の見えない中年女にも、自分の人生にそれなりの区切りをつけていく覚悟があるようにも見える。その辺が、その日暮らしのとみと決定的に異なるところなのだろう。

きんたまえの家で寛いでいるとき、とみの娘の幸子がやって来た。

勝手に結婚を決め、生活場所まで確保した若い娘は、母が同居するその家に戻って来たのである。自分の荷物を取りに来たのだ。そのドライさは、いつの時代にも存在するだろう若者たちの共通した生態であるとも言えようか。

田部がきんの家を訪ねて来た。

欣喜雀躍(きんきじゃくやく)するようなきんの表情が、軽やかなメロディにのって印象的に映し出されている。田部を茶の間に待たせて、隣室で化粧をするきんの表情には、若い娘が胸をときめかせたような横溢した感情が零れ出していた。

「あ、嫌!まあ、そこに座ってらっしゃいよ。女には女の仕度があるんですもの」

障子を開けて覗き見する田部に対する、きんの反応の燥ぎぶり。それは、これまで抑えていた中年女の感情の噴き上げを見せていて、まるで映像のクライマックスを示唆するような描写だった。
小さな卓袱台(ちゃぶだい)を囲んで、男と女が向かい合っている。

既に中年の盛りを超える年齢に達しているとは言え、かつて愛し合った男女が、その関係を遮蔽する何ものもない夜のしじまの中に、そこだけが照明光で照らされるようにして向かい合っているのだ。しかし男の口から出る言葉は世俗的で、不景気な話ばかり。少しうんざりしたように、きんは立ち上がり、縁側の硝子戸を閉めに行った。

「怒ったの?折角、会いに来たのに、つい愚痴が出ちゃうんだよ。危ない綱渡りのような暮らし続けていると・・・」

「田部さん、あなたって、そんな弱音を吐く方じゃなかったでしょ?おきんがそんな哀れに見えるんですか?だから同情して下さるのかしら。子供もない、男もない、あんな女の子と二人暮しで。でもね田部さん、昔の連中に会うと、口じゃ羨ましそうなこと言ったって、実は心の中で舌を出しているのが、あたしには手に取るように分るんですもの。子供も男も、いずれは女の傍から消えてなくなるものじゃありませんか。自分だけよ、後に残るのは。あたしがあなたに会って、こんなに喜んでるのだって、あなたがたまに会う方だからなんですわ。もうね、散々男のご機嫌とってきて、今更、朝から晩まで男と一緒に暮らすなんて、やなこった」

きんの中で、何かが一気に壊れていった。

壊れたものは、もしかしたら自分の中で殆ど失っていた、ときめきの感覚を蘇生させてくれるかも知れないという淡い思いである。その思いを壊した者が、まだ自分の眼の前にいて酒を飲んでいた。

きんのモノローグ。

「この人は何しに来たのかしら。昔のように燃えてる気持ちが何にもありゃしない。こんなつもりじゃなかったんだわ。関みたいな男に付きまとわれて、逃げたい一心で縋っていた人。戦争前で、まだ金ボタンの学生だった。広島へ兵隊でとられた時、何遍訪ねて行ったろう。あの頃はあたしも一筋になれたんだけど・・・」

男の前で三味線を弾くきん。しかし、そのモノローグはあまりに空しい。

「こうやっていると昔と同じような格好だけど、もうあたしたちの間に何にもありゃしない。灼きつくような二人の恋も、今になってみると、何の跡も残っちゃいないんだわ」

酩酊状態になって、男は遂に本音を吐き出した。

「ねえ、二十万円くらい何とかならない?」

男の目的は女としてのきんではなく、金貸しとしてのきんとの再会だった。

「ふん、やっぱり金が目当てで来たんじゃないの。昔の女に頭を下げて、ああ、みっともない。うっかり酔ってなんかいられないわ」

きんは心の中で、既に自己防御の体制に入っている。

「田部さん、あんた変わったわね」ときん
「どんな風に?」と田部。
「とっても平凡になっちゃった」ときん
「へえ、平凡にねぇ、それが人間なのさ」と田部。
「ねえ、電車大丈夫?」ときん。彼女は男を早く追い出したいのである。
「もう帰らないよ。こんな酔っ払い、追い出すのか・・・・」と田部。

男はもうきんの家で泊まるつもりでいる。彼はまだ金策の目的を果たしていないのだ。そんな男がトイレに行っている間、きんは男の若かりし頃の写真を火鉢で燃やしてしまった。きんにとって、もう過去の甘美な思い出は、消滅させるべき何かでしかなかったのである。

金を求めた男が、それを拾えなかった場所で酩酊の夜を過ごし、かつて恋を失った女が、それを拾えなかった場所で鬱憤の夜を過ごしていく。

その辺の描写を描いた林芙美子の原作には、こう書かれていた。

「長い年月に晒されたと云う事が、複雑な感情をお互いの胸の中にたたみこんでしまった。昔のあのなつかしさはもう二度と再び戻って来ないほど、二人とも並行して年を取って来たのだ。二人は黙ったまま現在を比較しあっている。幻滅の輪の中に沈み込んでしまっている。二人は複雑な疲れ方で逢っているのだ。小説的な偶然はこの現実にはみじんもない。小説の方がはるかに甘いかも知れない。微妙な人生の真実。二人はお互いをここまで拒絶しあう為に逢っているに過ぎない」(「晩菊」林芙美子集 新潮日本文学 より)



8  円環的な日常世界を繋ぐ女



二人の女が酒を酌み交わしている。たまえとみである。

息子を北海道に送る前夜のこと。二人はしみじみと語り合っているが、その内実はお互いの寂しさを癒し合うもの。

「でもおとみさん、どんなに苦しい思いしてきても、子供は産んでおいて良かったね」
「そりゃそうよ。あたしなんかね、死んじまいたいと思ったこと何度あるか知れないけどさ、やっぱり子供が可愛くて生きてきたんだ」
「子供のために乾杯・・・・」と二人で杯を合わせた。

それでもたまえには、なお遣り切れないものが残っている。

「その子、もうすぐ北海道へ」
「しつっこいね、あんたも。今まで退屈させないでくれただけでも、有り難いと思いなさいよ」

たまえの息子に対する未練は、酒を飲むくらいでは当然断ち切れない。娘を失ったとみは酒を飲み、歌を歌うことで、少しでも何かを晴らせている。二人の性格の違いが際立つ場面だった。「女の幸せとは何か」という重いテーマを、成瀬はいつも分りやすい描写で観る者に突きつけてくるのだ。

翌日、その目的を果たせずに田部は帰って行った。

入れ替わるように、板谷がきんの家を商談のために訪れている。柱時計の時刻は、11時25分を指していた。ファーストシーンと、ラストシーン近くの描写が重なったのである。きんの日常は、その間、殆ど大きな変化がなかった。始めがあって、終わりがある。

因みに、成瀬的映像宇宙の、その日常が円環的に流れていることを指摘したのは、「映画学」の専門的研究者であるスザンネ・シェアマンだった。(「成瀬巳喜男 日常のきらめき」キネマ旬報社刊)



9  別離の後のモンローウォーク



ラストシーン。

ここでは、この映像の主要な登場人物である三人の中年女性の、それぞれの時間を区切っていく印象的な描写によって、完結に至るさまが綴られていく。

彼女たちのこの一日は、既に失った女(とみ)と、今これから失っていく女(たまえ)、そして、今朝失ったばかりの女(きん)の別離の後に開かれていく、新たな日常性へのリスタートの様子が、恰も、「それでも人生は続く」という、特に変哲のない日常的な描写によって淡々と括られていくのだ。

たまえとみは、一時間後に北海道へ出発する清と共に喫茶室に居た。ただそこに居て、時間を待つだけの清に対して、母のたまえは未だ整理つかない自分の感情に翻弄されている。

「ねえ、清、もしママに何か変わったことがあっても、帰って来ないでいいよ。ママのことだから、カァッとなって急に死にたくなることがあるかも知れないけど、いいよ、帰って来なくて・・・」

息子に励まされて、ようやく腰を上げる母。映像は、息子と母の別離をこの描写だけに留めている。次のカットは、清を送った二人の中年女が陸橋で列車を見下ろすシーン。

「心配ないよ、若い者はうまくやっていくよ」ととみ
「うん、あたしたちもしっかりしなくっちゃね」とたまえ。その声には、一貫して張りがない。

何とも言えない、未知なる寂しさの中での二人の会話。

その二人の前に、一人の若い女性がモンローウォークで通り過ぎていく。

それを見たとみは、「あたしにだってできるよ」と言って、白昼の往来をモンローウォークでのパフォーマンス。元気のないたまえを励まそうとするとみの滑稽な仕草に、たまえはその表情を緩めた。二人の間に笑いが戻った瞬間だった。それは別離の辛さから、そのうち解放されていくであろう二人の、決して明るいとは言えない未来への繋がりを僅かに保持する表情でもあった。



10  「喰うか喰われるかって言うのは男だけの台詞じゃないわ」



一方きんは、板谷を伴って、とある駅に降り立った。

板谷の情報がもたらした新たな不動産の物件を見るために、自宅を後にしてきたのである。田部を送り返した後のきんの心には、今やビジネスのことしか入り込む余地がないかのようだった。ここには、別離を引き摺らない女の意地が眩しいまでに輝いていた。

物語への言及の最後に、きんの言葉を紹介しておく。

それは、この日、慌てるように訪ねて来たのぶの報告に反応したときの言葉である。のぶきんに、関が警察に逮捕されたことを告げたのである。そのとき、きんはきっぱりと言い放ったのだ。

「あたしゃね、関さんなんて人が刑務所に入ろうと、首を括ろうと、そんなことに構っちゃいられないのよ。男なんて誰も彼も、皆女の生き血を吸って生きてるんだもの。ちっとも隙を見せられない。喰うか喰われるかって言うのは男だけの台詞じゃないわ」

映像を括るに相応しい、一人の中年女の極めてインパクトの強い表現が、私には強烈な印象を残すものになった。


*       *       *      *



11  それでも女は生きていく



高度成長以前のこの国にあって、手に職を持つ機会すら少なかった女性たちが、なお自立していかねばならない環境下に置かれたとき、その自我の拠って立つ安定的な基盤を一体どこに求めたらいいのか、という重くて切実なテーマが、映像全体を通して滑稽と悲哀に満ちた筆致で問いかけられている。そこに映し出されたあまりに写実的な人生模様が、観る者によっては大いなる共感であったり、或いは、嫌悪感であったりというような複雑な反応を醸し出す何か、それがこの作品にはあった。

主要な登場人物は、三人の中年女。

彼女たちに共通しているのは元芸者で、現在は亭主を持たない女所帯であること。

この三人はそれぞれ異なった執着心の対象を持っている。きんは「金」であり、たまえは「息子」であり、とみは、「娘」ないし、「ギャンブル=遊び金」である。

それらが彼女たちの、リアルタイム下に於けるそれぞれの自我の拠って立つ安定の基盤のように思えるが、たまえとみに関しては、その拠って立つものの揺らぎの描写に終始していて、その漂流のさまが何とも言えない遣る瀬なさに充ちていた。

共に自立心が稀薄で、依存性の強い性格が、瑣末なエピソード描写の内に残酷なほど炙り出されていて、しばしば目を背けたくなるが、それにも関わらず、諧謔性に満ちたリアルなさまに引き摺り込まれてしまうのは、そこに一切の奇麗事な描写が徹底的に排除されているからに他ならない。

自然な演出と自然な演技の表現的結合が、そこに見事な映像的達成を具現したのである。等身大の宇宙の創作的な展開で勝負する映像作家の、その真骨頂を見る思いがする。

一方、きんについての描写は他の二人より遥かにシビアで、精緻なものがある。

彼女は最も自立心の強い女だが、しかしその背景には、そのように生きていかねばならなかった絶対環境が横臥(おうが)しているのである。

それはプロットの繋がりの中で理解されるが、それでも、ここまで他人を信じられなくなるような人間性に反感を覚える者も多いだろう。然るに、敗戦の苛酷な状況下で、一介の元芸者がその身過ぎ世過ぎを確保するには、一体、どのような処世術が可能だったのか。

男に捨てられたり、騙されたり、無理心中の片割れにされそうになった女が、もう男に頼らないで生きていこうとしたとき、彼女は体を売ることなく、その才覚で未来の扉を開くしかないだろう。

きんはそれを成し遂げたのである。

敗戦から間もないこの国が均しく貧しかった時代に、女たちはその拠って立つ自我の安定の基盤をどこに求めたのだろうか。

恐らく家庭を作り、子供を育て、厳しい生計を遣り繰りしながら、その細(ささ)やかな小宇宙に情愛の対象を求めていくことであったのか。

この頃、女が自立して生きていくのは極めて困難な時代であったから、大抵は、家庭という宇宙で自我を自己完結するラインに幸福を見出したに違いない。

ところが、この映画の登場人物にはそのような宇宙が全くないか、仮にそれがあっても、とうに崩れかけている環境下で、中年以降の人生を拓かねばならない運命を負って日々を過ごしている。

それぞれ再婚して新しい家庭を持つ可能性はあるが、映像はそれについて楽観的な描写を提出することはない。

きんのようにほぼ確信的に覚悟を括って男を断ち、その才覚と現実感覚によって、まもなくやって来るであろう、高度成長の時代と上手に繋がっていく可能性をふんだんに持つ、頼もしい自立心があれば何の問題もないが、それでも彼女の中で、「金」だけで人生の至福に逢着する未来像が確保されているかどうかについては不分明である。彼女もまた、中年女性に残された孤独な時間との折り合いが、常に見えない部分で切実なテーマになっていくに違いないのだ。

きんの比較的安定的な人生軌道と対極にある、たまえとみ

依存性の強い彼女たちに再婚し、家庭的生活をリスタートする可能性はないとは言えないが、少なくとも、とみのような杜撰で刹那的な性格の持ち主が、幸福な晩年を送れる確率は高いと言えないだろう。

才覚もなく、手に職を持たない彼女たちは、実子に見放されてしまったら、何か堅気のパートのような仕事で、相変わらず生活を繋いでいくしかないのであろうか。

自分たちの思いをある程度汲み取って、依存するに足る何者かと繋がれなかったとき、二人の余生は、決して希望に満ちた軌道を作り上げていくのは困難であるような気がするのだ。

この映像は、かくも厳しいテーマを内包していて、あまりに切実である。

そんな切実なテーマを深刻ぶって描くことなく、どこまでも成瀬らしく淡々と、市井の其処彼処に垣間見える人生模様を、丸ごとそのまま切り取ったような自然さで括り切った秀作、それが「晩菊」だった。

もう一度、私なりにその主題を要約すると、こういう文脈になるだろう。

「亭主(男)を持たない中年女性がそのリスタートに於いて、その自我を安定させるに足る、拠って立つ何かを持ち得るか、或いは、いかにそれを継続的に保障し得るか、そのためにはどうあるべきか、どうすべきなのか」

それでも人は生きていく。

とりあえず、今死んだら困るから生きていく。死ぬに足るだけの理由がないから生きていく。時代の、眼に見えない移ろいの中で生きていく。

それでも女は生きていく。盛りを過ぎても生きていく。男なしでも生きていく。思うようにならない人生を生きていく。

始まりがあって、終りがある。

そこに取るに足らないことしか起こらなくても、円環的な日常性を巡って、巡って、巡り抜いて、それでもそこにしか辿り着かない時間の海を漂流するようにして、一時(いっとき)の心地良さと出会うために生きていく。

人生は所詮、なるようにしかならないのだ。

運命の悪戯もあれば、際どい分岐点もある。

どれほど努めても、何ものにも結晶化できないこともある。何もしなくても、向こうから天使が誘(いざな)ってくれるときもある。

一切は幻想かも知れないし、何事も不定形な観念の饒舌なる遊戯かもしれないのだ。

それが偶然だったか、それとも必然だったか、実は誰も定められないし、そこに残された固有の思いだけが、その軌道の評価を括っていくだけなのである。

それでも人は生きていく。

それだからこそ、人は生きていく。定まっているようで、定まらない人生の悪戯を信じることができるから生きていく。

くどいようだが、なお書いていく。

モンローウォークの向こうに何があるか分らないけど、それでも彼女たちは生きていくのだ。

「晩菊」とは、遅咲きの菊のことである。

このタイトルと映像の内実の落差に失笑を禁じ得ないが、モンローウォークで括った映像の、ほんの一歩突き抜けた律動には、「思うようにならない人生」を生きていく女の哀切なる余情は微塵もない。それでも女は生きていくからである。

(2006年3月)

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