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2011年2月5日土曜日

母なる証明('09)      ポン・ジュノ


<「忘却の舞い」を必要とする母がいて、「狂気の舞い」に追い込まれた母がいた>



1  深く澱んだ〈状況〉の只中に置き去りにされて



本作の中で、最も重要と思える会話を紹介する。

そこには、本作の基幹テーマとなっている、母性の過剰な包容力のルーツとも思える会話が拾われているからだ。

会話の主は、本作の主人公である母と、その一人息子。

肝心の母には、固有名詞がない。

それは、単に紹介されないだけでなく、その母の人格性のうちに「母性」という普遍性を被せてあるからだろう。

一人息子には、固有名詞がある。

その名は、トジュン。

後述するが、会話の場所は、静かな田舎町の警察署の接見室。

トジュンは、静かな田舎町で出来した、「女子高生殺人事件」の被疑者として留置されていた。

逮捕の「決め手」になったのは、老朽化したビルの屋上の外壁から、如何にも晒し者のように放置されていた女子高生の遺体の近くに、トジュンが大事に保持していたゴルフボールが落ちていたからである。


しかし、知的障害である息子のトジュンが真犯人であることを信じない母は、息子の逮捕以来、一人で真犯人を捜すべく奔走する。

と言うのは、無罪の信用性の問題や、支払い能力がないと看做されたこともあって、弁護士に巧みに逃げられた挙句、彼女の無謀な行動をサポートする何ものもなく、彼女は孤軍奮闘していたのである。

接見室で、母に正対するトジュンの右目は腫れていた。

トジュンは、留置施設での被留置者の男に「バカ!」と嘲られ、その男に殴りかかっていった挙句、逆襲されたのである。

トジュンにとって、「バカ!」と嘲られる行為の一切が、相手からの「宣戦布告」と考えるほどに、知的障害に対する差別意識への反発が強いのだ。

この性格傾向が、本作で描かれた「女子高生殺人事件」の重大なキーポイントになるが、それも後述する。


以下、母子の緊迫感溢れる会話を再現する。

「でも、不思議なんだ」とトジュン。
「何が?」と母。
「ボコボコにされてみたら、思い出したよ」
「どんなことを?」

殴られて腫れた右目を隠しながら、トジュンは信じ難いことを話し出す。

「大事なこと」とトジュン。
「何を?」と母。
「母さんが俺を殺そうとした。5歳の時だろ?」

ここで、トジュンは腫れた右目を剥き出しにして見せた。

「栄養ドリンクに農薬を入れて飲ませたよな?」

突然、常軌を逸した叫びを上げる母。

「あのことを覚えているなんて!」
「本当のことだろ?俺を殺そうとした」
「殺すだなんて。心中するほど追い詰められたのよ」
「俺に先に農薬を飲ませただろ」
「お前が先に飲まないと、私が飲めないわ・・・辛かったのよ。お前と私は一心同体。二人きりだから」

その直後、息子の興奮を鎮めようとして、母は鍼(はり)を打とうとする。

彼女は、潜(もぐ)りの鍼灸(しんきゅう)師なのである。

「悪い記憶や、病気の元になる心の凝(しこ)りを消してくれるツボがある。太腿を出して。秘密のツボよ。膝の後ろの窪(くぼ)みから5寸上、そこから・・・」(これは鍼灸の事実を反映せず。念の為/筆者注)

そう言い放つ母は、今や、息子の「悪い記憶」や「心の凝り」を消去するという行為以外に為す術がないのだ。

「今度は、鍼で俺を殺すのか?もう絶対に来るな。来ても、俺は絶対会わない」

これが、息子の反応だった。

母だけが、深く澱んだ〈状況〉の只中に置き去りにされたのである。





2  「闇の記憶」を累加させた「狂気の舞い」、そして号泣する母



この警察署の接見室の一件によって、母親は衝撃を受ける。

母親の中で封印していた、最も重い過去の記憶が蘇ったからである。

心中事件の根柢には、母が吐露したように、恐らく、夫と別れて経済的に困窮した生活風景の凄惨さが横臥(おうが)していたのだろう。

だから母には、無理心中未遂事件を図った行為は、それ以外にない忌まわしき選択肢であったのかも知れない。

いずれにせよ、幸か不幸か、そこで使用された農薬が致死性の低いものであったため、一命を取り留めたが、その後遺症の故に、トジュンは脳の器質障害によって、知的障害を惹起させるに至ったのである。

無理心中未遂事件は、トジュンに対する母の関係の基本スタンスを決定付けていったと考えられる。

即ち、「お前と私は一心同体」と言わさしめる、歪んだ母子関係が形成されていったに違いない。

贖罪意識が、母の自我に深く根を張っていくことで、トジュンに対する関係の基本スタンスが、「無限抱擁」としての母性の、殆ど病理と言っていい包容力を過剰にしていったのではないか。

そう考えざるを得ないほどに、無理心中未遂事件が、母子関係の基本構造を決定付けていったのだろう。

ともあれ、母を指弾した息子は、決して、その忌まわしき記憶を、「長期増強」(神経細胞間の信号伝達を持続的に向上させること)の継続的によって保持してきた訳ではなく、事件の記憶を要請される強制力を媒介した、元来の知的過程の限界の中で、偶然に想起したに過ぎないと言える。

その証拠に、トジュンは、その後も自ら求めるようにして、母との接見を受容しているのである。

従ってそれは、母に対する息子の、「埋め難い闇の記憶」という情感ラインとは切れているのだ。



―― 物語を追っていこう。



その後、真犯人捜しを継続する母が、辿り着いた廃品回収業の老人の荒ら屋(あばらや)で、「女子高生殺人事件」の真犯人が息子である目撃証言を聞かせられた挙句、その事実を警察に通報しようとする老人を撲殺したのは、明らかに、真実を知った恐怖による、確信犯的な防衛的自我の犯行だった。


老人の荒ら屋(あばらや)を放火して来た母は、その直後、草むらの中で「狂気の舞い」を踊るのだ。


冒頭のシーンである。

「自分もまた、息子と同じ殺人犯となる」という、言語に絶する恐怖を抱え込んでいくが、それは、母の「闇の記憶」を、もう一つ累加させることになったのである。

ところが、母の「闇の記憶」を累加させた事件が、殺人事件に発展する事態を、映像は提示しなかった。

田舎の刑事たちの、顕著に低い捜査能力では、単に、廃品回収業者の「荒ら屋の火災」としか扱われなかったのだろう。

事件は急転する。

トジュンの事件が冤罪であると報告してきた刑事から、「女子高生殺人事件」の「真犯人」が知らされたのだ。

矢も盾もたまらず、母は「真犯人」に会いに行く。

ダウン症候群の青年だった。

特異な相貌によって、ひと目で見分けがつくダウン症候群もまた、個人差があれども、知能障害というハンディキャップを持っている。

「あなた、両親がいるの?」

存分の同情心を抱く母は、最も知りたい事実を聞くために接見に来たのだ。

首を横に振る「真犯人」。

「お母さんはいないの?」

その答えが分っている母は、ここで号泣した。

冤罪のダウン症候群の青年に、両親がいない事実を確認した彼女は、今度は眼の前の青年の悲哀を思って泣き崩れたのである。

「泣くなよ・・・」

そう呟く「真犯人」。

些か「作り過ぎ」の印象を免れないが、またもや、知的障害者が殺人事件の犯人として特定化されたのである。

ポン・ジュノ監督は、「殺人の追憶」でもそうであったが、地方の警察権力の無能さ、杜撰さを執拗に指弾して止まないようである。

社会的弱者が傷つけ合い、警察権力から「真犯人」の供給源とされる物語の根柢には、作り手の反体制的イデオロギーが張り付いているに違いないが、私にとってそれはどうでもいいこと。

映像の完成度の高さのみが、私の関心事であるからだ。

しかし、ポン・ジュノ監督の映像は、従来より増して、「作家性」の濃度を深めていく印象を与えながらも、豪雨のシーンを挿入することで、弱者同士が傷つけ合う、下層社会のダークサイドの陰鬱のイメージを隠すことなく、厳しいリアリズムの筆致で、容赦なく人間の「業」の深さを抉(えぐ)り出していくのだ。



3  「忘却の舞い」を必要とする母がいて、「狂気の舞い」に追い込まれた母がいた




息子のトジュンが真犯人であることを、この世で、母親だけが確信している。(画像は、刑事と話すトジュン)

それ故、ダウン症の「真犯人」の前で、母は号泣した。

この号泣の思いに含まれている感情こそが、ごく普通の母親の情感に符合するもので、そこで切り取られた構図は、容易に感情移入を許さない映像の中で、唯一と言っていい程に、観る者の情感を揺さぶって止まないシーンであった。

その後、母は釈放された息子と、それまでもそうであったような、普通と変わらぬ日常性を繋いでいく。

食事風景を繋いでいたたトジュンが、思わぬことを言い出したのは、そんな時だった。

「母さん、ちょっと考えてみたんだ・・・」
「何?」
「ジョンパルは、何で遺体を屋上に?あんな高い所に」
「余計なこと考えないで」
「多分、よく見えるように?“アジョンが血を流しているから、早く病院に連れてけ”って。だから、皆が見える所に運んだんだ。だよな・・・そうだよな」

ジョンパルとは、ダウン症の「真犯人」であり、アジョンとは「女子高生殺人事件」の被害者のこと。

女子高生の遺体は、人目に付く屋上に晒されていたのである。

無言の母。

黙々と食事を続ける二人。

首を傾げるトジュン。

不思議でならないようだ。

彼には、アジョンを殺害したという認識が全くないのである。

と言うのは、好意を持つアジョンを密かに追尾していたトジュンは、見透かされた当のアジョンから、禁句の言葉を投げつけられたのだ。

「バカ!」

その悪罵に憤怒したトジュンは、アジョンに大きな石を投擲したのである。

その運命の一投が、アジョンの致命傷になったのだが、単に転倒しているだけに過ぎないと思ったトジュンは、病院に早く連れて行くために、「皆が見える所」に遺体を置いたという訳である。

しかし、記憶の維持を継続できないトジュンにとって、今や他人事の出来事なのだ。

だから、内心の驚きを隠し込む母に向かって、トジュンは、ジョンパルの不手際を指摘できてしまうのである。

更に、もっと驚愕すべき出来事が、母に襲いかかっていく。

「ヨジェ商店会の親孝行ツアー」でのこと。

親孝行ツアーの出発の待合室で、トジュンは唐突に母に言った。

「母さんに渡したいものがある」

トジュンが何気なく、母の膝に置いたのは、アルマイトの鍼箱。

それは、廃品回収業者の老人を殺害した荒ら屋で、母が忘れたものだった。

「火事になった廃品回収業の家で拾ったんだ。それ、落としちゃダメじゃないか」


息子の表情には、全く他意がない。

これが、廃品回収業の荒ら屋の火災と、母との因果関係に全く関心を持たないと言うよりも、その因果関係を合理的に関係づけられない知的障害者の能力の臨界点だった。

彼の記憶は常に断片的で、事態の因果関係を正確に把握できていないのだ。

だから、「真犯人」が逮捕され、自分が釈放されても、「巧く逃げた」などという感情など起こりようがない。

母に対して鍼箱を渡した行為も、自分の母が、「老人殺し」の犯人であるなどという想像にまで全く及んでいないのである。

しかし、母はこのとき、明らかに激しく動揺し、背筋が一瞬凍りついたはずだ。

バスに乗り込もうとする母の歩行は、明らかに、方向性を失った者の動揺が露わになっていた。

母を見守るトジュンの表情には、全く変化がない。

彼には、母と事件の関係への想像が全く及ばないのである。

 これが、ラストシーンに繋がる決定的な構図となった。


 「母」という記号のうちに象徴化された、一つの固有の人格である彼女は、バス内で踊り騒ぐ、他の「母」たちの輪の中に入り込めず、鬱鬱たる気分を延長させるばかりだった。

そんな気分の中で選択した彼女の行動 ―― それは、鍼灸師である彼女の職業に相応しいものだった。

太腿に鍼を打ったのである。

「悪い記憶」や「心の凝り」を消去するという、鍼の効果は覿面(てきめん)だった。

踊り騒ぐ他の「母」たちの輪の中に入り込んで、一緒になって踊る彼女がそこにいる。

それは、自分が犯した罪の重さから解放されたい強い思いと、断片的に「闇の記憶」を唐突に思い出し、それを提示してくる息子に対するスタンスの一時(いっとき)の「変容」なのか、即ち、正常に戻ったと思わせるような息子との交叉の、畏怖すべき継続性に耐え切れない気持ちを鎮めるためなのか、いずれにせよ、辛い記憶を無化するために太腿に鍼を打ち、一切を忘却の彼方に捨て去りたいという「舞い」であった。

その「舞い」は、草むらの中での「狂気の舞い」とは切れていて、「忘却の舞い」と呼ぶべき「舞い」であった。

彼女にはもう、「忘却の舞い」に自己投入していくしかなかったのだ。

それは、この母親だけが、更に累加された最も重い記憶を、これからも引き摺っていかねばならない人間の〈性〉の重圧感であった。

この母は、息子であるトジュンと、「情報の共有」すらも叶わず、当然、そこに「秘密の共有」の成立する余地すらないのだ。

だからそれは、一切を自分一人で抱えていかねばならない人間の〈性〉の重さなのだ。

私たちは、その辺りをよくよく認知せねばならないだろう。

これだけの人間の〈性〉の重さを背負って生きていくには、恐らく、あまりにその贖罪能力の限界点を超えている。

それ故、彼女はどこかで、巧みに、自分の「悪の航跡」と折り合いをつけていく必要があるのだ。

例えば、彼女はダウン症の「真犯人」の前で号泣したが、思えば、この号泣という、殆ど衝動的な行為に対して、彼女は己自身を裁くという役割を果たしてしまうことで、「自分は充分に苦しんだ」という物語を仮構してしまっているのである。

ニーチェの「道徳の系譜」ではないが、良心とは攻撃衝動が外部に向かうことが妨げられ、自己の内側に向かうことなのである。

「自己嫌悪」という方略こそ、人間の高度な自己防衛戦略と言っていい。

これが人間なのだ。

そういう、人間の極限的な状況に置かれた様態を、この映像は構築し切ったのである。

それは、母性の極限的な様態でもあった。

もう一つ重要なこと。

トジュンの「変容」である。

ポン・ジュノ監督は、仮にそこに「作家性」の解釈を挿入したとしても、知的障害者が、簡単に正常な人間に復元すると考えた訳ではないだろう。

映像を見る限り、このトジュンは、一貫して、事態・現象の因果関係を把握する知的過程の能力を保持していないのである。

ただ、ラストの母親の驚愕は、一時(いっとき)「変容」を垣間見せた息子から、見透かされたと感受したと考える方が自然であろう。

それもまた、人間なのだ。

だから、一切を忘れたかったのだ。

「忘却の舞い」を必要とする母がいて、「狂気の舞い」に追い込まれた母がいた。

そういう映画だった。




4  「脱母性」というラインの攻防を顕在化させていくラストシーンの含意



全ての「男児」が「男性」になることを宿命づけられているような、男性優位の韓国社会にあって、「善悪」を区別する「有限抱擁」の父性原理を、「知的障害」という隠れ蓑によって、我が子から奪い取ってしまった母の、「無限抱擁」としての母性の過剰な包容力が極限まで突き進んでいった悲劇 ―― それが本作だった。


外部社会との交通を塞ぎ、子宮胎内に閉じ込めてしまう母性を客観化し、相対化し得る条件を摘み取ることで、外部社会への交通網を広げ、そこに踏み入っていく自我形成を保証する、「有限抱擁」としての父性原理の媒介を無化してしまう危うさを、本作は、田舎町で出来した女子高生殺人事件の忌まわしい経緯の中で、極限的に描き切ったのだ。

我が子を社会化させる能力である父性の媒介によって、男児を「男性」にするのは、言葉で言うほど容易ではない。

「男児」の状態を延長させられるだけのトジュンにとって、過剰な包容力による母の「無限抱擁」の様態を超克するのは、街路での放尿のときに、ペニスまで覗かれたり、「子鹿の眼みたいに、眼がきれい」であると言われたりする屈辱との葛藤以外ではなく、紛れもなく、知的障害者であるトジュンの能力の範疇を超えるものだった。

「バカ!」と嘲罵(ちょうば)される屈辱との葛藤を身体化したとき、そこに「女子高生殺人事件」が出来したのである。

ほぼパーフェクトに近いほど、母性に包括されていたトジュンにとって、その母性の圧倒的な支配域から脱却する経路には、このような忌まわしき事件を必要としたであろうと思わせる説得力が、この映像にはあった。

「バカにされたらやり返せ」というような危うい情報を、年来にわたってインスパイアーされながらも、「善悪」を区別する「有限抱擁」の父性を代行することなく、一方的に母性の過剰な包括力によって、息子の自我を形成してきた母の矛盾の根源が、全く修復されることがないのだ。

ただ、年齢を重ねてきただけの息子の、その未成熟な自我の行き着く先は、殆ど限定的であった。

トジュンが幼馴染の悪友と連(つる)んで行動する傾向を強化させてきたのは、トジュンにとって、唯一の自己表現の身体化であるとも言えるのだ。

それは既に、映像の冒頭で、漢方薬店の外で悪友と屯(たむろ)するトジュンの様子を、「闇」をイメージさせる暗い店内で、漢方原料を裁断しながら、息を殺して垣間見ている母の表情のワンカットの中で、やる瀬ないまでに捕捉されていた。

そんな関係をも摘み取ろうとする母と息子の葛藤が、性衝動を発現させつつあった青春期に踏み込む辺りで、当然の如く、「脱母性」というラインの攻防に関わる葛藤状態を、一気に顕在化させていく必然性を回避できなかったのである。

映像は、事件後の母子関係の様態を、様々に想像させるイメージを、観る者に与えて閉じていった。

少なくとも、これだけは言えるだろう。

この母子関係が、それまでもそうであったような相対的安定期を、普通に延長させる未来像の困難さを、より顕在化させていくイメージの残像を映像化し得たことだけは否定できないのである。

それこそが、ラストシーンの含意であったとも言えるのだ。

―― 韓国映画は容赦ない。

とりわけ、ポン・ジュノ監督は奇麗事に流さない。

そこが凄い。

何より、「誰にも感情移入はできないから、この映画はダメだ」などという感覚でしか映画と付き合えない、私たち日本人の幼稚さを再確認させてくれる、ポン・ジュノ監督の作家的映像は、テーマ性に関わる人間の様々に厄介な問題を、一切の安易な妥協なく執拗に描き切っていく。

そこが凄いのだ。


ポン・ジュノ監督(画像)の最高到達点が、未だ見えないと思わせる映像を構築する求心力こそ、この作り手の最強の武器であるだろう。

そう思った。



5  小気味好いほど詰まっていた幻想破壊の決定力



「愛」の本質とは「援助感情」であるというのが、私の仮説。

そこに、「善悪」という異なった尺度を嵌め込むことの愚昧さを、本作は圧倒的なリアリティの表現力を通して検証してしまった、抜きん出て秀逸な一篇だった。

本作が壊してくれた幾つかの欺瞞的幻想こそ、本作の生命線なのだ。

それらは、「障害者はイノセンスである」、「子を思う母の無限抱擁の『愛』は裁かれないし、裁いてはならない」、「信ずれば報われる」、「社会的弱者は救済の対象であって、その行為は許しの対象にしかならない」、「『愛』は地球を救う」、「母性こそ至上の『愛』」等々である。

とりわけ、母性愛幻想については、既に、18世紀のフランスでの里子の習慣や、貴族階級の乳母の慣行などの歴史検証などを通して、エリザベート・バダンテールが母性愛が本能でないことを証明している(「母性という神話」)が、それでも、この幻想が常に手強いのは、「母性こそ至上の『愛』」でなければ社会規範の根幹が破綻すると考える人々が多いからである。

この幻想が「・・・すべし」という定言命法による道徳律に補完されれば、「子を思う母の無限抱擁の『愛』は裁かれないし、裁いてはならない」などという、極端な義務論的な信仰へと上り詰めていくであろう。

「障害者はイノセンスである」という飛び切りの幻想については、「健常者はimpurity(不純)」であるという反意語の設定に合理性がないという一点においても検証し得るが、何より、「刑務所がいちばん暮らしやすい」と考えて「犯罪」を繰り返す「累犯障害者の存在」(知的障害者)の行為自体を、「障害者のイノセンス性」に起因すると決め付ける論理そのものが飛躍であると言えるだろう。

障害者の犯罪は、それ以外に方法がないと安直に考えてしまう障害者自身の器質的、能力的、或いは、社会的ハンデに濃密にリンクするものであって、その根柢には「障害者の疾病性」に還元できる何かが漂流している。

この「疾病性」は、「イノセンス性」と決して同義ではない。

彼らにとって、この「疾病性」に対する「社会的包摂」(注)こそが主要課題であって、ある意味で、そのような対応を無意味化し兼ねない、「イノセンス性」という決め付け自体が、既に悪意なき「ラベリング」と説明できる何かなのだ。

「八日目」より
ジャコ・ヴァン・ドルマル監督の「八日目」(1996年製作)という印象深い作品には、性的衝動を抱くダウン症の主人公の意識が描かれていたが、このような人間的現象を、ごく普通に包括できる把握こそが重要なのである。

障害者もまた、一人の人間である限り性的衝動を持ち、それを身体化する。

当然のことだ。

同時に、統合失調症の人たちの犯罪性が、健常者の発現率と大して差がない事実が物語るのは、「精神障害者だから危険である」という先入観をも、統計的に否定し得る根拠となるという事実も忘れてはならないだろう。

要するに、「愛」の幻想に縋りつく日本人が最も見たくないものが、幻想破壊の決定力を見せつけた本作の中には、小気味好いほど詰まっていたのだ。

それ以外ではない。


(注)社会的弱者を孤立させずに社会の中に包摂しようというEUの政策理念



6  容赦なく炙り出された「悪なる母性」



「―― 母と子のきずな、絶対的な母の愛情というテーマについて、どんな想いを込めましたか?

この映画には二重の側面があると思います。母親の絶対的な愛や、道徳や善悪を超えてまで息子を守ろうとする、子どもの側に立つ愛を描いていると同時に、それは一体どこまで可能なのか、それでいいのかという道徳的な問題を提示しています。母親の愛情は絶対的であるがゆえに、それが当然なものになった場合は、母性は神秘化されることになりかねない。絶対的な愛と神秘化されることに対する母性を壊していくという作業を『母なる証明』の中で同時に行なっています」(「Forest『母なる証明』ポン・ジュノ監督インタビュー」より)

以上のポン・ジュノ監督の説明によって判然とするように、本作は、「善」と「悪」の際どい境界の曖昧性への認知なしに、「息子への愛」から自給される熱量の澎湃(ほうはい)の中で、いつしか「渡ってならない薄明のライン」を超えていく、疲弊と焦慮と膨大な不安、更には、「無限抱擁」の強靭な突破力によって、すっかり擦り減らされた自我の機能不全の脆弱さを描き出したのだ。

それは、「無限抱擁」の強靭な突破力を、「子を思う母の愛の本能」などという、反証可能性を減少させるという一点において、万人受けのする「アドホックな欺瞞的幻想」が、「そこに依拠することで、多くの厄介な問題を解決してくれると信じるに足る、都合のいいだけの俗説」に過ぎない真実を露呈してくれたのである。

「この母親の今の性格、キャラクターは、冒頭のシーンですべて描かれていると思います。彼女は不安やヒステリー、強迫観念にさいなまれているので、その意味では平凡な母親や完璧な母親という出発点からは、まったく違っていると思います」(「Forest『母なる証明』ポン・ジュノ監督インタビュー」より)

ここで語られているポン・ジュノ監督の説明の要旨は、「狂気にまで変容する過剰な母性の病理」と言っていい何かである。

その辺を、もう少し一般的に論じてみよう。

社会的に支持された規範としての「道徳」の質の高さを、私たちは「善」と呼ぶ。

これが一般的な解釈であろう。

しかし、この「道徳的な質の高さ」というのが極めて曖昧なのだ。

それは、「道徳的質の高さ」である「善」が、どこまでも「自治の論理」であるからだ。

「自治の論理」ほど、曖昧なものはないのである。

この曖昧さに、一定の強制力を加えることで成立するのは、「法の論理」である。

この「法の論理」によって、私たちは、「自治の論理」の枠組みを超える一切の行為を、法的強制力によって制度的に縛っていくのである。

人間は、このような曖昧なゾーンのうちに合理的な解釈を加えることで、「道徳」と「法」との間の見えにくいゾーンに、限りなく眩い光線を差し込んでいく。

そのことによって、私たちは万全の社会体制を構築していくと信じるのだ。

それにも関わらず、私たちは、母性観の文化的・歴史的な差異の存在を認知してもなお、「無限抱擁としての母性」の発現を無前提に受容している。

明らかに、それが「善」なるものの、絶対的な証明に近い何かとして受容しているのだ。


ところが本作では、その手強い幻想に根源的疑義を提示して、「悪なる母性」の怖さをも描き出したのだ。

映像は、その「悪なる母性」を容赦なく炙り出していく。

この辺りの描写を受容するには、ナイーブな日本人には到底叶わないであろう。

そこが、邦画の甘さと完全に切れる、本格的な韓国映画の確信的な映像作家による、一連の作品群と切れているところである。

紛れもなく、本作は、この年のナンバーワンの映像だった。

(2011年2月)

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

なぜ真犯人の服にアジョンの血が付いていたのですか?よろしくお願いします。