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2008年12月12日金曜日

あらくれ('57)     成瀬巳喜男


<声を上げ、たじろがず、情を守り、誇りを捨てなかった女>



序  強烈な自我で生き抜いた女



「界隈の若いものや、傭い男などから、彼女は時々揶揄われたり、猥(みだ)らな真似をされたりする機会が多かった。お島はそうした男達と一緒に働いたり、ふざけたりして燥(はしゃ)ぐことが好であったが、誰もまだ彼女の頬や手に触れたという者はなかった。そう云う場合には、お島はいつも荒れ馬のように暴れて、小っぴどく男の手顔を引かくか、さもなければ人前でそれを素破(すっぱ)ぬいて辱をかかせるかして、自ら悦ばなければ止まなかった」(「あらくれ」徳田秋声 新潮文庫より・ルビ:筆者)


これは、原作の冒頭で紹介される本作の主人公、お島の人となりを端的に表現した一文である。

徳田秋声という、この国の自然主義文学を代表する作家の名を聞けば想像できるように、本作は、大正時代をその強烈な自我で生き抜いた女の、その後半生の一部の記録である。



1  枕を投げつけて反撃する女



―― 本作のストーリーラインを詳細に追っていこう。



神田の缶詰屋の店先で、ひたむきに働く若い女。お島である。

彼女は没落した庄屋の娘で、幼くして農家の養女になっていたが、生来の男嫌いなのか、結婚話を断って無断で上京して来た。

その折に、植源(うえげん)という世話人の紹介で、缶詰屋の若主人である鶴さんの後妻に納まっていた。

その植源が缶詰屋を訪ねて来て、お島の話をした。

「どうだい?先のカミさんのような、しなしなした女は懲り懲りだって言うから・・・」
「へえ、もう丈夫で働く女でさえあれば・・・」
「じゃあ、島ちゃんならもってこいだ。ハハハ」
「二年以上も病院に入れたり、海辺へやったり、もうかないません。ここらでみっちり働いて取り返さないと・・・」
「ううん、あの子ならね。七つん時から養家先で、何十歩もの畑をやってお前さん、牛馬のように働いたことを思えば、ここいらの店を手伝うぐらい極楽だよ」

その植源の話に、満足げな表情で返す鶴さん。

まもなく、その鶴さんがお島を連れて、お島の実家を訪れた。

外出するお島の服装に細かい指示をする鶴さんは、どうやら相当に神経質な性格らしい。

と言うより、老舗の主人を務めてきた鶴さんにとって、お島のセンスのない着こなしには我慢し難いものがあったのだろう。

お島の実家で、その父はつくづく苦労する娘の愚痴を零した。

「今度はいい人に拾われて、これで務まらないようじゃ、もう・・・」

それを聞いてお島は、不貞腐れていた。

それでも彼女は、店の仕事には熱心であった。

夜遅くまで働いて、女道楽の激しい夫の夜遊びに不満を託(かこ)っていた。

なかなか帰って来ない夫を無視して、店の戸に鍵を閉めてしまう始末。

丁度、そのとき戻って来た夫から、逆に文句を言われる次第だった。

お島は子供を身篭っているらしいという事実を打ち明けたが、それが誰の子か分らないと疑う夫。

お島の弁明を信じない夫に、彼女は感情を込めて言い放った。

「あんた、妬いてるんですか?」
「バカにすんない」
「あんた、それで毎晩お酒飲んでくるんですか?疑ってんの?それじゃ、あんまり情けないわ・・・」

自分の気持ちを汲んでくれない夫に対して、お島は明らかに不満を持っていた。

夫の傍らで寝床を取るお島の眼から、涙の粒が零れ落ちてきた。

翌日、北海道に仕事の名目で旅立った夫の目的が浮気にあったことを見抜いたお島は、夫が帰京してから訪ねて来た姉のおすずに、夫への不満をぶちまけた。

その頃、亭主の鶴さんは、植源の息子の嫁、おゆうと会っていた。

彼女は亭主の不満を鶴さんに吐き出していた。

おゆうの夫の房吉は、病気を理由に全く働こうとしないというのである。

そのおゆうに鶴さんは色目を使い、おゆうもまた、色気を含ませた視線で反応する。

そこに、お島が偶然訪ねて来た。

彼女は勘定の催促に歩いているのである。

鶴さんは植源の旦那に、お島の悪口をダイレクトに吐き出していく。傍にいるお島も負けずに反論する。この二人は四六時中、言い争いをしているのだ。

そんなお島に向って、植源の旦那が一言。

「そりゃ、言い分もあるだろうが、島ちゃんも少し・・・」

その言葉に反応するように、鶴さんは「早く帰れよ」とお島を突き放した。お島は不満を抱えながら、一人で帰っていくしかなかった。

彼女は今、おゆうを疑っている。そのおゆうが、自分の亭主の浮気相手ではないかと思っているのだ。

そんな不満を、お島は、実姉のすずに口汚く吐き出すしか術がなかった。

「あんなヘナヘナした男、大嫌い私」

お島が珍しく遅く帰宅したとき、亭主は先に帰っていた。

殆んど口も聞かず、寝床に入るお島。亭主は傍らで、何やら書き物をしている。

お島と、夫の鶴さん
それを覗き見たお島は、「女の手紙でしょ!」と叫んで、それを強引に取り上げた。亭主がそれを奪い返そうとして揉みあいの喧嘩となった挙句、お島は亭主の手を引っ掻くや否や、思い切り突き飛ばされたのである。

「引っ掻きやがって、こんな野郎とは思わなかった」

夫婦の大立ち回りが一段落した後、寝床に座る夫は妻に言い下した。

「おい、ちょっと話がある。お前のような者に勝手な真似されたんじゃ、商人はとっても立っていきっこないんだからね・・・後添えもらって擦ったとなっちゃ、俺は責任上立場がなくなるんだ。子供は誰の子か知れねえが、それだけは家に置いて、俺が立派に育ててやるつもりだ」
「育ててやるもないわね、自分の子を!私の悪口はおゆうさんにでも聞いておもらいなさい!」
「何だ!」
「私が着物をこしらえたの、そんなに腹が立つんですか!」
「やかましい!お前なんか下に行って寝ろ!」
「ええ、行きますよ!」

このお島の反駁に、亭主は「さっさと行け!」と放って、女房の布団を思い切り引っ張った。

女房は腰砕けになったが、枕を投げつけて反撃した。

その枕がガラス窓を割って、そこに機械音が響いた。

「出てけ!」
「出て行くわよ!」

最後まで負けない女は、そう言い残して、階段を下りようとしたとき、足を滑らせて夜の階段を転げ落ちていった。

彼女は早産してしまったのである。

その直後の映像は、お島の父が、娘のかつての養家を訪ねて、もう一度引き取ってもらえないかと頼むシーンだった。

しかし、養家の息子の嫁と考えて、お島を十年も育ててきた養家だが、祝言の晩に飛び出したお島の引取りを、きっぱりと拒んだのである。



2  愛する男の前で酩酊する女



まもなく、お島は兄と共に、雪深い寒村に旅立った。

植木屋の兄はそこで仕事をするつもりだったが、仕込んだ木が土に合わず立ち枯れたため、借金だけを残して、単身千葉に仕事を求めることになった。

お陰で妹のお島だけは、兄の借金の肩代わりに、迷惑をかけた旅館に残された。

彼女はそこで、仲居をすることになったのである。その旅館の名は浜屋。

浜屋の若主人
浜屋には文学好きの優男(やさおとこ)の主人がいて、その女房は肺病のため町の病院に入院していた。

浜屋には、兄貴が直接迷惑をかけた精米所の旦那が常連客として来ていて、お島は肩身の狭い思いをするばかり。

そんなお島だが、まもなく浜屋の若主人に見初められて、男女の関係を持つことになった。

二人の関係が世間に知られるようになることで、お島は浜屋に居られなくなり、彼女は浜屋の女将の口添えで、山深い温泉宿に仲居として勤めることになった。

そのお島を浜屋の若主人が訪ねて来た。

彼女の表情に笑みが零れ出たが、彼の用件は、東京からお島の父が訪ねて来て、この温泉宿に案内したというもの。

お島は父と会うのを嫌がるが、折角訪ねて来た父を追い返す訳にはいかなかった。

「おめえの体がどうなっていようが、こうやってオラが来た以上は、どうやっても引っ張って行かなきゃなんねぇだ」

頑固なお島の父に、浜屋の若主人は事情を説明し、何とかお島に家を一軒持たせようと考えていることを伝えたが、お島の父はきっぱりと拒んだ。

「あたしは人の妾なんて、死んだってできません!」

お島もまた、父の血を引いて頑固だった。

それは、お島の家が庄屋の出身であることの矜持(きょうじ)のようにも見えた。

責任を取ろうとする態度を示す浜屋に、お島は強い口調で言い切った。

「お互いさまですよ。無理をしてもらわなくてもいいんです。囲い者にしてもらわなくても、自分で食べるくらいのことはやりますよ」

お島の父は、そんな娘に呼応するように浜屋の前に金を出し、その誇りを示したのである。

「さあ、お島とさっぱり片を付けてくれ」

しかしお島には、父と一緒に帰る気になれない。それでも妾になることを拒む気持ちは強い。

そんなお島だが、浜屋の若主人に対する思いを断ち切ることができなかった。

「一年に一度でも会えればいいわ」

そんな女の未練を理解しつつも、浜屋は静かに語っていく。

「お前が可哀想だ。東京へ行った方がお前のためかもしれないな。いつまでも、慰め者にしているのは良くないから」
「本気でそれを言うんですか?」
「ここいらが別れる時かもしれない。薄情なようだが、しようがないだろう」

別れを告げる男の言葉に、女はきっぱり答えた。

「私、死んでもいいと思ったんです!」
「噂に立つよ、そんなことしたら・・・」
「噂がそんなに怖いんですか、あんた。こんな山ん中に追い遣って、まだ世間体が気になるんですか。私が何もかも投げ出しているのに、あんた、擦り傷一つ負うの嫌なんですね」
「お前のためを思うから・・・」
「いえ、いいんです。別れようって言える人はそれだけの気持ちなんです。訳なんて何とでも付けられますよ」

酩酊した女は、視線が定まらない者のように、部屋の中にその身を漂流させて、屏風と共に倒れこんでしまった。

「呆れたね。女の酔っ払いなんて、初めてだよ」

女は崩れた屏風を見て、自分の為したことの意味を悟り、咄嗟に屏風の弁償のことを考えた。自分の行為に対して責任を取ろうとする態度に於いて、女は一貫していた。

「今の内に荷物まとめておきます・・・どうも、すいませんでした」

女の心はようやく定まった。

彼女は翌朝早く、父と共に東京に帰って行ったのである。



3  亭主にホースで水をかける女



東京に戻ったお島は、叔母の家で洋服の仕立ての内職を始めた。

そんなとき、浜屋の若主人がお島を訪ねて来た。

二人は「金色夜叉」の映画を観た後、誰もいない公園でしみじみと語り合った。

浜屋の若主人には、お島に対する愛情が消えないでいたようにも見える。後ろめたさもあったのだろう。

「そのうち、山が一つ当れば、お前をこのままにしておきはしない・・・山に一緒に連れて行けるといいんだがなぁ・・・」
「今更、あの山で暮らせますか・・・」
「東京で会うか、じゃあ。七夕のように・・・」

男は女に金を渡そうとした。しかしお島は、毅然としてそれを固辞した。

「要りません。働いたお金があるから。いいんです。妾なんて、やなこった!」

真の愛情を求める女は、男の表面的な親切を決して受容しないのだ。

二人はなお、どこかで求め合う思いを残して別れることになったのである。

まもなくお島は、内職を世話する小野田の勤める洋服の仕立て工場に勤めることになった。ミシンを覚えるためである。

「女の洋服屋」として必死に働くお島のお陰で、工場は活況を呈するようになった。

やがて彼女は一念発起して、小野田と二人で入谷に洋服店を開業することになった。

お島と小野田(右)
彼女の眼から見た小野田は仕事熱心で、相棒にするには持って来いだったのである。

「お前さん、私がこれまで会ったどの男よりも、男っぷりが悪いよ・・・でも、押し出しがいいから、ちょっと頼もしく見えるね」

こんなことを相手の男にズケズケと言い放つお島の性格は、一貫してバイタリティに満ちていた。

お島は偶然、町の賑わいの中で、おゆうと出会った。

彼女は植源の息子と離縁して、今は一人身であるということ。離縁の原因は、鶴さんとの三角関係にあるらしい。

しかしその鶴さんは、全く甲斐性がなく、まもなく別れたとのことだった。

「鶴さんて、駄目な男だね」

愚痴を零すばかりのおゆうに対して、お島はここでも言い切った。

「駄目ですよ、男になんか振り回されちゃ。こっちが一人前の男にしてやるくらいの気持ちでかからなくちゃ」

仕事がまだ順調な軌道に乗らず、仕事で帰宅するお島を迎えたのは、仕事を怠ける亭主のグータラぶり。

お島は散々文句を言って、一人で苦労を背負っている状況に腹を立てた。

「気長にやればいいんだよな。気長にな」

店員と将棋を指しながらそんなことを言う亭主に、お島の堪忍袋の緒が切れた。

夫婦の大立ち回りが始まった。

「気違いだぜ、この野郎!」という亭主の言葉に対して、お島のとった行動は些か常軌を逸していた。

彼女は部屋の中で、亭主に向ってホースで水をかけたのである。

それは、仕事の不都合の中、亭主の怠慢振りを見せつけられた挙句の過激なる身体表現だったと言えるだろう。

一旦、店を手放して、一時的な仮住まいで貧乏生活を余儀なくされた二人は、却って良好な関係を回復させていた。

貧乏はしばしば、人間の関係を深めるのだ。

元々、同じ目的で商売を始めた関係だった。

目的を共有する意志が捨てられない限り、夫婦の関係の決定的破綻は回避されるのである。

お島はミシンを購入して、商売の道筋を開いていった。

やがて店員を置くまでに、彼らの商売は安定軌道に乗っていった。

それは反対に、亭主の怠慢を助長させることになっていく。

そんなとき、亭主の父親が二人の借家に寄宿するようになった。その父親に散々陰口を言われるお島は、それを一貫して黙殺したのである。

山国から浜屋の若主人が訪ねて来たのは、そんな折だった。

彼は病を得ていて、見るからに顔色が悪い。肺結核の疑いがあるということ。

そんな男を、お島は冗談を言って励ました。

更にお島の店に、製材所の旦那が浜屋の女将を伴って訪ねて来た。

お島のお客に、階下で飲んだくれている義父が挨拶に行くという申し出を、やんわりと拒むお島。

それを見て、逆上する亭主。小野田は相当に父親思いの男らしい。

その亭主の平手打ちを受けて、お島はこのときばかりは隠忍自重するしかなかった。

お島は、東京の旅館に宿泊する浜屋の若主人を訪ねた。

「どうだね。一緒に行くか?今のお前さんじゃ、退屈するだろう、山の暮らしは・・・」

相変わらず優しい言葉をかける男に、女は微妙に反応する。

「こんなもんですかね。月日が経つと皆・・・」
「そのうち景気が直ったら、温泉へでも来るさ・・・」
「ねえ、今の店は貸越ばかりで縁起が悪いから、あたしたちはまたどこかで、新規蒔き直しです。乗るか反るか、最後の運試しをするつもりです」
「それもいいだろう・・・」
「ねえ、山が当ったんなら、少し貸しておくんなさいよ・・・」
「うん、それもいいさ・・・」
「一年利子付きで返しますから・・・」

お島は決して、温情だけで相手から金銭を受け取る女ではない。

彼女は好きな男から利子付きで借金することで、自分の債務感情を相殺しているのだ。

金を借りれば、また男に会えるという思いも、そこにあったに違いない。

若作りしたお島は、さっそく街頭に出てチラシを配った。

その場所は帝国大学の前。校舎に入っていく学生相手に、チラシを次々配っていくのである。

彼女を注意する警備員に追い払われながらも営業する根性は、蓋(けだ)し出色だった。



4  逃げ惑う妾を箒で叩く女



お島が苦労して店に帰ってみると、二階でお華の美人師匠を口説く亭主がいた。

彼女はその美人師匠を追い出した後、亭主と例によって大立ち回り。

「ウスノロ!」と面罵する女房は、肥満の亭主の指を噛み、足を払い、体の上に乗って拳を何度も振り上げていく。それはまさに、「あらくれ」の本領発揮の場面であった。

まもなく亭主は、新しい浮気相手を見つけた。おゆうである。

そのおゆうに、亭主は女房の愚痴を散々零す。

「俺は、生傷が絶えたことがないんだよ」

亭主はそう言って、自分の腕の傷をおゆうに見せる。

色気で迫るおゆうに魅力を感じる亭主は、やがて妾宅をもうけることになった。勿論、そのことを女房は知らない。

お島は訪ねて来た兄から、浜屋の若主人の病が重篤になっていることを知って、その足で山に向った。

お島が山に着いたときには、既に若主人は逝去していた。

衝撃を受けたお島は、元気になって浜屋に戻っている若主人の妻に丁寧な挨拶をする。

「元の女中のところまで、いちいち電報を打つわけにはいかなかったんですよ」

お島は、こんな皮肉に対して反応せず、浜屋の若主人の墓参に行った。

男から借りた金を墓の前に供えたが、お島はそれを取って、旅館の古い馴染みの番頭に、その金を譲り渡したのである。

「お前さんに上げるよ」
「こんな銭っこを・・・」
「遠慮なく戴いとき。旦那に戴いたんだから・・・」

彼女はそう言った後、墓石に振り返って、その下で眠る男の霊に了解を取るのである。

「あんた、いいわね?お返しするつもりだったけど、いいでしょ・・・じゃあ、さようなら。行きますわね」

女は仏に別れを告げて、昔馴染んだ山深い寒村を後にしたのである。


お島が東京に戻って来たとき、亭主がいそいそと外出する姿を見て、その後を追った。

亭主が向った家には、あろうことか、おゆうが待っていた。おゆうは亭主の愛人となって、この妾宅に住んでいたのである。

お島はいきなり玄関を開けて、許可もなく座敷に入り込んだ。

亭主は障子の陰に隠れていたが、まもなく裏木戸から抜け出して、中の様子を窺っている。

「もっと大事にすれば良かったのに」とおゆう。
「あんなノロマのヒゲ達磨がそんなに欲しけりゃくれてやるから、ありがとうと礼をお言いな」
「乙な口上だね」

おゆうの態度に逆上したお島は、いきなり、おゆうに飛びかかり、逃げ惑う女を追い駆けて、その着物を掴み、傍らにあった箒(ほうき)で思い切り叩いた。

傍にいた亭主は、女を助けることなく、妾宅から逃げ出して行った。

お島は今、降り頻る雨の中を悠然と歩いていく。

途中の雑貨屋で傘を買って、その店の電話を借りた。

早速、彼女は自分の店に電話をして、亭主が帰っていないのを確認した後、有能な職人の木村を呼び出した。

お島は彼に、自分が店に置いてきた鞄を持って、すぐ出て来るように命じたのである。

「もしかすると、お女将さん、店を出るからね。お前さんに裁(た)ち(注)やってもらってね、一人立ちでやるかも知れないよ・・・」
「へえ、それじゃ、店を閉まってもいいんですかい?」と木村。
「ああ、ヒゲ達磨が帰らない内に、戸を閉めておしまいよ。じゃ、温泉にでも入って相談しよう・・・ああ、それからね、順吉も連れて来て頂戴よ。あの子にも散々苦労させているから、一日ゆっくり遊ばさせてやりましょうよ。じゃ、ステーションで待ってるわよ」

それだけのことを職人の木村に告げて、お島は電話を切った。

彼女はなお止むことのない雨の中、着物の裾を捲り上げて、再び悠然と傘を差して歩いていく。

彼女の新しい人生の幕が、今、また開かれたのである。


(注)仕立てにおける裁断のこと。因みに映像では、若き職人の木村は、背広の仕立ての新しい技術を身につけていて、常日頃から、店の社長である小野田の仕立ての技術を、内心、馬鹿にしていたという伏線があった。 


*       *       *      *



5  声を上げ、たじろがず、情を守り、誇りを捨てなかった女



この映画は、一言で言えば、「声を上げ、たじろがず、情を守り、誇りを捨てなかった女」の物語である。

実際、映像の中で、女は声を上げ、主張し、自分の言いたいことを決して押し殺すことをしなかった。

それは相手が亭主であれ、愛人であれ、母であれ、養家先であれ、店の店員であれ、同性の知人であれ、全く変わることがなかった。

いつでも、どこでも自分の言い分だけは、必ず主張して止まない女だった。

相手を選ばないということは、相手を差別しないことでもあるし、言語表現を営業化しなかったということでもある。

しかし彼女の言い分には、恐ろしいほど、完璧に筋が通っているのだ。

彼女の表現は、そこに乗せた感情の激しさを割り引いてもなお、一貫して合理的なのである。

だから相手は反駁できず、その感情の尖り方に対してのみ異議申し立てする以外になかったのである。

同様に、女は、たじろぐことをしなかった。

決して逃げないのである。

相手が理不尽な態度を示せば、必ず反撃し、時には物を投げ、相手を蹴り、大立ち回りすることさえ辞さなかった。

父親に対してのみ、彼女の感情は抑制的になったが、そのことは彼女の気質が、筋を通す父親の頑固一徹なキャラクターを継いでいることを検証するものでもあった。彼女はこの父親のDNAを深々と繋いできたのである。

しかし彼女は、情を守り抜く女でもあった。

浜屋の若主人への情愛は変わらないし、その死後も墓参する態度は、単に彼女の律儀さのみを示すものではなかった。

男も女に惚れていたが、女もまた、男を片時も忘れられない純情さを貫いている。彼女は荒々しいだけの暴れ馬などではなかったのだ。

このように際立った女のキャラクターを俯瞰するとき、その根柢を支えたメンタリティが透けて見えるのである。

お島という女は、誇り高き女であるということだ。

そのことを示す描写は随所にあるが、最も印象深いのは、浜屋の若主人から二度に渡って金を渡されて、それを固辞するときの決まり台詞。

「働いたお金があるから入りません。妾なんてやなこった」

女はこう言い放ったのだ。

これは、女の意地が言わせた言葉ではない。また、妾を軽蔑するという激しい感情からでもない。単に女が誇り高いだけなのだ。

没落した庄屋ながら、他人の同情を拒み、甘言に惑わされず、自分が壊した屏風の弁済のことを決して忘れない誇り高さ。それは、自立への矜持(きょうじ)を身体表現する生き方を貫徹する者のメンタリティそのものであった。

「女の洋服店」という看板を特段にセールスすることなしに、この時代の偏見や常識からその身を解放し切った潔さと、その覚悟の清々しさ。それは充分に鮮烈であり、「ガラスの天井」を突き抜けた自我の軌跡であったとも言えようか。

お島という女は、殆んどその身体表現において、「近代的自我」のそれと変わるものではなかったのである。

そんな女の心の風景を考えるとき、映像を通して彼女に絡んだ三人に男たちの存在は、彼女の「近代的自我」の在り処を検証するに相応しい流れ方を見せていた。

因みに、私が簡便に作った一つの表がある。

それは、彼女と男たちとの愛情関係を映像の登場順に比較したものであるが、これを見る限り、お島という女の鮮明な身体表現について、合理的に把握することが可能となる。

その表は以下の通りだが、それぞれの相手に対する感情を、一応「○」、「▲」、「×」という記号で記してみた。

            異性感情   援助感情   共存感情

鶴さん/お島    ×   ×     ×    ×    ×    × 

浜屋 / 〃    ○    ○   ▲    ○   ▲   ○

小野田/ 〃    ▲   ×     ×   ▲     ▲  ▲



まず、鶴さんとの関係。

これは、表で確かめる必要がないほど明瞭である。

相互に強い異性性を感じることがなかったが故に、二人の別離は必然的だった。

お島は姉のすずに、「あんなヘナヘナした男、大嫌い」と言い切って、それを身体表現する強靭さを持っていた。

とうてい鶴さんのような、封建的な女性観によって女を梯子する男と相性が合う道理がなかったのである。

しかも、財産を女房に蕩尽されることを恐れる吝嗇家(りんしょくか)で、極めて保守的な観念を持つ男に対して、お島という女が身を預けていく必然性は全くなかったということだ。


次に小野田の場合。

この男は鶴さんより少し勤労精神がある分だけ、お島と連れ添うことが可能だった。

しかし、お島の前向きなエネルギーがこの男に不足していた分だけ、彼女と心のラインを合わせることが困難であった。

これは男のみを責めるのは可哀想な気がするが、亭主に色気を見せない女房の日常的な態度からは、この男に対する異性感情が稀薄であった事実しか検証できないのである。

ここで重要なのは、お島は何よりも、仕事の相棒として最適な存在である小野田を選んだということであって、その延長上に二人が所帯を持ったという事実である。

従って、亭主となった小野田が誠実に職務に打ち込んでいる限り、お島は亭主以上の努力を惜しまなかった。

二人で入谷に出した店が軌道に乗らないことで怠慢に逃げる亭主に対して、ホースの水をかけるお島の過激な振舞いがあったときでも、店を畳んで再出発を期すときの貧乏生活を共有する際には、二人の共存感情と、お島の中の援助感情は失われることはなかったのである。

しかし、お島の献身的な努力で店の営業を軌道に乗せ始めると、亭主の怠慢癖が再び顔を擡(もた)げてくる始末。

この亭主は、お島のような精力的な女の、その前向きでエネルギッシュなペースが全開されてしまうと、そこで生まれるリズムに自分の意識と身体を合わせることができないで、いつも自分の生活観のイメージに潜り込んでしまうようなのだ。

畢竟(ひっきょう)、二人の差は向上心の差であり、形成的な勤勉精神の差である。

亭主の実父の生活態度を見る限り、小野田の自我形成能力の限界性が読み取れるのである。

小野田にとっては、お島の存在は、自分を少しでも楽にさせてくれる何者かであったが、それ故にこそ、そこに甘え抜いた男の悲哀の末路は不可避であったのだろう。

思うに、分不相応なまでの妾宅を持ち、道楽三昧の亭主の存在を、近代的自我で固めた女が許す道理がなかったのだ。

お島にとって亭主の小野田は、相棒としての存在価値を超えるものではなかったので、男がその相棒としての緊要なる役割を失えば、最後に関係を切られていくのは必然的だったのである。


最後に、浜屋の若主人について。

この男の存在は、女にとって特別な何かだった。

彼女が生涯その思いを切らなかった男は、この優男(やさおとこ)のみである。

表を見ても分るように、彼はお島との愛情関係において、最も安定的な感情関係を維持し続けていた。それでも二人が結ばれなかったのは、男に本妻が存在していたためである。

山国の寒村の温泉宿で、男が女との関係を維持するのは困難だった。

男の意識には、常に「世間体」の観念が深々と染み付いているから、女を更に山奥の旅館の女中に追い遣ることになった。

男は世間に知られない限り、女との逢瀬を楽しむことで充分だったのだ。女もまた、その思いに重なっていたのである。

しかし、女の実父がやって来て、男に啖呵(たんか)を切ってしまうと、小心な男にはもう抵抗すべき何ものもない。

女は東京に戻ることを拒むが、囲い者の身分に甘んじることも同時に拒絶する。

優柔な男の哀れな視線を感じ取って、結局優男と別れるが、女は男のことを決して忘れていなかった。

そして男にもまた、女を東京に帰してしまったという後ろめたさがある。二人の愛情関係は、別れた後もどこかで繋がっていたのである。

その後、男は上京し、女と再会した。

「お前をこのままにしておきはしない・・・山に一緒に連れて行けるといいんだがなぁ・・・」

男は女との共存を、恐らく観念的に望んでいるのだ。

本妻を山の病院に残してきたから、その距離感が男に言わせた言葉だろうが、それはまた、女を思う男の気持ちが死んでいないことの証明でもあった。

しかし、東京で自活の道を探る女には、男の甘言に乗る訳には行かなかった。

男はその悔いの念を再び金銭で購おうとするが、その好意を女は確信的に拒むのだ。

「要りません。働いたお金があるから。いいんです。妾なんて、やなこった!」

この啖呵は何度聞いても、観る者の気持ちを晴れ晴れとさせてくれる。

この台詞は、映像で最も明瞭に語らせた、物語の主人公の基幹的メッセージであった。

女の洋服店が成功した後、男は東京で三度(みたび)会った。

山を当てた小金で少し裕福になった男は、その代償であるかのように、肝心の健康を損ねてしまっていた。恐らく、女房の結核が感染したのであろう。

心配する女は男を励ます含みをもって辛辣に語るが、その後、男に初めて借財を求めたのである。

代価を払わない金を受け取らない女は、利子付きで金を借りる女であった。

男からの借財で自分の店に投資を注ぎ込む意志が、そこに垣間見えるが、しかし、男との関係を繋いでおきたい気持ちが女になかったとは言えないだろう。

この時点でも、二人の感情関係に特段の変化は見られなかった。唯、そこに男の本妻がいて、その本妻と共に暮らす旅館があり、男をその山奥の空間に定着させる状況には変化がなかったということだ。

では果たして、この二人の愛情関係をどう把握したらいいのだろうか。

これだけは言えるのではないか。

つまり二人は、精神的に相互補完の関係にあったということである。

女は自分の中になくて、自分が羨望するある種のメンタリティーを男の中に見ていたのであろう。

男もまた、自分の中になくて自分が羨む人格的特性を、女の中に見ていたに違いない。

前者は、男に元々内在する繊細な感受性であり、その精神的基盤となっている文学志向的な教養の豊かさということか。

また後者は、女に溢れるエネルギッシュなバイタリティーというものだろうか。

女は兄の犠牲となって、山奥の旅館の仲居をする羽目になったが、決して不幸なる運命に流されることはなかった。

男はそんな女に、新しい女の生き方を感じ取ったのかも知れない。色気を営業しない女に対して、男の方から手を出したのは、この男を自然に反応させる魅力が女の中に存在したのだろう。

或いは、この男に対してのみ、無意識的に表出させた色気の見えない漂流が、二人の関係の中で自然裡に作り出す空気を支配していたのかも知れない。

そして、女もまた明らかに、男の中に特有の色気の芳香を感じ取っていた。

これは、女が一時(いっとき)生活を共存した他の二人の関係と、決定的に切れるところであったと言えようか。

では二人は、単に相互補完するキャラクターの関係でしかなかったのか。

そうではあるまい。

二人は、その自我の根柢に於いて共有するメンタリティを保持していたと考えられる。

それを一言で言えば、「近代的自我」の所在性というものである。

二人に際立っているのは、古い封建的観念の柵(しがらみ)や偏見とは無縁であったということであろうか。

紛う方なく、男は自分の旅館の「女中」の存在である女を、まさに「低い身分」の女が当然受難するであろう、セクハラの観念の枠内で求めたのではなかった。

それは二人の会話の中で、女中差別に繋がる表現が、男の側から一度も発せられなかったことによって瞭然とする。

そんな男が、女を更なる山奥に追い遣ったのは、世間体を重んじる男の意識と重厚に絡んでいるが、それ以上に、町で入院する本妻に対する贖罪感に起因する振舞いであったとも言える。

妾を持つことを否定する「近代的自我」の観念が、そこに媒介されなかったとも思えないのである。

それにも拘らず、男には女を求める気持ちが存在したこと、それは、「近代的自我」の概念の範疇を遥かに逸脱するレベルの問題だったということだ。

女が囲い者である存在性を一貫して否定したのは、女の自我の尊厳感情の強さでもあるが、それは「男に養ってもらう存在としての女」であることの強い否定的文脈であると考えた方が、よりその自我の近代性を際立たせる把握に近づくだろう。

男の場合は、なお観念の枠内に留まっていたものが、本作の主人公の身体表現の鮮烈さは、それを遥かに抜きん出てしまったのである。

いずれにせよ、この二人のメンタリティの奥には、良好に振れ合う観念が介在したことで、二人の関係の繋がり方が決して偶発的で、一過的な流れ方をしていないことだけは了解されるのではないか。

当然の如く、二人の関係が一過的な流れ方の果てに自然解消しなかったのは、相互に引き合う異性感情を含む、極めて情感濃度の深いパーソナルな関係のの継続力にあったと考えるのは、あながち過大評価であると決め付けられないであろう。

だから女の墓参の描写が、激しく観る者の胸を打ったのだ。

女は男からの借財を届けにその身を運んだが、それは二人の心情的な債務感情の澱みが、どこかで常に存在していたことの検証でもあった。

男が女に返済しなければならなかったもの―― それが、女を山奥の旅館から結果的に追い出してしまったことへの弁済感情であったとすれば、女の場合はどうだったのか。

それは、病める男の傍に寄り添えなかった立場にあった者の、名状し難い辛さの感情であったとは言えないだろうか。

正直、そこまで書いてしまうと、登場人物への過剰な感情移入による贔屓(ひいき)の引き倒しの感がしないでもないが、私にはこの二人の関係の閉じ方が、女の墓参によって括られた描写の印象があまりに鮮烈なので、以上の言及をした所以である。



6  抜きん出て自立的な女



映画のポスター
最後に、もう一度確認しておく。

お島という女が「あらくれ」であったのは、彼女が当時の時代状況下で、抜きん出て自立的な女であったということの称号でしかないということだ。

この女は、当時の威張りくさった権威主義の男たちが、普通に声を上げていた分だけ肉声を刻み、普通に誇りを持って生きた分だけ誇りを持って生き、普通に「情」を繋いだ分だけ、それを忘れることなく繫いできただけの人生を記録したに過ぎなかった。

彼女を「あらくれ」と呼ぶ男の卑俗さこそが、彼女の人生の誇り高き自立的な展開を、著しく曲線的なイメージで曇らせてしまっただけなのである。

本作は紛れもなく、「声を上げ、たじろがず、情を守り、誇りを捨てなかった女」のあまりに清々しくも、見事な人生の振れ方を記録した一級の名篇だった。

とりわけ、ラストシーンの見事さはどうだ。

「女を舐めるな!」という意地が、映像から切々と伝わってきて、思わず快哉を叫んだ次第である。



【余稿】  〈原作に負けない映画監督〉



浮気した亭主に対して物を投げ、腕を噛む。再婚した亭主のグータラ振りには、畳の上でも容赦なくホースで水を撒き散らす。

その亭主を寝取った昔馴染みの女を蹴り、突き飛ばす。

こんな女に、シンパシーを描く日本人は滅多にいない。

しかし、この女は性格異常者ではない。

一人の男を一途に愛する情の深さと、苦境にめげない強さを併せ持つ、ある意味で平凡な一人の女に過ぎないとも言えるだろう。

亭主やその妾への乱暴は、必ずしも女の悋気(りんき)から起こったものではない。

妻としての、女のとしての、或いは、人間としての尊厳のようなものを傷つけられることが許せないのである。

これは、自分の娘を囲い者にすることを許さない職人気質の父親から受け継いだ、決して卑屈にならない、ある種の誇り高い精神性である。

「囲われるくらいだったら、自分で働いて生きていく」という生き方は首尾一貫しているから、男に縋っていく女を主人公は決して認めないのだ。

このような主人公を高峰秀子が演じ、成瀬巳喜男が演出する。

二人の何度目かのコラボレーションによって具現した、殆ど阿吽(あうん)の呼吸の感覚の中に、厭味のない演技と演出が溶融して、ここに何とも言いようのない爽快感をもたらす傑作を創り出した。

正直に書けば、二十歳前後の頃、単に自分の教養を深めるという程度の思惑で読んだ原作は、当時の私にとって、極めて退屈な自然主義文学の一篇でしかなかった。

独断的に言ってしまえば、この映画は、最後まで私には馴染みにくかった原作を優に超えてしまったようにも思われるのだ。

徳田秋声
自然主義文学の最高到達点という評価もある原作を満足に再読せずに、このような決め付けをするのは不遜であるかも知れないが、逆に言えば、それだけ成瀬の作品の素晴らしさがあまりに印象深いということである。

成瀬の他の作品がそうであるように、彼の映像はいつだって原作に負けてはいないのだ。

と言うより、成瀬の作品群が悉(ことごと)く原作の制約を突き抜けたところで、独自の映像宇宙を構築しているということである。

とりわけ、感傷に引き摺られないプロットの繋がりが、この「あらくれ」ではとても巧みで、全く破綻を見せない安定した演出が際立っていたように思われる。

「あらくれ」―― それは、繰り返し観れば観るほどシンプルだが、実に味わいのある映画であった。

その割に、この映画が巷間観られることが少ないのが惜しまれてならない。

(2006年8月)

1 件のコメント:

マルチェロヤンニ さんのコメント...

全ての台詞の一つ一つが本当に生きている言葉ですね。
さらに役者の演技力が高いので、それぞれの言葉がそのまま思い出されます。

実はこの映画には少し思い出があります。
20代の頃、各公民館で行われている高齢者学級や女性学級で映画を上映するという機会がありました。特に役所の職員ではないのですが、知り合いから頼まれ、その後何年間か鑑賞する作品を選んでいました。

その一回目の上映会の前に、祖母が私に買ってくれたVHSテープが「鶴八鶴次郎」「稲妻」「あらくれ」でした。
高齢者や女性学級の生徒さんに見せるって言うのは、結講シビアで、つまらない映画を上映すると手厳しい言葉が返ってきます。特に私は20代前半だったため知ったかぶりして有名作を上映しても、必ずしも有名作の受けが言い訳ではなかったりします。
そんな中でも「あらくれ」は非常に受けの良い映画でした。
他には中国映画の「變面」。溝口の「近松物語」。韓国映画の「マラソン」、イランの「運動靴と赤い金魚」などは、外さなかったです。

そういった経緯で「あらくれ」は何度も見ましたが、森雅之が本当にすばらしいと思います。もちろん全員の演技があってこそなんですが、あの力の抜けた声の感じが、本当に生きた人間の感じなんですよね。
映画は、空を飛んだり、宇宙に行ったりという、いろいろな事を想像させてくれる物ですが、こういう本物の人間の生き様に触れたような感覚を与えてくれるって言うのも大きな魅力だと思います。

台詞の一つ一つまで丁寧におこしてくれている評論は大変だし、珍しいと思いますが、忙しい中なかなか映画を見る時間を作れない、もしくは見たけどなんかよく分からなかったなー、という私のような人間には、とても助かります。
勉強させて頂いております。