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    1 日前

2010年6月10日木曜日

グレート・ブルー 国際版('88)   リュック・ベッソン


<「マリンブルー」の支配力だけが弾ける世界の、単純な映像構成の瑕疵>



1  「純粋」、「無垢」、「超俗」、「寡黙」、「非文明」、そして「『聖なるもの』としてのイルカへの至上の愛」



「錦鯉の外見美を守るために、平気で水生昆虫を食べさせる環境擁護論も可笑しいが、『ハエや蚊のいない、トンボや蝶の舞う町づくり』をアピールするナチュラリズムはもっと可笑しい。

極めつけは、ある県の学校緑化コンクールで優秀賞に選ばれた小学校が、校庭美化のため夜間に除草剤を散布したというエピソード。

奥井一満の、『五分の魂』という本で紹介された事例だ。

本来の自然である野草を引き抜き、外見的に美しいものだけを大切にする私たちの欺瞞的な自然観が、ここにある。

特定の動物への保護に走りやすい『動物愛護』の軽薄な情感性と、生態学的な多様性を維持し、サステイナブル・ディベロップメント(持続可能な開発)の観点に立って、その価値を増大させるという思想を視野に入れた『自然保護』との相違は決定的であるだろう」

この文章は、私のブログの「状況論的短言集」の中の拙稿である。

「グレート・ブルー」(120分の国際版で、原題は「THE BIG BLUE」)というカルト的に支持されている映画を観ていて、私はこの拙稿のことを想起した。(因みに、本稿では、「グラン・ブルー完全版」についての批評にあらず)

今更、「動物愛護」と「自然保護」の決定的相違について講釈しても詮無いので、映像との関連のみで言及する。

「グレート・ブルー 国際版」という映画では、明らかに、「動物愛護」の対象動物として、イルカという万人受けしやすい動物が、「聖なるもの」として特定的に選択され、その「聖なるもの」と睦み合う男が「聖なる使者」として立ち上げられるのだ。

「『日本イルカの日』には、世界の50カ所の主要都市で日本のイルカ猟に反対するデモが行われました」

これは、「ヘルプアニマルズ」のHPからの言葉。

また、日本のイルカ追い込み漁を隠し撮りして、第82回アカデミー賞ドキュメンタリー映画を受賞した、例の「ザ・コーヴ」(2009年公開)の話題を例に挙げるまでもなく、どうやら、西欧、とりわけ、「オーストラリアではイルカ、鯨は聖なるもの」(「JANJAN・2005年7月26日」)と化しているのだ。

さて、本作のこと。

「聖なるもの」としてのイルカと睦み合う「聖なる使者」の名は、ジャック・マイヨール。


晩年に自殺(2001年に、イタリア・エルバ島の自宅で縊首。享年74歳)した実在の人物だが、本作では、彼の自伝を基にしていると言われながらも、人物造形は似て非なる人格と言っていい。(画像は、故ジャック・マイヨール氏)

なぜなら、フランス人ダイバーである、本作でのジャック・マイヨールの人格イメージは、少年時代に被った潜水事故によって、スキューバダイバーへの夢を砕かれたリュック・ベッソンの理念像が投影されたものであると思えるからだ。

本作のジャック・マイヨールの人格イメージを要約すれば、「純粋」、「無垢」、「超俗」、「寡黙」、「非文明」、そして「『聖なるもの』としてのイルカへの至上の愛」と言ったところである。

要するに、本作のジャック・マイヨールとは、異性愛の究極の現象である「性」よりも、「聖なるもの」を「家族」と信じて、その「家族」と睦み合う行為を至上の喜びと看做す「聖なる使者」であったということだ。



2  「聖なる使者」の「聖性」をより際立たせる人格造形① ―― エンゾの場合



「聖なる使者」の「聖性」をより際立たせるために、リュック・ベッソンは二人の人物を、「聖なる使者」の「パーソナルスペース」の範囲内に設定した。

その二人の名は、エンゾとジョアンナ。

エンゾも実在の人物だが、その人物造形も、作り手のイメージラインの内にあるものだろう。


彼は陽気で快活なイタリア人フリーダイバー。

相当のマザコンであるという設定は、如何にもイタリア人らしい。

本作では、ガキ大将時代に、ギリシャの海でジャックを知って以来、この寡黙なる男との潜水記録競争に命を賭けるダイバーとして描かれているが、その一点を除けば、彼の性格特性は殆ど「俗物」と言っていい。

エンゾの「俗物」性は、ジャックの「聖なる使者」の「聖性」を際立たせるものとして、大金を得て真っ赤なスポーツカーを乗り回したり、派手なパーティを主催したり、ジャックに女遍歴を語って得意がらせたり、等々のエピソードで判然とするように、如何にも俗物的なエピソードによって見透かされるような伏線が張られていくが、ここでは、名うてのフリーダイバーの潜水記録競争について簡単にフォローしよう。

ジャックと南仏で再会したエンゾは、彼に競技への参加を求めて了承を得た。

全ては、ここから開かれていく。

エンゾ(左)とジャック
108メートルの記録を出したジャックに、約90センチの差で、自分の記録を抜かれたエンゾは祝福の言葉を添えた。

「やっぱり、お前は世界チャンピオンになった」

そして、エンゾによる新記録の達成があり、このイタリア人フリーダイバーを有頂天にさせた。

まもなく、ジャックがそれを塗り替える。

120メートルの達成である。

それを冷眼視するエンゾ。

そして迎えた、第14回国際潜水選手権大会の日。

「マイヨールのデータを分析して分った。彼の達した深度は生理的な限界だ。猛烈な水圧のために、血液中の酸素が体内の器官に回らなくなる。彼の記録に挑むのは自殺行為だぞ」

大会の医務班員の一人の医師に、そんなシビアな忠告を受けても、エンゾは諦め切れない。

エンゾは反対を押し切って、深海に飛び込んだ。

不安含みで、彼を追って、深海に飛び込むジャック。

しかし生理的な限界を超えたエンゾは、自殺行為を自ら検証してしまったのである。

「本当だった」とエンゾ。

陸に上げられたエンゾは、虫の息で呟いた。

「何が?」とジャック。

「海の中はいい。陸よりも・・・俺を沈めてくれ」

嗚咽するジャック。

これが、エンゾが遺した最後の言葉となった。

エンゾの遺言に従って、ジャックは彼を深海に弔ったが、この衝撃がエンゾの自我を切り刻んでいって、これがラストシーンの伏線にもなっていく。

これについては後述する。



3  「聖なる使者」の「聖性」をより際立たせる人格造形② ―― ジョアンナの場合



「聖なる使者」の「聖性」をより際立たせるための、もう一人の人物の名はジョアンナ。

ニューヨーク生まれの保険調査員である彼女は、アンデス高地でジャックと「運命的」な出会いをする。

アンデスの凍結湖に潜水夫として働く一人のダイバー、それがジャック・マイヨールだった。

装備を積んだトラックが、凍結湖深くに沈んだ事故の調査のためにやって来たジョアンナと、酸素ボンベなしに潜水して探索するジャックとの邂逅は、以降の二人の関係性の本質を既に露呈していた。

以下、そのときの会話。

「会ったね?」とジャック。
「小屋で」とジョアンナ。
「水中で」とジャック。

アンデス山脈の高地で初対面の会話であるが、二人の関係の不均衡感が露わになっていた。

この会話こそが、二人の関係の本質を言い当てているといっていい。

ジャックの視野には、「聖なるもの」としてのイルカが遊弋(ゆうよく)する、大自然からの心地良き情報しか捕捉されていないのである。

ジョアンナ(右)
以来、ジョアンナは、エンゾからスーツを着せられても不具合感を露わにする、彼の非文明的でナイーブな性格に惹かれていく。

やがて、彼との間に恋愛関係が生まれるが、それを恋愛と認知しているのは、ジョアンナのみという関係の不均衡感が延長され、彼女は一貫して、この不均衡感の中で悩み続ける。

こんな会話もあった。

「君に見せたいものがある」

そう言って、ジャックがジョアンナに見せた一枚の写真。

そこに写っていたのは、一頭のイルカ。

「僕の家族だ・・・」

ジョアンナは一瞬茫然とするが、眼の前で涙を浮かべる大の男を、「泣かないで・・・」と言って、自らも感情を合わせながら抱擁する以外になかった。

彼女は単に、「普通の家族の幸福」を願う、ほぼ「普通のサイズの女性」として描かれていて、この人物造形もまた、ジャックの「聖なる使者」の「聖性」を強調する役割を果たしていると言っていい。

潜水記録を達成したジャックは、その日、ジョアンナと初めて結ばれた。

しかし、彼の心はどこか上の空という感じだった。

ジャックは〈性〉に対して恬淡(てんたん)としていて、愛するはずのジョアンナと結ばれても、彼の脳裡を支配するのは、「聖なるもの」としてのイルカの存在感の大きさだった。

それだけではない。

ジョアンナから妊娠の可能性の事実を知らされても、ジャックの表情は浮かなかった。

エンゾが記録に挑戦して、失敗した不満をぶつけられていたからだ。

南仏の海(イメージ画像
「聖なる使者」の「聖性」を保有するジャックは、かつて父を喪った南仏の海に、ジョアンヌを随伴して訪れた。

暗く沈んでいる彼に、女は海の中で、意を決したように語りかけた。

「私の世界の話よ。あなたのことよ。愛しているわ。一緒に住んで、子供を産んで、家庭を持ちたいの。車も買って、犬も飼いたいの。妊娠したらしいのよ」

今度は、妊娠の事実をはっきり告げるジョアンヌだったが、ジャックはここでもなお、「普通の家族の幸福」を願う女の思いを、全人格的に受容する「普通の男」ではなかったのだ。

この関係は最後まで変わらない。

「グレート・ブルー 国際版」の印象深きラストシーン。

エンゾの命を奪った自責の念も手伝って、明らかに精神の抑性系を失ったジャックが、「聖なるもの」の噴気孔付近から出すクリック音(高周波の超音波)が聞こえるかの如く、その「発信音」に誘導され、闇夜の深海に潜っていこうとするとき、それを制止しようと訴えるジョアンヌは置き去りにされるだけだった。

そのとき、ジョアンヌは嗚咽しながら、彼女なりのマキシマムなアピールをした。

「見て来る」
「何を?見るものなんかないわ。暗いし、冷たいし・・・あなたは一人よ。ここには私がいるのよ・・・愛してるわ・・・聞こえた?」

男は女の手を取って、力のない一言を返すだけ。

「愛してるよ・・・」

深海に潜った男を待つのは、「聖なるもの」としての一頭のイルカ。

このラストシーンの構図が、本作の全てを語っていると言っていい。

愛する男との子を孕んでも、殆ど確信的に置き去りにされる女がそこにいた。

少年期に天涯の孤児となった果てに、「聖なる使者」の「聖性」を保有した男は、「普通の家族の幸福」を願う女の思いを受容する、「普通の男」の人生に戻り得ない辺りまで突き抜けて行ってしまったのである。



4  「マリンブルー」の支配力だけが弾ける世界の、単純な映像構成の瑕疵



以上、言及してきたように、この映画の基本骨格の特徴は人物造形が類型化されているという点にある。

そして、その一点こそが、この映画の最大の瑕疵であると言っていい。

それを象徴的に示すのは、「海」に対する二人の男の視座の決定的乖離である。

一方は、「ダイバーとしての潜水記録を塗り替えるためのフィールド」として「海」が存在するだけだが、もう一方の場合は、決してそのようなスポーツ的な視野で「海」を把握することをせず、何よりも、「『聖なるもの』としてのイルカが遊弋(ゆうよく)する『母なる大自然』」というイメージの内にしか、「海」の存在は有り得ないのだ。


「新入り」が来てから食事も演技もしないイルカを水族館から盗んで、海に戻すジャックのエピソードは、水族館という名の文明の一装置と対峙する、「『母なる大自然』である『海』」を遊弋する、「聖なるもの」としてのイルカのイメージを象徴するもの以外ではなかった。

このとき、ジャックには「救出」という観念しかなかったのだ。

「女を連れ出すのに担架はいらないんだぞ。助けがいるのはイルカだけじゃない。お前は本当に女を知らないな」

「純粋」、「無垢」、「超俗」、「寡黙」、「非文明」という類の、薄気味悪い象徴的人格像で固まっているが故に、ほぼ100パーセント浮世離れしたジャックに苦言を呈した、このエンゾの言葉こそ、遥かに人間的なイメージを代弁するものだが、あろうことか、この映像はジャックの「イルカ救出」劇を、「聖なる使者」の「聖なるセレモニー」として拾い上げたのである。

従って、「ダイバーとしての潜水記録を塗り替えるためのフィールド」として、「海」のイメージを把握する男は葬り去られ、「聖なるもの」としてのイルカと睦み合う男だけが、「『母なる大自然』である『海』」に生き残るのだ。

生き残った男には、殆ど人間の世俗的な言語が通じない辺りにまで、深々と這い入っていく外になかった。

愛する男との子を孕んだ女を置き去りにした、「聖なる使者」としての男にとって、今や、戻るべき基地としての「家庭」という名の強制力は不要でしかないのだ。

だから男は、妻になるであろう女のアピールを確信的に拾おうとせず、「聖なるもの」としてのイルカと睦み合うためにのみ深海に潜っていくのである。

これが本作の基本構造であり、作り手の情感的なメッセージであったに違いない。

しかし、このような物語の類型的な映像構成性こそが、残念ながら本作を、フラットな自然讚歌への印象誘導に還元させる構築力しか持ち得なかった。


思うに、およそ俗世界から遊離した男を限りなく「聖化」して、そこに「聖なる使者」としての象徴的人格像で固め抜いた映像の薄気味悪さに張り付く、「純粋無垢」で寡黙なる内面世界の、その突き抜けたナイーブさによってのみ生きる男が放つ、底なしの「清潔感」のどこに、人間的魅力の欠片を拾えると言うのだろうか。

殆ど実在し得ないような強引な人物造形に拘泥する作り手の、ドロドロのナルシズムが致命的な徒(あだ)となって、本作で主役であったはずの男の底なしの「清潔感」のイメージよりも、遥かに人間的な振舞いをするイタリア人ダイバーの圧倒的存在感だけが、過半の観客の記憶の内に深く印象付けられたという訳だ。

従って、本作において、「嫉妬」、「優越志向」、「無謀なチャレンジ精神」、「深いマザコン濃度」、「人並みの異性観と情欲濃度」、「自己顕示志向」、「陽気快活」等々、「俗物」扱いされた男が放つ、その抜きん出た個性の圧倒的臭気に人間的魅力を感受してしまう振れ方こそが、実はごく普通の「親和動機」を惹起させる普通のモジュールと思われる。

殆ど深みのない、「マリンブルー」の支配力の凄みだけが過剰に弾ける世界の、あまりに単純な映像構成の瑕疵は、以上の説明でほぼ集約できるだろう。

たまには息抜きして、オーストラリアの「モンキーマイア・ドルフィンリゾート」(野性のイルカが毎日やって来るという、シャーク湾にある有名リゾート)に行って、「聖なるもの」としてのイルカと対面しよう、などという類の脆弱なアピール以上の何ものも構築し得ない映像の、その驚くほどの薄っぺらさは、恐らく、カルト的な愛好者のペットアイテムにしかなり得ないと言ったら言い過ぎか。

この映画が、地元フランスで批評家の酷評に遭ったのは当然だった。

リュック・ベッソン監督
本作に対する以上の把握が、私をして、「グラン・ブルー」(Le Grand Bleu)の「完全版」を観る気にさせない最も大きな理由である。

様々な意味において、「美し過ぎる映像」こそ、私が最も厭悪する映画であるからだ。

そして何より、特定的な動物を「聖化」する発想の怖さこそ、私が本作に嗅ぎ取った、最も不快なメッセージであった。

イルカによって餌にされるイワシ、サバなどの魚などは、愚かなる人間によって特定的に選択された「生き物」ではないので、食物連鎖の当然の帰結の現実を無視する厚顔さの稜線上に、単にペット化されたイルカを特定的に「聖化」してしまう、その過剰なペット思想の発想が何より傲慢なのだ。

大体、かつて各国で、鯨油や食肉として普通に捕獲対象とされていたにも関わらず、普通の魚食のレベルでは全く問題がないとされながらも、「生物濃縮」による有機水銀渦の危険性が声高に叫ばれたり(海に住む魚はほぼ全て、水銀を蓄積させている)、或いは、脳サイズの大きさ故にイルカの知能が高いという類の、科学的根拠が希薄な絶対保護論が罷(まか)り通ったり等々、いよいよ盛んになっていく「イルカ保護」という名の、限りなく恣意的で、特定的に選択されていく「動物愛護」の思想の狭隘さに辟易する思いである。

(2010年6月)

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