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    1 日前

2010年8月21日土曜日

地下室のメロディー('63)       アンリ・ヴェルヌイユ


<「全身犯罪者」 ―― その圧倒的存在感と、それによって相対化される「共犯者」の人格像>



序  「不安な状況下における緊張感の惹起」という本質が確保されたサスペンス映画



「ヘッドライト」(1955年製作)の名匠、アンリ・ヴェルヌイユが精緻に構築した、フィルム・ノワールの代表的一篇。

しかし私が鑑賞したのは、あろうことか、本来のモノクロ版ではなく、アメリカ劇場公開版として編集されたものに、デジタル処理を施して着色したカラーバージョン用のビデオ。

言うまでもなく、カラー化したことで、フィルムノワールの映像が内包するリアリズムとニヒリズム、更に静謐感が完全に削ぎ落され、所謂、「暗さの美学」の退廃性が希釈化され、コート・ダジュールにあるカンヌのパルムビーチのオーシャンブルーばかりが目立ってしまった。

それでもさすがにアンリ・ヴェルヌイユらしく、一級の映像構成を保持するが、しかし些かフラットな娯楽作品に仕上がってしまっていた。

但し、「不安な状況下における緊張感の惹起」というサスペンス映画の本質は濃密に表現されていて、この種の映画のモデルのような作品としての完成度に関しては殆ど非の打ちどころがなかった。

文句なしの傑作サスペンスと言う外にない。



1  「大胆さ」、「緻密さ」、「慎重さ」の3要素を内包する「全身犯罪者」



本稿では、「冷風が吹き付けてくる困難な状況下での、通風ダクト内の匍匐(ほふく)前進」という、如何にも「サスペンス映画」の醍醐味に関わる言及は避けたい。

既に多くの批評家、ファンが語り尽くしているからだ。

ここで取り上げたいのは、「人生論的映画評論」の趣旨に沿って、本作の犯罪に関わる、不安な状況下における3人の加担者たちの心理の振幅についてである。

言うまでもなく、その3人とはシャルル、フランシス、その義兄のルイである。

シャルルは5年の刑を服役した後、出獄し、カジノの売上金の強奪の計画を仲間から聞かされ、その「大仕事」を遂行するリーダーとなる根っからの「全身犯罪者」。

しかしこの「全身犯罪者」は、今では肉体をフル稼働できない老人であり、しかもこの「大仕事」の遂行には相棒が必要だった。

そこで彼が眼を付けたのは、一年間の短期間ながら、獄中生活を共にした一人の若者。

それがフランシスだった。

シャルルとフランシス
且つ、その「大仕事」の遂行には腕利きのドライバーと車が必要なので、フランシスの義兄のルイも「共犯者」として把握された訳だ。

フランシスの義兄の職業は自動車修理業だったのである。

詰まる所、シャルルはフランシスとルイを、初めからこの「大仕事」の遂行の共犯者として包括的に捕捉していたのである。

「全身犯罪者」としてのシャルルの人格像や心象風景を考えるとき、その内実は、映像冒頭で、出獄後の彼を丁寧にフォローするシークエンスが端的に物語っているだろう。

以下の通り。

「安月給の自由なんか、俺の性分に合わない」

これが、5年の刑を服役し、出所した直後の、バス内でのシャルルのモノローグ。

バス内での庶民の世俗話を耳にして、心の中で思わず反応したものだ。

5年後に戻った街並みはすっかり変貌していて、「今じゃ、ニューヨークだ」と嘆息するばかり。

彼を待つ若い女房に、シャルルはオーストラリアでの余生の夢を語った。

「今、俺は一生に一度のでっかいことを考えている。誰もやらなかったことをな・・・俺は余生をキャンベラで送る。大金持ちの老紳士としてな」

「でっかいこと」とは、「大仕事」のこと。

フランシス
彼はもう、このような見過ぎ世過ぎによってしか生きられない人間になっていたということだ。

そんな彼が、フランシスを犯罪の実行犯に選んだのは、この青年の人格像の総体のうちに、恐らくかつての自分と同じように、もう地道な勤労生活に身を預けられない「不適応の臨界ライン」の振幅の様態を見ていたのだろうか。

或いは、単に義兄を包括した犯罪共犯者としてではなく、この種の犯罪者としての行動力と、迷いのない単純さを評価していたのかも知れない。

たった一年間の獄中仲間だが、そのような眼力がシャルルには備わっていたと思われる。

ところで、この「大仕事」の計画が具体化していく行程の中で、シャルルはフランシスに口煩いほどの忠告を浴びせ続けていた。

それは、ホテルの上客として印象付けるための、微に入り細を穿った説明である。

一切は、完全犯罪を遂行するためという大義名分があるが、それにしても相手を子供のように扱うアドバイスの本質は、紛れもなく、行動力と、迷いのない単純さを身体化するだけの「半身犯罪者」に対する、長年にわたる経験則に裏打ちされた、一級の「全身犯罪者」の確信的レクチャーであると言えるだろう。

以下の通り。

「荷物は決して自分で運ぶな。ポーターに1000フランやれ。案内されたら文句を言え。やたらに驚いたり、海を見て感激したりするな。慣れている素振りをしろ。使用人にチップをやれ。重要なのは水道管の点検口だぞ。鍵掛っていたら外しておけ。俺たちの金庫にする」

以上のような「全身犯罪者」のレクチャー通りに行動する「半身犯罪者」であったが、女に眼がない弱みを抱えたハンサムボーイの常なのか、フランシスは天井裏から屋上に抜けるために楽屋との往来の必要があり、一人の美女ダンサーと近づき、たちどころに懇ろになっていく。

その際、本気で女に惚れたのか、時間を厳守できないハンサムボーイの態度に、シャルルが厳しい口調で戒めた。

「一分のズレは、一分では戻せん。それで何年も喰らうからな」

その忠告の内実は全て犯罪の合理性に叶っていて、まさにシャルルはこのような「大仕事」を遂行する「大胆さ」のみならず、そこに「緻密さ」、「慎重さ」をも包括する人格像だったのである。

この「大胆さ」、「緻密さ」、「慎重さ」の3要素を内包するその1点にこそ、シャルルという人格像の本質が、まさに「全身犯罪者」とネーミングする以外にない所以なのだ。



2  「全身犯罪者」によって相対化される「共犯者」の人格像



一方、フランシスの場合はどうだったか。

彼が初めて映像で紹介されたシークエンスは、彼の実母からの執拗な説教のオンパレード。

「27になっても脛かじりかい。若者らしく働いて、生活しておくれ」

既にフランシスは、普通の勤労生活に馴染めなくなっていて、ピストル沙汰で2年の獄中生活を送っていたのである。

出獄後の彼の生活には、ごく普通のレベルの社会的適応に対する積極的な自己運動が見られず、金がなくなると、義兄のルイに借金の無心に行くという具合だった。

彼の母の説教は間違っていなかったが、しかし、そのような社会的適応不全の息子を育てた甘さが垣間見えるところでもあるだろう。

いずれにせよ、フランシスがシャルルの執拗な説教に対して「相手があなたではなかったら、とっくに殴ってる」などど反駁するのは、まさに母子関係の不具合さをそのまま引き摺っていたからである。

しかし27歳になる彼は、未だ「全身犯罪者」になり切っていない。

「善悪論」の問題を前提化せずに言うならば、「全身犯罪者」になり切るには、犯罪者としての年季と経験と、そしてそれに相応しい能力のプラスアルファが求められるからだ。

その意味で彼は、前述したように「半身犯罪者」であると言っていい。

矯正の可能性が全くないとは言えないからだ。

ところが、以上の二人と異なって、ルイの場合は、前二者と全く異なった人格像を示している。

彼は完全に本業を持った堅気であり、妻子ある家庭の中枢の役割を担っていた。

そんな彼が、この「大仕事」に加担するに至ったのは、シャルルとフランシスによって退路を塞がれてしまったからである。

だから彼は、最後まで「半身犯罪者」にすら届かない事件への関与を継続したのである。

交通違反すらない彼の人格像を、端的に示すエピソードが拾われていた。

左からルイ、フランシス、シャルル
「俺は降りる。良心が咎めるんだ。役割は果たすが、報酬はいらない。金は使えばなくなる。なくなれば、また楽をして欲しくなる。そして義弟の誘いに乗って、最後は刑務所行きだ。味をしめたくない」

「全身犯罪者」のシャルルに放った言葉だ。

「今の話はお前の勝手だが、役割は果たせよ」

シャルルの反応もまた、如何にも「全身犯罪者」らしい一言だった。

「全身犯罪者」は「大胆さ」、「緻密さ」、「慎重さ」の3要素に加えて、「不必要なリスクテークを回避する」という要素をも内包しているのだ。

共犯者が役割を果たす限り、相手の観念系には無関心なのである。

且つ、このような観念系を表現する男だからこそ、シャルルは相手を信じ切れたのであろう。

「役割は果たすが、報酬はいらない」

この言葉の含意を読み切れる男でなければ、「全身犯罪者」としての必要条件は満たさないでだろう。

シャルルは初めから、「不必要なリスクテークを回避する」戦略を駆使していたのである。

ルイの心理の振幅をも読み切っていた可能性もあるのだ。

「全身犯罪者」 ―― 汝の名は、犯罪の「プロフェッショナル」なり。

その「プロフェッショナル」たる「全身犯罪者」によって相対化される、「共犯者」の人格像がより鮮明に浮き彫りにされるだろう。



3  サスペンスの極致とも言える、台詞なきラストシーンの決定力



以上3人の犯罪に関わる者の心象風景について簡潔に説明してきたが、この3人の異なった人格の結合による「大仕事」の流れ方において、最も興味深いシークエンスがあった。

それこそまさに、本作の最大の見せ場であるラストシーンである。

本稿の最後に、そのシークエンスについて言及したい。

それは、犯罪の遂行が上首尾に終わったにも拘らず、その「成果」を確保する寸前に決定的破綻を示したシーン。なぜ、破綻したのか。

フランシスが、事件翌朝の新聞に、カジノ参加者の一人として、その顔写真が載せられていたからである。

シャルルは予想だにしない事態に驚愕し、金の入ったバッグを直ちに取り出しに行くことをフランシスに命じた。

その指示に従って、2つのバッグを両手に提げて、プールの回りを彷徨(うろつ)くフランシス。

そこに、事件の当事者である、カジノ関係者への聞き込みをする刑事たちが周回している。

その話を注意深く聞き取るフランシス。

そして、事件の当事者がバッグを特定できる証言を耳にしたフランシスの心が、一瞬にしてフリーズされる。

サスペンスの極致とも言える台詞なきシークエンスが、映像の緊張感を加速的に高めていくのだ。

激しく動揺したフランシスは、それ以外にないと考えた行動を選択したはずだった。

プールに沈めたバッグから札束が、水面を埋め尽す現場を見て動揺するフランシス
眼の前にある当のバッグを、遂にプールの中に沈めた後、バッグから開かれた札束がプールの水面を埋め尽するという、それ以上ない決定的な構図によって閉じられた映像のサスペンス性は、そこに極点を迎えたのである。

彼がバッグをプールに沈めたのは、刑事たちが周回している状況下で、それを隠す場所が見つからなかったからである。

ではなぜ、シャルルがバッグの取り出しを急ぎ早に求めたのか。

新聞の片隅に顔写真が載ったくらいで、事情聴取されることはあっても、犯人が特定できる訳ではないのである。

その点については、フランシスもシャルルに抗弁していた。

では、そこにシャルルの致命的ミスがあったと言えるのか。

そして何より、彼はフランシスがプールに持ち込んだバッグが特定されると思わなかったのか。

それも考えられる。

なぜなら、彼が持つ2つのバッグがカジノの関係者に目撃されていないからだ。

これは、映像を仔細に観れば分ること。

しかし、プールでのカジノの関係者(恐らく支配人)への聞き込みの中で、彼(支配人)は「一瞬のことですが・・・」と言って説明していたが、これは映像を確認する限り、ちらっと横目で視認した事実を認知できるもの。

しかしシャルルには、その視認は想像困難だった。

彼にとって、バッグの特定は不可能であると思っていたに違いないのである。

できれば、バッグにカバーを付けた状態で、カジノ関係者の横を素通りすべきだったのだが、人間はそこまで用心深く行動するのは容易ではないのだ。

ともあれ、ここでの「教訓」は、そんな小さな油断が命取りになってしまうということである。

ただ、シャルルの指示の理由の中で最も考えられるのは、2年前に出獄したとは言え、フランシスの顔写真から警察が彼を重点的に調べ、シャルルとの関係を特定できる捜査の可能性が存在したからであろう。

そう考える以外にない判断だったということである。

そしてその結果、「全身犯罪者」の完全犯罪は、自分の力で及ばないところで破綻したのである。

それが人間の能力の限界でもあった。

「全身犯罪者」として武装した男であってさえも、このような完全犯罪を遂行するのは如何に困難であるかということを証明してしまうのだ。

フランシスが写真に写されるのは偶然でしかない。

人間はそのような偶然まで計算できないのだ。

だからこの世に、「完全犯罪者」が「完全」に存在する訳がないのである。

単に、運が良かっただけという種の犯罪遂行者がいるだけである。

偶然まで計算し、支配できるほど、人間の能力は完璧ではないのだ。

それこそが教訓だった。

 アンリ・ヴェルヌイユ監督
だからこそ、ルイの例の言葉がここで生きるのである。

「金は使えばなくなる。なくなれば、また楽をして欲しくなる。そして義弟の誘いに乗って、最後は刑務所行きだ。味をしめたくない」

まさに、このルイの一言こそ、この映画における作り手の基本的メッセージであるとも言えないだろうか。

欲をかいたらもう引き返せない場所というものが、この世にある。

ポイント・オブ・ノーリターンである。

「全身犯罪者」はその境界を曖昧にし、突き抜けてしまう怖さを持っているのだ。

その意味で、「半身犯罪者」という曖昧な人格像を転がしている中でこそ、ダッチロールしている放埓な時間を軌道修正し得る自己運動の教訓となるのだろうか。

これは、かくも異なった人格の3人の犯罪加担者たちの物語だった。

(2010年8月)



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