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    2 か月前

2011年6月4日土曜日

息子の部屋('01)     ナンニ・モレッティ


<悲嘆は悲嘆によってのみ癒される>



  1  「グリーフワークのプロセス」のステージとしての「ショック期」、「喪失期」



 作り手の問題意識と些か重ならない部分があるかも知れないが、私は本作を、「『グリーフワーク』という迷妄の森に搦(から)め捕られたときの危うさと、そこから抜けていく可能性」についての映画である、と考えているので、その把握を基にして言及していきたい。

 本作ほど、「グリーフワークのプロセス」について精緻に描き切った映像も少ないので、この秀作を評価する私としては、映像の限定的な登場人物の心理の複雑で、危うい振幅の様態を、「グリーフワークのプロセス」に則ってフォローしてみる。

 「グリーフワークのプロセス」の第一ステージ ―― それは、「ショック期」である。

 このステージを具体的に要約すれば、家族から愛されていた、息子アンドレアの事故死によって、突然、家族成員の自我を撃ち砕くに足る衝撃が走るというシークエンスに収斂されるだろう。


 それが、本作で描かれている「理想家族」が受難した、「対象喪失によるショック期」の始まりだった。

 あってはならない事態に直面した家族成員は当初、一見、冷静に受け止めているように見えたが、それは自我を「感覚鈍磨」させることで、自らの精神状態を無感覚の状態に置き、ギリギリのところで自己防衛を果たしていた心的現象を意味するだろう。

 ところが、この時期は長く続かない。

 次第に、自我の奥深くに封印させようとしても、「対象喪失による浄化」という作業が厄介な事態であることを感受せざるを得なくなる。

 封印させようとしたものが甚大であればあるほど、それが噴き上がっていくときの心的現象は激甚なものになっていくのだ。


即ち、「日常性」を恒常的に維持させようとしても、自我が受けた衝撃の大きさによって、「非日常」の精神状態を炙り出してしまうのである。

 「グリーフワークのプロセス」の第二ステージ ―― それは、「喪失期」である。

 このステージでは、様々に危うい精神状態が露わにされていく。

 訳もなく怒鳴ったり、ぶつけようのない怒りを噴き上げたり、或いは、特定他者への敵意を剥き出しにしたり、更に厄介なのは、深い自責感によって、必要以上に自己を追い詰めていくという負の感情がリピートされていくのだ。

 物語の中で、それらのエピソードを、アンドレアの父親である、精神科医ジョヴァンニの心的プロセスの中から拾ってみよう。

 「綺麗なカップだが欠けている。ひびの入った花瓶は向きを変えよう。この家は全部壊れている。全部欠けて割れている。この灰皿も欠けている」

 ジョヴァンニは家の中を家捜しするかのように、こんな言葉を撒き散らして、妻の前で荒れた心を炸裂させていた。

 もっと深刻なのは、精神科医としての自身の患者の前で、決して表出してはならない態度を身体化してしまうのだ。

 「化学療法の後は、二日も経つと落ち着く。結局、病気に対する姿勢が大事なんです。先生も、そう思われますか?」

 患者の、この真っ当な質問に対して、「私は違うと思う」と言った後、ジョヴァンニが表出した言葉は、以下の通り。

 「重病の場合、患者に生きる気力がなくても、治るときは治る。治らないときは、何をしても駄目だ。患者が頑張って、懸命に闘っても、“絶対生きる”と望んでも、駄目なことも・・・」


 実は、この患者に対して、ジョヴァンニが冷たい態度を示したのは、息子が事故死した日、突然往診の依頼があって、息子とのジョギングを諦めた当の患者が彼であったからだ。

 他の家族成員の例を挙げれば、一人こもって嗚咽したり、夫との間に目立たないが、事故以前とは明瞭に切れたような距離を置く態度を身体化する妻パオラと、バスケットボールの試合で、相手のファールを認められず、審判に激しく抗議し、その激しさのため、相手の選手と乱闘した結果、出場停止処分を喰らった長女のイレーネの振舞いが、この時期に現出していたことを書き添えておこう。

 まさに、それらは、「グリーフワークのプロセス」の第二ステージである、「喪失期」の反応様態だった。



 2  「グリーフワークのプロセス」のステージとしての「閉じこもり期」



深い喪失感の負の稜線が伸ばされて、いつしか、自分の拠って立つ価値観が崩れ去っていく、鬱的状態とも言える精神状態に陥っていく。

 或いは、自責感情が発現し、一切の不幸の原因を自己責任の問題のうちに還元させていくのである。

 これらは、「グリーフワークのプロセス」の第三ステージ ―― それは、「閉じこもり期」の現象であると言っていい。

 物語の中で検証してみよう。

 精神科医ジョヴァンニは、あろうことか、子供のことを話す女性患者の前で嗚咽するのだ。

 その後、息子アンドレアのガールフレンドから手紙が届く。

 ジョヴァンニは、その手紙の女性、アリアンナに返事を書くことを決めながら、せっかく書いても、それを破棄してしまうのだ。

 その直後の、妻への言葉。

 「あの日曜日、バカな往診に行かなければ、あの子は・・・」

 そう言ったとき、妻は、「友達と出かけたわ」と否定した。

 「一緒に走ってたら、アイスを食べて映画に行ったかも」と夫。
 「ジョバンニ、後戻りはできないのよ!」と妻。
 「僕は、後戻りがしたい」
 「自分のことしか考えないのね」
 「手紙を書けないのは・・・」
 「言い訳なんかよして!」

 そう言い捨てて、夫の元を離れる妻。

 ソファに潜り込む夫。

 自責感情が噴き上がって、止まらないのだ。

 「ある患者には無関心だが、ある患者にはのめり込んで、その人になってしまう。もう誰も助けられない。患者との差がなくなった」

 妻への吐露である。

「もう分析医はできなくなった」

 穏和な女性患者への吐露である。

 「全部、俺に告白させたら、それで終わりか!」

 男性患者からの、強烈な異議申し立てである。

 件の患者に、散々暴れられ、最後には号泣される始末だった。

 「患者との差がなくなった」

 重い言葉である。

 それは、精神科医としての自己を相対化できていない現実の認知の、決定的な証明であると同時に、患者サイドの心の痛みに最近接したことの証左であるとも言えるだろう。

 然るに、自己を相対化できない精神科医が、患者サイドの心の痛みを客観的に解析し、「非日常」下に捕捉された患者の精神状態を緩和し、限りなく、「日常性」にフィードバックさせていくことの困難さを露呈するものだった。


 ジョヴァンニは、そこまで追い詰められていたのである。

 他の家族の例で言えば、姉のイレーネが、事故以前に、あれほど仲の良かった印象を与えたボーイフレンドとの別離というエピソードも、気が強い彼女もまた、「閉じこもり期」に捕捉されていた事実を物語るものだった。



 3  「グリーフワークのプロセス」の最後のステージとしての「再生期」



 アリアンナに返事の手紙を書けない夫に代わって、妻のパオラが彼女に直接電話をかけ、息子の死を知らせるに至った。

 「私たちはあなたに会いたいの」

 パオラの正直な思いである。

 
グリーフワーク(イメージ画像・ブログ「みとりびとは、いく」より
そこには、アリアンナに会うことで、家族の閉塞した状況を突き抜けていきたいという潜在意識が働いているのは間違いないだろう。

 ジョヴァンニもまた、息子の年頃に好まれるCDを店員に選んでもらっていた。

 少しずつ、何かが動き初めていたのである。

 そして、アリアンナの突然の訪問。

 彼女は、ボーイフレンドと共に、ヒッチハイク中だったのである。

 アリアンナはジョバンニに、アンドレアが撮った自分の部屋の写真を見せる。

 「息子の部屋」を見て、「滑稽だね」と言った後、嗚咽を隠し切れないジョバンニ。

 まもなく、ジョヴァンニ夫妻とイレーネは、彼らを車に乗せ、彼らのヒッチハイクをサポートするが、それは何より、閉塞した状況を突き抜けようとする家族の希求でもあったのだ。

 ジョヴァンニが運転する家族の車は、遥か遠い海岸にまでやって来た。

 バスケットの試合に間に合わないと零す娘の嘆息を聞き、夫婦が思わず、顔を合わせて笑みを交換するのである。

 忌まわしき事故後、初めての笑みだった。

 そんな風景の小さな変容を示唆した後の、印象深いラストシーン。


 見事な構図だった。

 アリアンナたちとの名残りを惜しんで、別れた家族。

 浜辺を散策する父と母と娘。

 一向に縮まらない相互の距離感が保持されながらも、そのゆったりとした歩行には、それまでのギスギスした感情の乖離が少しばかりだが、しかし、そこからしか開かれない、それぞれのグリーフワークの浄化の可能性を含んでいて、いつしか自立的に寄り添っていくに違いない家族の再生のイメージを暗示していた。

 それは、「『グリーフワーク』という迷妄の森に搦(から)め捕られたときの危うさと、そこから抜けていく可能性」についての映画に相応しいラストシーンだった。

 以上の流れ方こそ、「グリーフワークのプロセス」の最後のステージである、「再生期」の端緒の現象であると言っていい。

 そこから、対象喪失による悲哀を乗り越えて、新たな社会関係を築いていく時期が開かれていくのだ。

 「グリーフワークのプロセス」を描き切ったこの映像を、私は素直に評価したい。


 それは同時に、カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞の「大傑作」という、手垢の付いた褒め殺しを封印するのに程良いレベルの一篇だったと言えるだろう。(画像は、ジャスミン・トリンカとナンニ・モレッティ)



 4  悲嘆は悲嘆によってのみ癒される



 ここでは、「グリーフワークのプロセス」を描いた本作への理解を深めるのに相応しい一文を引用したい。

 「悲嘆はしばしば排他的である。

 自分にとってのかけがえのない存在の喪失は他人にはけっして理解できないものとの想いを強くし、他人の安易な同情の言葉に傷ついたり、反発する。

 ある時は、どうせ理解されないのだからと孤立の中に自らを追いやる。 

 しっかりしなくてはと自らへ規制を強くするあまり、悲嘆を心の奥に閉じ込め、平静を装ううちに無感動になったり、傷が出口を塞がれ、内部で裂け目を強くし身体の変調を招くこともある。 


 悲嘆は悲嘆によってのみ癒される。

 悲嘆はその想いを表出し、悲しむという作業(=グリーフワーク)を通じて癒される。

 適切なグリーフワークを行うことによって悲嘆の中にある者は回復に至るが、グリーフワークが歪められたり、悲嘆が抑圧されたりすると、その悲嘆はいっそうその人を傷つける」(「現代葬儀考 45号 碑文谷創 グリーフワーク」より/筆者構成)

 「悲嘆は悲嘆によってのみ癒される」という言葉の重さを反芻し、噛み締めていこうと思う。

(2011年6月)

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