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2010年4月26日月曜日

ワン・フルムーン('92)     エンダヴ・エムリン


<「悲劇の連鎖」が「贖罪の物語」の内に自己完結する映像の凄味>



1  底が抜けるほどに「魂が打ち震える映画」



恐らく、99%の日本人がこの映画を知らないと言い、それを知って観た日本人の70%以上の人が、この映画を嫌うだろう。

底知れぬほど陰鬱であり、救いがなさ過ぎるというのが、その理由であるに違いない。

或いは、キリスト教への理解不足を理由に上げるかも知れない。

更に、完璧なウェールズ語(注1)による「イギリス映画」という名の、完璧な「ウェールズ映画」への無関心を理由に上げるだろうか。

そんな曰く付きの映画を、私は、「自分にとって最も大切な映画」の一つとして特段に大切にしている。

この映画から受けた感動の深さを、簡単な言葉で表現できないほどだ。

確かに、本作には映像的完成度において不足する点が散見されるかも知れないが、それでも私は、この映画を存分に評価し、限りなく愛おしく思う。

だから、この映画をこれまで繰り返し観てきているし、今また、一円で買ったビデオを舐めるように観た後で、本稿を書いている次第だ。

ごく普通の頻度によって、救いがない人生が溢れる真実を、私は否定しないのである。

そんな人生の一端を、サスペンスの筆致で描き切った本作に、私は「同質効果」(同質の気分を表現する対象の方に惹かれる心理効果)の感情によって自我を預けやすいのであろう。

誰が何と酷評しようとも、本作は私にとって、底が抜けるほどに「魂が打ち震える映画」であった。


ウェールズの画像①ブログより
(注1)ヨーロッパの先住民族だったケルト人の拠点の一つである、ウェールズに住む人々の言語(ケルト語派)で、共通語としての英語という支配言語と共に使用されるが、20世紀後半に出来した、「エスニック回復運動」(先住民の権利回復運動)によって見直されている。とりわけ、民族意識の強い北部では、家族や友人間ではウェールズ語が日常会話であり、英語を習うのは小学校に入学してからと言われる。因みに、本作の主人公である少年が、牧師から英語を話すように求められ、答えられなかったシーンが印象に残る。(画像は、中部 ウェールズ地方〉



2  一級のサスペンスの筆致の内に、中枢の主題を貫流させた物語



物語を簡単に要約すると、以下の2行で足りるだろう。

刑務所帰りの一人の男が、少年時代に犯した犯罪、或いは、倫理的に悖(もと)ると信じる行為に対する贖罪の故に、自死に流れていく暗鬱な話である。

その救いのなさに、僅かでも、予定調和のハッピーエンドを期待した観客は置き去りにされるかも知れない。

しかし、一貫してサスペンスの筆致で描く物語の構成力は抜きん出ていて、且つ、ウェールズの牧歌的な風景描写の印象度は決して悪くはない。

物語の暗鬱さにフィットさせたかのような色彩感のくすみは、陽光が柔和に差し込むシーンを削り切った描写の内に溶け込んでしまっていた。

重苦しい曇天の続く、ウェールズ北部の小村で出来する陰惨な事件や事故を、途切れることのない伏線描写の効果を狙って巧妙に繋ぎつつ、天使が自在に羽撃(はばた)くような幻想的カットを挿入させていく映像構成の技巧は、回想シーンによって構築された本作の強みであると言えるだろう。

本作は、刑務所帰りの男の、少年期の回想によって説明される映画であるからだ。

従って、ここで描かれる少年時代の回想は、男にとって最も印象深い出来事であるということである。

それ故、貧しく閉塞的な共同体社会の臭気を嗅いで生きていた少年期の内に、男の人生を決定付けた事件や振舞いに絡む出来事が様々な心象風景を描き出し、それらが時系列に沿って繋がっていくのだが、挿入されたエピソードが含意する重要な意味の読解は、それぞれが何某かの事態の伏線であることによって、常に観る者を周回遅れにしてしまうサスペンス特有のルールの縛りに搦め捕られる分だけ、些か厄介であったのも事実。

ウェールズの画像②ブログより
本作が、絵解きのゲームに似た映像構成を必然化したのは、一級のサスペンスの筆致の内に、中枢の主題を貫流させる構築的な物語を嵌め込んでしまっていたからである。

但し、回想映像のルールの常として、少年の母に代表される重要な登場人物の心理描写が、表面的且つ、アドホックで、御座なりな処理で片づけられてしまう瑕疵は避けがたかったと言えるだろう。

然るに、中枢の主題への筆致には、一貫してブレがない。

だから観る者は、一見、アトランダムに見える、この回想のシーンの唐突の挿入の意味をフォローしながら、映像の本質を探っていくことが求められる。

その意味で些か苛立ちを覚えさせる映画になったが、その疲弊感は決して心地悪いものではなかった。

なぜなら、物語展開の読解自体、全く難解なものではなく、抒情に充ちたBGMの後押しを受け、ドストエフスキーのそれには及ばないが、熟読した後の純文学の感傷にも似た深い共感的感情が出来したのは事実である。

映像を通して訴えかける力感の内に、観る者の感性を突き抜く尖りを隠し込んでいたからだ。



3  信仰厚き母子の「悲劇の連鎖」が開かれて ―― ストーリーライン①



全ては、主人公を含む3人の少年による、一人の男への常軌を逸した悪戯によって開かれた。

その「事件」から、本篇を貫く、理不尽とも言える「悲劇の連鎖」が繋がっていったからである。

最後に、「少女殺し」によって全てを失う少年の、その後の人生の時間が完全にフリーズされ、今や廃村となった、ウェールズの故郷に戻る男の内側で暴れる、少年期の時間が深々と刻まれていて、自我の深奥に封印し切れないほど重い闇の記憶が、男を湖の彼方に沈めていくのである。

映像を通して、要所要所で相貌を見せる「満月」の存在性は、「Un Nos Ola Leuad」(カラードグ・プリチャードというウェールズ詩人の原作あるが、未読)というウェールズ語の原題を英訳した、「One Moonlit Night」(ある月夜)というタイトル名によっても分るように、そこに象徴的意味合いが被されているのは間違いないだろう。

それは、人々の見えにくい罪悪の限りを照射する、「神」の支配力の灯光を表しているように思えるが、実際のところ不分明である。

その「満月」の夜に、ジニという淫乱扱いされている少女に、悪戯した罪で一人の男が村人に捕捉された。

ウェールズの画像③カーディフ城(ウイキ)
これが、映像の回想シーンの始まりを告げた。

ジニに悪戯した男は、哀れにも精神病院で殴られ死んでしまうが、一言で言えば、「知恵遅れ」と蔑まれた男の、殆ど予約された悲劇であった。

そのジニと性的関係を持つのが、小村の牧師である教師だったという爛れ方。

また、家賃が払えずに、収容所に連れられる男の話の後は、少年の叔父が日常的な夫婦喧嘩の末に、その場で食卓を払いのけて一暴れ。

いつものことらしいが、今回は、妻にナイフを突き付けて恫喝するという、物騒な暴力行使を伴う、何とも爛れ切った始末の悪さ。

挙句の果てに、トイレで首を括って自殺してしまうのだ。

彼もまた、精神を病んでいたのである。

ウェールズの貧しい小村で次々に出来する忌まわしき事件は、ルール違反を許さない共同体社会の閉塞的な宿命であったのか。

そんな共同体社会にあって、少年の母の信仰心の篤さは折り紙付きだった。

優しき母の懐に抱かれて、賢い少年もまた、他の若者のように採石場で働くことなく、牧師を目指していたが、それは母の強い願望でもあった。

しかし、貧しい村では、採石場で働くことのない生活を切り開くのは困難であった。

「天にまします我らの父よ。どうか山盛りのポテトと肉を下さい。プリンと、色んなケーキと、ブドウパンと、チーズとハムと卵も、朝の食事に・・・」

これは、少年が唱えた、如何にも子供らしい即物的な祈り。

ウェールズの画像④ブログより
それでも、敬虔な母と、母を尊敬する少年の精神的風景は恵まれていた。

二人は会話を絶やさないのである。

母子の会話もまた、信仰に関するものが多かった。

「こんな月夜に、神様の声を聞いたの?」と少年。
「そうよ。復活の日のように明るかったわ。御声は皆に話しかけた」と母。
「今夜も聞こえる?満月ってオレンジみたい」と少年。

こんな会話もあった。

「狂った人も天国に行く?」
「罪を洗い流せば、皆、天国に行けるわ」

「狂った人」が身辺を騒がす、閉塞的な共同体社会の臭気を嗅ぐ環境下にあって、少年の自我は鋭敏に反応しているのだ。


慈悲深き敬虔な母と、その母の影響を受け、悪戯盛りの少年は、何より健全な自我を育んでいる風景が、そこに垣間見える。

そんな母子に、二人の一生に決定的な影響を与える「受難」が襲いかかって来た。

その「受難」を招来したのは、少年が関与した一つの「事件」によってだった。

悪戯盛りの少年が3人組の「徒党」を組んで、一人の男を嘲弄したのである。

男の名は、ウィル。

ウィルは鋳物製品の修理などをする鋳掛け屋であるが、人格障害を思わせる性格の「歪み」や、その醜い相貌から村人たちから差別されていた。

村人たちの偏見の視線は、当然、村の子供たちの人間観に影響を与えざるを得ない。

採石場の丘の上で、「ウィルの馬鹿」と嘲弄し、男が引くリヤカーに手を出すを3人。

ところが、そこに異変が起こった。

ウィルが突然、癲癇発作で倒れてしまったのだ。

恐れを為して、少年は逃げていったが、「悲劇の連鎖」が母子に襲いかかって来たのは、この「事件」からだった。

以下の稿で、個人の力では抗い難い「悲劇の連鎖」について書いていく。

本作の核心であるからだ。



4  立ち竦み、叫び、身を沈めゆく男 ―― ストーリーライン②



ここから、「事件」後のストーリーラインを簡単にフォローしていく。

ウィルの一件以降、母子を襲った「悲劇の連鎖」の始まりは、そのウィルによる母子の家への「襲撃」だった。

ウィルに追い駆けられ、少年が帰宅したとき、衣服が乱れ、顔に痣を作った母がいた。

少年の母は、ウィルに犯されたのだ。

必死の形相で我が家に襲いかかってくるウィルから身を守るため、少年はナイフを取って、ウィルの手を突き刺し、撃退したのである。

撃退した後の母子の風景は一変した。

「あんたが家に悪魔を・・・」

これが、母の信じ難き一言だった。

もっと信じ難き出来事は、その後に出来した。

ウィルの襲撃を恐れる母は神経を病み、近くにある姉の家に療養がてら住むことになった。

「姉さんはいつでも汚れを知らない。でも、私はそうじゃない」

これは、少年の母が実姉に向かって放たれた言葉。

その言葉に、少年の叔母は全く反応しない。

この姉妹の過去に何があったか、映像は全く明かすことをしないのだ。

ただ、「汚れを認知する妹」と、「その事実を認知する姉」という関係構造が存在することを示唆するだけである。

少年の母が、遂に精神病院に入棟することになった。

その直接の契機となったのは、着衣のまま、何かを叫びながら、一人で川に身を清める母の異常な姿が露わになったこと。


「私のような罪人のために、釘打たれて下された方。カルバリの丘(ヘブライ語で「ゴルゴタ」・筆者注)の上で、苦難の盃を飲み干された方。永遠の愛の湧き出る泉。安らかな魂の故郷・・・」(画像は・エルサレム旧市街にあると言われるゴルゴタの丘〉

これは、事情を知らないまま、精神病院の迎えの車内で、少年の母が謳った讃美歌の一節。

少年の母の、それまでにない柔和な表情が映し出されて、このときだけは、「襲撃される恐怖と悪夢」から解放されていた。

彼女は、自分がドライブと偽って病院に連れて行かれる事実を知らないのである。

しかし、病院に着いて、二人の職員に両脇を抱えられて連れて行かれるとき、彼女は初めて事の重大さを認知した。

「裏切り者!」

これは、一人息子に向かって放たれた、少年の母の叫び。

この叫びを、一人母に随伴して病院まで付き添って来た少年が、その小さな体に一身で受け止めたのである。

しかし、その叫びを受け止め切るには、あまりに重量感があり過ぎた。

大人の世界のシビアな現実を見守るしかない少年には、状況を変えられる訳がないのだ。

少年の「悲劇の連鎖」は、この時点で必然化したようだった。

母を失い、牧師になるという希望を失った少年には、あまりに苛酷な現実が開かれたのである。

この間、少年はウィルの自殺を視認し、彼が持っていた血染めの写真を奪って、彼のリヤカーを水面下に廃棄した。

血染めの写真とは、少年の母と少年が写っていた写真だった。

それは、少年の母に暴行を加えた際に、ウィルが奪った写真だったのだ。

その直後の描写は、ラストシーンに繋がる、もっと大きな「事件」へと流れいく「悲劇の極点」の映像。

少年は走る。

少年は湖を目指したのだ。

ウェールズの画像⑤ブログより
その途中、深い森の中を抜けて行く。

その森で、少年には、恰も彼を待っていたかのような一人の少女と出会った。

村内で「淫乱娘」の汚名を受け、差別されているジニである。

そのジニの案内で、気分の乗らない少年は湖を目指した。

二人が湖に着いたとき、朽ち果てた小舟の陰で、ジニは少年を誘惑する。

少年は必死に拒む。

少年の手を掴んだジニの手が、その手を自分の胸元に近寄せたとき、少年は咄嗟に反応した。

ジニの首に手をかけた少年の力に、最大限の攻撃性が加わって、あっという間に少女の呼吸が息絶えた。

少女を殺害した少年は、必死に走る。

走って、走って、森の中を抜けて行った。

少年による「少女殺し」には、「恐怖感」、「自己防衛」、解消し切れない吹き溜まりとなった「ディストレス」(厳しく辛いストレス)という心理要因が絡んでいたのだろう。

少年の「悲劇の連鎖」が極まった瞬間だった。

以降、映像は少年の未来を映し出すことをしなかった。 

忌まわしき事件を起こした村に戻った男の現在が、その身を満月に照らされながら、映像に映し出されていくのだ。

事件の湖に立ち竦み、男は一言叫んだ。

「ママ!」

母の形見の指輪を嵌めて、男はゆっくり湖の中に、その身を深く沈めていく。

一度観たら忘れられぬ映像が、一見、救いのない物語を延長させたまま閉じていったのである。



5  「贖罪」という概念について




明らかに本作は、キリスト教の「贖罪」を主題にした映画である。(画像は、アントニオ・チゼリの「この人を見よ」)

「贖罪」という概念は、キリスト教信仰の中枢の概念であるが、その解釈は分れている。

アンセルムスの「満足説」(イエスの罪の償いによって贖罪が成立)、アベラールの「道徳感化説」(イエスの死を人間の道徳的感化の表現として把握)などが代表的仮説だが、マルクス主義と近接した「解放の神学」の活動を含めて、近代に至って批判的に摂取している経緯がある。

但し、イエスが十字架に架けられたことで、人間の「原罪」を一人で贖ってくれたという解釈については共通する。

さて、本作における「贖罪」の問題について。

何より本作の難しさは、過去の「罪」を負って、ひたすら信仰に生きる「少年の母」を、少年の視点で描いている点にある。

それは、自分の関知しないエピソードを描けない回想映像の難しさであり、限界点である。

だからこそ、サスペンスの筆致の醍醐味となる、計算上の技巧の冴えが検証されてしまうのだ。

そのルールの中で、本作を考えていく。



6  「悲劇の連鎖」が、「贖罪の物語」の内に自己完結する映像の凄味 ―― まとめとして



ウェールズの画像⑥ブログより
映像を読解する限り、最後までその名が明かされない主人公の少年は、母の「罪」の内実を完全に把握している訳ではない。

ただ、父を知らなかった少年が、最後にその事実を知ったことは間違いないだろう。

ウィルの自殺に対する少年の常軌を逸した反応が、その全てを物語っていると思われる。

ウィルこそ、少年の父だったのだ。

少なくとも、少年はそう確信したはずである。

だから彼は、ウィルが大事に保存していた「母子の写真」を奪い、彼の商売道具の詰まったリヤカーを破壊し切ったのである。

どこまでも、刑務所帰りの男の回想によって描かれる物語の中で、母の「罪」に関しての情報で確からしいことは、その一点のみである。

恐らく、教会でオルガンを弾いていたウィルは、そこで少年の母を知り、暴力的に彼女を犯し、少年を孕ませたものと想像できる。

一貫して母は、我が子の父について語らないのは、ウィルとの関係を由々しき「罪」であると考えているからだろう。

ウィルもまた、採石場の丘の上で少年と出会ったとき、明らかに驚愕の表情を見せていた。

その衝撃が、彼の発作に繋がったのである。

そして、この不幸な出会いが、この物語で語られる「悲劇の連鎖」の発火点になっていく。

前述したように、全てはこの出会いから開かれたのだ。

これは、個人の力では抗えない「悲劇の連鎖」という運命についての物語なのである。

少年の母は、最も近寄らせてはならない人物から犯されたことで精神を深く病み、そのことが原因で、恐らく、一生、精神病院の閉鎖病棟に閉じ込められてしまうという陰惨な人生を送ってしまったこと。

ここに、残酷極まる映像の厳しい風景が横臥(おうが)する。

少年にとって、自分が撒(ま)いた小さな種子が母を狂わせ、そして自分の将来の設計図をも狂わせてしまった。

この由々しき現実は、少年の拠って立つ自我の絶対的な安寧の基盤が崩れ去った事実を示すものだ。

ウェールズの画像⑦ブログより
少年はもう、戻るべき何ものをも失ってしまったのである。

安定的で、継続力を持つ時間が切り裂かれた少年の、その自我の激しい動揺が惨たらしくそこに晒されたとき、内側で噴き上げてくる説明できない感情の揺動に翻弄され、一人嗚咽する小さな身体だけが震え慄いていた。

少年の「少女殺し」の本質は、以上の自我の激しく揺動する心理が、母からの大きな影響下で育んだ「信仰」の中で、「不純」なものへの嫌悪感情とリンクしたことに求められると言っていい。

受難節に大粒の涙を流すほどの「信仰」を、激しく必要とする人生を繋いできた母からの影響が強い少年にとって、淫乱の罪によって聖餐を受けられなかった少女への視線の内には、明らかに「憎悪」の感情を噴き上げていて、状況が作り出した抑性し得ない攻撃性が身体化されてしまったのだろう。

だから前述したように、必ずしも、「恐怖感」、「自己防衛」的心理、更に、解消し切れない吹き溜まりとなって、アウト・オブ・コントロールと化した膨大な「ディストレス」要因が絡んでいただけではなかったのである。

しかし、殺人事件という最も重い罪を自らが負ってしまったということ。

この否定しようがない現実の記憶を、少年の自我の奥深い辺りに張り付かせてしまったのである。

この「悲劇の連鎖」の忌まわしき流れの中で、青年となった少年は、二重の「罪」を負った自分の贖罪を果たす以外の選択肢を持ち得なかったとき、母が自分の身を浄化するために川で身を清めたように、彼は確信する者のように故郷に帰り、母の待つ世界へと旅立っていったのだ。

「自死」という贖罪によってしか、この「悲劇の連鎖」を完結できない厳しさこそ、様々に含みを持つ幻想シーン(注2)を挿入させた本作の凄味であると言っていい。

キリスト教の贖罪は甘くないのだ。

イエスが人類の罪を贖ってくれたことで、人間が犯した罪が簡単に許されるほど甘くないということだ

本作の作り手は、母の負った「罪」を我が子が引き受け、それを贖罪に導くという厳しい物語を構築したのである。

従って本作は、個人の力では抗えない「悲劇の連鎖」が、「贖罪の物語」の内に自己完結する映像であるという把握こそ相応しい。

それ故、一貫して語らない男の「死」の本質は、「自殺」というよりも、寧ろ「贖罪の物語」を自己完結すると言った方がより本質的であるだろう。


因みに、タルコフスキー(画像)を彷彿させるような、本作を通して頻繁に出てくる「水」のイメージは、それ以外にない「贖罪」への限定的パスポートと言えるだろうか。

本作の中に、母が息子に語って見せる聖書の訓話があった。

以下の通り。

川に唾を吐いた男に神が怒り、「引き返すのだ。罪人よ」と叫び、その声を受け止めた男は、教会に跪(ひざまず)いて、憑かれたように叫んだ。

「大海が浜を洗うように、我に救いを」

「大海が浜を洗う」ことで、初めて「贖罪」が自己完結するという軟着点をイメージさせる文脈は、極めて重要だ。

「我に救いを」求めて、「象徴としての湖」の懐の内に身を沈めゆく男にとって、その行為によってのみ「贖罪」を自己完結し、恐らく、天国にいる母との一体化が図れたのだろう。

その選択肢以外に、母との「悲劇の連鎖」を収斂させられないと括った男が、自己完結する戦略を持ち得なかった不幸もまた、多感な少年期に自我の絶対的な安寧の基盤を崩されてしまった男の運命だったのか。

そう思わせる本作は、私にとって、一貫して特別な何かである。



(注2)少年の夢の中に出て来た、天使の翼を持つハリー叔父さんなる人物が、自分を襲いかかって来るシーンがある。少年は、その話を母に語るが、母は答えなかった。その悪夢は、「ウイルの襲撃」の恐怖を暗示していたが、母が身を寄せた姉の家に、その叔父さんの写真立てが置かれていた事実によって想像できるのは、あまりに限定的な事柄に過ぎず、ビデオジャケットに書かれている近親相姦との関連もまた、映像から読み取るのは不可能である。原作と照合させる行為によって、映像を語るのは不合理であり、無意味ですらあるだろう。一切は、観る者の想像に委ねられるということ以外ではないということだ。ただ、「姉さんはいつでも汚れを知らない。でも、私はそうじゃない」という母の言葉からイメージできるのは、少年が産まれる前の、母が負った罪悪感が看過できない重量感を持っていることである。



7  「理不尽な子供の不幸」の現実を、ありのままに描き切る映像の学習効果



好みの問題で言えば、私は子供を主人公にした映画を好まない。

なぜなら、多くの場合、「大人は判ってくれない」的な感傷的で、情感的な作品があまりに多いからだ。

スタンド・バイ・ミー」より
私が最も嫌悪する「スタンド・バイ・ミー」(1986年製作)などが、その典型である。

しかし良くも悪くも、稀に、「子供にも人生の厳しさがある」という映画と出会うとき、しばしばその容赦ない切り口に閉口するものの、そこにこそ厳しい人生のリアリズムを読み取れる作品に吸い込まれそうになるほど、深い感銘を受けることがある。

そんな映画の代表作として、私は3つの作品に注目している。

と言うより、私が最も愛好する作品である。

一つは、成瀬巳喜男の「秋立ちぬ」(1960年製作)。

もう一つは、リン・ラムジィの「ボクと空と麦畑」(1999年製作)。

そして、3作目は本作の「ワン・フルムーン」。

後2者は、イギリス映画(正確には、イギリス映画&ウェールズ映画)である。

ここで描かれた厳しい世界は、同時に非日常的だが、「大人は判ってくれない」という感傷的な文脈を無化してしまうほどの、少年たちの幼い自我を囲繞する、劣化した現実の環境の破壊的攻撃性の威力をまざまざと見せつけてくれるのだ。


フィリップ・アリエス(20世紀のフランスの歴史家/画像)の「〈子供〉の誕生」(みすず書房)などの著作に詳しいが、18世紀のブルジョア家庭から子供を可愛いがる風習が生れ、余剰農産物を獲得した余裕から、親にとって子供は情緒的満足の対象となっていく。

因みに、「エミール」(岩波文庫)の著作で名高いジャン=ジャック・ルソーは、自分の5人の子供を全て施設に捨てたという事実があり、「告白」(岩波文庫)に詳しい。

これが、フランス革命前のヨーロッパ社会の一般的風景だったのだ。

子供の基本的人権が重視されるようになったのが、近代社会以降であることを改めて思い知らされる。

「児童を『保護の対象』としてではなく、『権利の主体』としている」(ウィキペディア)という点において画期的とされる、「子どもの権利条約」が国際連合総会で採択されたのが1989年。

その成立が、フランス人権宣言から200年の歴史を経ていたという事実を忘れてはならないだろう。

しかし、社会が子供の権利をどれほど綿密に法的整備しようとも、いつの時代でも、どこの社会でも、「理不尽な子供の不幸」が惹起してしまう現実をブロックしようがないということだ。

「秋立ちぬ」より
例えば、「秋立ちぬ」主人公の少年は、小学生最後の夏休みにバカ母に捨てられ、極めて高い確率で苛酷な近未来を予約する遣り切れなさを印象付けるものだったが、この少年が負った「理不尽な子供の不幸」は、単に家族運に恵まれなかった少年の、極め付けの「不運による不幸」であるという外にない。

同時にこの作品は、バタンテールが「母性という神話」(筑摩書房)で論述したように、「母性愛」という究極の物語が、大人が勝手に作ったロマンチシズムや幻想でしかない真実を検証する映像でもあった。

また、「ボクと空と麦畑」の主人公の少年は、遊戯中に出来したミスで友人を死に追い遣った、極め付けの「不運による不幸」に苛まれるに至る。

ナイーブな少年は、その由々しき事故の記憶を封印したまま、暗鬱な時間を通過していくが、一切の希望を失ったと感受したとき、遂に自らの身体を「死の沼」に沈めていったのである。

往々にして起こり得る、このような事故に対して、そのような「死の沼」を放置した行政の責任を責め立てることは可能だが、仮に柵で囲まれた沼であったにしても、「子供の不幸」を惹起する事故の危険性への導入口はどこにでも開かれているのである。

そして、本作である「ワン・フルムーン」の少年。

一体、この少年に如何なる落ち度があったというのか。

それでも少年は、「悲劇の連鎖」の運命に搦め捕られて、希望に繋がり得る、その後の人生の全てを自壊させてしまったのである。

刑務所帰りの男の、「ママ!」と叫ぶ一言に込められたメッセージの重さは、男の人生がその自我に刻んできた運命の総体的な悲哀であるという外ないのだ。

だからこそ、何よりも悲痛過ぎる映画になったのである。

以上見てきたように、「理不尽な子供の不幸」をテーマにした映像を、「社会派映画」のカテゴリーの内に何もかも混淆させて、主題の支配域から逸脱させた粗雑な処理で収斂させるのが、如何に無意味であるということが判然とするだろう。

「全て社会が悪い」という類の盲目的な還元論に拠って立つ映像が、如何に傲慢で、且つ、非合理的な把握であるという信じ難き粗雑さの根柢には、多くの場合、「理不尽な子供の不幸」の問題の一切を、「社会派映画」のカテゴリームービーの内に収斂させていく、その横暴なまでの感傷性と短絡性にあるということだ。

このような横暴なまでの感傷性や、イデオロギーの濃度の深い観念論を削り取って、どこの社会でも、いつの時代でも惹起する、「理不尽な子供の不幸」の現実をありのままに描き切ること。

それこそが、私たちの社会で、常に一定の確率で出来する「不幸」の一つの様態であることを受容し、シビアに認知せねばならないと考えている。

だから、こういう映画が必要なのだ。

何よりも必要なのだ。

奇跡譚や安直な救済論を導入せず、極め付けの「不運による不幸」である現実と、客観的に向き合う態度形成もまた、私たちの社会で要請される何かであるからだ。

「理不尽な子供の不幸」の現実をありのままに描き切る映像と向き合う者の、その多様な学習効果は計り知れないのである。

(2010年4月)

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