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2009年8月27日木曜日

しゃべれども しゃべれども('07)  平山秀幸


<「ラインの攻防」 ―― 或いは、「伏兵の一撃」>



1  絶対防衛圏



「噺家(はなしか)の名前を何人知っているだろう。テレビによく出ているので3、4人。そんなもんじゃないだろうか。東京で450人あまり、上方も合わせれば600人以上。それが現役の噺家の数だ。寄席は都内でたったの4軒(注1)。そう仕事にはありつけない。それでも扇一本、舌先三寸で身を立てようというバカは後を絶たない」

このナレーションの主は、今昔亭三つ葉。

18歳のとき、小三文師匠の内弟子に入って、現在は二つ目(注2)の格付けのポジションにある。お笑いブーム、落語ブームと言われて久しいが、実際は、このナレーションにあるように、落語の芸のみで見過ぎ世過ぎを立てるのは難しい。

映像では、歌舞伎を見るための金が足りず、祖母に金策を求める描写が挿入されていた。


(注1)東京の鈴本演芸場、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場の4軒。1960年代以降は、ホール落語が全盛となり、三越劇場、紀伊國屋ホール、横浜にぎわい座(2002年)毘沙門ホール等が有名。

(注2)落語家の格付で、前座と真打の中間の身分。落語会の開催や、放送メディアへの出演、羽織の着用が許される。


「俺は古典しかやらないと決めている。熊さん、八っつあん、与太郎、御隠居、若旦那、海苔屋の婆まで、好きで好きで、この世界にどんぶり飛び込んだんだ…前座で見習いを4年。22で二つ目になって、何とか一人前だ。二つ目から真打まで、おおよそ10年。腕が良ければ10年もかからない。下手だと後輩にどんどん抜かれる」

このナレーションの主も、当然の如く、同一人物。

古典落語に対する三つ葉の拘泥(こうでい)の深さが伝わってきて、映像の中でも、新作専門の二つ目から、「着物が似合わない。新作やろうよ」と誘われても、頑固一徹の姿勢を貫くのだ。

些かジョーク含みで言えば、メディア受けを狙って新作に走る若手の噺家が多い中で、彼にとって古典落語の存在価値は、単に好きだからというモチーフのみではなく、「好きだからこそ、守り続けねばならない芸」であり、まさに「絶対防衛圏」としての揺るがぬ価値が、そこに存在するのかも知れない。

ところが、そんな勇ましい啖呵(たんか)を切っても、三つ葉の師匠の今昔亭小三文から見れば、彼の芸はあまりに未熟なのである。

それでも彼は、師匠に直談判して、新しい話の教示を求めて止まないのだ。

この男には、話を多く増やすことで、一人前になれると思っている節がある。

そんな厄介な弟子を前に、師匠は厳しくダメを押す。

「数ばかり増やしてどうするんだ。大体、お前さんはね、工夫っていうもんが足りませんよ。おいしいとこだけ取ってもダメなんだよ。頭悪いな。俺の話の人物はな、俺がこさえたの。お前の話聞いているとさ、俺がせこ(注3)になったみたいでやなんだよな」
「ダメですか?」
「上手いかせこかは、客が決めるんだ。誰もお前の話なんか聴いてねえじゃねえか。向こうが聴こうって気がなきゃ、幾ら喋ったって、喋ってねえのとおんなじだよ」
「こっちは聴いて欲しくて喋ってんです」
「分ってねえなあ、お前も。何年、同じことやってるんだ。ただ喋りてえなら、壁でも向かって喋ってな」

師匠の言葉には、この世界特有の毒気があったが、本質は外していなかった。師匠は弟子に主体的で、独創的な努力を求めているのだ。

今昔亭三つ葉
この言葉の深い意味を弟子が深い所で理解するには、当人自身の何か斬新な取り組みによる自己変革が必要であるという含みがあり、それが物語展開の重要な伏線になっていくであろうことが、観る者に容易に想像できる流れであった。


(注3)寄席の楽屋符丁(隠語)で、「下手」という意味。


「現代話し方教室」を主催する師匠に随伴した三つ葉は、そこに参加した一人の若い女性が、不機嫌な様子で部屋を出て行くのに反発して、声をかけた。

「今の話のどこがまずかったんです?高い授業料、払ってるのに帰ることないでしょ。つまんなかったんですか?どこがつまんなかったんです?」

それでも答えない女に、「あんた、髭似合いそうだな」などとジョーク混じりで交わしたら、女は一言。

「本気で喋ってないじゃない。ただ、口動かしていただけじゃない。あの人、あたしたちを舐めてる」
「師匠は、どこ行ったってああだよ。相手が殿様だろうが何だろうが、あんなもんだ」

この三つ葉の言葉に答えず、彼女は建物から出て行こうとした。

この行動に不快な気分を突き上げて、三つ葉は女性の後方から言葉を放った。

「出て行くのはあんたの勝手だが、話の途中ってのは無礼だろ。おい、聞いてるのか」

女はここで止まった。三つ葉は畳み掛けていく。

「落語、聴いたことあんのか?テレビじゃなくて生で。一度、師匠の話、聴きに来るといい。そっちが本業だ」

女は去りながら、言葉を添えた。表情に変化が見られない。

「何で、自分の話を聴きに来いと言わないの」
「言えば、来るのか?」
「行かない」
「今度の日曜、朝10時。場所は浅草東洋館。二つ目ばかりが4人喋る。俺も喋る」

三つ葉は後方から、去っていく女に一気に捲(まく)し立てた。


―― このシーンに至るまでのテンポの良い展開は、落語の世界に生きる男の律動にピッタリ重なっていて、観る者の好奇心を巧みに誘導する抜群の効果を醸し出していた。加えて、ここでの若い男女の出会いとその会話の内に、映像をリードする二人のキャラクター性が典型化される描写になっていて、以降の物語展開の骨格を示唆するラインが読解できるものでもあった。


映像に戻る。

自宅に戻った三つ葉は、茶道教室を開く祖母の弟子の郁子から、甥に落語を教えてくれと頼まれたが、自信なさげな返事をしつつも、郁子に密かな思いを寄せる男に拒絶する道理がなかった。

浅草東洋館
浅草東洋館。

二つ目の落語会が開かれていた。想像外の出来事だったのか、例の女が最前列で聴きに来ていた。それを視認した三つ葉は、すっかり緊張てしまって、上出来とは程遠かった。

館内での、件の女性との会話。

「あがってた」と女。
「まくら(本題への前置き話・注)が吹っ飛んだ」と男。
「いい気味」
「今度はもう少し上手くやるよ」

女は突然、話題を変えた。

「どうやったら喋れるの?」
「落語家志望じゃないよな」
「違う」
「じゃ、なんで?」

少し間をおいて、女は発問の理由を答えた。

「だから…口のきき方」

相変わらず、言葉少ない女の表情には変化が見られない。

男は不機嫌な相手の真意が読めて、安堵した。男の方から自己紹介して、女の名を確認した。

彼女の名は、十河五月(とかわさつき)。

自己紹介する表情にも、不機嫌さが滲み出ていた。

「何か怒ってんの?」と三つ葉。
「別に。こういう顔なの」と五月。

これが二人の二度目の出会いとなったが、「話し方教室」(以降、呼称を「落語教室」に統一する)の始まりでもあった。それは同時に、男の「絶対防衛圏」のゾーンに、落語とは無縁な素人が踏み込んで来たことから出来する、言わば、異文化交流の開始を告げるシグナルとなっていく。積乱雲に齧(かじ)られたかのような物語の見えない稜線が、恐々と開かれていったのである。



2  銃後の手習い



「落語教室」が、三つ葉の自宅で開かれた。

生徒は二人。

十河五月と村林優。

村林優
後者は、郁子の依頼で引き受けた小学生。関西から転校して来て、虐めにあっているという子である。

「あんたたち本当にやるの、落語?何だか、どうでもいいっていう感じ」

二人のやる気のなさそうな様子を見た祖母には、「落語教室」の立ち上げ自体が不安でならないようだ。

レクチャーを始めても、全く反応しない五月に、三つ葉は些か当惑気味。

「会話は苦手です」と五月。これだけだった。

それでも三つ葉は、落語の定番のような「饅頭(まんじゅう)怖い」(注4)を一席伺った。

教室での教材にするつもりの話を、二人は神妙に聴くが、笑うこともなく、特段の反応もしない。

「アホみたいやなあ」と優。
「足が痺れた」と五月。

さすがに失望した三つ葉は、「今日は終わり」と一言。

不機嫌な表情を崩さない五月に、三つ葉は吐き捨てた。

「やなら、もう来なくていいからなあ!」

こんな不安な感じでスタートした「落語教室」に、3人目となる中年男が参加することになった。

現役のプロ野球解説者だが、滑舌の下手な解説の向上を求めることが、本人の切実なモチーフだった。

そんな男の下手な解説を優から馬鹿にされ、怒る湯河原に、「冷やかしなら帰ってよ」と五月に言われたことで、「分ったよ。男に持てないだろ」と捨て台詞を残して去っていくというエピソードは、湯河原登場の初日の出来事だった。

そんな教室の中で、真っ先に落語の面白さを実感したのが村林優だった。

二代目桂枝雀
ビデオを通して見た、枝雀(注5)のオーバーリアクションの個性的な落語に嵌ってしまったのである。

3人の練習風景が何とか継続されていく間に、三つ葉の祖母から浴衣の仕立てを習い、笑みを見せる五月の表情が印象的に映し出された。それは、彼女の普段の日常的な情景であり、「会話は苦手です」という本人の不機嫌な表情が、ある種の対異性観の所以である事情が想像し得るシーンとなった。


(注4)この世で唯一、「饅頭を怖い」と言って恐れる者を困らせるために、怖いもの比べの話で盛り上がった町内の暇な若衆たちが、山盛りの饅頭を買ってきて、饅頭の話題が出ただけで寝込んでしまった、件の男の震える姿を見ようと覗き見したら、あろうことか、それらを次々に頬張って、美味そうに食べているのだ。一通り食べ終わった男が最後に、「今度は、苦~いお茶が一杯恐い」という落ちで終わる代表的演目。映像では当然の如く、「江戸版」が紹介されている。


(注5)2代目桂枝雀のこと。関西で「爆笑王」と言われるほどの人気を博し、「英語落語」などの実験的試行にも熱心だったが、鬱病のため自殺。


浴衣を仕立てた十河五月を誘って、三つ葉は浅草ほおずき市に行った。

浴衣で現れた五月の美しさに一瞬、三つ葉は見惚れる表情を見せたものの、当の彼女の不機嫌な態度は変わらず、結局、肝心のほおずきは買わずじまい。

おみくじを引いても、二人とも「凶」のくじ。

終始、不機嫌な五月を持て余し気味の三つ葉は、行く所もなくなったのか、蕎麦屋に入ることにした。

蕎麦屋に入っても箸に手をつけない五月は、相手に対する過剰な武装を少し解除して、自分の思いを語ったのである。

去年、「来年は浴衣で来よう」と約束した男から振られたことを告白した後、口汚く罵った。

「やな奴だった。人の喜ぶことを言えなくて、やなことばっかり言って嫌われた」
「十河みたいな男だな」と三つ葉。
「誰でも良かった。一人で来るのバカみたいだし、行かないのもやだし…」

これが浴衣を仕立てて、ほおずき市に同行した理由だった。

三つ葉はすっかり伸び切った蕎麦を食うように勧めるが、それには反応せず、五月は男の顔を見て一言。

「誰かを好きになったことないでしょ?」
「いるよ、好きな人くらい。婆さんの弟子で、年はあんたよりちょっと上か。どう誘うか教えてくれよ。でも、あんたと浅草歩けたのも楽しかった。勝手なもんだな」

十河五月
三つ葉がそこまで言ったとき、眼の前にただ座るだけの女の眼から涙が溢れ出していて、それを視認した男は、初めて見る女の素顔に驚くが、もう反応できなかった。

映像展開のテンポは、なお良好である。

都電荒川線沿線にある、「トカワクリーニング店」で働く十河の日常性が、画面で初めて紹介された。

そこに、「大吉」のおみくじ付きのほおずきが送り届けられた。三つ葉からの心のこもったプレゼントである。

女に小さな笑みが零れた。

猛暑のその日、三つ葉の心には落ち着きがなかった。

「落語教室」の日であるからだ。

明らかに、男は女を意識している。

意識する対象の女が教室に入って来たとき、女は礼を言わず、いつものように不機嫌な表情を延長させるばかり。

想像外だったのか、その非礼な態度を見て、三つ葉はムッとする表情を垣間見せた。

そんな中で開かれた「落語教室」。

「饅頭怖い」を演じる十河五月を見る三つ葉の眼は、そこに彼女に対する不快感が含まれていたにしても、いつになく真剣に聴き入っている。

そこに湯河原の携帯が鳴って、教室が中断された。それを厳しく注意する三つ葉の表情には、当然ながらユーモアの欠片(かけら)もなかった。

小学生の優にもからかわれた湯河原が、口汚い言葉を吐き捨てたときだった。

突然、十河五月はテレビの野球中継をスイッチオンして、「偉そうにやればいいじゃない」と湯河原を露骨に非難したのだ。

テレビの解説で、覇気なく口下手振りを晒している男が、「落語教室」の場では居丈高(いたけだか)な態度を崩さない醜悪さに、真剣に「苦手な会話」を克服しようと努力する五月の逆鱗(げきりん)に触れたようだった。

自分の最も気にしている所を突かれて、湯河原は無言のまま、部屋を出て行った。

その直後の描写は、三つ葉の失恋譚。

密かに想う郁子から歌舞伎を誘われ、嬉々とする三つ葉は、なけなしの金を叩(はた)いて、歌舞伎のチケットを買った後、デートに臨むが、そこで郁子から結婚報告を知らされることになった。

心の中を見透かされることを恐れる三つ葉は、結局、そのチケットを結婚祝いにプレゼントするに至った。

その郁子が作った腐った弁当を、三つ葉は焼け食いの気分で食べ尽くして、腹を壊すことになるというお粗末なおまけつき。

腹を壊しながらも、三つ葉は師匠の十八番である「火焔太鼓」(内容は次章で詳述)を、客席から真剣に聴いていた。

演じ終わった師匠に近寄って、三つ葉は自分の決意を告げた。

「俺は師匠の話が好きです。8代目のようになれないかも知れない。でも、俺は喋ります」

相変わらず、お惚(とぼ)けの反応をする師匠から、そこだけは真面目な口調で報告する、「一門会」の主催を知ったとき、三つ葉は兄弟子を差し置いて、「火焔太鼓」を演じることを決めた。

以降、練習に明け暮れる三つ葉の日常性が映し出されていく。


―― それを映し出す映像には、不自然さがない。年上女性への淡い失恋と、五月への異性感情の萌芽が砕かれたと想念する男の時間が、芸に全身全霊を賭けようとする心理に昇華するという映像の流れ方に、余分なカットが含まれることなく、不足を印象づける描写もなかった。


「落語教室」はこのとき、個々人の私的領域の内に還元されていった。

自宅で落語の暗唱を続ける五月がいて、すっかり枝雀落語に魅入られていく優がいた。

その優は、それを湯河原に聴いて欲しいと、三つ葉に依頼した。久しぶりの教室の再開を求められ、三つ葉は、義兄の飲み屋で働く湯河原を迎えに行く。

村林優の思いを、湯河原に伝えに行ったのだ。

その店でも、バカにされながらも下手な野球解説を止めなかったが、客に酒を零した湯河原が、「すいません」と謝罪して、客のズボンを拭く姿は、「落語教室」の中で悪態だけをつく男のそれとは、明らかに一線を画していた。

そこで三つ葉が見たものは、一人の中年男の紛れもない人生の裸形の姿だった。

落語を聴いて欲しいと頼んだ村林優は、体育の授業の際、級友の宮田と野球で勝負することを約束したことで、落語の一件は吹き飛んでしまった。小学生の世界なのだ。

左から三つ葉、村林優、湯河原、五月
その優に頼まれて、野球のコーチをした湯河原は、コーチの後、「好きなものから逃げると一生後悔する」と優に一言。

この言葉に、三つ葉の心が反応したようだった。

その後の描写は、「一門会」の発表を前に、三つ葉が師匠の前で「火焔太鼓」を語り、ダメを押されるシーン。彼の精進には、なかなか軟着点が見つからないのだ。

そんな焦りもあって、三つ葉は五月を訪ねた。

訪問理由は、「一門会」の主催によって、落語教室の開催の延期を告げるため。

そのとき、十河から落語教室の発表会を開くことを求められた。

「あのな、何で来てるんだ?落語教室」と三つ葉。
「一回で止めると思った?」と五月。
「まあな」
「何で教えてんの?教えたくて教えてる?何で毎回、集まると思ってんの?暇つぶし何かじゃないわよ。皆、本気で何とかしたいと思ってる。今のままじゃ、ダメだから、何とかしようと。何でそれが分らないの」
「いや、分ってる。稽古しとけよ。やるから、発表会」

映像がその後、開いたのは、優が家出したという母からの連絡。

体育の授業で、宮田との勝負に負けたらしい。その優が湯河原の店までやって来て、置いていった手紙があった。

「湯河原のおっちゃんへ せっかく教えてもらったのに、オレ、あかんかったわ。三しんや。はずかしい生とでごめんなさい。ありがとうございました。 村林優」

ノートを破った端切れに、大きい字でびっしり書き込まれていた。

「家の中を探した?」という五月の言葉で、皆で家の中を探し回った挙句、優は押し入れの中に隠れていた。

「見つかってもうた」と優。
「何やってんだ?そこで?」と三つ葉。
「寝とった。その前は漫画読んどった。その前はなあ、変な落語、聞かされた。どんどこ、どんどこ、いうやつや」

その瞬間、三つ葉の平手打ちが飛んだ。頬を真っ赤にして、泣きじゃくる優。

屋台で、3人の大人が浮かない顔で沈んでいた。

「殴って良かったんだよ」と湯河原。
「良かないです。子供です」と三つ葉。
「慰めるよりましだよ。あいつ、プライド高いから。滅多なことで泣かないよ」と湯河原。
「止めましょう、教室。止めて、すっきりしましょうや」
「すっきりしない」と五月。
「落語習ったって、何も変わらないだろ?」と三つ葉。
「講師が下手だからよ」と湯河原。
「ああ、俺、こういうの向いていないんです」と三つ葉。
「最初からやんなきゃいいじゃない。バッカみたい」と十河。
「そんなバカに教わってるバカは誰だ。落語やったからって性格変わらないぞ。どうなりたいんだ。好かれたいのか?感じのいい奴だと思われたいのか?」
「誰にも好かれようとは思っていない」
「誰にも好かれたくないんだろ?好かれようって態度か、それが!猫だってそうだろ、懐いてみせなくて、誰が撫ぜる!」
「誰が撫ぜてくれって言った?」
「そんなんだから振られるんだろ!別れた男の悪口を俺に言うな!」
「そっちが聞いてきたんじゃない!」
「聞いてない!聞きたくない。お前、一生そのままだ。やな奴だ。野良猫だ!」
「自分はどうなの?言いたいこと言って。自分はどうなの!何、言ったって嫌われないからいいわよ。…そうなりたかった…無理だけど…」

十河五月はこれだけ言い切って、帰って行った。

男たちは止めようとしたけど、すぐ諦めた。それは、男と女の殆ど決定的な喧嘩別れであった。


―― 「落語教室」は、それを習う者にも、それを教える者にも、「銃後の手習い」という性格を持っていた。

そこは、彼らの固有の戦場から距離を置いた場所で形成された、一つの特殊な宇宙であった。

そのモチーフにはそれぞれ微妙な時間差があったが、まさにその宇宙を求める者が、それを求めるに必要なものを手に入れることで、特段に目立ったものでないながらも、それぞれの固有のフィールドとしての戦場に何とか還元させようという小さな思いは消えなかった。

とりわけ、その難儀な教室を依頼され、引き受けた男にとって、「落語教室」の存在価値は、教えることを通して自己を客観化できる副産物を生み出したであろう。

そこで出会う異文化の人生に引き摺られ、問題提起され、自分の貴重な時間を削り取られることによって、本人の自覚の有無を越えて分娩された、「常在戦場」の如き観念の騒ぎ方の内に、専門分野のフィールドに依拠したものを伝授する行為の持つ、「全てが学習である」という栄養液のエキスを自己内培養できる時間の有りようは、何某かの価値を有する希少性として自立的に機能していたのである。

まさしく、「落語教室」を率いる者にとって、それ自身が「銃後の手習い」という役割を立ち上げていたのだ。

では、「落語教室」に通う者たちの人格に被せられた、そのメタファー的な意味づけは皆無であったのか。

対異性観において、極端なまでにその自我を堅固に武装する女、専門分野のフィールドに信念を抱懐しながらも、それを巧みに言語化できない中年男、未知なる人生の出発点にあって、旅装を解く時間にも達し得ないで、自分の才能を発掘し得る可能性とのクロスを手に入れたかのような小学生。

多かれ少なかれ、彼らは共に内側に空いたネガティブなスペースに、「言語空間」という価値を補填せんとするモチーフを抱懐することで、もう一つの新たな自己の構築を必要とする人格設定であった。

要するに、「ユーモアの欠如した、つっけんどんな女」、「口下手で、無骨な野球解説者」、「関西から転校してきた虐められっ子」という、およそ落語の世界と無縁な辺りにいる者たちを囲い込み、そこに「会話力による状況突破」というキーワードを媒介させることで、「落語教室」という特異な小宇宙を、「銃後の手習い」に変容させていく狙いを持った人格設定であったようにも思えるのである。



3  灼熱の前線



「一門会」の日。

今昔亭小三文師匠一門による、4人の会である。

師匠は酔いを残す三つ葉の芸が、最後まで演じられないと断じ、「バカにバカの上塗りだ」と言って、酒まで飲ますほどの粋狂を演じるその道のプロである。

そんなプロが楽屋で聴き耳を立てる中で、二つ目の三つ葉が選択した演目は、師匠の十八番である「火焔太鼓」。

狭いホールの客室の後方には、男の落語を聴くために入館して来た十河五月がいる。

そんな緊張した状況下で、覚悟を括った者のように、三つ葉は「火焔太鼓」という大きな演目を語り始めていく。

「ちょっと、どうしてお前さんはそう商売が下手なんだよ!な...何がだよ。何がじゃないよ!何だって今の、あのお客を逃がしちゃうの!何だって...逃げちゃうものはしようがないだろ、えぇ?当人が逃げるって言ってるものは仕方ないじゃねぇか。ふん、捕まえて、無理に売りつけるってぇほど強い商売じゃないんだ。何を言ってんだよ、お前さんが逃がしちゃったんだよ。あのお客はね、うちのお店の箪笥(たんす)を見て惚れ込んで入って来たんだよ、えぇ。ニコニコ、ニコニコしながら入って来て、お前さんの所へ行ったじゃないか。そんでもって、お客が『おやじさん、この箪笥、いい箪笥だねぇ』って言ったとき、お前さん、何て答えたよ。

『ええ、いい箪笥ですよ。ウチに16年ありますから』

...そんなことを自慢する人があるかい?16年も売れ残ってる箪笥を買う人がどこにいるよ!?本当にしょうがないねぇ。売れるものを売らないで、そのくせ売らなくていいものを売っちゃうんだから。え?何がったってそうじゃないか、去年の大晦日だよ。お向かいの米屋の旦那がウチに遊びに来たときに、ウチの座敷で使ってる長火鉢みて、『甚兵衛さん、この火鉢はいい品だねぇ』って言ったときに、『じゃぁ、売りましょうか』って売っぱらっちゃったろう。お蔭で、冬の最中にウチは火鉢が無くなっちゃって、寒くて仕方がないから、お向かいに当たりに行ったりして...お向かいの旦那、言ってたよ。

『甚兵衛さん付きで火鉢買ったような気がする』って。

(略)な、何だよ、その『やい!』ってのは...言うよ、別に悪いことをしてきた訳じゃねぇや...太鼓だよ。

(略)伯父さんと伯母さん、のべつケンカしてんだもん...やんなっちゃうな。けど、これほんとに汚そうだなぁ...叩(はた)きで、えぃっ...うわぁ、凄いや、埃(ほこり)で向こうが見えなくなっちゃった...伯父さん、これ埃が凄いや。

怒られちゃった。埃は叩こう...ドンドンドンドンドンドンドン。あれ?面白いや。ドドドン、ドドドン、ドドドン、ドン。

(略)それからトントン、トントンまけてな、三百両で売れちゃった!この人は...何でそういう嘘をつくかねぇ...ははぁ、損して帰ったってえと、おまんまが食べられなくなると思って...そんなにおまんまが食べたいかねぇ。まあ、お前さんも可愛い所があるよ。この野郎...本当に三百両で売れたんだよ...本当に?嘘なんだよ、どうせ。持ってるなら見せろ。早く見せろ、このバカ。この野郎。

よーし、いま見せてやる!おれぁ、ここんとこに三百両並べて見せてやる!てめぇ、ビックリして座りションベンしてバカになるなよ!

へっ、さ、どうだ!五十両だ!ま!お、お前さん、本当なの!?本当なんだ、どうだ。百両だ!まぁ、百両だなんて...やだぁ。やだぁじゃねぇや、こん畜生め!そら、百五十両だ!ほれほれ、百五十両だ。どうだ。まぁ、百五十両だなんて...弱るよ、あたしゃ...あ、あぁぁぁぁ。

「火焔太鼓」は、五代目・古今亭志ん生の十八番として有名
おいおい、しっかりしろ、後ろの柱に捉まれ。え?こ、こうかい?ああ、それでいいや。いいか?それ、二百両だ!あぁ、お前さん、商売上手!何を言いやがる!そら、二百と五十両だ!あらー、やっぱり古いものはいい!へっ、さぁ、三百両だ!まあ~ぁっ...お前さん、水を一杯飲ませておくれ!それ、見やがれ!俺だって水飲んだんだぞ。定、持って来てやれ!...さ、どうだ?

はぁーっ...お前さん、ありがとう...けど、よくあんな汚い太鼓が三百両で売れたねぇ。やっぱり、音がしたから気が付いたんだねぇ。そうともよ、やっぱり音がしなきゃだめだ。俺ぁ、今、半鐘仕入れようと思ってんだ。半鐘?ダメだよ、おじゃんになっちゃう!」(「東西落語特選・火焔太鼓」より参照)

今までにない熱演に、終始、客席から笑いが絶えなかった。後方で立って聴いていた五月と眼が合ったとき、柔和な表情を一瞬見せた彼女の顔が、いつもの険しい顔つきに戻っていた。

師匠に褒められた三つ葉の心は、最後まで演じ切ったという充足感に溢れていた。

男が自ら作り出した「灼熱の前線」は、この日、小さいが、一つの困難な戦いを終えたかのようにして、一応の自己完結を果たしたのである。

そして、もう一つの「灼熱の前線」が男を待っていた。

今度は戦う者としてではなく、聴く者として、男を待っていたのである。

「落語教室」の発表会がそれである。

発表会の当日。

優の「天敵」である宮田も来ていた。彼を笑わすための戦いを、優は宮田に挑んだのである。

「猛虎亭優」」という名をつけた優の「饅頭怖い」は、満場の笑いを誘いながら、好調なペースで話を繋いでいく。そして遂に、宮田を笑わせた優は、彼の下に行って自分の思いを話した。

「俺、ホンマに宮田に聴いてくれるとは思っていなかった。めっちゃ嬉しかった」

それを聞き流した宮田は、特段の異議を唱えることもなく、二人の友達を引き連れて帰って行った。

「ありがとうな、ホンマに来てくれて」

優が「猛虎亭優」」という名の素人噺家に化けて、最強のパフォーマンスを演じ切った才能と、それに賭けた児童の熱き思いが狭い特殊空間を支配したのである。

「落語」という伝統芸能の底力が、フラ(その人にしかない独特な持ち味)に溢れた当代きっての人気噺家の物真似とは言いながら、それを自家薬籠中(じかやくろうちゅう)の物としたかの如き、一人の小学生の天賦の才能による熱演によって再発見されたのだ。本作の見せ場の一つでもあった。

そこに、遅れて十河五月が入って来たが、家の中に入れないで外にいた彼女を誘導したのは、当家の主である三つ葉の祖母であった。

五月の性格を知り尽くしている祖母は、彼女の誘導係として、家の前の奇麗な街路を繰り返し清掃しながら待っていたのである。

「入り辛いです。喧嘩して、それっきりで」と十河。
「喧嘩したままで構いやしないじゃないか。それなら格好つくだろう。達也(三つ葉の本名)が何言ったか、知らないけどさ…」
「本当のことです。だから頭に来たんです」

彼女は、屋台の飲み屋で三つ葉からストレートに言われた、毒気に満ちた言葉を許せなかったのである。それが真実を言い当てていたからだ。

三つ葉の祖母
そんな思いで、祖母に導かれて、敷居の高い家の玄関を潜り抜け、「発表会」が開かれている小宇宙の中に、その身を投げ入れていった。

「来たのか」と三つ葉。
「来ちゃ悪いの。来て欲しかったくせに。よく来たくらい言いなさいよ!」と十河。

彼女の心に澱むネガティブな感情が、容易に氷解する訳がないのである。

それでも、五月を笑みで送り出す三つ葉がそこにいる。

彼にとって、五月の来訪自体が充分に満足がいくものなのだ。

「十河亭五月」という名を持つ女の、一席が開かれていく。

「えー…『饅頭怖い』はやりません。代わりに、別な話をやります。私の一番好きな話です」

そう言って、彼女が選んだ演目は、「火焔太鼓」。

それを真剣に見入る三つ葉。

「ちょいと、どうしてお前さんは商売が下手なんだよ。あ?何が?何がじゃないよ。何だって、今のあのお客逃がしちゃうの?逃がしちゃうのったって、逃げてしまうんだからしょうがねえじゃねえか。それ、捕まえて、ふんじばって置くほど強い商売じゃねえんだよ…お前さんが逃がしちゃったんだよ」

次第に興が乗ってきて、素直な笑みを含んだ自然な感情で、話のテンポを進めていく女は、完全に「十河亭五月」に成り切っていた。今まで見せたことのない女の本来的な情感世界が、天才的な枝雀落語を演じ切った優によって形成された、噴き上がりつつある特殊空間の高温の空気と反応して、水蒸気爆発を起こしているのだ。

真剣に話を聞く三つ葉の表情にも、心の琴線に触れた者だけが反応する名状し難い興奮が滲み出ていた。

全てが終わって、別れのときがやってきた。

「落語教室」の解散の瞬間である。

照れの中に顔を覗かせている誇りを隠すことなく、来年からコーチになることを湯河原は報告した。

「俺、弟子、予約しとくわ」と優。

今度は小学生の報告だが、最後までユーモアを捨てない才能は、殆ど本物の芸人のそれであった。

「大人になりゃ、それが間違いだって分るよ」と祖母。

どこまでも、この人物の切り返しの方が勝っている。

「俺、この会やって、落語が好きになった。たまんなく好きだったけで、もっと好きになった。もっと上手くなりたいと思った」

三つ葉である。

最後の言葉は、最も芸人らしくない反応をする男の誠実さの内に括られていった。

当然、このような儀式的な場で、自分を開くことをしない五月の言葉はなかったが、その表情には相応の自己完結を果たした者の満足感がうっすらと滲み出ていた。

「ちょっと、出て来るわ」

3人と別れた後、笑みを浮かべる祖母に、三つ葉はそう言って家を出た。余情を形に変える必要があったのだ。

隅田川の遊覧船
三つ葉は隅田川の遊覧船に乗って、デッキにもたれて、一人で「火焔太鼓」を練習する。それだけが今や、彼の世界の全てだった。

そこに突然、十河五月が乗り込んで来た。

「どうしたんだよ?」と三つ葉。

沈黙の中から、意を決して言葉を結ぶ五月。

「言いたいことがある。言わないと、一生後悔しそうな気がする」

そこまで言った五月は2、3歩進み出て、言葉を繋ぐ。

「ほおずきのお礼、言ってない…嬉しかった。本当に嬉しかった」

真剣な眼差しの三つ葉が、数歩、歩み寄ったとき、十河五月はいつものつっけんどんな女に戻っていた。

「どうして、ほおずき何かくれる訳?」

その奥には、相手の真情を確認したいという思いで溢れていた。

「いらないなら返せ。俺はずっと怒ってった。ほおずき、丸きり無視されて…どうでも良ければ、これほど頭に来ねえ。…さっきのな、『火焔太鼓』、30点」

男の真情を確認できた女は、もう言葉を失って、男の胸に飛び込んでいく。

「『饅頭怖い』は、どこいったんだ?」と三つ葉。
「どこ、いったんだろ?」と五月。

女の表情は、映像で見せたことのない至福の感情で満たされていた。

「ウチに来るか?婆さんがいるけどな」と三つ葉。
「うん」と五月。

隅田川の独特の香りを運ぶ風を、それを求める者のように吸収する若い男女がそこにいて、彼らを乗せた遊覧船が、荒川から分岐し、東京湾へと続く一級河川の揺蕩(たゆた)いの中で、典型的なハートフルな映像としての均衡性を失わない、その適正サイズの律動感に合わせるかの如く、心地良く下っていく漂流には、もうそこに加える何ものもない閉じ方を、きっぱりと表現する情感だけが支配し切っていた。


―― 本章は、「起承転結」の「結」に当たる部分で、言わば、作品の勝負を賭けた最も枢要な括りの章である。

自らが拠って立つ世界での主人公の煩悶と、「落語教室」の立ち上げ(起)が、「教室」の危ういダッチロール的展開に繋がり(承)、本来的に抱えた矛盾、即ち、開催者である主人公の脆弱なモチーフと、そこに参加する者たちの均衡性を持たないモチーフの拡散性と、情熱濃度の落差等によって、殆ど必然的な内部炸裂の出来で自壊しかけた前章(転)を、そこに関わる者たちの微妙な個人差を内包しつつも、その破壊的な突破力によって軟着陸させ、それ以外にあり得ないと思わせるに足る、ささやかだが、しかし自分の人生を繋いでいく分には、極めて価値ある養分を含んで自己完結を果たす決定的なシークエンス ―― それが本章であった。

そこで、主人公の噺家は、自分の内側を奥深く掻(か)き乱しつつも、本人の自覚が遅れてやってきたほどの疲弊感の中で、充分な栄養液になったに違いない「落語教室」からの「銃後の手習い」を卒業し、そこで出会った女への未練も打ち捨てて、「古典落語 命」の世界への自己投入を括ったのだ。

遂に師匠からレクチャーを受けることがない状況下で、男は真に自らの主体的努力によって、師匠の十八番の演目を自分の表現フィールドの支配下におくために、「伝統芸能」の奥深い森の中での果敢な格闘を選択し、決して諦めることなくそれを継続させ、なお継続させていく固有の時間を特定的に切り取っていくのである。

まさにその様相は、「灼熱の前線」と呼ぶべき何かだった。

そして、その「灼熱の前線」が、主に男のネガティブだが、それに身を投げ入れる時間の累加された疲弊感の果てに炸裂したデトネーション(爆轟・ばくごう)によって、緩やかな速度で匍匐(ほふく)・蛇行してきた「落語教室」の磁場に変化を与えていくのだ。

「『落語教室』の発表会」という小さいが、しかしそこに参加した者たちにとっては、参加したことの自己検証となる意味を持つ時間を作り出さねばならなかった。彼らにとって決定的な括りを果たす、最初にして最後となる時間の構築は、その日常性から切れた特殊な空間と化す小宇宙での自己完結でなければならなかった。

転校先での関係構築の主体的改善の故に、小学生は全身を駆動させて弾け、ごく普通のサイズの自然なる「会話力」を手に入れるために、女は自らの反面教師と化していた男の演目を抜き取って、本来的な暗記力の助けを借りた眼に見えない努力によって、大きく化けて見せた。

そして、遂に「落語教室」へのアクセスにおける言語的成果を見せることがなかった中年男は、「プロ野球コーチ」への転身という決定的成果を置き土産にして去って行ったのである。彼もまた、「落語教室」のエキスを自然裡に内化吸収することに成就した一人だったという訳だ。

「灼熱の前線」の形成は、しこたま酩酊した男が、なお我を失わず、その翌日に大きく弾けることで、前線を支配し切った胆力、即ち、「恐怖支配力」を身体表現しただけではなく、男が主催した「銃後の手習い」の発表会の場においても、その小宇宙のサイズに見合った分だけの「灼熱の前線」を作り出したのである。

一切が終焉し、映像を賑わわせたものが消えたとき、そこに残った男と女が心地良い風を受けながら、それ以外に想像し得ない場所にソフトランディングしていった経緯に関わる、その心理学的文脈についての主観的把握への言及は、次章に譲る。



4  ラインの攻防 ―― まとめとして①



私がよく言う言い方だが、人間は自分の中にあって、自分が嫌うものを相手の中に見るとき、その相手を間違いなく嫌うだろう。

映像の中のヒロイン、十河五月の場合は、まさに以上の説明で了解可能な心理を身体表現していたように思われる。

彼女は、1年前に別れたというかつての恋人の中に、その心理の暴れた様態を見ることで相手を嫌悪し、そして何よりそれ以上に、相手も同様な感情を彼女の中に見て、結果的に彼女を嫌って去って行った。そこに、自分の中にあって、自分が嫌うものを相手の中に見るときの典型的な別離のパターンがあると言えるだろう。

この世には、決定的なミスマッチによる、殆ど必然的に軟着陸し得ない関係様態というものが存在するということだ。それを私たちは、通常、五行思想などの「知恵」を借用して、「相性」という使い勝手が良い言葉で説明するが、何のことはない、単に心理学的なカテゴリーで了解可能な関係様態であるということ以外ではない。

恐らく彼女は、かつての恋人に対して、そのようなネガティブな感情体験を苦々しく味合わされたに違いない。映像に印象深く映し出されたその尖りが生来的なものなのか、或いは、そこにしか逢着し得ないだろう痛々しき失恋によって、より悪化した性格傾向を形成してしまったのか、詳細は不分明なのだが、少なくとも、そのような尖った性格が対異性観において集中的に表現されている描写を見る限り、前者(生来的)をベースにした、後者(失恋経験)による加速的変形化という心理文脈が的を射ているように思うのだ。

即ち、彼女の尖りは、自我をこれ以上傷つけたくないと深層下で要請する、「プライド防衛ライン」(注6)に関わる一種の自我防衛であると言えるだろう。

従って彼女のケースは、自らを敢えて尖らせる身体表現によって、自分が嫌悪する攻撃的な傾向を有する男性を、予(あらかじ)め排除する選択的行為を遂行したと考えられるのである。

その例証については、後述する。


(注6)自らが仮構する自我の防衛ラインで、これ以上特定的な他者に踏み込まれることを恐れる感情によって、自己に内在すると信じ、そこだけは守りたいと思っている価値系の文脈のことで、私の造語。


以上の把握を前提に彼女の性格を考えるとき、観念的には自然に受容できるだろう。なぜなら彼女の場合、三つ葉から贈られた大吉付きのほおずきに柔和な表情で水遣りをするワンカットに象徴されるように、映像で映し出されたほんの小さな描写をきちんとフォローしていくと、家庭の中での裸形の自我は、ごく普通の適応力を備えた、清浄な心を持つ温和な女性の印象を受けるからである。

真面目なのだ。臆病でもあると言ってもいい。

自我防衛意識が過剰なのである。

それが、対異性観にもダイレクトに表れてしまう所が彼女の欠点なのかも知れないだろう。その辺りに関しては想像の限りでしかないが、映像がそんな彼女の欠点を正直に写し撮っていたことは事実である。

自分を振った男に対して抱いたに違いない感情を、彼女は、映像で出会う二人の男性に対しても向けられていた描写は無視し難いだろう。

とりわけ、「落語教室」という特殊な空間内で、野球関係者を露骨に嘲罵(ちょうば)する態度を示すプロ野球解説者に対して、野球放送中のテレビをスイッチオンした直後、「偉そうにやればいいじゃない」と言い放って、激しい感情的反発を示した心理には、人の繊細な心理を無視するかの如く攻撃的な態度を身体化する男への、言わば、「ネガティブな男性観」を相変わらず延長させている事実を物語るものに違いない。

荒川線(ウィキ)
現に彼女は、自宅のクリーニング店のテレビで、件の男がしどろもどろの解説をして、父親にバカにされている現場に立ち会っていたのである。

そんな彼女にとって、プロ野球解説者である湯河原の嘲罵は、「落語教室」がストレス発散の格好の空間に成り果てている現実を証明する何かであったと見透かしたのだろう。

舌鋒鋭い彼女の手痛い一撃が、仮に、形骸化しつつあった「教室」の近未来のイメージを憂慮するが故の難詰(なんきつ)だったにしても、そのような直接的な言葉の連射によって、同様にシャイな中年男を傷つける行為の持つ怖さに、彼女自身が鈍感であるはずがないのだ。

それでも、彼女は難詰した。

彼女は知る由もなかったが、義兄の店で自分の不始末に対して平謝りするプロ野球解説者に噛み付き、反論の余地のない「正義の鉄鎚」を振るったのである。

無防備というのではない。

その怖さを一番経験しているはずの彼女であるが故に、その確信的な物言いには、男の暴力性の刃によって、自分が傷つく前に先制攻撃するというような過剰な自我防衛が、幾分でも「怖さ」をイメージする男と共有する空間下にあるとき、それがたとえ自分をターゲットにする空気感でなくても、彼女の場合、何か常に過剰に機能してしまうようなのだ。

そして、中年男を激昂させながらも反撃されることがなく、その場を退散させる棘を持つ彼女の尖りは、同様に「落語教室」の主催者であるプロの噺家に対しても、容赦なく向けられたのである。

プロ野球解説者を退散させたその日は、都電荒川線の沿線で、「トカワクリーニング店」という看板を出す自宅で、健気に働く彼女に対して、「大吉」のおみくじ付きのほおずきが贈り届けられた直後の「落語教室」の特殊空間であった。

しかし、それを受け取って小さな笑みを零した彼女は、その心からのプレゼントへの礼を、当の本人に言うことなく、恰も無視するかの如く遣り過ごしてしまったのだ。

当然、「三つ葉」という芸名を持つ二つ目の噺家には面白くない。

彼女の訪問を待って落ち着かない様子を示した態度は、「純情一直線」という感じだったが、あろうことか、訪問するなり、いつものつっけんどんな彼女の態度には全く変化が見られないのだ。

この一件は、三つ葉の機嫌を損ねるというより、彼女に対する彼の対応処方を固めてしまうほどのリバウンド効果を持ってしまったと思われる。爾来、この一件が明らかに影響して、かの悲哀なる噺家は、「落語教室」に対する特段の関心を持ち得なくなり、遂に決定的な破局を迎えるに至ったのである。

そのエピソードに触れる前に、映像における、三つ葉の女性との絡みを確認しておこう。と言っても、特定的な恋人を持たず、年相応の恋愛遍歴とも無縁に見える男に、特段の女性の存在が眩(まばゆ)く囲繞(いにょう)している訳ではない。

祖母の茶道教室の弟子である、郁子という女性に淡い思いを抱いていた三つ葉だったが、彼女から歌舞伎を誘われ、嬉々として金策し、なけなしの金を下ろすことで、何とか二人分のチケットの購買に成功したまでは良かった。

ところが、二つのベンチを挟んで座る、憧憬の的であった女性からの結婚報告によって、あえなく失恋するに至ったのだった。

十河五月とのほおずき市へのデートは、郁子との失恋の直前に当たるものだったので、五月への関心は異性意識としてのそれではなかった。

これは、ほおずきを買うことなく入った蕎麦屋での、二人の会話の中でも充分確認されるものだった。

ほおずき市・Yahoo!百科事典
彼女に郁子の口説き方を乞う噺家の態度を見る限り、五月の存在は、「落語教室」の一人の生徒という価値を大きく超えるものではなかったのである。

ところが、件のの蕎麦屋で、三つ葉は五月の涙を視認してしまったのだ。失恋経験を語る彼女の苦悩を感受したとき、常に尖って見せる彼女の強がりの内側に潜む、「女らしさ」を思わず晒してしまう姿を目の当たりにして、三つ葉の中で、彼女に対するイメージの変容が起こったのである。

それでも、その変容は彼女の人格像を決定的に変えるものにはならなかった。

その直後に、三つ葉が贈ったほおずきに対して、密かに期待した彼女からの返礼がなかったからだ。

ほおずきを贈ったとき、三つ葉の内側に、彼女を一人の異性として見るに足る、未だ小さいが、しかしその関係の継続性を通して、特定の感情への目立った変容を惹起させる可能性が充分にあっただろう。

結果的に、それが惹起しなかったのは、明らかに五月の側に原因があるに違いないが、彼女にいつものつっけんどんな態度を延長させることのない、男サイドからの柔和なフォローが媒介されなかった事実にも原因子の一端があると言っていい。

三つ葉もまた、五月と同様に、「しゃべれども しゃべれども」相手の心の奥の深い所に届くだけの、気の利いたスキルの持ち合わせがないのだ。

と言うより、二人とも、肝心の本音を隠すスキルのみを育ててしまっている分だけ、常に「恐怖突入」を回避させるほどに臆病であり、自己防衛的であり過ぎたのである。

要するに、対異性観に関する限り、二人の「プライド防衛ライン」が必要以上のバリアの広がりを見せていて、相手が軽々と侵入できる隙間を作り出せていないのだ。とりわけ、女の場合はそうだった。

この二人は「ラインの攻防」というゲームを、いかにも辛そうに、その固有の時間の内に繋いでしまったのである。

「ラインの攻防」というゲームは、実りを手に入れられなくなると、いつしか疲弊感を累加させ、徐々に当初の活力を喪失していく。まさに、この二人のケースはその典型だった。対異性観に関する限り、二人はあまりに酷似してしまっていたから、そのラインを抜けていく突破力を容易に構築し得なかったのである。

「一門会」の主催によって、落語教室の開催の延期を告げに来た三つ葉は。十河五月から「落語教室」の発表会を開くことを求められたことがあった。

「あのな、何で来てるんだ?落語教室」

三つ葉はこの直接的な表現によって、発表会を求める五月の思いを踏み躙(にじ)ってしまったのである。

結果的に「落語教室」の発表会は開催されることになったが、その直後の村林優の家出騒動によって、三つ葉の継続力が壊れかかってしまった。

そして遂に、屋台での決定的な確執を生んでしまったのである。

そこで作り出されたのは、生産性のない尖った会話のみ。

本稿から、その一部をもう一度起こしてみよう。

「最初からやんなきゃいいじゃない。バッカみたい」と十河。
「そんなバカに教わってるバカは誰だ。落語やったからって性格変わらないぞ。どうなりたいんだ。好かれたいのか?感じのいい奴だと思われたいのか?」
「誰にも好かれようとは思っていない」
「誰にも好かれたくないんだろ?好かれようって態度か、それが!猫だってそうだろ、懐いてみせなくて、誰が撫ぜる!」
「誰が撫ぜてくれって言った?」
「そんなんだから振られるんだろ!別れた男の悪口を俺に言うな!」
「そっちが聞いてきたんじゃない!」
「聞いてない!聞きたくない。お前、一生そのままだ。やな奴だ。野良猫だ!」

「野良猫」とまで言われた女は、もう男との修復の余地を残さないほどに、内側にストックされたネガティブな感情を吐き出してしまった。

その不貞腐(ふてくさ)れた表情とは裏腹に、彼女なりに「会話力の獲得」を目指し、真剣に落語の演目を覚えようとする心情を起点に、「落語教室」にささやかな自我の安寧の基盤を保持しようという思いを理解できない三つ葉への反発が、ここで倍返しになって現出してしまったのである。

三つ葉もまた、感情をストレートに表出しない五月の態度に苛立つばかりなのだ。

過剰な自我防衛の戦略として、不必要なまでにバリアを構築する彼女のプライドラインの心理を、当然の如く、彼には読解できていない。

「暇つぶし何かじゃないわよ。皆、本気で何とかしたいと思ってる。今のままじゃ、ダメだから、何とかしようと。何でそれが分らないの」

「落語教室」の中断を三つ葉から告げられたときの反発を見ても分るように、彼女は本気で教室に通い、本気で演目をマスターしようとして、自宅で呪文のように暗唱していたのだ。ところが、このような真情を吐露しながらも、「落語教室」の継続に強い情感的な反応を見せない彼女の態度を、男は額面通りに受け取ってしまうのである。

言ってみれば、ラインに関わる齟齬(そご)を生み出してしまう二人の差は、人の心の見えにくい襞(ひだ)の部分への想像力の、そのネットワークの支配域の立体感覚的な把握能力の差である。

極めて微妙なラインの攻防が、時として、不必要な確執を作り出してしまうのは、顕在化された表現の影響力に振り回されやすい男の、生来的な率直さが簡単に軌道修正されにくい内側の、目立った屈折を経由することのないフラットな単彩系に起因しているとも言えるのだ。

実はその辺りが、この男が依拠する「古典落語」という「絶対防衛圏」への感覚的な拘泥(こうでい)とは裏腹に、その「芸」を内化し、深化させていくに足る決定的なものの不足を露呈させてしまう脆弱性の根源にあるものなのだろう。

人生経験は単に「量」の問題ではなく、「質」の問題であるということの実感的な学習が、この男には欠如していたのだろう。

それを知悉(ちしつ)するからこそ、彼の師匠は彼の芸の底の浅さを問題にしたのだが、そこで求められたのは、まさに主体がその根柢から揺さぶられ、その閉塞を突破するときの真実の叫びを上げるに相応しい人生経験の、蛇行的で紆余曲折を経由するような何かとの内的格闘の固有な時間であったに違いない。

底を抜けていくほどの何かを必要としたとき、まさに最適のタイミングで、「銃後の手習い」としての「落語教室」が立ち上げられたのである。

しかし、「芸」の「質」の内的向上を求める男の精神世界の振れ方と、軌を一にするように立ち上げられた「落語教室」の存在感が、少しずつ変容していくときの手応えによって、男の中で経験的に学習できた意味を真に内化していくには、「落語教室」に対する自覚的な継続力を不可避としたはずなのだが、それを欠如させた男には、なお多くの経験知の累加が求められていたと言えるだろう。

然るに、その貴重な教室の中断を想念させた男の内側には、女が身体表現する外形的なイメージラインに捕縛され過ぎていたのである。女もまた、何かいつも肝心な所になると、感情を拡散させる男のネガティブな心理の文脈が測り切れないでいた。

かくて二人は、「プライド防衛ライン」の攻防を延長させてしまったのである。

この二人は、自分の感情を相手に上手に伝えられない不器用さという点では共通しているが、相手の男にプロとしての強力な向上心を感じ取っていく中で、この男が自分に内在する小さなトラウマと化した対異性観の範疇に当て嵌まらない、ある種の骨太の精神を保持し、同時に、ほおずきを贈る優しさを持つ人格の主であるという把握を持つに至りながらも、上述したように、自我防衛の過剰な女はラインの攻防を継続させてしまったのだ。

相手の人格に見る希少性の発見こそ、何より代えがたいものであることが実感し得たに違いないのだが、しかしそのことが、却って二人のスタンスを最近接させる上で一つの障壁になってしまったのである。

それでも女は、彼が演じた「火焔太鼓」を自分の演目にしたという行動選択に現れているように、自分の内側に大きな風穴を開ける勇気を捨てていなかった。

恐らく、彼女は単に、「会話力の獲得」を学習するためだけに「落語教室」に通って来たのではない。自分の青春の現在をネガティブに捉える発想からの突破口の契機として、教室という特定的空間が選択されたのであり、そこでの小さな関係の構築によって、少しでも自分の現在の時間を動かしたいという願望が、その根柢において深々と横臥(おうが)していたのである。

そして、その感情を最終的に束ねたとき、「火焔太鼓」を演じ切った女の中で何かが弾け、何かが大きく動き出していったのだ。この変容の決定力が、ラインの攻防を継続させてきた固有の時間のバリアを壊しにかかっていった。

ラストシーンの意味は、ラインの攻防というゲームの終焉を映し出したものであって、映像の軟着点が、もうそこにしか向かえない必然性を、それ以外に考えられないイメージラインの内に検証したのである。

やはり、この国の女は強かった。

自らの殻を破壊して、決定的な意志を抱懐した感情の突破力が一気呵成(いっきかせい)に雪崩(なだ)れ込んで、自分が信じる柔和な想念を確認するための攻勢に打って出て、その勝負に勝ったのだ。

そういう読み方も可能なラストシーンの流れ方に、私は全く違和感を覚えなかった。


―― 映像における彼女の役割設定は、決定的なほど重要であったということだ。

なぜなら、三つ葉という二つ目がこの教室を介し、自分の落語世界の構築を志向させる反面教師とする時間の中にあって、彼女の存在は有形無形に重要な役割を演じているからである。

プロ野球解説者や器用な小学生の存在の何倍もの役割を、好むと好まざるとに関わらず彼女は担っていて、その感情が異性感情に変容していく心理の流れよりも遥かに重要な役割設定として、彼女の相手限定の尖った人格は主人公を鍛え上げ、悩ませ、問題提起をし続けたのである。

本作をミニサイズでまとめると、これは古典落語に拘り、それを自分のものにしたいと願望する男が、師匠の十八番である「火焔太鼓」を自分の中で限りなくアレンジし、自分の落語世界の構築に繋げようという向上心を写し撮った物語を拠点にして、そこでの内向化する時間を絶えず挑発し、刺激を与え続ける「気になる女」の存在価値を認知するプロセスと、自分の芸の一つの小さな中間到達点が重なったとき、まさに「女との共生」において、自分の人生を軟着陸させていった物語であると言えるだろうか。



5  伏兵の一撃 ―― まとめとして②



男の向上心が矛盾を抱えてピークに達しつつあるという微妙な時期に、「落語教室」が開かれた。

そこに参加したのは、十河五月を含めて僅か3人。あとの二人は、、プロ野球解説者の湯河原と、郁子から依頼された小学生の村林優。

ここでは、後者の二人について、簡単に触れておく。

思うに、この二人の人物設定の意味は、どこまでも主人公の男女の「ラインの攻防」を補完する役割を大きく逸脱するものではないであろう。

言うまでもないことだが、プロ野球解説者の湯河原の設定にはリアリティを保証することが難しい。解説の苦手な者がテレビの野球中継を引き受けるケースがあるとすれば、その者が現役時代に、スーパーヒーローに近い存在感を醸し出しているような場合以外に考えられないからだ。

ところが、湯河原の現役時代の活躍はたかが知れていた。

それでも、口下手な彼がプロ野球解説者として最低限の身過ぎ世過ぎを繋いでいたという設定には、些か無理がある。そしてそれ以上に、滑舌とは無縁な通り一遍の有名人が、その滑舌を鍛えるために、売れない噺家の「話し方教室」に参加するという物語の枠組みには相当の無理があると言わざるを得ないだろう。

そんな「物語展開のリアリティ」に眼を瞑ってみることで、彼の人物設定の意味を勘考するとき、そこに何が見えてくるのだろうか。

彼の存在感を想念するとき、まず第一に、村林優の野球コーチであったこと。第二に、彼の身過ぎ世過ぎが必ずすも順風満帆に成立していなかったこと。後者に関しては、彼が義兄の飲み屋で真面目に働いていたというエピソードの挿入が印象に残る。

前者に関しては、村林優という小学生の野球コーチを引き受けることで、教えを乞う者が自分の得意分野で教えを実践する描写の挿入が、同時に、彼と異なる得意分野によって教えを垂れる主人公の「銃後の手習い」と、密にリンクし合っていた物語のラインに一定の均衡を与えていたことが重要だろう。

即ち、野球コーチと「落語教室」での発表会を、一人の極めて個性的な小学生が結んでいて、そこに小学生絡みの定番的なエピソードが立ち上げられていた一連の描写が想起されるのである。そこで惹起されたエピソードは、「落語教室」を主催する主人公の意欲を削ぐほどに、「起承転結」の「転」の部分を浮き上がらせていた。

これを見る限り、映像におけるプロ野球解説者の人物設定の意味が、物語を補完する潤滑油の役割を果たしていることが自明になるが、私が思うに、彼の存在意義は上述した義兄の飲み屋でのシーン留めを指すのではないか。

相変わらず、受容されにくい野球解説を垂れながらも、飲み屋で真面目に働く男と、現役のプロ野球解説者という繋がりこそが、ここでは最も重要な意味を持つに違いない。自分の不手際によって客に迷惑を及ぼしたときの彼の態度には、「落語教室」で厭味を言ったり、五月を怒らせる傲慢さとは明らかに切れていたのである。

客の着衣を拭いて、平謝りするプロ野球解説者がそこにいて、その現場を主人公の三つ葉が真剣な表情で視認し、その顔がアップで映されるのだ。それは、いつまで経ってもうだつの上がらない噺家の内側に、どれほど輝く現役時代を送っても、その継続性が保障されない人生の厳しさを教えるに相応しい情景だった。

左端が湯河原、右端が村林優
この描写が放ったもの ―― それは、「伏兵の一撃」と言っていいインパクトとなったに違いない。

自分もまた客の少ないホールでの落語を繋いでいっても、その先に待機する人生の彩りが眩いものであるという保障など全くないのだ。このとき、三つ葉は師匠の批判を厳しく受け止めて、真剣に古典落語を自分のものにせんと、必死にもがき苦しんでいたのである。

三つ葉の成長を培養する反面教師として、普段は真摯に働くプロ野球解説者の人生のモデルが、映像の内に印象深く拾われていた。そこに、彼の役割設定の枢要な意味があったに違いない。

次に、村林優という小学生のキャラ設定について一言。

この少年が特段に放つ存在感の大きさは、「発表会」における落語の独演に留めを指す。それは明瞭に、その難役を演じる男の子の達者な芝居に拠っているだろう。それほどに、この児童の身体表現は、映像の中で際立つほど印象深いものがあった。

それは物語の潤滑油であり、栄養液であるが、「発表会」での独演は、枝雀さながらに躍動していて、三つ葉のような、一種のスノッブ効果(他人が求めない世界を開く心理効果)的な希少性の追求に、後継する才能が生まれたことを示唆していて、それが文化としての価値が絶えない未来を暗示するメッセージであったと思われる。

そんな中で、家出騒動の渦中にあったこの小学生が、押し入れの中に潜んでいた所を発見されるシーンは、プロの噺家としての矜持(きょうじ)を持とうと努める男の、その苦闘するさまを支える感情の在り処(ありか)を表出する場面として印象深かった。

真剣に古典落語に取り組む男の練習風景を、悪気なく放った子供の一言に対して、思わず平手打ちを返した噺家のシビアな反応こそ、まさしく「プライド防衛ライン」に抵触したときの真実の感情が噴きあげたものだった。

興味深いのは、このときの行為を反省する三つ葉に対して、湯河原が「殴って良かったんだよ」という反応をしたこと。その真意は、「大人を心配させたことに対する反省」が子供の側になかったというもので、無論、そこに問題がある訳ではないが、三つ葉の心情への理解に届いていない辺りが、いかにも体育会系の発想であり、思わず笑いが零れてしまった。

ともあれ、「落語教室」を仕切る男の「プライド防衛ライン」を刺激したこのシーンの中にも、確信犯とは無縁の「伏兵の一撃」が炸裂したということである。

因みに、この一件によって、三つ葉は「落語教室」の閉鎖を提案し、五月を激怒させたが、このときの三つ葉の反応の根柢にあったのは、多分に本人を不快にさせる因子への実感によって、その教室の存在が本人を何より成長させる栄養液になっている現実を感受するよりも、落語への真剣で主体的な取り組みこそが優先順位の筆頭であるという自覚と、そこに含まれる不安や焦燥の感情であったと思われる。

即ち、ここでの一連のシークエンスは、「銃後の手習い」としての教室の存在価値を包含できずに、焦慮する思いが露わになった当人の心の風景を検証するものであったということである。

まさにその思いの束が、三つ葉自身の内側で組織され、その直後の「火焔太鼓」の披露の場面に繋がっていったこと。

これがいかに重要な身体表現を含んでいたかについては、本稿で言及した通りである。

彼の炸裂は、そこに至るまでの内的葛藤の結実であったということ以外ではなかった。

そこに作られた固有の時間こそが、彼にとって、正真正銘の「古典落語」の伝道者としての立ち上げを可能にする「軌跡」であったということである。

「しゃべれども しゃべれども」相手の心の奥の深い所に届き得なかった者が、遂にそのスキルの一片の果肉を手に入れたとき、彼の落語ワールドは、金銭を払ってそれを聴きに来る者の満足感を保証するのだろう。

また、彼と共に短い時間を共有した者の自我にも、相手の心に届き得る身体表現の価値が経験的に記憶されただろうが、だからと言って、その記憶の束が大きな力と化して、未来を抉(こ)じ開ける突破力を持ち得たと断じることが難しいのが、簡便に学習内化できない私たちの脆弱性の所以でもあるだろう。

しかし、簡単に変容することが難しい現実を認知することと、それについての経験的学習を反古にしない努力は、一個の人格の内にさして大きな矛盾を晒すものではないはずだ。それらは、一個の人格の内側において、充分に共有できるものであると信じる精神的営為の結晶を否定するものではないのである。



6 映像的成功をもたらしたもの ―― まとめとして③



平山秀幸監督
―― 稿の最後に、本作の成功を箇条書きに要約すると、以下のようにまとめられるだろう。


① 映像展開のテンポと、物語の中枢を成す「芸」と「教室」の蛇行曲線的なテンポが見事に重なっていたこと。そこに、ドラマの軽快な律動感が保証されたのである。

② ハートフルムービーの生命線である、物語の「起承転結」が構築されていたこと。回想シーンのような無駄な描写に、一貫して依拠しない物語の流れ方の内に、不必要な想像力を求める厭味が削られていたのである。

③ ハートフルムービーに付着しやすい過剰な情感系の描写が、確信的に捨てられていたこと。そこに心地良き「余情」が生まれたのである。

④ 演出が抑制的であったこと。余分な描写の挿入によって、物語展開の流暢さを壊さず、ドラマ展開に痼(しこ)りを残さなかったのである。

⑤ 演目の選択が「火焔太鼓」と「饅頭怖い」という、素人受けしやすい爆笑ネタであったこと。但し、師匠の十八番を、「二つ目」が先輩を差し置いて、自分の演目にしていくという設定には無理があったのではないか。

⑥ 「隅田川の遊覧船」、「路地裏情緒」、「浅草ほおずき市」、「寄席の風景」、「茶道教室」等々、「美しい下町情緒」を特定的に切り取ったこと。但し、「都電荒川線」の効果的な多用に見られるように、「視覚的映像性の印象度」という観点から見れば長所でもあるだろうが、「映像的リアリティ」という視座で見ると、「下町美化」の誹(そし)りを受ける欠点でもあり、まさに「諸刃の剣」であったと言えるだろう。

⑦ 「ホール落語」に象徴される、現代の寄席の風景が見事に再現されていたこと。とりわけ、冒頭のナレーションが、「ホール落語」や「話し方教室」の現状に見られる、寄席の現代的風景の導入としての違和感を解消する効果を持っていた。

⑧ 俳優たちの想像以上の素晴らしさ。主人公の「二つ目」の役者(国分太一)は、「間」の取り方に些か素人っぽさが感じられたものの、間違いなく最優秀主演男優賞の表現力を見せていた。中でも、伊東四朗の「火焔太鼓」は古今亭志ん生(5代目)を彷彿(ほうふつ)させていて、驚嘆させられた。こちらも間違いなく、最優秀助演男優賞の表現力。子役の落語は信じ難き程の天才性。俳優たちへの落語監修が余程優れていたのだろう。

因みに本作は、かつての「の・ようなもの」(森田芳光監督)の落語表現力を凌駕していたし、テレビドラマとして感涙に咽んだ、「晴のちカミナリ」(NHKドラマ・1989年4月から8月放送)の二人の名優(渡辺謙、杉浦直樹)の落語表現力をも上回っていたように思われる。それほどに達者な芝居だった。俳優という職業の底力を感じさせられた一作だった。

(2009年8月)

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