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2011年6月13日月曜日

アンナと過ごした4日間('08)     イエジー・スコリモフスキ


<「戦略的ミスリード」を駆使する映像宇宙の鋭利な切れ味>



  1  「戦略的ミスリード」を駆使する映像宇宙の鋭利な切れ味



 単に「面白いだけの映画」を観たら、鑑賞後、5分も経てば忘れるだろう。

 「面白さ」のエピソードが、脳の記憶に張り付いていても、いつしか、その後に観た同種の映画との差異が曖昧になり、やがて、時間の経過と共に記憶の彼方に雲散霧消していくからである。

 また、「感動的な映画」を観た直後には、「大傑作」などと思っても、「感動的なシーン」のエピソードの記憶の劣化と共に、同種の映画との差別化が希釈化することで、「何となく良かった」という程度の思いしか残らなくなるだろう。

 ところが、このようなフラットな鑑賞体験の枠組みに収斂されない映画が、稀に存在する。

 だから、シネマディクトのトラップに嵌ってしまうのだ。

 まさに本作こそ、シネマディクトのトラップに嵌ってしまう快感に、束の間、酩酊し得るに足る訴求力の高い映像だった。

 素晴らしいとしか言いようのない、本作の映像構築の鋭利な切れ味は、以下の文脈のうちに要約できるだろう。

 人通りの疎らな田舎町の店で斧を買った男が、「立ち入り禁止」を表現するかの如き鉄扉を、唯一の出入り口にする狭隘な建物に入って行き、その建物の焼却炉から人間の手首が唐突に貌を出したり、豪雨で溢れる河から牛の死体が流れてきたり、というシーンを挿入するオープニングのシーンから、観る者の日常性と切れた一種独特の構図の連射によって、まるでシリアルキラーと思しきイメージのうちに、「戦略的ミスリード」を駆使する映像の世界が開かれていく。

 「異界」からのおどろおどろしい誘(いざな)いに、それを潜在裡に求める者の律動感が丸ごと吸収されるような、言ってみれば、時間限定の「非日常」の小宇宙に搦(から)め捕られ、その空間を支配する絵画的な画面構成にピタリと嵌った、地の底からの音響効果によって、全く無駄のない映像宇宙が、怖いもの見たさの、観る者の猟奇的好奇の視線を釘付けにするのに相応しい導入だった。



 2  「愛する女」との物理的距離を解体させた最も眩い「一瞬」



 一度観たら忘れ得ない、この映像の梗概を簡潔に書いておこう。

 本作は、サスペンス性の強調と、観る者に先入観を持たせることで、その認知の誤謬を確認させるという、「戦略的ミスリード」の手法によって構成されている物語であるが故に、時系列がバラバラになっている映像を、ここでは簡潔に、その時系列に沿ってフォローしていく。


 時の流れが止まったような、ポーランドの静謐な田舎町。

 病院の焼却係として働くレオンの日課は、向かいの看護寮に住む看護師である、若いアンナへのストーキング行為。

 と言っても、アンナの部屋を双眼鏡で覗いたり、相当の距離を確保して、そっと追尾したりするだけ。

 病に伏せ、眠剤を欠かせない祖母の介護を不可避とするレオンは、独身の中年男。

 二人で暮らしのレオンの、アンナへのストーキング行為の発端は、数年前、豪雨で溢れる河に釣りに行って、避難した廃工場で目撃したレイプ事件だった。

 そのレイプ事件の被害者はアンナ。

 恐怖と興奮の混淆した複雑な感情によって、立ち竦んでいたレオンだったが、犯人の逃走によって我に返ったレオンは、自ら警察に通報するものの、犯行現場に釣り道具を置き忘れたために、容疑者として逮捕されてしまう。

 アンナへのストーキング行為が開かれていったのは、冤罪による服役から解放されて以後のことだった。

 まもなく、火葬場の仕事を解雇され、祖母も逝去し、天涯の孤独の身になってしまったレオンは、寂しさのあまり、アコーディオンを弾く姿が印象的に映し出された。

 そんなレオンが、アンナへの究極のストーキング行為に及んだのは、その直後だった。


 眠剤で眠らせたアンナの部屋に、狭い窓から入り込んで、彼女の裸形の臭気に最近接したのである。

 この究極のストーキング行為は、4日間続いた。

 熟睡するアンナを見詰めるだけのレオン。

 やがて、アンナのナースの制服のボタンを縫う男が、そこにいた。

 アンナの足の指にペディキュアを塗ったのは、2日目の夜。

そして3日目。

 アンナの誕生日の夜のことだ。

 彼女のパーティが終わって、散らかった個室に、スーツを着て現れたレオン。

 部屋の花瓶に花束を差した後、退職金を叩(はた)いて買ったダイヤの指輪を大事そうに持って、それをアンナの指に素早く嵌めて、外すのだ。

 アンナへの誕生日プレゼントである。

 「君の健康と幸せを願って、素晴らしい人生を送れますように。愛しい人」


 寝ている本人の眼の前で、ワインを飲みながら囁(ささや)く男。

 そして、運命の4日目。

 レオンは、アンナの個室にあった鳩時計を持ち出した。

 修繕するためである。

 しかし、修繕した時計を戻すために、アンナの個室に入ろうとした所を、警察に捕捉されてしまったのである。
 
 
「アンナと過ごした4日間」は呆気なく閉じていったが、不幸に満ちたレオンの人生の中で、「愛する女」との物理的距離を解体させた最も眩い「一瞬」だった。



 3  「プロセスの快楽」としての「想像の快楽」という名のゲーム



 ここでは、作り手の問題意識と落差があることを認めつつも、私なりの視座で本作を考えていきたい。

 私が思うに、快楽には、「達成の快楽」と「プロセスの快楽」がある。

 「プロセスの快楽」は、欲望の達成に至っても至らなくても、そこに至るまでの過程を楽しむことができる快楽である。

 ここで、「プロセスの快楽」について簡単に言及しておく。

 ある目的を実現するプロセスの中で、人はしばしばゴールラインの遥か手前に佇んで、陶然としたひと時を愉悦することがある。

 文化という名の余剰の時間と遊んで以来、私たちはそのような佇みの価値を自立化させて、そこからたっぷり蜜を舐め、時にはそこで自らの時間のうちに上手に自己完結させることで、果てることさえ厭わない。

 その快楽を私は「プロセスの快楽」と呼んで、所謂、ゴールの快楽(「達成の快楽」)と分けている。

 それは、「想像の快楽」を伴走させることで、達成を目指した遥かな行程を、意識が自らを加工して独りで支え切ってしまうのだ。

「想像の快楽」という名のゲームは、「プロセスの快楽」という性格を持ち、限りなく「達成の快楽」を視野に入れて愉悦するゲームであるが、恋愛こそ、このゲームを限りなく有頂天にさせる絶好の関係幻想なのである。

 以下、本作のレオンのケースを考えてみよう。



 4  内側から噴き上がってきた性衝動を表現する行為の限定性



 レオンは、「アンナと過ごした4日間」の中で、アンナの部屋に忍び込んでも、彼女の肉感的な身体に全く手を触れようとしなかった。

 睡眠薬効果でぐっすり就眠するアンナに最近接しても、一貫してレオンは眺め入り、女のフェロモンを存分に嗅ぐ行為のうちに、その異常な振舞いが限定されているのだ。

 行為のレベルが、「特定他者に対する承認欲求」を本質とするストーキングの極点にまで突き進んでも、レオンの異常な振舞いは自己完結的なのである。

 
その意味で、レオンの快楽のレベルは、「達成の快楽」を視野に入れることのない「プロセスの快楽」と言っていい。

 彼は、「想像の快楽」という名の、「片思いの愛」のゲームを愉悦しているように見えるのだ。

 果たして、そうか。

 ここで、私ははたと考えてしまう。

 現に、レオンはアンナの乳房に触れようとしたではないか。

 しかし、慌てて、その手を引っ込めるレオン。

 ここで、レオンの心中で葛藤が生じているはずである。

 向かいの看護寮に住むアンナの部屋から、無断で持ち出した瓶の中に、亡き祖母に飲ませていた眠剤を砕いて混ぜる行為に見られるように、万全の準備で臨んだ究極のストーキングの果てに手に入れた快楽を、ほんの少し欲望の稜線を伸ばす不手際によって、一切が反故にされてしまう事態への恐怖感を想起したとき、当のレオンは、乳房を触れんとする手を引っ込めるに至ったと考えられるのだ。

 この時点で、〈状況〉が許す限り、彼の快楽はどこまでも延長されるというイメージによって支えられていたに違いない。

 レオンは、「アンナと過ごした4日間」という、期間限定の事態の想定を考慮していなかったのだ。

 件の中年男は、欲望の稜線を限りなく伸ばす不埒な行為に対して、ギリギリのところで折り合いをつけたのである。

 以上の文脈で把握する限り、レオンは明らかに、「想像の快楽」=「プロセスの快楽」という次元で留まり得る、「ルールを崩さない確信犯」の範疇に内在する、相応の「抑制的自我」を持ち得ていなかったと言えるだろう。

件の中年男にとって、「達成の快楽」こそが本来的な着地点であったはずだ。

 なぜなら、祖母の死で孤独感や疎外感を深めた代りに、フリーハンドになった現実が関与しているだろうが、それでも、アンナに対するレオンの執拗なストーキングが開かれる最も重要な契機になった事態が、弾丸の雨を回避するために立ち寄った廃工場内で、「アンナ・レイプ事件」を目の当たりにした事件にあると思えるからだ。

 このとき、アンナに対するレオンの性衝動が、一気に噴き上がってしまったのだろう。

 しかし、祖母の介護もあって、長く封印していたであろう性衝動が噴き上がってしまった自然現象を、レイプという手段によって身体化する勇気も覚悟も、当然の如く、孤独でシャイな中年男には持ち合わせていなかった。


 或いは、アンナに対する地道な愛情表出を身体化することで、彼女との平穏な睦みをイメージし得る着地点の幻想すらも、彼の中で捨てられていたに違いない。

 それは恐らく、彼自身の自己像がそうさせるものだろう。

 「『全身無産者』で、貧相な相貌を持ち、非嫡出子であるばかりか、冤罪だが、服役の過去を持つ、ユーモアセンス・ゼロの孤独な男」

 このような自己像が、中年の独身男をして、ポジティブな愛情表現者に変容させ得ない決定的なメンタリティであったと思われる。

 「俺と結婚する女性など現れる訳がない」

 こんなネガティブな自己像をも、彼の自我にべったりと張り付いていたに違いない。

 現にレオンは、祖母の墓の前で、自分の思いを「報告」しているのだ。

 「ばあちゃんの望み通り、会っている女性がいる」

 「会っている女性」とは、勿論、アンナのこと。

 「会っている」とは、夜な夜な、他人の部屋に忍び込む究極のストーキング行為のことだ。

 そんな男が、内側から噴き上がってきた性衝動を表現する行為は極めて限定的だった。


 
それが、「アンナと過ごした4日間」の内実の全てである。



 5  劣悪な現実の只中を生きねばならない男の〈状況〉の残酷さ



 「寸止めの美学」とか、「片思いの美学」などという奇麗事は、この映画には全く通用しない。

 それは、ラストシーンの残酷さを想起すれば判然とするだろう。

 彼の全人格的投入を完璧にブロックする巨大な壁が、アンナの生活する看護婦寮の前に構築されていたのである。

 「この題材を通じて、人間同士がコミュニケーションを持つことの難しさ、そして、外形的な事実だけで人を安易に断罪してしまうことの危険性を伝えてみたいと思った」(「2009年10月9日 読売新聞」より)

 「まず、私は観客を混乱させたかった。人に、簡単に判断してしまわないことを教えたかった。単なる状況から、それとも、ある重要な行動から、フェアとは言えない状況に追いこまれる可能性があることを。この男を暗いやつだと思っても、私は最初から、意図的に観客を違う方向へと導き、それが男の本当の姿ではないことを示唆したかった。それが全体の戦略だ」(「イェジー・スコリモフスキ オン『アンナと過ごした4日間』 2009年8月17日」より)


 これらは、イエジー・スコリモフスキ監督(画像)自身の言葉。

 「人間同士がコミュニケーションを持つことの難しさ」や「外形的な事実だけで人を安易に断罪してしまうことの危険性」については、本作の残酷極まる物語が雄弁に語っているものである。

 しかし、それでも私は思う。

 イエジー・スコリモフスキ監督の意図は分り過ぎるくらい分るが、「人間同士がコミュニケーションを持つことの難しさ」と言うとき、明瞭にレオンの不器用さが前提になっているだろう。

 レオンの不器用さは、彼の生い立ちの不幸に起因する自我形成の脆弱さを意味する。

 人間の自我を形成する主体は、分娩の有無に関わらず、その養育環境を整備し得る立場にある「親」を含めた「大人」以外に存在しないからだ。

 残念ながら、非嫡出子であるレオンには、生い立ちの不幸に起因する自我形成の脆弱さを必然化する養育環境しか存在しなかった。

 無論、生い立ちの不幸に対してレオンには責任がない。

 然るに、成人したレオンは、好むと好まざるとに関わらず、その現実を引き受け、その劣悪な現実の只中を生きねばならないのだ。

 それが、人間社会の紛れもない現実なのだ。

 だから、レオンの置かれた環境の劣悪さは、「人間同士がコミュニケーションを持つことの難しさ」以前の艱難(かんなん)さであり、既に、レオンが破廉恥極まる行為にのめり込んでいったとしても、それは、彼の生来的で、決定的な能力不足に収斂される何かでしかないのである。


 この世に一定の確率で存在してしまう、レオンのような、「逃れられない不幸を負った人格」が存在する現実こそ、不条理な社会の有りようであると言っていい。

 誰が悪いのでもないのだ。

 単に、呆れるほど「不運な人生」であると言うしかないのである。

 また、「外形的な事実だけで人を安易に断罪してしまうことの危険性」についても、以上の文脈と重なるものである。

 映像で身体表現されたレオンの行為を、感傷的ヒューマニズムの安直な視座で捕捉し、彼に限りない同情を寄せたとしても、恐らく、レオンの自己像に含まれるネガティブな視線が、彼に対して、ごく普通の感性濃度で投入される現実を確信的に否定できようか。

 レオンの「外形的な事実」に対する偏見の濃度が低いと誇示しても、一方的な彼の「愛」を受容する奇特な女性が、果たしてどれだけいるだろうか。

 決して、裕福な環境に置かれていないが故に、「魔法のダイヤの指輪」をうっとりと見詰めるアンナとの、「無産階級」という共通項が介在したにしても、レオンが、彼女から「愛される権利」など持ちようがないのだ。

このような現実を無視して、文学的且つ形而上学的に、映像を把握することの怖さをこそ、私は恐れる。

 ラストシーンで見せた〈状況〉を考える限り、レオンンの「約束された幸福人生」を保証する可能性は極めて低いだろう。

 まさに彼は、その現実を引き受けて生きていかざるを得ないのだ。

 それが、私たちの「人生」の理不尽で、不条理極まる現実なのであるが故に。

 その意味で、この物語は相当に残酷な話なのである。

 そんな残酷な物語を、殆ど台詞のない、くすんだ風景の決定構図の繋ぎの中で、構築し切った映像の凄さは比類がない。

 まさに本作こそ、「映像」と呼ぶに相応しい作家精神の底力を見せつけた一篇だった。

 後にも先にも、このような映画と簡単に出会うことがないと諦念するほどに、主人公の真剣な振舞いが加速化する表現と反比例して、心から哄笑し得ないようなユーモアが分娩される物語を誘導する、紛う方なく完璧な映像宇宙が、そこに堂々と立ち上げられていたのである。

 脱帽という外になかった。

(2011年6月)

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