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    2 か月前

2010年8月3日火曜日

尼僧ヨアンナ('61)    イェジー・カヴァレロヴィチ


<「悪魔憑き」の現象という戦略 ―― 封印され得ない欲望系との折り合い>



1  閉鎖系の空間状況下での修道女たちのストレスと、ガス抜きされねばならないという構造性



この映画を今回観直していて、私の脳裏を過ぎったのは、ピーター・ミュラン監督の「マグダレンの祈り」(イギリス・アイルランド合作映画・2002年製作)の幾つかのシークエンスである。

それは、アイルランド各地から「非行少女」を強制隔離して、「堕落したあなた方も、信仰を取り戻すでしょう」と言い放つ、シスター・ブリジッドの訓示によって開かれた「マグダレン修道院」の苛酷な物語であった。

「未来の修道女」を目指すことを強いられる「非行少女」たちの実話であるから、観ていて余計総毛だったものだ。

とりわけ、修道院のルールに背いた「未来の修道女」に対するシスターたちの「教育」は、彼女たちの若い自我を壊しかねないほどの陰惨さに満ちたものだった。

洗濯場で全裸にされた娘たちを一列に並ばせて、シスターが吐き出す言葉の暴力は殆んどサディズムと言っていい。

「オッパイが大きすぎる子がいるわね。フランシスは意外ね。こんな貧弱なオッパイは見たことはないわ。乳首もないわ。見た?普通じゃないわ。ハハハハ。一番のぺチャパイはフランシスね。一番のデカパイは?・・・」

シスターによって、「陰毛賞」という低俗なるネーミングによるヘイトスピーチが吐き出され、その対象となった「未来の修道女」は泣き出すばかりだった。

このエピソードで瞭然とするように、「マグダレン修道院」では、シスターを頂点とする「権力関係」が形成されていて、ここに寄生する修道女たちの日頃の不満やストレスをガス抜きする手段として、「未来の修道女」に対する陰湿な虐めや暴力が日常化しているという現実があった。

いや寧ろ、「権力関係」を保持する「潤滑油」として、この類の暴力が常態化していたと言ってもいい。

ここで重要なのは、修道女たちのストレスが、このような方法論によってガス抜きされねばならないという、その構造性そのものである。

そこでは、厳然たる「権力関係」が存在し、閉鎖系の空間状況を現出させていた。

そして「権力関係」を補完的に強化するシステムが殆んど万全であり、何よりも、「不道徳なる娘たち」を矯正するという大義名分があった。

そして、このような施設の存在を認知する社会的背景があり、そこに送り込まれた娘たちの親族の、堅固な協力体制が厳然と存在していたのである。


以上の言及は、1996年に閉鎖されたアイルランドの修道院の実話についてのもの。(画像は、「マグダレンの祈り」)

ここからは、本作の修道院のケースを見ていきたい。



2  「悪魔憑き」の現象という戦略 ―― 封印され得ない欲望系との折り合い



本作の時代背景は17世紀半ば。

場所は、ポーランドの寒村の尼僧院。

映画を観る限り、この尼僧院には、「マグダレン修道院」のような堅固な「権力関係」が存在したとは思えないし、まして「未来の修道女」に対する陰湿な虐めや暴力が常態化していた訳ではない。

いや、それ故にこそと言うべきか、尼僧院内部の閉鎖的環境下で生活する尼僧たちにとって、色彩感の乏しい日々の累積の中でストックした、様々なストレスを解消する手立ては相当に限定的であっただろう。

しかし、その限定性は相対的なものだった。

そこが、「牢獄」の如き「マグダレン修道院」の閉塞性と分れていたのである。

個々人の欲望系が、抑性的に処理される技術のみが求められる生活の日常性は、そこに特段の破綻を来たす事態が招来しなければ殆ど問題ないが、閉鎖的環境下で許容された自由の濃度が相対的に深かったならば、却って、個々人の欲望系の出し入れが恣意的になりやすく、抑性的に処理される技術のコントロールも困難になるであろう。

「聖」の象徴としての尼僧院が建つ丘の下に、まるで対極の構図のように構える、「俗」の象徴としての木賃宿。

そこに通う僧院の門番の話によると、尼僧院では、夜間でも門を閉めないから出入り自由であり、肉食も自由であると言う。

即ち、尼僧院の尼僧の個々人の欲望系は、「絶対禁欲主義」の縛りから相対的に解放されていたのである。

まして、美しい女性の尼僧院長であるヨアンナの下で、先の「マグダレン修道院」のような堅固な「権力関係」が形成されていた訳ではなかった。

尼僧たちは、適度なガス抜きを愉悦していたのである。

現に、「聖」の象徴としての尼僧院に暮らす一人の尼僧は、折に触れ、「俗」の象徴としての木賃宿に通っていて、世俗の話題を存分に共有していた。

そればかりか、木賃宿の色好みの亭主に酒を飲まされ、軽快なテンポで歌まで歌うのだ。

「惚れる男がいなければ、私は一生尼暮らし」

こんな歌を平気で歌う尼僧が、スリン神父に見つかり、退散するシーンは印象深いものだった。

なぜなら、後に男との駆け落ちに失敗ししたこの尼僧は、男に捨てられて嘆いていたが、ここまで徹底的なガス抜きを愉悦していたならば、もう本質的に、彼女は「俗」の住人であるとしか言えないからだ。

そして重要なことは、この尼僧が「悪魔憑き」に捕縛されていなかったという厳然たる事実である。

「俗」の住人には、「悪魔憑き」という現象が無縁であったこと。

それこそが、本作の根柢にある主題に関わる由々しき現実なのだ。

ともあれ、そんな環境下にあったからこそ、美男で若いガルニエツ神父が、尼僧院の門戸を開けて、夜毎に美しいヨアンナの寝室に忍び込むことが可能だったのだろう。

「尼僧たちは、神父の訪問を享楽していた。悪魔に取り憑かれた尼たちは、人目も憚(はばか)らず、大声で喚き立てていたのです。会堂で例拝の間にも、淫らな行為をしていました」

これは、スリン神父が土地の者から聞いた話。

スリン神父
そのスリン神父が、ヨアンナとの関係形成の中で、本人から直接聞いた話がある。

既に、「悪魔憑き」によって隔離を余儀なくされていたヨアンナは、スリン神父に語っていた。

「神よ、このあさましい私は何ものですか?私はただの尼です。父は公爵でしたが落ちぶれて、スモレンスク(注)にいるとのことですが、不明です。八つの悪魔に取り憑かれたのは、私の落ち度でしょうか」


(注)17世紀初頭のロシア・ポーランド戦争の「スモレンスク包囲戦」によって、ポーランド=リトアニア共和国に割譲された都市。現在は、ロシア連邦に帰属。


スリン神父に語った、このヨアンナの言葉をみても分るように、彼女は恐らく、他の多くの修道女がそうであったように、「聖女」を目指す強い「宗教的使命感」によって尼僧になった訳ではない。

普通の欲望と感情傾向を持った美しい女性の、その閉鎖的な日常性の中にあって、存分なまでに世俗に塗(まみ)れた世界との比較において、己が欲望系を封印されることを余儀なくされたとき、「聖」の世界に殉じる者の非日常の時間の広がりに同化していくに足る、「最適適応戦略」の要請が内側から強迫的に突き上げて来た心的プロセスが仮定できるだろう。

しかし、その強迫的な時間の空洞を埋めるような事態が出来する。

これが、美男で若いガルニエツ神父の振舞いであった。

夜毎にヨアンナの寝室に忍び込む時間の形成の本質は、たとえそこに「禁断」の印が張り付いていたにしても、その行為自身が「男女の恋愛」か、それとも、「男女の性的関係」の愉悦以外の何ものでもなかったことは否定できないだろう。

「禁断」の閉鎖空間で男女の関係が作り出されたとき、何かが大きく変わっていく。

変わっていったものは、ヨアンナが日常的に封印していた生々しい欲望系の情感世界である。

その中枢の感情が、性欲であると言っても間違いないだろう。

しかし、「禁断」の閉鎖空間での睦みが世間に知られるに至って、生々しい欲望系の情感世界の延長は人為的に遮断され、その反徳行為は最も厳しいペナルティを招来した。

ガルニエツ神父の火刑である。

「ガルニエツ神父の火刑の前夜、尼さんたちは裸で庭を走り回って、神父の名を叫んでいたということだ」

これは、「俗」の象徴としての木賃宿で拾われた言葉。

「悪魔憑き」の現象である。

この「悪魔憑き」の現象が尼僧院で本格的に出来したのは、それ以降である。

これが、尼僧ヨアンナを中心とした尼僧たちの、その欲望系の情感世界が人為的に遮断された結果、そこに出来した最悪の現象の真実の様態だった。

 欲望系の情感世界が封印された中枢の空間で、禁断の印を存分に解いてしまった尼僧たちの自我にとって、なお封印され得ない欲望系と折り合いをつけるには、「悪魔憑き」の現象という戦略以外になかったのである。

「事件」が発覚し、ガルニエツ神父の火刑によって、そこで展開されていた人間の欲望の自然な発動のラインが破壊された代償は、「最適適応戦略」を容易に手に入れられないアポリアの中で、既に限定的であったということだろう。



3  我が身を鞭打つ肉塊の炸裂にまで上り詰めて



「これからお前と闘わねばならない。お前の縄張りだろうと、私は神の使いだ。私は善で、お前は悪だ」

これは、「悪魔」に対するスリン神父の戦闘宣言。

「悪魔が女の血を掻き立てて、壁に付けるのです」

これは、スリン神父の参戦に対するヨアンナの、「悪魔憑き」の現象という戦略による意思表明。

かくて、二人の「実存」を賭けた心理戦争が開かれた。

「神を敬えと言われても、私にはできないことです。地上のどんな力でも、私を束縛できない。私はいつも自由です。束縛など嫌です」

このヨアンナの言葉には嘘はない。

「悪魔憑き」の現象という戦略によって、彼女は閉鎖空間で、なお自分の思いを繋ごうとするのだ。

そんな彼女の振舞いを目の当たりにした司教たちによって、「悪魔払い」の儀式を経て、彼女は束縛されるに至る。

ヨアンナの叫びが、白一色の人工空間の中で刻まれた。

隔離されたヨアンナの苦悩を引き受けようと、スリン神父の苦行が開かれた。

「愛は悪を追い払います」

スリン神父は、ヨアンナに語った。

「汚辱に満ちた誇りを捨てなさい。あなたの苦しみを全て吐き出すのです」

スリン神父の熱意が、ヨアンナに連射されていく。

「八つの悪魔に取り憑かれたのは、私の落ち度でしょうか」とヨアンナ。
「子供のように純真になればいいのです。神はきっと愛して下さる」とスリン神父。
「もし悪魔が、あなたに乗り移ったら?」とヨアンナ。

際どい会話が、二人の心理戦争の濃密な時間の内に捨てられていく。

濃密な時間の内に捨てられた二人の心理戦争は、まもなく、屋根裏部屋に籠って我が身を鞭打つ肉塊の炸裂にまで上り詰めていくのだ。

スリン神父の手を取るヨアンナが、そこにいた。

思わず、その手を突き放した神父は、「あなたが悪魔だ」と洩らしてしまった。

ヨアンナ
泣き崩れるヨアンナが、そこに置き去りにされた。



4  「神学論争」を超えるドストエフスキー的な教理問答 ―― 迫るラビと、立ち竦む神父



悪魔払いに自信を失ったスリン神父が、ユダヤ教のラビを訪れた。

そこで展開された、ドストエフスキー的な教理問答は、以下の通り。

「あなたは、何を指して悪魔というのですか?それは何処から来て、誰が作り出したものですか?」とユダヤ教のラビ。
「それは神です」とスリン神父。
「悪魔が世界を創ったとしたら・・・神がこの世界を創造されたとするならば、死や病気や戦争が起こるのは何故ですか?何故、私たちユダヤ人が迫害を受け、何代にもわたって侵略と虐殺の恐怖に苦しむのか」
「それは原罪です」
「原罪だと言うのか。アダムとイヴの堕落です。人間は何度も堕落し、立ち直りもする。人の犯す全ての悪業は、決して悪魔のせいではないのだ。最初の人間の堕落と、最初の天使の堕落です。なぜ天使は、人間の女に巨人を生ませたのか。答えて下さい、神父」
「天使は不可解な存在です」
「ヨアンナを天使の尼僧と呼ぶが、ただの女に過ぎない。では、天使とは何ですか?」
「神の使いです」
「悪魔もそうだ。神の意志で人間の心に取り憑く」
「それはどんな時に?」
「悪魔を強く愛した時です」
「悪魔を愛するとは?」
「愛はこの世で起こる、あらゆる物事の基です」

この会話には、少し説明が必要だ。

本来、ユダヤ教では、「悪魔」とは「神の敵対者」というよりも、「サタン」の語源がヘブライ語で、間違いを犯した人間に罰を与える「天使」を指していて、寧ろ「神の僕(しもべ)」という役割を持っていた。

ところが、「神は慈悲深い愛」と説くキリスト教の成立過程において、現実社会で出来する理不尽な死や、災厄や戦争、繰り返される人間による迫害や悪業の根源について的確な解答を提示せねばならなくなったとき、そこで作り出された観念の産物が「神に対する絶対敵対者」としての「悪魔」という概念だった。

このユダヤ教のラビは、キリスト教の敬虔な神父に対して、その辺りの本質的な疑問を投げかけたのである。

元来、ユダヤ教では性衝動や性行為を自然なものと考えているから、「セックス」を不浄視していない。

従って、「性欲」に懊悩するヨアンナを、「ただの女」、即ち、普通の人間であると言い切ったのだ。

詰まる所、「悪魔」とは、人間の心が作り出したものであると断じているのである。

スリン神父
このユダヤ教のラビの究極の発問への答えに窮するスリン神父が、そこに立ち竦んでいた。

本作の根源に迫る最も重要なシークエンスは、こうして閉じていった。



5  確信的な破戒僧の「覚悟の愛」を受容する尼僧 ―― その裸形の人格像の逢着点



教理問答を経て、スリン神父の中で何かが変っていく。

「あなたを助けます」

彼はヨアンナに会いに行き、自分の思いを告げる。

鉄格子の内側に閉じ込められているヨアンナは、今やもう、自分の中で騒ぐ情感の揺動を隠そうとしない。

彼女は「悪魔」への愛を語るのだ。

「私は悪魔が大好きで、悪魔に抱かれているとき、私はどんな運命でも甘受します。悪魔は最高の存在です」

ヨアンナは、スリン神父にそう言い切ったのだ。

ヨアンナへの思いが変わらないスリン神父は、自然の成り行きで彼女に近づいて、口づけした。

自ら犯した行為に驚愕し、神父は走り去って行った。

それは、「悪魔」を自分の体内に取り憑くことを受容する行為でもあった。

「何でもするから、私に取り憑いていろ」

スリン神父
スリン神父の覚悟を括った言葉が捨てられた。

彼は「悪魔」に語ったのだ。

その後のスリン神父の行為の異常性は、紛れもなく確信犯の範疇にある者の選択的行動だった。

ヨアンナから「悪魔」を憑依させたスリン神父は、「悪魔」の命によって、斧を使って二人の村人を殺害したのだ。

「悪魔」との取引である。

ヨアンナへの愛の、彼なりの答えであるが、神父の犯した行動は、それ以外に考えられない最も象徴的な行為だったと言える。

二人の男を殺害することは、彼にとって、「悪魔」を内側に憑依させることだからだ。

破戒僧となったスリン神父は、自分の思いを、一人の女を通してヨアンナに伝えた。

「全て愛が、そうさせたのだ」

これが、スリン神父のヨアンナへの伝言。

伝言を任せられた女こそ、駆け落ちをして男に捨てられた尼僧である。

「俗」の象徴としての木賃宿との往還という適度なガス抜きをすることで、彼女は「悪魔憑き」から解放されていたが、「聖」の象徴としての尼僧院の生活を完全否定する駆け落ちへの流れ方は、「悪魔」への屈服であるから、男に捨てられる運命を余儀なくされるという「象徴性」を被されていたと読むことも可能だろう。

「覚悟なき愛」の逃避行は自壊するということか。

ともあれ、その尼僧を介して、スリン神父の「覚悟の愛」を受容するヨアンナの表情からは、映像を通して初めて開く裸形の人格像が露呈された。

彼女は嗚咽したのである。

確信的な破戒僧の、確信的な行為を受容した瞬間である。

「聖」なるものの「象徴性」が一切剥ぎ取られたとき、そこに胚胎した未知の「前線」は、欲望系の情感世界を封印せずに済む地平に辿り着いたと言える何かなのか。

少なくともそれは、ヘビーなモノクロの映像が訴えるものの根源に触れる何かであったに違いない。

 そのヘビーなモノクロの映像を貫流する基本的構図が、今更のように想起される。 (画像はイェジー・カヴァレロヴィチ監督)

緑なき小高い丘に聳(そび)える、「聖」なるものの象徴としての尼僧院と、それを俯瞰する、「俗」なるものの象徴としての木賃宿との対極の構図である。

そして、この構図の中間スポットに、ガルニエツ神父が火刑にされた処刑場の残滓が剥き出しになっているのだ。

同様に破戒僧であったガルニエツ神父は、「聖」と「俗」を自在に往還し、「聖」なるものの中枢に「欲望前線」を全開させてしまったのである。

この「前線」には、尼僧院長のヨアンナばかりか、他の尼僧たちも求めてアクセスしたに違いない。

「淫靡(いんび)なる忍びの行為」を突き抜けて、無秩序に稜線を広げた「欲望前線」での振舞いへのペナルティは、ガス抜きの範疇を逸脱した反徳行為として裁かれるに至った。

ガルニエツ神父には、「悪魔」、「悪魔憑き」、「悪魔祓い」などという観念のゲームの発想は、恐らく初めから存在していないのである。

ところが、スリン神父の行為は、「悪魔憑き」→「悪魔祓い」→「悪魔の憑依」という流れの中で、殆ど確信的に遂行されたものだ。

 「聖」なるものの「禁断」の閉鎖空間に閉じ込められて、懊悩を極めるヨアンナの裸形の自我に触れ合うことができるのは、その方法しかないと考えたのだろう。

実話にはない、殺人まで犯した神父の振舞いを描き切った作り手の意図は、普通の欲望と感情傾向を持った女性が「欲望前線」に踏み入れたとき、最も厳しいペナルティによって人為的に遮断される運命から免れないシステムを相対化するには、「覚悟の愛」を身体化する表現なしに具現できないと考えたのかも知れない。

人間としてあまりに自然な「男女の睦み=『性』」を、「悪魔」の仕業と読み替えることの「愚」の問題も含意させた、この厳しくも真摯な構築的映像は、人間の「欲望前線」の尖りを極端に嫌う全体主義へのシステムへの批判とも受け取れるが、映像を観る限り、精神医学の臨床治療の格好の素材にもなり得る、人間の根源的問題を巡る省察と問題提起という文脈で把握する方が、寧ろ自然であるように思える。

人間の普遍的問題をも網羅した、このような構築的映像こそ、私の最も好む表現世界である。

(2010年8月)

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