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2008年11月14日金曜日

海と毒薬('86)       熊井啓


 <脆弱なるもの、汝の名は「良心」なり>



1  米軍捕虜生体解剖事件



二人の若者がいる。

一人は沈鬱な表情の内に、重苦しい言葉を搾り出す。

もう一人は、相手の深刻な表情を嘲笑うかのようにして、そこで搾り出された言葉を確信的に退ける。

映像は、二人の噛み合わない会話の中に最も重いテーマを乗せて、その印象的なモノクロ画面をフェードアウトしていく。

これが、あまりに遣り切れないテーマに挑んだ、極め付けの社会派映画のラストシーンだった。

場所は、九州の某大学の構内の敷地。

時は、1945年春。


二人の若者は、その大学の医学部の研究生。

二人が語り合った内容は、その日に行われた異様な外科手術について。

勝呂(すぐろ)と戸田、これが二人の若者の姓である。

彼らは憔悴し切っている。

特に勝呂は、明日もまた同様の手術が行われることを考えると、この夜もゆっくりと眠りに就けないであろうことが想像される。彼はこの日、禁断のラインを半ば越えてしまったのだ。

勝呂(左)と戸田
彼には、友人の戸田が禁断のラインを越えたことに対して殆ど無感動であることに狼狽(うろた)えている。自分もまた、明日そのラインを越えてしまうかどうか、出口の見えない煩悶の中で苦悩しているように見える。

しかし映像は、勝呂の明日の行動を映し出すことをしなかった。

映像が映し出したものは、その日に行われた生体解剖のための手術と、そこに流れるまでの重苦しい時間の束だけである。

「海と毒薬」―― これが1945年の春に、実際に起こった事件を題材にした映画のタイトルである。

事件の名は、「米軍捕虜生体解剖事件」。

以下、その概要を適切な参考文より引用する。(読みやすくするため、筆者の独断で、段落替え等の編集をしてある)

「・・・・・九州大学医学部はわが国の医学界に大きな足跡を残してきた。医学界にたいする貢献、大であり、押しも押されぬわが国の名門医学部である。そんな栄光の伝統を誇るこの医学部にも、陰はあるものだ。関係者が触れたがらないその事件が生体解剖事件である。

事件のあらましは、こうである。

昭和20年5月17日から、6月2日までの間に4回の解剖が行われ、8人の米兵が犠牲になった。この解剖手術の目的は次のようなものである。

1回目は全肺摘出、海水の代用血液であった。2回目は心臓摘出、肝左葉切除、3回目はてんかんに対する脳手術、4回目は代用血液、縦隔(じゅうかく/注1)手術、肝臓摘出であった。

この解剖は病院の手術室ではなく、解剖学教室の解剖台で行われた。米兵は麻酔をかけられてはいたが、手術中、もしくは術後すぐに、死亡した。

手術は当時の主任教授であり、これら一連の解剖手術でも執刀した石山福二郎によって指揮された。これらの手術はすべて、石山の専門分野に及んでおり、彼の業績に対する野心があきらかである。

その2ヶ月後には終戦を迎える。

終戦後、まもなく医学部長、病院長、新聞社それに石山本人あてに事件を糾弾する4通の投書が舞い込んだことがあった。関係者は懸命に隠蔽工作をおこなった。

しかし、この事件は、世間にジワジワと浸透していった。

翌、昭和21年7月13日、GHQは突然、九州大学に車で乗りつけ、石山を戦犯容疑で逮捕した。九大関係の逮捕者は5名であった。

石山はGHQから厳しい尋問を受けた。しかし、彼は生体解剖の事実を決して認めようとはしなかった。5日後、石山は独房で自死した。

昭和23年8月27日、軍事法廷でこの生体解剖事件に関して判決が下った。九大関係からは3人が絞首刑であった。

その2年後、マッカーサーはこの事件について、再審減刑をおこなった。さきに絞首刑の判決を受けた九大関係者はいずれも絞首刑を減刑され、重労働となった。

731部隊
世界史を紐解いても、生体解剖は1626年、イギリスで捕虜に行われたらしいことと、日本軍の731部隊(注2)で行われたらしいが、そのいずれもが公にはなっていない。

生体解剖の詳細が記録として残っている例はこの事件のみである」(『海と毒薬』;遠藤周作、新潮文庫。生体解剖;上坂冬子、毎日新聞社)」(外科医 山内昌一郎HPより引用)



(注1)左右の肺によって囲まれた、胸部正中部にある器官が集まった部分で、心臓、胸腺、食道、気道、血管がある。


(注2)石井四郎を隊長とする日本陸軍が、ハルビン(黒竜江省の省都で、当時日本が占領していた満州の都市)に置いた特殊部隊の略称で、その目的は戦争を有利に導くための細菌戦の研究と遂行のため。そこで行われた生体実験、生体解剖によって、多くの捕虜がその犠牲となった。因みに、内藤良一(後に、様々な薬害事件を惹起したミドリ十字の創立者で、部隊の責任者の一人)によるGHQとの狡猾な取引によって、事件は実質的に葬られた。


石井四郎陸軍軍医中将(ウイキ)
映画のプロットは、二人の研究生が事件に流れていくまでの、その曲線的な歩行を幾つかのエピソードを交えて、GHQの取調べを軸に回想的に綴ったものである。

ここでプロットの詳細を時系列で追っていくのは、本稿のテーマに於いて不可欠な重要性を持たないので、ここでは、ネットサイト「goo映画」の「海と毒薬・あらすじ」」をベースにして、その内容を簡潔に記述していく。

 (トップ画像は、福岡市フィルムアーカイブより転載



*       *       *       *



2  海と毒薬・あらすじ



昭和20年5月、日本の敗戦は濃厚となっていた。

九州某市にも、連日のように米軍機B29による空襲が繰り返されていた。市内にある帝大医学部研究生、勝呂と戸田の二人は、物資も薬品も満足に揃わない状況下で、半ば投げ遣りな日々を送っていた。

人一倍性格が優しい勝呂には、「おばはん」という名で呼ぶ患者の様態が常に気になってならない。大部屋に入院している「おばはん」は、もはや助かる見込みのない貧しい患者だった。

「おばはんは、俺の最初の患者だ」と言う勝呂を、リアリストの友人である戸田は、いつもシニカルに傍観するのみ。その「おばはん」のオペが決まったとき、「どうせ死ぬ患者なら実験材料に」という教授、助教授の非情極まる思惑に、勝呂は憤りを感じながらも反対できなかった。

当時、死亡した医学部長の椅子を巡って、勝呂たちが所属する第一外科の橋本教授と、第二外科の権藤教授が権力闘争をしていたが、権藤は「西部軍」と繋がっていたため、橋本は劣勢に立たされていた。

そこで橋本は、事態の形勢逆転を狙って、結核で入院している前医学部長の姪(田部夫人)のオペを早めることにした。オペ自体は容易なもので、それが成功したときの影響力を考えると、まさにそのオペは教授間の醜悪な政治的闘争に、決定的な結果をもたらすものであることが約束されていたのである。

ところが、橋本教授はオペに失敗してしまったのだ。

それが全ての始まりとなった。

手術台に横たわる夫人の遺体を前に呆然と立ち竦む橋本。

橋本の医学部長の夢は、一瞬にして消えたのである。「おばはん」もまた、オペを待つまでもなく、空襲の夜に死んでしまった。

数日後、勝呂と戸田は、橋本、柴田助教授、浅井助手、そして「西部軍」の田中軍医に呼ばれた。B29爆撃機の捕虜八名の生体解剖の実施を告げられて、二人にそれを手伝えと言うのだ。教授たちの命令に断る術もなく、二人は承諾したのである。

生体解剖の日。

数名の「西部軍」の将校が立ち会った「人体実験」を前に、勝呂は麻酔の用意を命じられても、ただ震えているばかりであった。一貫して冷静な戸田とは、あまりに対照的な勝呂の振る舞いが、そこに苛酷なほど冷徹に描き出されていた。


戸田は「戦力」にならない勝呂に代って、捕虜の顔に麻酔用のマスクを充てた。更に、狼狽(うろた)える医師たちに向かって、橋本教授の怒声が手術室に響き渡る。

「こいつは患者じゃない!」

この一喝で、おぞましき目的に向かって一つになった意志が束ねられて、最初であるが故に最も厄介なるハードルが、一気に越えられていったのである。

その夜、会議室では西部将校たちの狂宴が、捕虜の臓物を卓に並べて繰り広げられていた。

その後、半月の間に、次々と七人の捕虜が手術台で、殆ど手馴れた手つきで「処理」されていったのである。    


*       *       *       *


3  時代の規範を大幅に逸脱した「狂人」



以上が、本篇の簡単な粗筋である。

このような時代があり、このような大学があった。

このような大学のその医学部に、このような医師たちがいた。人間の生命を救うための医師たちは、健康そのものの異国の若者の身体を破壊し、焼却した。医学の進歩の名に於いて行われたこの蛮行の関係者たちは、狂気の名に於いて糾弾され、裁かれた。

世間は、「良心」を失った「狂人」の如く彼らを理解し、自分たちとは全く無縁な人間として把握することで安堵したのである。

或いは、全てを戦争や時代の問題に収斂させることで、事件を過去の歴史の負の遺産として捉える者もいただろうし、大学医学部の実態を知悉する者の中には、事件の根底にあるものを、なお残る医局制度(注3)の封建的なシステムとして把握したかも知れない。

果たして彼らは、時代の規範を大幅に逸脱した「狂人」だったのか。


アドルフ・アイヒマン(ウイキ)
それとも時代の規範の内に、自らに与えられた職務を忠実に遂行した者たちであったに過ぎないのか。

彼らの行為は、アドルフ・アイヒマン、ルドルフ・ヘス、或いは、ヨゼフ・メンゲレ医師(いずれも、アウシュビッツの関係者)といった連中が行なったそれとどこが違うのか。

とりわけ、映画の主人公である勝呂や戸田の内面世界は、私たちのそれとどこで決定的に分かれるのか。

「海と毒薬」という映画は、観る者に、その辺りの根源的問題を直接的に問いかけてくる。

この厳しいモノクロームの映像を観終わったとき、真っ向勝負のような形で突きつけてきた幾つかのテーマについて、私たちはそこに、何某かの言及なしに済まない心境になるのではないか。少なくとも、私の場合はそうだった。 


(注3)周知のように、大学病院の医局(教授、准教授=助教授の後身、講師、助手、研修医と繋がる縦型の人事組織)を中心とした医師派遣システムのこと。2004年に導入が決定された「新医師臨床研修制度」等の厚労省の施策によって形骸化され、研修医に僻地医療を回避する自由が与えられて、「医療格差」の問題の一因となっている現実は、今や社会問題化している。このことは、人間の問題をそのシステムの過剰さや劣化の問題ではなく、単にシステム一般の問題に収斂させ、そこに上辺だけの「人権感覚」による事務処理で流してしまう人間理解の浅薄さを実感せざるを得ない。



4  極限状況に於ける自我の決定的な脆弱さ



―― 以下、評論に入っていく。


「海と毒薬」は、明らかに「反戦映画」の枠では括れない。

純粋な人間ドラマでもない。一種神学論争的な宗教的問いかけが含まれているが、無論、宗教映画でもない。

それは友情を描いた映画でもないし、人間性の復権を声高に主張した映画でもないだろう。それは、人間の尊厳を問う映画だったのか。そうとも言えない。

では、この根源的な問題提起を内包した作品は、一体どのようなテーマ性と問題意識を包含した映画なのだろうか。

容易に読み解くことができる文脈で言えば、「集団主義の日本人の倫理規範の欠如」を指摘したと思われる、敬虔なクリスチャンである原作者の宗教観の濃密な問題意識を、その原作に衝撃を受けた本作の作り手は、「近代日本の天皇制絶対主義が分娩した闇の歴史」への告発という問題意識の内に読み替えて、それを反体制的な自己基準の思考様式の範疇で、作り手に特有なオーソドックスな古典的映像表現の圧倒的な力技によって映像化したに違いない。

然るに、この一種挑発的な映像を客観的に観る者の立場にある私には、とうていその類のテーマ性に集約されるイデオロギッシュな読み方を受容できなかった。

右から熊井啓監督、遠藤周作
私から見れば本作は、「社会派の巨匠」としての評価の高い作者の意図した把握から解放された、ある種の普遍的な人間心理の陥穽を、切っ先鋭く突き抜く表現世界を映し出してしまっていたのである。

作り手の思惑から逸脱するほどのテーマ性と、そこに張り付く何某かのインプリケーションの凄みを分娩した、表現世界の自在性が常に内包する陥穽に関わる描写こそ、本作の決定力であったと私は考えている。

それは、人間が「良心」と呼ぶものの、そのあまりの頼りなさを描いた映画であり、その「良心」の本体とされる人間の自我というものの、極限状況に於ける決定的な脆弱さであり、その抑制的キャパシティの、信じ難き欠損のさまを映し出した映画ではなかったか。少なくとも、私は以上の把握によって本作を評価したいと考えている。

(「良心」の問題を含むテーマ思考については、本稿の評論の範疇を越える部分があるので、「新・心の風景」の中で簡単に論じたい)

この作品の内実が開いた射程は、人間の本質的なものの、その拠って立つ倫理世界が、それを支配する環境や状況の振幅の具合で、どのようにでもその基軸をシフトさせていく、そのあまりに不安定なさまへの怖さにまで及んでいる。

従って、それを観る者におぞましい単彩画の映像に引き摺り込んで、そこで何某かの選択を迫っていくような作品の強迫度は、厳しくも容赦のないリアリティによって補完されているから、私たちが安直に感傷に逃げ込む隙を与えない息苦しさに充ちている。

当然の如く、観る者の反応は千差万別だろうが、私たちがそこで感じた息苦しさが存在するとすれば、私たち自身が普段は考えることなしに済ませている人間についての把握の頼りなさを、どこかで実感したからではないだろうか。

これは、作り手がどのような思考様式によって把握しようとも、人間の本質をストレートに問いかける映画なのである。



5  システムが作った物語の内に従属し、融合する自我の自律性



―― 以下、私自身の映像理解の内実に言及していきたい。


映像の物語の世界に入る前に、それを理解するには欠かせないテーマがあるので、そこから言及する。自我の問題がそれである。

人間とは自我である、と私は考えている。

自我とは、人間の生命と安全を堅固に維持し、社会的適応を充全に果たしていくための羅針盤である。それは、社会的適応にとって極めて有害な攻撃的衝動を抑え、人間に固有なる様々な欲望を上手に管理し、しばしば、それをエネルギーに換えて自己実現を図っていくという、高度な戦略を展開する形成的な基幹能力であると言っていい。

しばしば、ドーパミン等の快感物質の過剰なシャワーを浴びてたじたじになるが、人間は自我なしに生きられないし、それによってのみ、人間は人間らしい営為を継続することが可能なのである。(著名な心理学者である岸田秀によれば、本能を失った人間が、その本能の代用品として内側に作り出したものこそ自我である)

人間の自我は、その「強さ」と「豊かさ」の度合いによって枠付けられると、私は考えている。


アブラハム・マズロー
「強さ」とは、アブラハム・マズロー的に言えば、生命(生理)、安全(安定性)、愛情(親和)、尊敬(自我欲求)、自己実現という階層を成す人間の様々な欲求の強度のレベルであり、「豊かさ」とは、社会的適応へのその充全さの度合いである。

前者の度合いが強まれば、その自我は自己中心的なものになりやすく、いわゆる、「我が強い」と言われる人格を示すことになる。

また、後者の度合いが強まれば、社会に対する過剰適応に陥りやすい人格を示すことにもなる。

自我の度合いは、どこまでも関係との相対的なバランスを十全に図っていくことに価値を持ち、そこにこそ自我の成熟度が検証されるのである。

また、自我はそれぞれ固有の形を持ち、それが守るべきものと、誇るべき何かに拘泥することで、そこに自分にしか見えない境界線を引いて、人格をそれぞれに個性化していると見てもいいだろう。

その内的な作業の中で守るべきものを「自我の防衛ライン」、誇るべきものを「自我のプライドライン」、と私は呼んでいる。

それらは、「ここだけは崩されたくない」、「ここだけは認知されたい」というような感情世界の砦であり、その中枢に人間の自我が存在し、固有のバリアをそこに構築しているのである。

まさに自我とは人格そのものであり、従って、人間の本質であるとも言えるのだ。

人間の精神世界とは、人間の自我のそれぞれの固有の運動の形であり、その軌跡であり、その固有なる展開の様態そのものである。

しかし、人間がしばしば犯す大きな間違いは、「本能の代用品」である人間の自我が、それに身を委ねれば全て大枠を外すことのない展開を示し得る「本能」に対して、その進化の様態があまりに不十分であり、およそ万全な完成形になっていないという根源的な問題に起因する。

ジル・ドゥルーズ
「欲望は本質的に革命的なのである。欲望は自分の欲するものを欲することによって革命的なのである」、と言い放ったドゥルーズ=ガタリの言葉(「アンチ・オイディプス― 資本主義と分裂症」河出書房新社)が印象深いが、科学技術の著しい進歩を保障した私たちの、膨大な欲望実現へのエネルギーは、私たちの肥大した大脳が全面展開した結果開いた世界であるが、しかし、そこで開かれたものを充分に管理し、把握する能力を持つまでに、私たちの自我の進化はとうてい追いついていないのだ。

欲望を加工したり、或いは、全く異質の欲望を動員したりすることで、私たちの自我は元の欲望を制御する。欲望の制御は、本質的には自我の仕事なのだ。

私たちの自我は欲望から強烈な刺激を受けて、しばしばメロメロになることもあるが、欲望を制御するためにそれを加工したり、全く異質の欲望を作り出したりことすらあるだろう。「人間とは欲望である」という命題は、従って、「人間とは、欲望を加工的に制御する自我によってしか生きられない存在である」という命題とも、全く矛盾しないのである。

私たちが作り出した科学の領域と、それと乖離する心の領域との間にできた溝を、私たちは「神」などという超越的な存在への信仰を仮構する宗教や、倫理、日常規範、社会的慣習などによって補完してきたつもりになっている。

しかしいつでもそこに、私たちの精神世界の脆弱さだけが置き去りにされてしまうのだ。私たちは、自分たちが作り出した過剰なまでに便利で、しばしば厄介な道具を、いつも万全に使いこなすことができずに狼狽えるのである。

私たちは、私たちの生産物によって逆に支配され、翻弄され、手痛い逆襲を受けるのだ。

不必要なまでに肥大した好奇心を持ち、それによって作り出した様々な快楽装置を、私たちは確信的に廃棄することができないようである。そこに私たちが自我と呼ぶものの、その能力の限界点を見ることができるだろう。それが、人間の本質的欠陥であると言ってもいいかも知れない。

人間の自我の最も弱いところは、欲望のコントロールが不全であることと、それが環境に適応するときに、しばしば過剰に反応してしまうということである。

とりわけ、自我が閉鎖的な環境に置かれたとき、その中での序列的な関係に呪縛され、支配されやすいということ。

私たちの歴史上の誤りは、殆どこの冷厳なる事実に関係すると思われる。人間の自我の自律性は、どこまでも社会的な関係によって規定されてしまうということ、それが問題なのだ。従って劣化したシステムの下では、自我もまたそのシステムに合わせて劣化してしまうのである。

だから、人間にとって最大の問題は、それぞれの自我の自律的展開に大きく関与する環境や、それを支えるシステムの出来不出来に依拠しているということだ。

システムの中での関係の序列性が自我を支配するとき、その自我の自律性はシステムが作った物語の内に従属し、融合する。その自我が拠って立つ正義は、システムの価値観に収斂されるのだ。そのとき人間の自我の脆弱さが、情けないまでに炙り出されてくるのである。



6  「アイヒマン実験」と「スタンフォード監獄実験」



「海と毒薬」という映画を観ていて、絶えず私の脳裏をよぎったものがある。それはアメリカで実施された、二つの著名な心理学の実験である。

ミルグラム教授
一つは「アイヒマン実験」とも呼ばれる、イェール大学で行われたミルグラム教授による実験。もう一つは、スタンフォード大学による「監獄実験」。

以下、それらについて確認しておこう。

前者は、拙稿の「『連合赤軍』という闇 ―― 自我を裂き、削り抜いた『箱庭の恐怖』」からの引用で、後者については、「ウィキペディア」からの引用であることを了解されたい。

まず、「アイヒマン実験」から。

この実験が行われたのは、1963年のこと。

それは、ナチス・ドイツのホロコーストの現場責任者であったアドルフ・アイヒマンが南米で逮捕され、裁判の結果処刑された翌年、狂人とされていたアイヒマンの、その人並みの人間性が裁判で露呈化されたことを受けて、ホロコーストに関わった者たちの精神の非狂人性を検証するための実験だった。

実験はまず、心理テストに参加するごく普通の市民たちを募集することから始めた。

応募した市民たちにボタンを持たせ、マジックミラーの向こう側に坐る実験対象の人たちのミスに電気ショックを与える仕事のアシストを求める。

こうして実験はスタートするが、事前に実験者たちから、あるレベル以上の電圧をかけたら被験者は死亡するかも知れないという注意があった。

それにも拘らず、60パーセントにも及ぶ実験参加者は、被験者の実験中断のアピールを知りながら、嬉々としてスイッチを押し続けたのである。これは、学生も民間人も変わりはなかった。

勿論、実験はヤラセである。電気は最初から流れておらず、被験者の叫びも演技であった。しかしこれがヤラセであると知らず、実験参加者はボタンを押したのである。このヤラセ実験の目的は、実は、「人間がどこまで残酷になれるか」という点を調査することにあった。

そして、この実験の結果、人間の残酷性が証明されたのである。

しかし実は、この実験はこれで終わりにならない。この実験には続きがあるのだ。即ち、被験者がミスしても、今度はどのようなボタンを押してもOKというフリーハンドを許可したら、何と殆どの実験参加者は最も軽い電圧のボタンを押したのである。この実験では、人間の残酷性が否定されたのである。

この実験は、一体何を語るのか。

人間の残酷性か、それとも非残酷性か。

その両方なのである。人間は残酷にもなり得るし、充分に優しくもなり得るのである。

では、両者を分けるのは何か。

一つだけはっきり言えることは、命令系統の強力な介在の有無が、人間の心理に重要な影響を与えてしまうということである。 

つまり人間は、ある強力な命令系統の影響下に置かれてしまうと、そこに逆らいがたい行為の他律性が生じ、これが大義名分にリンクしたとき、恐るべき加虐のシステムを創造してしまうのである。

更に、ここには、心理学で有名な「傍観者効果」の中の、「責任分散の心理学」(自分だけが悪いのではないと考えること)が媒介すると、その加虐のメカニズムは構造化するだろう。


「スタンフォード監獄実験」をモデルにした映画『es[エス]』より
次に、「スタンフォード監獄実験」について。

「1971年8月14日から1971年8月20日まで、アメリカ・スタンフォード大学心理学部で、心理学者フィリップ・ジンバルドー(Philip Zimbardo)の指導の下に、刑務所を舞台にして、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまうことを証明しようとした実験が行われた。

実験期間は2週間の予定だった。

新聞広告などで集めた普通の大学生などの被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせたところ、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるということが証明された。

しかし、次第に看守役に分けられたグループはより攻撃的な行動をとるようになり、受刑者役に対する侮辱的な発言、暴行が多くなっていったために、実験は1週間で中止された。その後、訴訟沙汰にまでに発展したと言われている。

つまり、強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまうのである。

しかも、元々の性格とは関係なく、役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう。心理学の研究史の中では『スタンフォード監獄実験』(Stanford prison experiment)と呼ばれているものである」(ウィキペディア「スタンフォード監獄実験」参照)



7  閉鎖的で、退路を奪った苛酷な状況に人間を置かないことの大切さ



以上、二つの実験から、私たちはどのような結論を手に入れたのだろうか。

言うまでもない。私たちが「良心」とか、「ヒューマニズム」と呼んでいるものの、そのあまりの脆弱さである。

「良心」の正体は自我である。

私たちの自我は、その「強さ」や「豊かさ」、或いは、先述したラインの枠組みによってどれほど固めていても、それを支配する関係が存在し、その関係が閉鎖的で特殊な環境の内に成立すればするほど、そこに形成されたシステムの力学に捕縛されやすいという厳然たる事実を否定し難いということだ。それは私たちがいかに権威というものに弱いか、自らに与えられた役割を無防備なまでに演じてしまいやすいか、ということを明瞭に示している。

ゲシュタポのユダヤ局長であったアイヒマンは、紛れもなく正常だったのだ。彼の少年期はとても気が弱く、真面目そのもの。ナチスに入るまでの青年期は、平凡なサラリーマン生活を送っていた。

その真面目な生活はナチスに入ってから、より真価を発揮する。彼は絶対服従のシステムに、ひたすら従順に従ったのだ。その結果、誰よりも多くのユダヤ人を屠る張本人となったのである。

ルドルフ・ヘス
アウシュビッツ収容所所長のルドルフ・ヘス も、彼の残した手記(注4)でも検証されるように、その生真面目で実直な性格故に、数え切れないほどのユダヤ人を焼却炉に送った者の一人であった。

その回顧録によると、聖職者の家庭に生まれた彼は使命感が強く、厳しい父親からの教育を受けた思春期の自我の内に、命令に従順に行動する真摯さだけが突出していたとも言える。

SS(ナチス親衛隊)の最高指導者であるヒムラーに至っては、その生来の動物好きな性格もあって、ユダヤ人の処刑に立ち会うのを嫌ったほど。彼もルドルフ・ヘス同様に、厳格なカトリック教徒の教えを受けて育った事実は重要であるだろう。

ついでに言えば、オウム真理教の井上嘉浩(注5)や林郁夫医師(注6)らの性格は、純粋な使命感に燃える正義漢。

連合赤軍事件の坂口弘や永田洋子、森恒夫といった連中も、彼らのあまりに真面目すぎる厖大な事件検証の著作(注7)を読む限り、その精神構造は彼らのそれと大して変わらないように思われる。

彼らを狂わせたのは、彼らが所属した「絶対的な組織」であり、その組織が作り出した「我々だけが正義である」という、いつの時代でもお馴染みの物語だった。

「絶対正義」の前には、「絶対悪」しか存在せず、従って、「絶対悪」は抹殺されねばならないという論理に至る。

このような物語に支えられて、負性のシステムに嵌りこんだ自我は、そのシステムから下達される「絶対命令」に絶対的に従ってしまうのである。

「アウシュビッツの聖者」・コルベ神父
「アイヒマン実験」で、参加者の35%の者が450ボルトの電圧を、生徒役の者に加えなかったという事実の方が、私には寧ろ驚きである。どんな状況下に置かれても、コルチャック先生やコルベ神父(注8)のような人物が存在するということである。

成熟した自我が堅固で健全な理念に支えられていれば、人間は悪魔の仲間に加わらないで済むということだ。

しかし65%の者が、それを加えれば死ぬかも知れない電圧のスイッチを押したということは、やはり由々しき事態と言うより外はないのだ。人間はこれほどまで簡単に、「良心」を稀薄化させることができる存在なのである。

それ以外の選択肢がないという、閉鎖的で、退路を奪った苛酷な状況に人間を置かないこと。
少なくとも、それだけは人間学についての学習的な真理の一つであることは間違いないであろう。


(注4)「アウシュヴィッツ収容所長ルドルフ・ヘスの告白遺録」(サイマル出版会刊)より参照。

(注5)「社会の矛盾を感じたことを動機に16歳でオウム真理教に入信し、麻原彰晃への帰依を深めることを原動力に全力で駆け抜けてきた井上嘉浩の青春」「尾崎豊の詩に共感したこの青春の情熱を救うものはオウムしかなかったのか、という痛切な思いが私にはある」(「井上嘉浩の判決に思う」 有田芳生HPより引用)

(注6)「気を張って生きる母の姿を見ていると、私も泣き言をいったり、いい訳をしたりすることを恥じる気持ちを自然ともつようになりました。母については、優しく暖かい思い出があるばかりです。両親は、人の恩を受け苦学したこともあって、子供たちが自立できて、人の迷惑にならず、世の中の役に立てるようにと、教育にも心をつかっていました。開業医とはいえ、六人の子供を大学まで出したこともあって暮らしは決して楽ではなく、私たち兄弟もそのことは小さいころからなんとなくわかっていて、無駄遣いはしないようにし、両親への感謝の気持ちを抱いて育ちました。私は小学校を転校しても、教師や友人に恵まれ、屈託なく成長することができました」(「オウムと私」 文春文庫より引用)

(注7)坂口弘著「あさま山荘1972 上」、「あさま山荘1972 下」(彩流社刊)/永田洋子著「十六の墓標 炎と死の青春(上下2巻)」(彩流社刊)、「続十六の墓標 連合赤軍敗北から十七年」(彩流社刊)、「獄中からの手紙 」(彩流社刊)/森恒夫著「銃撃戦と粛清―森恒夫自己批判書全文」(新泉社刊)


因みに、坂口弘は状況の険悪化に納得できない自我を引き摺って、連合赤軍の中央委員からの離脱を表明するが、しかし彼の抵抗はそこまでだった。彼の自我の崩れは比較的軽度であったが、それでも状況を突き抜ける強靭さを持ち得なかった。

それが当時最も過激なる左翼思想で走り抜けたと信じた男の、極めて人間学的な限界であったということだ。

永田洋子

そして、「悪女」と罵られた永田洋子 は、自著の中で書いている。


「私はこたつのなかに入れていた手がブルブル震えていた。殴ることに抵抗があったうえ、指導として殴ることの殺伐さに耐えられない思いがしたからである。しかし私はこの震えを隠し、指導として殴るならば耐えねばならない」(「続十六の墓標」より)


これが、極左集団の最高指導者の「暴力的総括」への心理のブレの断面であるが、まさにそれこそが、脆弱なる自我を支え切れない状況下に置かれた者の正直な姿であるだろう。極限状況下に於いて、大抵人間はこのような感情世界に呪縛され、翻弄されてしまうのである。

ついでに書けば、事件の最高指導者の地位にあった森恒夫の常套句は、「共産主義化をかちとれば、本当に人間を知り、人間を好きになることができる」というもの。


人間の欲望を、「理性的言語」の力のみで抑制し得ると本気で考えていたその極端な観念性は、殆ど宗教の世界であるが、それ以上に、その度し難き「人間音痴」のさまを見せ付けられて、正直赤面するばかりである。
ティンバーゲン(左)とローレンツ(右)(ウイキ)

まさに、コンラート・ローレンツ(オーストリア出身の動物行動学者) の言うように、「全ての思想は宗教である」に違いない。


(注8)共に、ポーランド出身の「絶滅収容所」の犠牲者で、その殉教者的な行動は伝説化していて有名である。



8  感受性が状況の内に麻痺していく心理的様態



―― 作品に戻る。


「海と毒薬」という重苦しい映像の中で、最も重要な登場人物である勝呂と戸田。

一体、この二人はどこで決定的に分れているのか。

映像で観る限り、二人の状況対応の違いは表面的には際立っている。

生体解剖に対して、一方は医学の進歩のためと割り切って臨み、もう一方は割り切れないまま臨んだことで、結局、傍観者としての関わり方を余儀なくされることになる。

それに関わったことで、前者には特段の感情が生まれないのに対して、後者は、その場所の空気を吸っただけで苦悩を深めてしまうのだ。

感情移入の対象を弄(まさぐ)るようにしてこの映画を観る者は、恐らく、後者の勝呂研究生の心情の内に、一種「共感的理解」に近い思いを抱懐するであろう。

実際、彼らの行動の表面的な違いが観る者の思いの相違となって記憶され、彼らの人格評価の決め手になるに違いない。

北条民雄
奇跡的な傑作短編である「いのちの初夜」の中で、北条民雄が作中人物の一人に、「苦しむためにも才能がいる」という極め付けの言葉を言わせていることでも分るように、苦悩するということは最も人間的な行為であって、その内面的時間の継続が人格形成に大いに関与するであろうことは否めない。

その時間の分だけ、その者の感受性が揺さぶられているからだ。

実はその感受性の揺さぶられ方と、その時間の長さ、即ち、感受性が状況に揺さぶられ、それが状況に適応していく速度の違いこそが、映像で表現された二人の違いでしかないとも言えるのである。

果たして、その違いを決定的な差異と呼んでいいかどうか、疑問の残るところでもある。勝呂の感受性が、状況に適応していく時間にほんの少し手間取っている間に、戸田は早々と世の中の流れ、ひいては、学部長選を巡る医学部の流れに適応を果たしてしまっただけなのではないか。

従って、勝呂の内面世界の蠢動(しゅんどう)は、その本来的な「才能」の故に煩悶する感情文脈を露呈しているという印象からは程遠く、彼はまさに状況の圧倒的な拘束力によって、ただ打ち震えていただけだったと言えるのである。

この場合、「適応」という言葉は相応しくないかも知れない。

正確に言えば、それは、「感受性が状況の内に麻痺していく心理的様態」という表現の方が当っているだろう。

戸田研究生は、自分の日記の中で、その辺りのことを記している。

「はっきり言えば、僕は他人の苦痛や、死に対しても平気なのだ。医学生としての三年間、僕は多くの病人が苦しみ、彼らが死ぬのを数多く見てきた。手術で患者を殺してしまうのも立ち会ってきた。一つ一つが、こちらで頭を抱える訳にはいかないのだ・・・・病室で誰かが死ぬ。僕は彼らの前で、気の毒そうな表情をする。けれども一方、外に出たとき、その光景はもう心にない。こうした病院での生活は、いつか僕に、他人に対する憐憫や同情の感覚を磨り減らしてしまったようだ」

これは、GHQの取調べの際に、自宅で押収したという戸田のノートが読み上げられたもの。

この後、取調官との興味深い質疑の応酬が続く。

「あなたはなぜ、こんな日記を書いたのですか」
「不気味やからです」
「何が不気味なのですか」
「そういう自分の心が、不気味になってきたからです」 
「分りませんね」
「不気味と言えば誇張があります。不思議と言った方がいいかも知れません」
「不思議?何のことか分りません」
「では、お聞きしますが、あなたも戦場で大勢の兵隊が死んでいくのを見たでしょ」
「勿論です」
「そのとき、あなたもやはり僕と同じように、そうした死や苦しみに無感動ではなかったですか。そしてある日、そんな自分が不思議やと思ったことはないですか。いや兵隊に限りません。女子供といった非戦闘員の死についても、早い話が、広島や長崎に原爆が投下されて、大量の人間が一瞬にして死にましたが、そうした他人の死に対して、あなたもやはり僕と同じように・・・・」

戸田がここまで語り継いだとき、取調官はそれを強引に中断させて、感情を硬化させた。

長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲(ウイキ)
彼らは広島や長崎について非難される覚えがないという信念を持つから、戸田の理路整然とした弁明を真っ向から否定する以外にないのである。

「あなたには良心がないんですか!良心が麻痺しているから生体解剖に加わったのです」
「いえ、僕は自分が良心の麻痺した男だと考えたことはありません」
「考えたこともない?」
「僕にとって良心の呵責とは、他人の眼、社会の罰に対する恐怖だけです。偶然の結果かも知れませんが、僕がやったことはいつも、罰を受けることはなく、社会の非難を浴びることもありませんでしたよ」

戸田にとって良心の呵責とは、「世間から冷たい視線を浴びること」(注9)であり、これはルース・ベネディクト(アメリカの人類学者)が独断的とも思える著作(「菊と刀」)で提示した、「恥の文化」に通底する観念であると言っていいだろう。

一見、西欧的合理主義を身につけたリアリストと思われる戸田もまた、他の軍人や医学者と変わらぬ日本人であったというのが原作者=本作の作り手の解訳である。だから彼はリアリストであった分だけ、感受性が状況に麻痺していく速度が性急だっただけなのであろう。感受性を麻痺させる戦略もまた、自我の悪しき自己防衛戦略の一つであることは確かである。


阿部謹也
(注9)歴史家の阿部謹也は、「『世間』とは何か」(講談社現代新書)などの著作の中で、世間の原理を「贈与と互酬」(借りたものを返さないと排除されることへの恐怖感)や、「年功序列制」等から成っていると述べている。



9  「適応速度」の差という由々しき問題



一方、勝呂の場合は、その感受性が麻痺していく速度が、少なくとも戸田の場合より緩慢であった。リアリストに成り切れていなかったからだ。

彼の気持ちの弱さも、当然そこに関与する。彼が自らの命を賭けるような徹底した「良心的ヒューマニスト」であったなら、この国の一部に存在していた兵役拒否者と同じ行動をとったはずである。

圧倒的な平均的日本人がそうでなかったように、当然の如く、彼もまた兵役拒否者という茨の人生を選択をしなかった。そこまでの強い信念と揺るぎない道徳観、更に、それを支え切るに足る強靭な自我を持っていなかったからだ。

だから彼は、自らの能力を易々と超えていく極限的な状況に立ち会ったとき、煩悶する自我を引き摺って生きる選択肢以外に為す術がなかったのかも知れないのである。

彼の感受性の崩れは、彼がその看護に最後まで拘った「おばはん」の死によって始まったと言えるかも知れない。

「おばはん」の死に直面した彼は、戸田との会話の後、モノローグで語っている。

「おばはん、どこに埋められるとやろか」
「知らんな。これでお前の迷いも消えたっちゃ。執着は全て迷いやからな」

以上の会話の後の、勝呂のモノローグ。

「私はなぜ、あのおばはんだけに長い間執着したのか。今、それが初めて分った。あれは戸田の言うように、皆が死んでいく世の中で、俺がたった一つ死なせまいとしたものなのだ」

この辺りから、勝呂は明らかに変わっていくのである。

GHQの取調官の激しい 糾弾の中で、彼は生体解剖に参加したモチーフについて答えている。

そのときの、二人の会話。

「それだけで、あなたは承諾したのですか?はっきり断ろうと思えば断れたはずです。捕虜たちは町を爆撃したB29の搭乗員で、あなたは彼らに深い憎しみを持っていた」
「違うとです・・・当時、私は捕虜を見ても憎しみとか敵意とか、いや興味すら感じていませんでした」
「では、なぜ承諾した」

胸倉を掴まれながら、勝呂はその思いを搾り出したのだ。

「私はひどく抵抗を感じとったです。ばってん、心も体も疲れとって、それ以上考えるのは苦しかったとです。もうどうでもよか、考えてもしょうがなかことと。私一人の力ではどうにもならない世の中なんだと、自分に言い聞かせて・・・」

明らかに勝呂の感受性が麻痺していくプロセスが、ここに示されている。

彼もまたやがて戸田の仲間になるであろうことが、そこに暗示されているのだ。

確かに彼は、最初の手術には積極的に参加しなかった。

しかし彼は、その場を離れることができなかったのである。だから彼は、友人の戸田から生体解剖の「共犯者」であると見られたのだ。

「こっち来て、手伝わんかいな」
「俺には、とてもできん。俺はやっぱり断るべきやった」
「アホ、何言うとんねん。断るんやったら、昨日も今朝も充分時間があったやないか。今ここまで来た以上、もう半分は通り過ぎたんやで」
「半分?俺が何の半分通り過ぎたと言うとや!」

実験室の壁にもたれて放心状態のようになっていた勝呂は、そこだけは強く反応した。

彼は自分が実験の「共犯者」と見られたことに、強く反発したのである。

しかし、その反発感の表出は、心のどこかで、自分も実験の「共犯者」である運命から逃れられない心情を暗示している。

「俺たちと同じ運命をや・・・もう、どうしようもないわ」

勝呂の弱さに対して、戸田は一喝したのだ。

一喝された男は、もう何も反応できない。

確かに勝呂は、この最初の実験に積極的に参加しなかった。彼は実験室の中で傍観者となる前に、自らの意志で部屋を出ようとしたのである。

手術前に麻酔マスクを用意するように言われた勝呂は、「僕にはできません。出してくれんですか!お願いですから・・・」と駄々をこねたが、外から入って来た婦長に扉を閉められて万事休すだった。

まもなく、麻酔薬を嗅がせ、4人がかりで実験患者である捕虜を押さえつけるという異様な風景が、そこに展開された。

犠牲となったB-29「ワトキンス」機の前でのクルーたち
因みに、ここで実施された「全肺摘出手術」に要した時間は、約80分。

「生きた人間を、生きたまま殺す。こんな大それた行為をした後、俺は生涯苦しむやろか」

手術の前日、自らの日記にこのような文章を記した戸田は、まさにその手術中、自分の心のあまりに冷静なるさまを感受して、驚きを隠せなかった。

「俺が今日期待していたものは、もっと生々しい恐怖、心の痛み、激しい自責や。一体どないしたんやろ、俺は」

戸田研究生の精神世界に、生体解剖手術というおぞましい行為に踏み切った時間の前後を明瞭に分ける、黒々とした禁断のラインへの、後ろめたい認知が張り付くことはなかったのである。

境界線を越えた男は、最後までその境界線の感触を確かめられなかったのだ。

彼は実験後も、昨日と同じ戸田という人格を生きていたのである。それが彼の言う、「不気味」さの正体だったのだ。

しかし勝呂は、その黒々としたラインを目撃し、自らもそのラインを半ば越えたという恐怖感に慄いていた。本稿の冒頭に紹介した描写である。

ラインを越えたその日、大学病院の構内の敷地で、勝呂は茫然自失の状態にあった。そこに戸田が近づいて来て、二人は重々しい会話を繋いでいく。

それは、この映画のラストシーンとなる最も重要な会話であった。

勝呂(左)と戸田
その会話を切り出したのは、勝呂だった。

「どげんなるとやろか、俺たち」
「どうもなりゃせん。おんなじこっちゃ。何も変わらん」
「でも、今日のことお前、苦しゅうはなかとか」
「苦しいて?何で苦しいんや。何も苦しむようなことないやなか」
「・・・お前は強かなぁ。今日、俺はオペ室で眼ば瞑っとった。どう考えたらよかか、今でも俺には、さっぱり分らん」
「何が苦しいんや。あの捕虜を殺したことか?けど、あの捕虜のお陰で何千人ものTB患者(注・結核患者のこと)の治療法が分るとすれば、あれは殺したんやないで、生かしたんや。人間の良心なんて、考えよう一つでどうにでも変わるもんや」
「ばってん、俺たちいつか罰を受けるやろ。え、そうじゃなかか・・・罰を受けても当然やけど」
「罰って?世間の罰か?世間の罰だけやったら、何も変わらへんで。俺もお前も、こんな時代、こんな医学部におったから、捕虜を解剖しただけや。俺たちを罰する連中かて、同じ立場に置かれたら、どうなったか分らへんで・・・世間の罰なんて、まずまずそんなもんや」
「・・・そうやろか。いつまでも俺たち、同じことやろか・・・」

煩悶するばかりの勝呂は、戸田の説明に納得できないのだ。

彼らを包む苛酷な状況に逸早く「適応」できた者と、まだもう少し「適応」に時間を要するか、或いは、遂に「適応」できずに煩悶の人生を送る者との差がそこにあったと言えるだろう。



10  「人間とは何か」という根源的な問題にまで踏み入れて     



ここで、戸田が放つ言葉の意味は重要である。

彼は、「人間の良心なんて、考えよう一つでどうにでも変わるもんや」と言ったのだ。恐らく、その通りなのである。

ニーチェが挑発的に喝破したように、「良心」とは攻撃性が内に向かうときの観念の集合である。観念の内実が変われば、「良心」などという心地良き言葉に集合する意味もまた変わるのだ。

戸田や勝呂を難詰するGHQの取調官や、橋本教授の奥さんである、あの偽善的なヒルダというドイツ人にとって、「良心」とはキリスト教の神を基準にした観念以外ではない。神という絶対観念に支えられた自我は、時には厳しい罰を受けるが、しかしその絶対観念に思考の全てを預けることで、間違いなく、彼らは「救い」を得るのである。


そしてその「救い」があるが故に、19世紀に詐欺や暴力によって蓄財をなした結果、「泥棒男爵」という汚名を着せられた多くの実業家は、晩年その財を公共機関に寄贈したし、また「ゴッドファーザー」(フランシス・フォード・コッポラ監督/画像) でも丹念に描かれていたが、マフィアは無慈悲な殺人の後、その度に神に祈ることによって自らの行為を浄化し得ると信じたようでもあった。

とりわけ、罪のない子供を殺した後、神に祈ることで自らの行為の不条理を中和化する偽善性を描いたとも思われる、「処女の泉」(イングマール・ベルイマン監督)の世界の映像表現の決定力は出色だった。

「罪の文化」で生きると誇る彼らにとって、「良心」とは、自らの悪徳を浄化してくれる格好の文化装置であるということなのである。

まさに、「人間の良心なんて、考えよう一つでどうにでも変わる」のだ。

「良心」に対する異なった定義を持つ者たちが、お互いにそれについて議論し合っても、そこにどのような了解の着地点が生まれるのだろうか。

一方が他方を、「良心」の名に於いて裁くとき、それは観念の一方的な押し付けであって、「勝者」の傲慢以外の何ものでもないのだ。

戸田はこの会話を通して、そのことを言いたかったのだろう。

以上の会話の描写によって、既に、この映像のテーマは、「人間とは何か」という根源的な問題にまで踏み入れてしまったのである。

恐らく、それは作り手の問題意識のフィールドの中で、より高いプライオリティを持つテーマとして据えられていなかったに違いない。

然るに、そのような作り手の思惑を超えて、本作は人間に関わる根源的な問題についての省察を、それを観る者と共有するレベルにまで開いてしまったのである。

映像の作り手もまた、徹底したリアリストである戸田を糾弾しようとする思いが稀薄のようであった。

戸田の把握は、そこに少しニヒリズムが含まれているものの、当時の様々な分野に於ける権力者と、それに追随した多くの者たちの平均的な感情であり、平均的な発想であると言える。

確かに戸田の犯した罪は深いが、しかし実質的に、その退路を断つようにして、彼をその蛮行に誘(いざな)った者たちの罪の深さは尋常ではないだろう。

彼らは、軍部から自分たちが利用されたということを口実にして、学部長選挙を有利に進める実績作りのために、若き米兵たちの健康な体に、眩しいまでに鋭く光ったメスを入れたのである。

「こんな時代、こんな医学部におったから、捕虜を解剖しただけや」

この戸田の言葉は、選択の余地のない苛酷な状況に人が置かれたときの、その自我の信じ難き脆弱さを浮き彫りにしている。

しかしどこまでも、作り手の視座は時代と制度への弾劾というテーマの内に捕捉されているから、戸田の人格表現に関わる描写については客観的、且つ、俯瞰的なアプローチに留まっていて、その守備範囲の中で、確信的表現者としてのスタンスを確保しているように思われるのである。

確かに、時代と制度への糾弾という作り手の問題意識に対して、観る者は一定の「共感的理解」を示すだろうが、それ以上に極限状況に置かれたときの人間の心、なかんずく、「良心」と呼ばれるものの脆弱さを否が応にも感じとってしまうのである。

勝呂(右)と戸田
従って本作は、どこまでも、「脆弱なるもの、汝の名は良心なり」という心理的文脈で把握し得る傑作であると言っていいだろう。

なぜなら傑作とは、観る者に作品の内実に含まれた様々なテーマ性について、自らの人生の立脚点を問う問題提起を含めて、そこに何某かの思索を求めて止まない内的継続力を保証する、ある種の表現的営為を結ぶ何かであるとも言えるからである。



11  「箱庭の恐怖」が生み出す「自我破壊」の危機を露わにする限界状況



―― 閑話休題。


以上の把握を待つまでもなく、戸田という男は、決して平均的日本人の範疇から逸脱した人格であるとは言えないだろう。

多くの平均的日本人が、彼らの無教養な感情を過剰に把握して起した、確信的ファシストによる侵略戦争のうねりの中に呑み込まれ、そこで内なる攻撃性が新兵教育を通して徹底して組織された結果、次第に死に対する感受性を麻痺させていった。

戸田が遂に逢着した「不気味」な世界に、他の平均的日本人も同様にクロスしたとは思わないが、死に対する感受性の稀薄さを共有したのは確かである。

勝呂(左)と戸田
巨大なシステムによって搦(から)め捕られた無力な自我が、殆どアジア全土や太平洋圏一帯(とりわけ、本土防衛に於いて死守すべき「絶対国防圏」)にわたって晒された挙句、そこに人間が作り出した凄惨な地獄の世界が歴史に記録されてしまったのだ。

そして、映像の中で苦悩する医学生のさまを晒した勝呂研究生は、恐らく、当時の平均的日本人像より、ほんの少し良心的だった。

しかし彼が最後まで拘った「おばはん」への思いの根柢には、日常的な死に磨耗していく自らの自我の崩れを防衛しようという意識が張り付いていたと思われる。即ち、勝呂にとって「おばはん」の存在とは、彼の自我の防波堤以外の何ものでもなかったのだ。

その点こそが、そのような防波堤を必要としなかった戸田との大きな違いである。その違いを大きいと見るか、小さいと見るかは、観る者の人間観とその思いの程度によって分れるだろう。確かなことは、勝呂という男はそのような防波堤を仮構することなしに、苛酷な時代の苛酷な状況を生き抜くことはできなかったということだ。

「おばはん」の死後、勝呂の自我の崩れは速かった。

彼は自らの自我の防波堤を失ったことによって、状況に上手に適応していくしか術がなかったのだ。しかし、それでなくとも状況への適応力を欠いた勝呂には、状況に適応するのは難儀だった。生体解剖という狂気のラインを越えるには、彼の自我はあまりに繊細であり過ぎたのである。

映像は、勝呂の心象に労わるように寄り添っている。

だから観る者は、勝呂の煩悶の中に容易に流れ込むことができたに違いない。

しかしリアルな視点で言えば、勝呂のような男もまた、その狂気のラインを一気に突破したら、ラインの向うで作り直した物語によって、そこに曲線的な航跡を残しながらも、でき得る限り自らの律動を崩さずに匍匐していくことは可能なのである。

そして、彼は然るべき刑を受けて出所した後、その忌まわしい過去をひた隠して、恐らく陰湿な表情を垣間見せながら生きていくであろう。

そこに開かれた固有なる時間の中で、彼が別の新しい物語を作っていけるかどうか、時間の壁を突き抜ける前でなお立ち竦む彼がそうであったように、私にも全く分らない。

勝呂も戸田も他の多くの日本人、そして同時代の人々がそうであったように、巨大なシステムのうねりの中でそれぞれの自我を磨耗させ、いつしかそこに、何もなかったかのように地上から消えていくであろう(後述)。それが、私たち人間が繰り返し作り出してきた途方もない広がりを持つ、圧倒的な歴史の現実の様相である。

繰り返したい。

玄界灘①・佐賀県唐津市虹ノ松原(Yahoo!百科事典)
この映像で描かれた苛酷な事件は、原作者や本作の作り手自身が弾劾しようとしたであろう、「『神』なき日本の特有な集団主義のメンタリティ」や、「歪んだ近代の絶対天皇制」の負性の産物の所産という、あまりに分りやすい把握にのみ収斂されない不気味さを炙り出してしまったのだ。

無論、「集団主義のメンタリティ」、「歪んだ近代の絶対天皇制」という「国民性」(この指摘を誇張する危うさを認知すべき)や、「過剰なシステム」という問題への視座なしに事件を把握するのはあまりに愚昧であるが、それらの視座と殆ど同じレベルに於いて重要なのは、このような事件は、それを分娩するに足る一定の条件さえ揃っていれば、いつの時代でも、いかなる国でも出来してしまうということであって、恐らく、それ以外ではないのである。

ここで言う「一定の条件」とは、人間の「理性的自我」が磨耗していく臨界点を超えるような極限的な状況のことであり、それらは「戦争下の苛烈な前線に於ける死闘」でもいいし、「遥かに個人的な非日常の世界」でもいい。或いは、「箱庭の恐怖」が生み出す「自我破壊」の危機を露わにする限界状況であると言ってももいいだろう。

要するに、生存適応戦略の中枢機能を司る人間の自我が、そのような状況下で通常の機能を果たし得ず、「もうどうなってもいい」、という精神現象に捕捉されてしまうほど劣化しているような状況こそが、このような事件の心理学的な背景にある「一定の条件」であるということだ。

以上の問題意識を持って、少なくとも私は、この重苦しくも際立って挑発的な映像と付き合ってきた。

本作の作り手である熊井啓自身は、そのような挑発的な意識で、シビアな問いかけを放つ実録物の原作を映像化したわけではないだろうが、そこで露わにされた映像の内実が私たち人間の根源的なテーマを内包する限り、どうしてもその類の作品は、ある種挑発的な表現世界の尖りを映像化させてしまうのである。

だから、このようなテーマを題材にした映像世界を立ち上げるには、想像を絶するほどに相当の覚悟を必要とするのだ。「社会派」の優れた作り手である熊井啓が、一時の感傷ではなく、それほどの強い思いを持って、一部の偏狭なリビジョニストの執拗な非難の攻勢が予想される、この挑発的な原作の映像化に踏み切ったかどうか、私には分らない。



12  スーパーマンのような「絶対正義」の具現を求めて止まない映像表現者



―― 以上の問題意識を敷衍して、作り手の映像手法に関わる点で、私が常々気になる辺りについて一言加えておきたい。

熊井啓監督
それは、本作の作り手である熊井啓が、その幾つかの「社会派」の傑作という評価の高い作品群の中で、あまりに堂々とした使命感溢れる、確信的なまでに正義なる告発者ではなかったかということだ。

その表現者としての姿勢に於いて常に声高で、一刀両断的な切っ先鋭い映像を繋いでいくメンタリティの暴れ方は、時には、単純な善悪二元論の危うい陥穽に嵌り込んでいなかっただろうか。

今、彼の作品を繰り返し鑑賞するとき、正直、そう実感せざるを得ないのだ

思えば、彼がテーマに選んだ虚実取り混ぜた事件の映像化は、未だこの国が独立国家としてのイニシアチブを、実質的に掌握できていなかった時代を背景にしたものばかりである。

その真相は、今なお闇に包まれているが、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」((注10))や3S政策(注11)、キッチンカー(注12)による小麦奨励政策など、徹底的に国民国家としての自立の野望を削ぎ落としてきたとも言われる、GHQの「日本の骨抜き戦略」(?)(注13)を考えるとき、あの時代に、この国に、いかなる選択肢が残されていたか、今となってはあまりに分明であると言わざるを得ないだろう。

そんな選択の余地のない時代状況下にあって時代の闇を照射し、その理不尽さを剔抉(てっけつ)することで時代の本質に肉薄する、殆ど告発的な映像表現の一定の価値について認知するのに吝(やぶさ)かではないが、しかし熊井啓は、例えば、「日本列島」のラストシーン(映画のヒロインが、「悪の権化」の如く、黒ずんだ国会議事堂の前を歩く描写)に象徴されるように、そのベタな表現のあまりの稚拙さばかりか(注14)、恐らく、それ以外に選択の余地のなかったであろう、「世界の警察としての大国への、『絶対服従』の資源小国日本」が、決して踏み込んではならなかった戦争に敗北した挙句に全てを失った歴史的現実の、そのリアルな把握を欠如させた、言わば、スーパーマンのような「絶対正義」の具現を求めて止まない映像表現者を演じ過ぎていなかったか。

「社会派」の作品を決して嫌ってはいない私にとって、その辺が常に気になるところなのだ。

それにも拘らず、左翼思想とは無縁でありながらも、私が評価する作品の多くがリベラルであるか、それとも左翼的な思想を持つ映像作家のラインナップであるのは、彼らの作品の一部にはプロパガンダの愚劣さにに流れることなく、しばしば、寡黙なスタンスを貫徹した上出来の人間ドラマか、或いは、人間の根源的な問題に肉薄する秀逸なる作品が多いからである。

熊井啓という、驚くほど衒(てら)いなく直接的な力技で迫る映像作家の作品の一部にはそれが見出せるのだ。その代表的な作品が本作であった。私が本作を評価する理由は、それ以外ではないのである。

《本作の秀逸なる理由は既に言及してきた拙稿の中に網羅されているが、但し、テーマから逸脱する内容を含む幾つかの由々しき問題については、「心の風景」の中の(「人間の本来的な愚かさと、その学習の可能性について」)の中で目的意識的に言及したいと考えている》


(注10)日本人に罪悪感情を植えつけて、愛国心を削り取るGHQ民間情報教育局(CIE)の戦略で、メディアの検閲も徹底していたと言われるが、真偽のほどは定かではない。         

(注11)「セックス」、「スポーツ」、「スクリーン」というソフトパワーによって、日本人の政治意識を削り取る戦略。 

キッチンカーによる小麦奨励政策
(注12)日本人の栄養改善の指導をするために、各地を巡回指導した「栄養指導車」のこと。これはアメリカの余剰小麦を日本人の主食にする戦略であったが、許し難いのは、「米を食べるとバカになる。パンを食べれば頭が良くなる」(「頭脳」林髞著)などという内容のトンデモ本が、ベストセラーとなって刊行されていた現実である。

(注13)今でも牛肉を輸入させるために、かつての貴重な蛋白源であった鯨肉を摂取する捕鯨を、牛を殺して食べるばかりか、かつて女性のコルセット用に鯨のヒゲを捕獲した後、本体の肉を平気で廃棄してきたことから、「ヤンキーホエラー」と言う名で呼ばれた連中が、捕鯨で屠った鯨の墓を作る文化を持つ国に対して「野蛮な民族」として非難するのだ。その傲慢な振舞いの根底には、「日本の国家としての完全なる自立」を阻止する戦略があるとも思われる。

更に由々しきことは、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」(第9条2項)という驚くべき内容を含む憲法を作った国から、後に紛れもない軍隊を作らされた挙句、それを前線で使用しないことで、かの国の高官たちに侮蔑されるという現象こそ、まさに、私たちの国が呪縛される極め付けのダブルバインドの実相であるだろう。

独断的に言ってしまえば、この問題が内包する心理学的な意味は、私たち日本人の自我を分裂させるほどに深刻であると思われるのだ。

(注14)当時も今も、この国の映像は、「束縛からの解放」の象徴として、籠の鳥を放つなどの表現(その最たる映画は、キネ旬1位の「祭りの準備」)を止めない稚拙さを晒し続けている。



13  「黒い海」と「逆巻く波」 




玄界灘②・玄界灘に沈む夕日・写真ブログより転載
「日没の海辺 ― GHQ法務部取調室にあった鉄の檻が、砂風の中で風化している。

廃墟の彼方は、日没の異様に燃える空と黒い海。逆巻く波が、牙のように不気味に光っている」(『年鑑代表シナリオ集 86年版』シナリオ作家協会編 ダヴィッド社より)

これが、「海と毒薬」という重苦しい映画の、そのシナリオの最後の記述である。

シナリオのラストも、重苦しい言葉で括られた。


「黒い海」と「逆巻く波」が象徴するのは、その内にその時代を生きた者たちを呑み込み、その呑み込んだ人生を逆らいようがないところまで運んでいく、巨大な運命のイメージである。



原作者である遠藤周作が、九大医学部の屋上から俯瞰した雨中の風景は、当時、気鋭の作家であった彼に「海と毒薬」というタイトルに集約されるイメージを喚起させた。それは紛れもなく、勝呂や戸田が屋上で語り合った際に広がっていた大海原であり、そして何よりもそこをバックグラウンドに、平凡な町医者の生活を望んだ勝呂が散策した海であった。

しかし浜辺での彼の思いは、その黒々とした不気味な海に呑まれて、逆巻く波の牙に脆くも砕かれたのである。

生体解剖に象徴される「毒薬」によって「良心」を麻痺させた、彼のその後の人生こそ、私たちがフォローし、検証しなければならないものだった。

一体、彼のその後の人生の輪郭のイメージを、私たちはどのような物語の内にフォローし得るのだろうか。



14  自我のダメージが少ない戦略



―― 稿の最後に当って、映画評論の枠から些か逸脱するが、それについても大いに関心があるので簡単にに言及してみよう。


人は病気になったとき、なお生命への強靭な意志が存在するならば、その分量だけ生命の継続力を繋ぐ可能性を高めていくだろう。その生命の継続を念じる自我の拠って立つ何か強靭な物語があれば、人は重篤な疾病を克服する可能性を高める力学を発揮するのである。

ヘアー・インディアンの少女(ウイキ)
例えば、カナダ極北に住むヘアー・インディアンは重篤な疾病に罹患したとき、呆気なく死んでしまうケースが多いと聞く。

これは彼らに生命の継続を念じる強い意志が相対的に欠落しているためでもあるが、それに加えて、彼らの固有の輪廻思想が介在することで、彼らの中で死への恐怖感が削り取られている事実が持つ意味は大きいだろう。

このような独特の物語を保持することで、彼らの生命の永遠性が保障されるのだ。だから彼らの中では、「まだ死にたくない」という振れ方をする自我の、その本来的な生存戦略に固執する理由が中和化されてしまうのである。

それもまた、人間の自我が作り出した高度な知恵の結晶であると言える。それは、より長く生きることよりも安寧な死への着地点を確保することの方が、自我のダメージが少ない戦略でもあるからだ。

「自我のダメージが少ない戦略」

これが、ここでのテーマになる。

翻って、PTSDに捉われたに違いない勝呂青年が、戦後もなおその生命を継続させていくことが可能なのは、彼の中に「まだ死にたくない」という中枢的モチーフが、自死という方法論の苦渋な選択よりも、少しばかり安寧な思いで時間を繋いでいけるからである。そして、この「少しばかり安寧な思い」という感情が決定的に枢要なのだ。

死への恐怖感と、「まだ死にたくない」という思いがギリギリのところで繋がることによって、自分の人格のサイズとその支配力に見合った、分相応の生活世界を確保できるならば、世俗の体臭が放つ快楽を拾い上げて充分に生きていけるのである。

そんな時間の通俗的な流れにいつしか馴化していって、青年の自我に深く食い刺さっていた厄介な情報も、一つの自我がそこそこに生きていける分だけ中和化されていくとき、それでも、かつて青年が背負った圧倒的な経験の重量感からの逃亡を図ったという、後ろめたさの感情を必要以上に引き摺ることなく、同時にそのことで、「自我破壊→自死」という最悪の結末に流されない程度に、時には自らの許容されざる忌まわしき過去の振る舞いを嘆き、フラットに省察してみせる、殆ど儀式的な内的時間を限定的に作り出す努力くらいは放擲しないであろう。

実はこのような内面的な儀式こそ、私たちが「良心」と呼ぶものの一つの偽らざる姿であると言えるのだ。

「深刻になることは、必ずしも真実に近づくことと同義ではない」

この言葉は、心理学的に極めて重要な内容を含んでいる。

人間は深刻になるというポーズを作り出すことで、「苦悩する自己像」を立ち上げて、そこに思い切り心を投げ入れていく。しかし決定的には裁かない。そこでは、「私はこれだけ苦しんだ」という自己像確保だけが重要であって、裁くことが目的ではないのだ。裁いてしまったら、もうそれ以上生きていくことが困難になるからである。
フリードリヒ・ニーチェウイキ)

ニーチェの言うように、自己を攻撃するのが「良心」の機能でもあるだろう。しかし多くの自我の様態は、攻撃してもそれを破壊しない程度に甚振るのであって、どこまでもその振れ方は自我の生存戦略の巧みな方法論の範疇に収まるものである。

戦後、勝呂青年は「私は充分に煩悶した」という自己像認知の内に、自らが繋いでいった物語を壊さない程度に、なお省察し、懺悔する時間を拾い上げていくであろう。

彼の「良心」は繋がれたのだ。自己検証されたのである。

それで充分であるという辺りで、彼は常に計算しつつ、自己像の致命的な崩壊を防ぎ切っていくであろう。

ついでに言及すれば、「あの捕虜のお陰で何千人ものTB患者の治療法が分るとすれば、あれは殺したんやないで、生かしたんや」と言い放った戸田青年の場合、彼が物事を合理的に思考する持ち主であるが故に、後に、自分の犯した決定的な誤謬を認知することで却って自我を甚振り、傷つけ、或いは、衝動的に破壊的な攻撃性を晒すほどの振幅を露呈するかも知れないとも思われる。

遅れてきた感情が合理的な思考の文脈に追いつくことで、自分の犯した決定的な誤謬の裁きを、神の名に於いてではなく、「良心」と呼ぶべき名の下に、自己制裁を下していく可能性がないとは言えないのだ。

それもまた、「良心」の為せる技巧なのである。

そして、そのような振舞いをする不思議な存在体こそ、私たち人間の偽らざる精神世界の実相であるともあるとも言えるのだ。

勝呂(左)と戸田
いずれにせよ、二人の青年のその後の人生の振れ方については、どこまでも想像の限りでしかないが、そのような想像を観る者に与える力がこの映画に包含されていたということ。

繰り返すが、それが私にとって本作を高く評価する決定的な理由であったと言える。本作の持つ表現力の凄みは、恐らく、作り手の思惑を超えて、人間というもののその根源性に肉薄する筆致を記録したところにあった。そう思うのだ。

然るに映像は、二人の戦後の振れ方には興味がないようである。彼らを裁くに足る、表現者としての心情を感じることが難しいのだ。

作り手が糾弾したかったのは、どこまでも、彼らの行為を分娩したこの国のシステムそれ自身であったからであろう。

それでも、映像の作り手は、作品を通して私たちに問いかけてきたのである。

「もしあなたが、映像の中の二人の帝大医学部研究生の立場に立たされたら、一体どうするか?あの状況で何ができたか?」

それに対する私の答えはこうである。

人間の想像力には限界がある。

実際問題、自分がそのような状況に置かれなければ、何とも言えない。しかし自分なりのちっぽけな自己像というものがある。その自己像に対して、確信的か、或いは、半ば確信的に背馳する行動をとったときの負性のイメージというものも、心のどこかで浮遊するのも事実である。

そして、そのイメージに流れ込んでしまった自分を、私は許せないだろう。

そのとき、私もまた、映像の中で見せた勝呂青年のように狼狽し、ひたすら為す術がなく呆然と立ち竦むかも知れない。

玄界灘③・佐賀県肥前町切木から(ウイキ)
或いは、先述したように、自我破壊の手前まで自らを甚振(いたぶ)る内面世界を立ち上げて、その予定調和の時間の中で存分に自虐のプロセスを検証でき得る枠内で、自らの決定的な不徳のさまを糾弾するかも知れない。

それならそれで仕方がない。

誰が悪いのでもない。

それが自らの選択的意志の行為であったという風に、私は括るつもりである。

そこに私を呑み込む「黒い海」の攻勢の中にあっても、そこで生まれた状況は全て〈私の状況〉なのだから.。

(2006年1月)








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