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2011年6月18日土曜日

イースタン・プロミス('07)      デヴィッド・クローネンバーグ


<「全身ハードボイルドもどき」の男と、「聖母マリア」の距離が関数的に広がっていくだけの物語>



 1  「全身ハードボイルドもどき」の男と、「聖母マリア」の距離が関数的に広がっていくだけの物語



 本作に関しては、深読みするスノッブ効果は不必要である、というのが私の結論。

 分りやす過ぎる映画だからだ。

 「俺には両親はいません。これまで、“法の泥棒”の掟だけが、唯一の教えでした。俺は15歳で死んだ。 一切の感情を捨てて生きて来ました」

 地下組織への加盟のイニシエーションの場での、物語の主人公のセルフプロモーションだ。


 このセルフプロモーション通り、体中にタトゥーを彫り尽くした、本作の主人公である、極めて訴求効果の高い男が引っ張り切る映像構成には、殆どブレがなかった。

 舞台はロンドン。
 
 ロシアン・マフィアに潜入し、随所に、その立ち居振る舞いにおいて、存分にニヒルで、ホモと疑われるほど中性的であるが故に、一層蠱惑(こわく)的な魅力を放射する「全身ハードボイルドもどき」の男と、ロシアの少女をレイプして産まされた赤子を育てる「聖母マリア」(助産師)。

 そして、「全身ハードボイルドもどき」の「スーパーマン性」がフル稼働する、サウナでの「全裸の格闘シーン」(2人のチェチェン・マフイアに襲われて、全裸で応戦する、モザイク処理も希釈な、特化された「見せ場」)に、映像総体の生命線を賭けた「爆轟」(ばくごう=デトネーション)をクライマックスに待機させるフィルム・ノワールの定番によって、観る者の「ブッキング」にきちんと応えることで、訴求効果の高い男が引っ張り切った物語のモチベーションを保証するという、映像構成の王道を一気に駆け抜けるのだ。

 如何にもダークサイドの陰翳を抉(えぐ)り出しかの如き、「映像の奥深さ」のイメージを振り撒くマヌーバーに心地良く乗せられた、刺激情報の操作的な映像構成に味付けを見せたのは、ナイフを使った壮絶な戦争の迫力によって、観る者の皮膚感覚に訴え、痛覚の記憶を経験的に想起させることで、「暴力」への忌避を生む程のリアリティの圧倒的な担保力。

 まさに、そこにこそ、特段の構造的訴求力を高価に値踏みさせる娯楽の本道だった。

 「“私の名はタチアナ。父は故郷の炭鉱で死んだけど、死ぬ前から土に埋もれていた。私たちは、皆そうだ。ロシアの地に埋もれている。だから私は故郷を出た。マシな暮らしがしたくて”」

 ラストシーンで流れる、少女の日記のモノローグだ。

 何のことはない。
 
 光を求めるロシアの少女の世界を収斂させていく、「イースタン・プロミス」(人身売買契約)という「闇」を出しにしつつも、「全身ハードボイルドもどき」の「スーパーマン性」の値踏みをマキシマムにさせる狙いは、当然の如く、精緻な内面描写を完全にスルーさせる瑕疵が目立たないほど絶大だった。


 だから、「人類の希望の未来」の〈生〉に自己投入させていくかのような「聖母マリア」は、「力の論理」と「男の観念」を基本的な情感体系とするフィルムノワールの文脈のうちに、なお自己を縛りつけていく、「全身ハードボイルドもどき」が放つ鮮血の臭気と決して濃密に絡み合うことがないのだ。

 それぞれの人格のうちに象徴される「平和」(「聖母マリア」)と「戦争」(「全身ハードボイルドもどき」)のイメージは、いよいよ両者の隔たりが関数的に広がっていくだろう。

 これが、本作に対する私の基本的把握であり、アカデミー賞(主演男優賞)にノミネートされたヴィゴ・モーテンセンの渾身の表現力に全面依存しただけの、フィルムノワール以上のものでも、恐らく、それ以下の娯楽映画でもなかったということだ。



 2  映像世界のハードルを突き上げる厳しさを露呈させる内的必然性のルール

アレクサンドル・リトビネンコ



 それよりも、この映画が観る者に深く印象付けたものがあるとすれば、放射性物質を何者かに投与され、毒殺されるに至った、イギリスを舞台にした、例の「リトビネンコ事件」であるだろう。

 KGB(現FSB)出身の反体制活動家が、イギリスに亡命した果てに不可解な死を遂げたという有名な事件だ。


 第二次チェチェン紛争(1999年からの10年間)に関わる、ロシア(=時のプーチン政権)に対する批判的な報道姿勢で知られた、アンナ・ポリトコフスカヤ(気鋭の女性ジャーナリスト)の射殺事件の真相を究明していた元ロシアの高級将校(アレクサンドル・リトビネンコ)の毒殺死という「闇」のイメージは、「全身ハードボイルドもどき」が放つ鮮血の臭気さえも蹴散らすリアリティを持ち得ていたのだ。
アンナ・ポリトコフスカヤ

 加えて、かつてベレゾフスキー(「オリガルヒ」と呼ばれる、ロシアの新興財閥の代表的人物)等への暗殺指令を拒絶したと言われる、秘密情報保持の一人の重要人物を、この世から放射性物質(ウィキによると、ウランの100億倍の放射能を有すると言われるポロニウム210)によって、簡単に屠ってしまう事件のリアリティは、既に、様々に奇を衒(てら)った、「読み切りコミック」の「物語性」の立ち上げすらをも、呆気なく破壊する怖さを分娩させてしまったのである。


 第二次チェチェン紛争下に惹起した、2002年10月の「モスクワ劇場占拠事件」に至っては、100名以上の人質がロシア特殊部隊が使用した、成分不明のガスで窒息死したという報道も流されたが、アレクサンドル・リトビネンコは、あろうことか、このチェチェン人の犯行グループの中に、FSBの特殊工作員が混じっていたと糾弾する思惑があったとされているのだ。

 「ロシアンマフィア」を、「FSB」という不透明な情報機関の存在に置き換えることを可能にさせる怖さが、21世紀状況の中で蠢(うごめ)いているという現実こそ、それ以外にない究極のフィルムノワールであると言えるのか。


 しかし、これだけは言えるだろう。

 
ヴィゴ・モーテンセン扮する、黒ずくめの出で立ちの「全身ハードボイルドもどき」が“法の泥棒” という、ロシアン・マフィア地下組織の奥深くに潜入するには、ホモ疑惑否定のファックを実践する程の「同化」を、組織のリーダーの前で検証して見せる覚悟を不可避とするシーンを張り付けつつも、現実の政治社会状況の物真似レベルの迫真性しか持ち得ないが故に、虚構でしかない映像世界のハードルを突き上げる厳しさを露呈させてしまうのである。

 デヴィッド・クローネンバーグ監督


だからこそ、サウナでの全裸による格闘シーンも、鮮血の血飛沫(ちしぶき)が噴き上がる喉切りナイフのような小道具を使用することで、観る者の期待値に応えていく内的必然性のルールに縛られてしまうのだ。



 「クローネンバーグ監督の新境地」という、海外での高評価が褒め殺しにしか聞えないほど、バイオレンスシーンにおけるリアリティの追求によってのみ勝負するあざとさを卒業しない限り、この辺りの不毛なイタチゴッコには終わりは来ないだろう。

 そう思うのだ。


(2011年6月)

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