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2008年12月9日火曜日

キャラクター/孤独な人の肖像('96)   マイケ・ファン・ディム

 <宿命的な「似た者性」が自己完結するとき>



1  青年の足が止まったとき



一人の青年が、急ぎ足でとある建物の中に入って行った。

彼が辿り着いた大きなデスクの前に、男が座っていた。

その男のデスクに、青年はナイフを突き立てた。

「今日来たのは、私の弁護士就任の報告だ。悔しいだろうが、ここに来るのも今日限り。あなたに会うのも今日が最後だ」

青年はそれだけ言い放って、その場を立ち去ろうとした。

「おめでとう」

青年の後ろから、ひと言、声が届いた。 

「おめでとう?」

青年は怪訝そうに後ろを振り返った。男は右手を差し出していた。

「握手なんて。私の邪魔をしておいて」

青年は、再び立ち去ろうとした。

「協力だ」

立ち去ろうとする青年を、男の言葉が止めた。更に振り返る青年に、男は同じ言葉を繰り返した。

「協力だよ」

その言葉を無視して、青年は街路に出た。

ヤコブ・ウィレム・カタドローフ
青年の足は止まった。

彼は再び建物の中に入り、男のもとに走り寄って、凄い形相で飛びかかっていった。

その瞬間、スロー映像の画面は消失して、大きくそのタイトルを映し出した。

タイトルの名は、「KARAKTER」。オランダ語である。英語で言えば、「CHARACTER」。

因みに、邦題名には「孤独な人の肖像」というサブタイトルがつくが、そんなイメージの陰鬱だが、しかし刺激的なファーストシーンの導入は観る者の心を鷲掴みにしていくのに充分だった。

ともあれ、サスペンスフルな映像の暗鬱な流れの中で、青年の内面の緊張感を象徴するかのような静かな旋律と溶け合った画面が、クレジット・タイトルを随伴させながら印象深く繋がれていく。

青年は雨に打たれて、ずぶ濡れの体をコートの襟で深く包み込みながら、薄暗い街路を突き抜けて行く。雨が上がって大きく映し出された青年の顔には、血糊にべっとりと付着していた。

その青年、ヤコブ・ウィレム・カタドローフはまもなく捕えられて、警察の厳しい取調を受けることになった。

「あなたに、過失致死の疑いがかかっています。被害者は、ドレイブルハーブン。あの、泣く子も黙る執行官だ・・・あなたと氏との関係を教えて下さい・・・」

取調官の質問に、青年ヤコブは、ドレイブルハーブンとの因縁の関係を振り返っていく。



2  情け容赦のない税官吏




現在のロッテルダム・エラスムス橋
1920年代のオランダ、ロッテルダム。

ドレイブルハーブンは、情け容赦のない税官吏として悪名を轟かせていた。

彼の胸には、ひと際目立つ執行官のシンボルである大きなバッジが、その太い首から下げられている。彼は税金を滞納した貧民の家屋に押し入って、有無を言わせず、権力を遂行した。病人をベットごと外に引き摺り出して、冷たい街路にその病人を投げ捨てたのである。執行官が差し押さえの紙を貼ったとき、捨てられた病人が飛びかかってきた。

「畜生。こん畜生!薄汚れたハイエナめ!」

それを平然と交わして、男は黙々と権力を遂行するのみ。


―― ヤコブの取調の中での供述。

執行官との関係を聞かれて、青年はその出会いから語っていく。

「女中がいた。名はヤコバ、略してヨバ。無口で無愛想な女だったが、主人も無口。よく似ていた。彼女が働いて、一年が過ぎたある夜・・・たった一度限りの関係だった。その6週間後・・・」

ヤコバは妊娠していた。

そのことを主人に告げたのである。その主人こそ、ドレイブルハーブンだった。

女はそれを機に、女中を辞めて男のもとを去って行った。

女は男を頼らずに、一人の子を産んだのである。その子は望まれないで産まれてきた子だった。その男の子こそ、青年ヤコブである。

事件は、ヤコブの「父親殺し」の様相を呈してきた。

出産後、ヤコバは“東地区”に部屋を借り、医者の家政婦をして自活の道を選んでいく。その行き先をドレイブルハーブンは突き止めて、彼女に手紙を出した。

「いつ結婚する?」

彼は、郵便為替と共に、ヤコバに求婚したのである。

しかし彼女は、その金を本人に送り返した。一ヵ月後に再度送られた金も、彼女は送り返す。それでも執行官は、翌月になってまた金を送り、そして送り返されてくる。これが一年以上続いたのである。

13回目にして、ヤコバは手紙を書いた。

「断固、拒否いたします」

それが、青年の母の回答だった。

―― 青年ヤコブは、少年時代を思い起こしていた。

彼は「娼婦の息子」と友だちから蔑れていたのである。少年は繰り返し、母に父の存在を尋ねている。

「私たちには必要ない」

それが、母の答えだった。

寡黙な母と激情的な息子。度重なる虐めに、息子は常に攻撃的に振舞った。母はただ耐えて、哀しむ夜を送っている。それを察知した息子は、以降、感情の抑制を心に誓った。母子は感情のラインを同じにして、まもなく東地区を去って行った。

新しい家は、執行官の家の近くだった。

家賃を稼ぐために、ヤコバはミシンを買って、自活の道を拓いていく。

一方息子のヤコブは、新しい家で、前の持ち主が置いていった外国語の本を手に入れた。これが彼の後の人生を拓く契機となっていく。少年は読書にのめり込む生活に入っていったのである。

それは、寡黙な母のもとで唯一見出した、少年の娯楽だった。少年は、そこで英語を学んだのだった。

「私の存在が母を寡黙にするのではなく、性格の衝突だと気づいた。常に不自然で堅苦しいほど、二人は正反対だった」(ヤコブの供述)

少年が母と港の付近にいるとき、港の方から、「ヨバ!」という声がかかった。ドレイブルハーブンだった。

少年が父を見た最初の瞬間だった。以降、少年は港の近くに立ち寄って、父と思しき男に会いに行った。

ある日、少年の隣に男が立ち、そのまま去って行った。少年は男の後をついていく。

そして、男が入った建物の入り口に書いてあった名は、「ドレイブルハーブン」。父と思しき男の名を確認したのである。

その日、少年は万引きのパンを掴まされて、警察に補導された。少年はドレイブルハーブンの名を警官に告げたが、本人が直ちにやって来て、一言、言い放った。

「すまんが、身に覚えのない子供だ」

これが、少年が父から拒絶された最初の出来事になった。

「この日限りで、私の詮索は終った」と青年ヤコブ。その供述である。
「弁護士になるため、勉学に励んだ?」と取調官。
「金がなくて進学は断念。自分で職を探し回り、仕事から仕事へ渡り歩いた・・・仕事が見つかるまで、数週間は失業だった。その間、私は百科事典を読んだ。辞書を引きながら、頭に叩き込んだ。母との緊張は頂点に達し、家を出ようと考え始めた。母もまた同様に考えていた」

―― 更に、ヤコブの供述は続く。

ヤコブの母は若い共産主義者と出会って、母子の家に同棲することになった。彼の思想に影響を受けることなく、成長したヤコブは国民信用銀行から金を借りて、タバコ屋を始めたのである。「おやりなさい」と、母はひとこと言うだけ。

しかし彼はワラを掴まされて、商売の目論見は呆気なく破綻する。
彼には借金だけが残されたのである。

まもなく、彼は破産管財人のデ・ハンクラー弁護士と知り合って、無収入を理由に執行停止の申請を出すことを提案され、難を切り抜けていく。更に、百科事典で鍛えた英語力を評価され、弁護士事務所に書記として雇用されることになったのである。

「母は無言だった。一言も“おやりさない”さえもなく」

ヤコブの母だけは変わらなかった。

彼は母の沈黙を無視して、事務所の上の屋根裏を間借りして、そこに引っ越すことになった。

「私たちはとうとう、お互いから開放された」(供述より)

5日後、ヤコブは仕事を始めていく。

早朝、深夜はタイプを学び、日中は速記を練習した。彼の新しい人生が始まったのである。

ヤコブとデ・ハンクラー弁護士
デ・ハンクラー弁護士は親切で、常にヤコブの強力なサポーターになった。青年の喜びが弾けていく。

「この事務所から世界が開けていく。誰も邪魔はできない・・・誰も・・・」(供述より)

しかし青年の前に、立ち塞がった男がいた。ドレイブルハーブンである。彼こそが国民信用銀行の所有主だった。定収入を得たヤコブのもとに、借金の定期的返済を求めに来たのだ。

「奴の銀行だった!奴の銀行だ!奴の金だよ!奴が破産させたんだ!それで?」
「負債は負債よ」と母。
「なぜ教えてくれない!なぜ喋らない!」

息子は母を詰るが、母に問題がある訳ではないのだ。執行官もまた、自分の職務に誠実なだけなのである。

ヤコブは執行官に会いに行った。自分の父である。

「私たちに、なぜこんな仕打ちを?」
「個人的な話か?」
「ひとこと言っておく・・・あなたなど恐れてはいない」
「結構。明日、裁判所で会おう」

そう言い放って、車で立ち去る父を、息子は激しい雨の中を必死に走って追い駆けていく。

車に追いついて、強引に車内に入り、息子は再び叫んだ。

「なぜか教えろ!」
「よろしい。こうしよう。36回払いでいい。貸付と同じ条件で返済しろ。今回に限りだ」
「違うんだ!」
「それも嫌なら・・・構わんよ」

父は自らの言葉の間に、息子にナイフを差し出した。これで俺を殺せ、と言っているかのようだった。


その父は今、執行官となって、武装する労働者たちが立てこもる建物の強制執行に向っていく。背後に軍隊が待機しているが、男は単身乗り込んでいくのだ。

そこに、一発の銃声音が轟いた。

彼はそれでも職務を遂行しようとする。更に銃声があり、執行官は銃を持つ若者の前に立ち塞がった。

そこに若者の銃丸が放たれて、男は顔に傷を負った。若者は軍によって、即座に射殺された。執行官は軍の射撃を止めさせようと合図したが、遅かった。

息子は父の職務の一部始終を、軍隊の背後で初めて目撃することになったのである。



3  挑戦、傷心、試練、成就、そして挑発



「返済には一年半が見込まれた。惨めな時期だったが、希望はあった」(供述より)

青年ヤコブは、法律事務所に秘書として勤める一人の女性に恋をした。

ヤコブとローナ
それがヤコブにとって、細(ささ)やかな希望となったのである。その名はローナ。

1924年2月1日。

ヤコブの負債の返済が終了したが、ヤコブは再び父のもとを訪れた。新たな借金を求め、受諾されたのである。供述によると、その理由は、「彼に挑み、勝ちたかった」とのことだった。

「その闘争心は、お母さんから授かったね。出産時に君を子宮に閉じ込めようとしたんだ。産むまいと必死だった。勝ちたい一心で、氏に接近するのは分る。しかし、なぜ彼はそれを受け入れたのだ?彼は既に勝者だ。何度も。何が望みだったのだ?」

その取調官の問いに対して、ヤコブは答えた。

「私は取引のつもりだった。翌朝、全額が用意された。利子はたったの8%。ある条件付で・・・」

それは、ドレイブルハーブンが望んだ時点での返済が条件だった。彼は新たな戦いを父に挑んだのである。 

そんな厳しい状況の中で、共産主義者のヤンに誘われて、彼は海に行った。暗欝な映像が初めて見せる、眩い陽光の描写であった。

その描写の中に、青年の明るい気分を投影させようとしたのだろう。青年はこの海辺で、ローナと偶然会ったのである。

泳ぎに来たローナは、読書をしに来た青年を泳ぎに誘った。

青年が迷っているとき、ローナのテントの中から一人の若者が出て来た。彼こそ、ローナのフィアンセだったのだ。

青年はそのまま、本を片手に海辺を去って行った。青年のひと夏の恋は、あまりに呆気なく砕け散ったのである。

傷心なヤコブに危機が襲ってきた。

彼は突然、ドレイブルハーブンから借金の返済を求められたのである。

いつ求められても返済を拒めないことが、借金の際の条件だったから、ヤコブは追い詰められた。しかし、デ・ハンクラー弁護士などの援助で裁判に勝訴し、青年は危難を乗り越えたのだ。青年を次々に襲う試練は、まるで彼自身が自ら設定した舞台で、強大な敵と戦い、それを完膚なきまでに打倒することを念頭に於いて、その身を投げ入れているかのようだった。

青年ヤコブはその艱難(かんなん)な人生の中で、初めてその人生の大きな目標の一つに辿り着いた。彼は努力の結果、国立の教育機関の試験に合格したのである。

そのときの、ヤコブのスピーチ。そこには、彼を祝福する法律事務所の人々が居並んでいた。

「この素晴らしい夜に、心から感謝します。実はもう一つ。気づいた方もいるでしょうが、9月から法律の勉強を始めます。才能は誰にでもある。その才能を見出し、そして発展させる。前進するために。この場の誰にでもチャンスはあるんだ。何者でもいつ始めようと、目標を一つに定めたら、他のことを犠牲にしても目標に向って突き進めば、逆境や抵抗にも打ち勝てるし、犠牲も報われると。心から確信します・・・」

これで、彼の人生の目標は一つになった。

ヤコブ
学校を卒業し、弁護士資格を取得して、正式に弁護士活動の道を開いていくことである。

ドレイブルハーブンが青年の母を訪ねたのは、青年の祝福のパーティが開かれてから間もない頃だった。

「いつ結婚する?」と男。
「なぜ、あの子に構うの?」とヤコバ。
「あの子か・・・苦しめるだけ苦しめて、最後に鍛えるのさ」
「結婚はしないわ。安心して。他に男はいないわ」
「最後まで苦しめてやろうか」

そんな捨て台詞を残して、男はヤコバのもとを立ち去った。

執行官としてのドレイブルハーブンの勤務の徹底振りは、更に執拗に継続されていた。労働者たちのアパートの立ち退きに抗議して、彼の自宅の建物はその労働者たちによって占拠される勢いだった。

「警官を呼ぼう」という部下の忠告を制して、男は単身彼らの前の高みの台に上って、言い放った。

「明朝8時、立ち退くんだ。法の名の下に」

彼の右手には、例によって執行官のバッジが高く掲げられ、群集を威圧する。

その中から女性が一人、彼の前に現われた。

彼は悪夢で見た恐怖に、一瞬駆られたようだった。

悪夢の中で、全裸になった彼はその女に石を投げられて、それを機に群集から袋叩きに遭ったのだ。

しかし今、その女は亭主を促して、早々にその場を立ち去って行った。

群集もまた、静かにその場を立ち去ったのである。

この描写は、男の深層心理を映し出していて、興味深いものがあった。

まもなく、ヤコブの母は亡くなった。

母が亡くなる前、息子は母に一度だけ尋ねたことがあった。

「なぜ、最初のプロポーズを断ったの?」

その問いに、母は答えなかった。

ヤコブと母ヤコバ
息子の中では、それは一貫して不可思議なテーマだった。

映像は、その辺りの事情を一切説明しないまま、母の葬儀のシーンに流れていく。

その葬儀には、あの男が来ていた。ドレイブルハーブンである。彼は深々と帽子をとって、一人雨の中に立ち竦んでいた。ヤコブはそれを見つめていた。

「思えば、6年もあの男に会わなかった。その間、何の邪魔も入らなかった。この瞬間を、彼は待っていたのだろうか。もう、私たちを阻むものは何もない。だが平穏は続き、4ヵ月後、弁護士就任を迎えた私は、徐々にその理由を理解した。望みは全て成就した。だが、何も持っていないも同然だ。奴は知っていた。初めから。今日、私が彼を訪れることを・・・」(供述より)



4  コートに身を包む馴染み深い父の姿



ここで映像は、ファーストシーンに戻っていく。

父の建物の中に、息子は凄い勢いで突進して来た。

父はそれを待っている。息子の突進を待っている。

突進して来た息子の体を受け止めて、父は存分に叩きのめしていく。容赦のない暴力が続く中、息子は父の顔を齧(かじ)り切り、彼の父に対する反抗が開始された。

倒された書棚の下敷きになり、瀕死の状態の父は、ナイフを持つ息子の右手を掴んで、それを自分の方に寄せていく。息子はもう何もできなくなってしまった。

「助けてくれ・・・ヤコブ・・・」

蚊の鳴くような父の呻きが、息子の耳に届いた。息子は父を助けられず、その場を立ち去ったのである。

残された父は衰弱した体を立ち上げて、自らの腹にナイフを刺し、屋根裏から空洞になっている一階に向って、その身を投げ込んだのである。

父は恰も、予定されたようなその日に、それも予定されたかのような自死を遂げたのである。

検視の結果、執行官の死がヤコブの暴力によってではないことが立証され、ヤコブは翌日に自由の身になった。

そのヤコブに、執行官の弁護士を介して父の手紙が届けられた。

それは、父の全財産を息子のヤコブに全て相続させるという内容の手紙だった。そして手紙の最後には、ドレイブルハーブンではなく、“父より”とのサインがあった。

ドレイブルハーブン
彼はその手紙を、息子に突進されたその日の内に書き上げたのである。これを書き上げた直後に、父は壮絶な自死を遂げたのだった。

映像は、初めて知った父の思いを、コートに身を包む馴染み深い父の姿を通して、息子が複雑な表情で想起する描写によって閉じられていった。


*       *       *       *



5  上辺だけの爽快感よりも遥かに価値を持つ特別な気分



いつまでも心の澱に深々と淀んでいて、何かすっきりとクリアにされない重苦しい気分が、私の自我に不必要なまでの湿気を与えていた。

それはおよそ爽快感とは無縁な何かだった。しかしそれは私にとって、上辺だけの爽快感よりも遥かに価値を持つ特別な気分と言っても良かった。

映画「キャラクター/孤独な人の肖像」を観終った後の気分には、恐らく、それを求めて止まないものと出会ったときの驚きをも随伴していたに違いない。

その驚きが、私に読み切りコミックの完結感で流さない難渋なテーマ思考を開かせた。それこそまさに、「映画らしい映画」と出会った者だけが感受する、ある種の至福感と呼ぶべき感懐であるのだろうか。

どうやら私は、些かスパイスが効きすぎているが、しかし難渋なテーマを突き抜けていく思考を回避してしまったら決して賞味できない、正真正銘の映像表現の世界に侵入してしまったようなのだ。

そのせいもあって、サスペンスタッチで一気に観る者の心を捉えて離さない本作の映像世界を、私は今どのように表現したらいいのか、正直、戸惑っているが、評論もどきの心理学的なアプローチによる拙い感懐を記述していこう。



6  青年の「キャラクター」



舞台はオランダ、ロッテルダム。

現在のロッテルダムウィキ)
1920年代の暗鬱なるヨーロッパ世界が、一貫して暗鬱な画面によって映し出されていく。酷薄な税官吏にベッドから投げ捨てられる冒頭近くの描写からして、既に充分に挑発的である。

しかも、酷薄な税官吏が物語の中枢に居座っていて、彼の血を引く若者との、長くて辛い闘争の歴史が執拗に描き出されていくのだ。

主要な登場人物は三人。

この父子の血脈を繋いだ寡黙な女が、そこに絡んできて、その苛烈な運命を紡いでしまうのである

―― その辺りから言及していこう。

物語の主人公であるヤコブ青年は、殆ど不必要な会話をしない、一見、風変わりな男と女の実子として、まるでその誕生が呪われているかの如き負性を負って、この世に産まれてきた。彼は母の一貫して頑なな態度によって、私生児として育てられ、その負性なる環境下で自立心の強い自我を育んでいく。

ここで、ヤコブ青年の「キャラクター」について触れてみる。

彼のその特徴的なメンタリティを構成するのは、次の五つの因子に要約されるだろう。

それらは第一に、「勤勉性」であり、第二に「自立心」であり、第三に「自己尊厳心」であり、第四に「粘り強さ=執着心」であり、第五に「闘争心」である。ついでに言えば、「好きな異性との関係の作り方の不器用さ」という因子も加えてもいい。

彼の「勤勉性」については、年少時より育んできた強い学習意欲と向上心によって、一貫して補完されてきたと言っていい。

このメンタリティは、彼の社会的自立心や執着心と連動して、強固な自我を育んでいくことになった。

貧しさ故にまともな学校教育を受けなかった少年が、たまたま手に入れた外国語の百科事典を友とするほどに励んだのは、「人に頼らないで生きていく」ことの大切さを、子供なりに学習できていたからである。

彼は両親から直接学ぶ機会を著しく不足させてきたが故に、自立の扉を開いていったのである。

しかし彼が天涯の孤児だったら、その扉を果たして開けたか。

彼には寡黙ながらも、彼を傍らで見守る母がいた。

彼はそのことに対して大きな不満を抱いていたが、しかし少年がその道を外さないような堅固なバリアを、その誕生を拒絶しながらも、我が子を分娩した母は、紛う方なく作り上げていたのである。

彼の環境が社会的に不利な側面を持っていたにしても、そのハンディをより劣悪な方向にシフトさせない砦の中で、少年の自我が守られていたことだけは間違いないのだ。

彼の「自立心」の醸成も、父の助けはおろか、母の一欠片のサポートすらない状況下でこそ固まっていったと見るべきである。

母は息子の事業の失敗を見越していて、それにアドバイスすら与えなかった。

息子の負った多大な借財に対して、「負債は負債よ」と一言で片付けたこの母には、我が子の分娩を拒絶した経緯から見られるように、「母性原理」の相対的な不足が見られるのであろう。

それでも息子に関わる母の一連の冷厳な行為には、我が息子に失敗の中から立ち直る学習をさせる戦略のようにも見えなくもない。

しかし、この母に「母性原理」の不足が見られても、それは子供の自我を歪曲させる方向に流れる致命的な欠如ではなかったであろう。

恐らくそれは、当時のオランダの、このような環境下に置かれた子供の自我の破綻を防ぎ得る、ギリギリの許容域内での可能性を示唆するものであったに違いない。

それでもこの母は、息子が弁護士事務所の屋根裏に引っ越した後、さり気なくシャツを贈る「母性」を表出していたのである。

更にまた、息子の中にある「自己尊厳心」こそ、彼の「キャラクター」の中枢にあって、その進路を方向付けた決定的な要素であったに違いない。このような青年の自我は、まさに作られるべくして作られた何かであったと言うべきなのである。

思えば、以上のヤコブ青年のメンタリティは、実は彼の両親の中にも内在するものだった。

この点こそが重要な把握になるだろう。

即ち、ヤコブ青年の特段に固有なるキャラクターと考えられた要素は、明らかに彼の両親からの遺伝的因子の血脈として読み取ることができるのである。



7  運命的な父子の負性の絆の「似た者性」



「闘争心」を除く、以上の四つの因子については母子の中で、そして六つのキャラクターの全ての因子は、父子に共通する特徴的なメンタリティだったということである。

確かにドレイブルハーブンの尖り方は、過剰なる父性に満ちている。それはあまりに厳格であり、あまりに無慈悲であった。

しかしそれらの尖りは、税官吏としての職務に忠実な態度の反映であり、それ以外ではなかった。

彼は権力的に行動を結んだが、それはこのような男がいなければ、成立しないちっぽけな大国オランダの歴史的産物であったとも言えるのである。

そんな男が恋(?)をして、女を強引に懐妊させた。

男は女に結婚を申し込み、子供の認知を求めるが、女によって拒まれた。その行動は執拗であったが、無骨な男のそれ以外にない愛情表現の方法であったようにも思える。女が男の求婚を拒んだ理由は殆ど自明だが、ここでは、ドレイブルハーブンの「キャラクター」への言及に戻る。

男の中の勤勉さと執着心は、それがどのような状況下にあろうとも職務を遂行する態度の内に表現されている。

その一例は、武装する労働者が立てこもる建物の中に、非武装の彼が単身乗り込んで、「差し押さえ」のステッカーを貼り付けていく描写。

ラジカルな若者の銃声が轟いても職務を遂行しようとする男の態度は、自ら負傷しても止めない厳格さを際立たせていた。

このシーンで注目すべきは、彼が軍のサポートを全く無視した態度である。

男は寧ろ、自分を狙って銃丸が尽きた若者を、軍が射殺しようとした行為を制止しようとさえ努めたのである。

そこに男の高い社会的自立心と、職務への自己尊厳の感情が見て取れるのだ。

この一部始終を息子が視界に収めたとき、息子は今更ながら、想像を絶するような、威厳に満ちた父の態度に畏怖したに違いない。

その息子が父に、「あなたなど恐れていない」と敢えて宣言するのは、まさに父の存在の妖怪性に怯えている証左以外の何ものでもないのである。

この父の内側深くに貯えられた攻撃性は、残念ながら息子にも遺伝してしまっていた。

母に似なくて、父子の中にあるもの。

それは「自己像イメージを貫くための攻撃性」であると言っていい。

豪雨の中で息子の車を追って、強引に同乗し、自らの意志を伝える行動の尖り方は、立場の違いを越えて父子のDNAが繋がっていることを証明するものだった。

それが、「父殺し」によってしか自己完結しない流れ方を見せたことは、冗談めかして言えば、「裁判外紛争解決手続き」(ADR)に決して軟着陸することのない、鋭く対峙する父子の関係のそれ以外にない関係処理の有りようだったとも言えるのだ。

明らかに、息子は父に認められることを望んでいた。

それも上辺だけの儀礼的認知ではなく、一つの確かな有能な「キャラクター」として認知されることを望んでいた。しかし、「おめでとう」と一言放っただけの父の態度は、息子には儀礼的な認知以外の何ものにも映らなかったのである。

思えば、息子は父との対抗意識によって生きてきた面がある。

現在のロッテルダム港(ウィキ)
ロッテルダムの最も貧困なる「東地区」に住む母子にとって、その思春期は差別との戦いであった。その中で、父のいない少年が社会的に自立していくには、初めから艱難(かんなん)な環境を克服していく強い気持ちが絶対的に求められた。

結婚を拒まれた父にとって、自分の特異な遺伝子を継ぐであろう息子が、その環境を克服していくには、並外れた試練が必要であったと考えたに違いない。

そしてその息子には、それだけの能力があると確信していたはずだ。恐らく、息子の母もそのことを疑わなかったであろう。

しかし、息子のヤコブだけがそれを知らない。

それを知らないから、彼には、母も父も無慈悲な大人にしか見えなかったのだ。

彼には、逆境を克服する強い意志と向上心があった。

彼は自分の中に内在するその特別な能力を生かして、実際に逆境を克服していった。しかし、それを彼の身内だけが切実な思いで祝福してくれないのである。

彼が裁判で勝訴したとき、理由もなく父を訪ねたことがあった。単に「自分を構うな」とだけ叫ぶ息子を、父は突き飛ばし、ナイフを投げつけた。

ナイフを突きつける行為は、「一人前」のシンボルとして、父が息子にナイフを渡す欧米社会の、一種の通過儀礼をなぞっているようにも見える。

即ち、人を殺傷する能力を持つナイフを息子に与えることで、その危険な道具を使える男として認めた証なのである。

然るにこのとき、父はまだ息子の自立を認知していない。だから父は息子に、これを使えるような人間になって出直して来いと言いたかったのだろう。

だが息子にとって、屈辱の歴史は延長されてしまったのである。

息子の自我に張り付いた屈辱感を払拭する道は一つ。

法の番人である父によって、その住処を追放される貧民たちのサイドに立って、彼らを守るべき地位にまで昇り詰めることであった。それ故、彼は弁護士の道を選択したのではないか。

勿論、これは憶測に過ぎないが、自らの負債の返済を迫る父によって何度も辛酸を味わってきて、結局、弁護士の協力を得て父との裁判を勝ち取ってきたその経験から、既に法律事務所に職を得ていた彼が、弁護士を目指すのは必然的だったと言えるだろう。

だからこそ、正真正銘の弁護士の資格を取ったその日に、彼は父との対決の場に向ったのである。

そして父もまた、その日のことを予知していた。

彼は母子の情報について、全て把握しているのである。

母もまた、それを予知していたのではないか。

しかし、彼女は何もしない。何も語らない。

彼女は息子に、「一人で生きていくことの強さ」のみを残して逝ってしまったのである。彼女にはそれしかできなかったのだ。

親子の宿命的な因縁の深さに対して、彼女には為す術がなかったのかも知れない。それ程までに、父と息子の「キャラクター」の類似性を感じ取っていたのだろうか。

そして息子もまた、父がその日に自分を待っていることを確信していた。

彼は単に誘(いざな)われるようにして、対決の場に向ったのである。

そこで息子は、かつて父から投げつけられたそのナイフを父の机の上に刺して、自分の自立を高らかに宣言したのだ。

それだけ叫んで帰るつもりだった息子は、なお父が自分を認知しない態度に直面したとき、痛感したはずだ。父が望むのは、単に自立の言語的表現ではなく、それを身体表現によって表出すべきであることを。

街路に出た息子は、そんな父の強引な誘(いざな)いに引き寄せられて、再び建物の中に突入して行った。常に権力的に振舞う父を、文字通り倒すために。彼は父に突進し、その直接的な攻撃性を遂に身体化させるに至ったのだ。

命を賭けてその体をぶつけ合う、宿命的な因縁で繋がれた父子がそこにいる。そして、直接対決の結果、息子は父を倒した。倒された父は、そこで初めて息子の自立を認知したに違いない。

息子の自立を認知したそのときこそ、父の人生の自己完結を遂げる瞬間でもあったかのように、自らの巨体を自らの意志によって、そこに吸い寄せられていくことを覚悟して放り投げたのである。その行動は、映像を観る者にとってあまりに異様であり過ぎた。

この男にとって、一体、人生とは何だったのか。家族とは、愛とは何だったのかという疑問を覚えるほどに、男の異常性は際立っていたのである。

男にとって人生とは、職務の遂行そのものであったようにしか思えないのだ。税の執行官という権力の下に、自分に課せられた酷薄な任務を淡々と遂行し切ること。

これ以外のイメージは、男の孤高なる人生の中からはとうてい描き出せないのである。

では男にとって、家族とは何だったのか。

それは、自分の妻と信じる一人の女を思い続け、その女が産んだ一人の息子を加虐的に鍛え上げていくこと以外ではなかった。

このような関係の作り方しかできない男の、その不器用な人生の心象風景を覗くことを許されるなら、恐らく、「愛されることのなかった幼年期の空洞感」をそこに垣間見ることができるであろう。

人の愛し方を知らない男の人生は、その孤高の晩年を早くから予約されてしまうことになった。

そしてその些か歪んだ自我形成が、息子のキャラクターの内に流れ込んでいったとき、息子もまた、人を愛することの不器用さを晒す青春期に翻弄されていた。この運命的な父子の負性の絆の「似た者性」に、ただ慄然とする思いである。



8   独立自尊感情、そして「関係の権力性」に対する鋭敏な感性



次に、本作に於ける一つのテーマについて再確認をしてみよう。

三人に共通する特性の中で最も重要な因子は何か、という点である。

それを私は、「独立自尊感情」の強さという風に捉えたい。

そしてこの感情の強さから導き出される二次的感情について注目せねばならない。それは、「関係の権力性」に対する鋭敏な感性であると言えようか。

とりわけ母子には、権力関係が無前提に構築される現実を、極端に忌避する思いが強かったように思える。

母には息子との関係においても、そこに権力性の導入を回避していた態度が見られるのである。

母は息子に対しても、「おやりなさい」としか言わないのだ。

息子は思春期以降、自己責任において行動を刻む態度を、ごく自然に身につける外はなかったのである。

そんな母子は常に父の権力性の影に怯え、その侵入を拒んできた。

彼らは父の独立自尊の感情が、自らの職務から必然化される権力性を常に表現せざるを得ない事情を察知していて、その心理的影響力を厭悪(えんお)したからではなかったのだろうか。

父の権力性は職掌を逸脱して、我が子への束縛性を強化させる方向に働いてしまった。しかし注意すべきは、この束縛性は父の強制的な把握を起点にしていなかったことだ。

寧ろ、息子の方から借金を求めるという挑発的な行為の結果において形成されたものである。

権力関係の形成を嫌うはずの息子が、敢えて父を挑発する行為に打って出たのは、父が国民信用銀行のオーナーであると知って、そこに宿命的な因縁を感じ、執行官である父とのシビアな関係の流れ方を覚悟したのかも知れない。

それこそまさに、「似た者性」のキャラクターがクロスしたときの必然的帰結だったと言えるのである。



9  宿命的な「似た者性」が自己完結するとき



―― 繰り返すようだが、この稿を要約的に括ってみる。


そのテーマは、「宿命的な『似た者性』が自己完結するとき」である。

正直、本作を初めて観たときの私の印象は、「父性原理」についてのテーマ言及は避けられないと考えていた。

しかし三度目にきちんと観直してみて、本作のテーマは、まさに「キャラクター」にこそあると考えている。「キャラクター」には、「特性」という意味がある。

その特性にこそ、私は注目したいのである。

最後に、それを書いていく。

父と子が、その「負性なる似た者性」の宿命的な因縁をお互いに感じ取り、それを最初に目立って起爆させたのは、息子が国民信用銀行を介して負債を負った一件だった。

その後の複雑な経緯を通して、息子は父に勝訴したことで、最終的に父を打倒したと考えた。

しかし、それは甘かった。

父は、弁護士の手を借りて勝訴したに過ぎない息子の勝利宣言を罵倒して、ナイフを投げつけたのだ。

その後、成長した息子は再び父の前に現われた。

自らが弁護士の資格を得たその日に、息子は今度こそ父の呪縛から解放されると信じて、彼の事務所に突進して行った。父はそれでも、息子を心から認知しない。

息子はこのとき初めて思い知らされた。父は自分をその身体表現において倒すまでは、自分を決して認知しないことを。

ナイフを投げつけられた意味が初めて分ったのである。

息子は再び突進した。

父もまた身構えて、それを待っていたのである。そして身構えている父を、息子は完膚なきまでに倒した。

そのとき、父は瀕死の状態の中で、何かささやいた。「助けてくれ・・・ヤコブ・・・」と、小さく呻いたのである。

父はその前に、ナイフを持つ息子の右手を、明らかに自分の方に寄せていった。

息子の供述では、父は息子の手によって殺されることを望んでいたと言う。

確かに、このとき父にはそんな思いがあっただろうが、しかしそれは父の潜在的願望であって、息子を殺人者にしたくない父の思いも、そこに同居していたに違いない。

「助けてくれ」という父の小さな呻きは、勝者としての息子の認知を始めて刻んだ表現であったと考えた方が、いかにも映像作品らしいと言えるのだ。

その後、父は、恐らく書きかけの遺書を完成させた。

そこに“父より”というサインをすること。それは父にとって決定的な事態の到来を意味していた。そして自らの肉体を自らの手で破壊することによって、父は息子との宿命的な因縁の旅路に終止符を打ったのである。

それは父にとって、恐らく予約された行動であったに違いない。

息子だけがそれを知らなかったのである。知りようがないのだ。

しかしながらそこに、「宿命的な似た者性」が自己完結を遂げたのである。そのことを、息子はいつの日か知ることになるだろうか。

映像から深読みとも思えるようなメタファーを読み取ることも可能だが、私は本作を、純粋に「キャラクター」を巡る映画であると考えている。

「キャラクター=特性」を保有する父子の孤高の人生を描くことで、その運命的な絆の凄みを映し出そうとしたと考えられるのである。

思えば、オランダという国は、「独立自尊」の感情が極めて強い伝統的国民性を抱える国民国家である、という把握が私にはある。(私がいつまでも敬愛して止まないスピノザ、レンブラント、フェルメールを生んだ国である)

本作はその極端なキャラクターをデフォルメさせつつも、その底流に流れるメンタリティにおいて、まさにこの国の自己像を描き出した映像作品であったと言えるだろうか。

私には、それ以外に把握しようのない、痛烈なまでに個性的な作品であったのだ。

(2006年6月)

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