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2008年12月20日土曜日

マグダレンの祈り('02)   ピーター・ミュラン


 <システムとして保障された「箱庭の恐怖」>



1  強制隔離へ



1964年、アイルランド、ダブリン。

“一人の男が通りかかる。喉が渇いて、一杯の水を求めた。谷間の井戸で、野に咲くユリの花。辺りは茂みの中。カップはいっぱいで、屈むと零れる。谷間の井戸。野に咲くユリの花。辺りは茂みの中。娘さん、あなたは6人の子供を産んでいる。谷間の井戸。野に咲くユリの花・・・あなたが紳士なら、子供の行方を教えて・・・馬屋の戸の下に、2人は埋められた・・・お前は7年間、弔いの鐘を鳴らす。主はきっと、魂を救いたもう。この地獄から・・・・”

映像の冒頭で歌われた、アイルランドの伝統音楽である。

-― 結婚式のパーティの会場で、情感深い音楽が、太鼓の伴奏で歌われていた。そこに出席していた少女が従兄弟に誘われて、階上の一室に押し込められ、レイプされてしまう。

彼女はまもなくパーティの場に姿を見せ、知り合いの女性に泣きながら訴えた。それが一族の者に知られることになって、彼女を見る冷たい視線がそこに捨てられた。

数日後、彼女の父親によって、弟の傍らで就寝中の彼女は叩き起こされて、路上で待つ一台の車の中に消えていった。

「姉さんをどこに連れて行くの?」

この弟の問いかけに、彼女の父は答えない。母も答えない。彼女自身も答えない。答えられないからである。彼女の名は、マーガレット。


―― 「聖アトラクタ孤児院」。

そこに一人の美少女がいて、近所の少年たちの人気者になっていた。活発な彼女も、少年たちとの雑談を楽しんでいる。それを孤児院の二階から、不愉快そうに眺めている孤児院の大人たち。まもなく、彼女の部屋から本人自身が消えていた。彼女の名は、バーナデット。


―― ある病院の一室。

ベッドで体を起こし、赤ん坊を抱いている若い娘。彼女は、傍らに座る母親に話しかけている。

「自分の罪は分っているわ。でも、この子を見て。赤ちゃんに罪はないわ。そんなに怒らないで。ちょっとでも見てよ。一言でもいいから言ってよ・・・」

何も反応しない母。その部屋に彼女の父も顔を出し、自分の娘を顎で呼んだ。

「パパ」

娘は一言反応して、廊下に出て行った。そこには一人の神父がいて、その神父は彼女に、厳しい口調で言い放った。

「お父さんと話し合って、赤ん坊を養子に出すことにした。あの子を私生児として、一生ずっと育てたら、社会から爪弾きにされる。君の罪は大きいぞ」
「悪いと思っています」
「君の犯した罪を子供に押し付ける気かね?」
「いいえ・・・」
「では両親の揃ったカトリックの家に養子を。同意するね?」

娘は静かに頷いて、求められた書面にサインした。

「では、赤ん坊をもらっていく」
「今、連れて行くんですか?」
「情の移らないうちに」

娘は、眼の前に立っている父に、哀願するように語りかけた。

「赤ちゃんを見た?可愛い子よ」

彼女はそう言って、父の顔を覗き込んだが、父は反応しない。娘は翻意して抵抗の態度を示す。

「やっぱり止めるわ」

娘は立ち上がって、神父を追おうとするが、娘の前に父が立ちはだかった。

「気が変わったのよ。契約書を破り捨てて。赤ちゃんを見た?可愛い子でしょ」

娘の前で、彼女の産んだばかりの赤ちゃんが連れ去られて行く。

「私の赤ちゃんを返して!気が変わったの!連れて行かせないで・・・お願い・・・」

泣き叫ぶ娘を、父が押さえつけた。娘はもう、何もできなくなってしまった。娘の名は、ローズ。

ダブリンの聖パトリック大聖堂(イメージ画像・ウイキ)
彼女もまた強制隔離の運命に流れ込んでいったのである。



2  マグダレン修道院



マーガレット、バーナデット、ローズ。

三人の娘は、まもなく修道院に送られて行った。

修道院の名は、マグダレン。その責任者は、シスター・ブリジット。

シスターは、囚人服のような着衣に身を包んで立つ3人の前で、院の方針を居丈高に説明していく。

「マグダラのマリア修道院の方針は簡単です。“祈り、清潔、労働”です。堕落したあなた方も、信仰を取り戻すでしょう。修道院の守護聖人、マグダラのマリアは、最初は罪深い女で、金のために猥らな男たちに肉体を売っていました。でも罪を償って、魂が救われたのです。肉欲は勿論、食事や睡眠さえとらずに、極限まで働いて神に奉仕しました。こうして天国の門を潜(くぐ)り、永遠の生命を得たのです。洗濯は服やシーツを綺麗にするだけでなく、あなた方自身の魂を洗う作業です。罪の汚れを落とすのです。罪を悔い改めれば、永遠の地獄から神が救ってくれます。6時に朝食、6時半に祈り、7時から労働、昼食は・・・」

ここまで話した所で、マーガレットは口を挟んだ。

「シスター。家に戻ります。父が心配を・・・」
「私の話を邪魔しないで。マナー違反ですよ。男遊びで忙しくて、忘れたのですか?」
「いいえ」
「それとも頭が悪くて分らないの?」

マーガレットは、首を静かに横に振るだけだった。

「帰れる日がいつ来るかは、私が決めます」

シスターはそう言い切った後、一人一人を自己紹介させた。バーナデットのところで、シスターは思い切り厭味を吐き出した。

「長年、院長をやってると、性悪女の見分けはつくわ」
「何のことか・・・」とバーナデット。
「とんだ問題児が飛び込んで来たものね。そのうち分るでしょう」

これが、院長の挨拶の全てだった。

シスター・ブリジットと三人の娘たち(ローズ、バーナデット、マーガレット)
三人は早速、作業着に着替えて、院の日常性の只中に吸収されていったのである。


彼女たちは連日、洗濯場で働かされることになった。

食事中は勿論のこと、作業中でも私語は一切禁止。洗濯場には監視係の女がいて、クリスビーナという名の娘と話す、バーナデットが交わす作業上の私語を、厳しく叱咤した。

「私は40年のベテランで、手抜きはお見通しだよ。厳しく監視してやる」

彼女は二人に、こうも付け加えた。

「ウーナが脱走して、シスター・オーガスタは窮地だ。シスターは神経が参って、私が代わりに見張り番さ。お前らは全く身勝手なんだから。シスターが責められて、クビになっても平気なの?夜勤でウトウトしていただけなのに。アフリカのハンセン病施設に左遷だよ。指が捥(も)げちまう。爪先も。鼻だって。突き出てる部分は捥げるんだよ」

この女の名は、ケイティ。

彼女もまた、修道院に送られてきた一人だった。彼女は40年間、この施設に入っていて、このような偏見を身に付けてしまったのだろう。

「逃げるわ」

バーナデットは、傍らのマーガレットにそう呟いた。マーガレットも意を決したようだった。


その晩、マーガレットが密かに脱走しようと部屋を出かかったとき、室外から叫び声が聞こえた。

慌ててベッドに戻るマーガレット。その声の主が彼女たちの部屋に現われるや、中年男が追いかけて来て、鞭で激しく折檻したのである。

「家はない。両親はいないと思え!親の顔に泥を塗りやがって!親の恥だ。今度脱走したら、体をズタズタにするぞ」

折檻されていたのは、脱走したウーナ。鞭を加えたのは、ウーナの父だった。

「置いて行かないで。ここに置いて行かないで」

部屋を去る父に、ウーナは虚しく叫ぶばかり。

「お休みなさい、ウーナ。明日、話しましょう」

この院長の一言で、ウーナの起した行動は、権力的に鎮められてしまったのである。


翌日、洗濯物を修道院の庭で干しているとき、門外に一人の幼児が母親らしき女性に連れられて立っていた。それに気づいたクリスビーナは、悦びの表情を隠し切れなかった。

「私の子供だわ!男の子なの。大きくなって。あんなに大きく成長するなんて。まだ2歳なのに大きな子だわ・・・」

その幼児は、クリスビーナの子だった。幼児を随伴していたのは彼女の姉である。

二人はまもなく門外から消えたが、彼女にとって、その束の間の「面会」は生きる糧になったに違いない。しかしその名を、彼女は知らない。彼女もまた、許されざる子を産んだ未婚の母として、修道院に連れて来られたのである。

ローズのトラウマ
クリスビーナの身の上話を聞くローズは、自分が産んだ子の現在を思い起こしていた。同じ境遇の辛さを共有し得ると考えていたのだろう。

たまたま、そこでの私語によって、クリスビーナはシスターに注意され、それに対して余計な口出しをしたバーナデットと共に、シスターにその首を掴まれて、院長室に連れて行かれる羽目になった。そこには、院長によってバリカンで坊主にされているウーナがいた。

それが、昨夜の院長の「話」の内容だったのだ。

その現場を見て驚く二人に、院長は冷淡に言い放った。

「二人は不従順の罪ね」
「すいません。院長に話があります」とバーナデット。
「そっちから話すのは許されません。そんな権利がどこにあるんです」
「なぜ私は修道院送りに?罪は一つも犯していません。男と寝たことがないのは、神様がご存知です」
「心では違います」
「私は良い子です」
「いいえ。バカで尻軽な女だから、男が群がるのです。女が低能だと、男の玩具(おもちゃ)にされるわ」

院長はそう言い切った後、二人を「不従順の罪」によって、彼女らの尻を鞭で折檻したのである。


その夜、バーナデットは隣のベッドのローズに、脱走の意志を打ち明けて、彼女を誘った。

バーナデットによれば、ダブリンの郊外に自分たちを助けてくれる従姉妹がいるということ。彼女はこの地獄のような生活から、一時(いっとき)でも早く解放されたい思いで一杯なのだ。恐らく、それが入院早々の少女たちの共通の感情だったに違いない。

バーナデットの意志は強靭だった。

彼女は、修道院に洗濯物を運ぶ若者に自分の体を見せてまで、脱走の手助けを求め、若者は怖気づきながらも引き受けた。

夜になって、若者が自転車で修道院にやって来た。逃げる覚悟のバーナデットの気迫に圧されたのか、最初は門戸を開けるつもりだったが、いざその場になって怖気づいてしまったのである。

「俺が開けたバレれちまう。仕事をクビになる。修道院の林檎を盗んで、弟は6年も監獄入りだ」

若者はそう言って、自転車で走り去って行った。

自力で逃げようとするバーナデット。不運にも彼女はシスターたちに見つかって、折檻を受けることになった。まもなく髪を切られたバーナデットが、洗濯場で働く光景が映し出された。


シスターたちの暴力は、彼女たちの若い自我を壊しかねないほどの陰惨さに満ちていた。

洗濯場で全裸にされた娘たちを一列に並ばせて、シスターがからかう言葉の暴力は殆んどサディズムと言っていい。

「オッパイが大きすぎる子がいるわね。フランシスは意外ね。こんな貧弱なオッパイは見たことはないわ。乳首もないわ。見た?普通じゃないわ。ハハハハ。一番のぺチャパイはフランシスね。一番のデカパイは?・・・」

ローズの屈辱
ここで名指しされた娘は、ローズだった。

そしてシスターによって、「陰毛賞」という低俗なるネーミングによるヘイトスピーチが吐き出され、そこで名指しされたのは、クリスビーナ。

泣き出した彼女に向って、シスターは「なぜ泣くの?ただのゲームよ」と言い放って、その場を後にした。

まもなく「陰毛賞」と嘲笑されたクリスビーナは、自分が大切にしている聖クリストファーのメダルを失ったことも手伝って、体調を崩し、精神の不安を来していく。

彼女はそのペンダントによって、実姉が連れて来る我が子とコミニュケーションを交わす手段にしていたのである。

「流感で死んでも、誰のせいでもないわ」とクリスビーナ。

かなり精神的に落ち込んでいる。

「勿論そうだけど、流感じゃ死なないわ」とマーガレット。

彼女は必死にクリスビーナを励まそうとする。

しかしその夜、クリスビーナは自殺を図った。それに気づいたマーガレットは、彼女を逸早く見つけて、救い出したのである。

「クリスビーナ、なぜこんな真似を?」とマーガレット。
「聞くだけ野暮だわ」とバーナデット。
「なぜ?」とマーガレット。
「流感じゃ死ねないと言ったからよ」とクリスビーナ。
「自殺はダメよ。大きな罪よ」とローズ。
「地獄に堕ちるわ」とマーガレット。
「坊やが来たわ」とローズ。
「私の坊や?どんな様子だった?」とクリスビーナ。
「あなたがいなくて寂しそうだった。会いたかったのよ」とローズ。
「あなたが死んだら、本当に哀しむわ」とマーガレット。
「休むわ」とクリスビーナ。
「修道院の生活は地獄だけど、いつかきっと坊やと遊べるわ」とマーガレット。
「いつ?」とバーナデット。
「さあ」とマーガレット。
「じゃ、なぜ言うの?」とバーナデット。
「本当だからよ」とマーガレット。
「だからいつ?来週、来月、来世紀?」
「それは分らないけど、自殺させたくないの」
「逃げられなきゃ、死にたくもなるわ」

バーナデットのこの言葉に、もうマーガレットは何も答えられなかった。バーナデッドトはその晩、自分が拾って隠し持っていたクリスビーナのメダルを、彼女の枕の下に戻すが、彼女の寝顔の笑みを見ている内に気が変わって、そのメダルを再び盗み出してしまうのである。


まもなく、ウーナが修道女になった。それを発表する院長の言葉。

「知っての通り、聖職者の道は最も尊い選択です。ウーナは俗世の悪と誘惑をきっぱり拒絶。修道院に宿る神の光に目を向けたのです。その自己犠牲と汚れた過去からの転身は、皆も見習うように」

修道院の運動会の日。

マーガレットは裏庭の扉が開いているのに気づき、そこから院の外に出て行った。院の脇を通る道に出て、そこで一台の乗用車を止めたが、彼女の脱走の決意は鈍く、結局断念して院の中に戻って来た。

バーナデットとクリスビーナ(右)
その夜、彼女はバーナデットがクリスビーナのメダルを盗んだことを知り、取っ組み合いの喧嘩となった。

メダルが戻ったクリスビーナは、それだけでもう充分だった。バーナデットを許せないマーガレットは、虚しく叫ぶばかり。

「盗みが卑劣だと思うのは私だけなの?皆、地獄に堕ちろ!」

寝床でローズは、隣のベッドのバーナデットに、「なぜ?」と問いかけた。

「彼女は苦しんでないからよ。私たちには苦しみの人生しかないのに・・・」

それが彼女の答えだった。バーナデットには、修道院の生活に順応しているクリスビーナが許せなかったのである。


聖体の休日。

修道院の少女たちはブルーのケープ(肩から背や腕を覆う、釣り鐘形の外衣)に身を包んで、院の外にその姿を現した。儀式の場で、神父がヨハネ福音書を読み上げていた。ところが神父は全身の痒みから、あろうことか、着衣を脱ぎ出して、とうとう全裸になって走り去って行ったのだ。

マーガレット
それを見て、一人マーガレットだけがほくそ笑んでいた。

彼女が院の外れの納屋で手に入れた気触れを起こす雑草を、神父の着衣の入っている洗濯機に混ぜたのである。

またクリスビーナも、激しい痒みに襲われて、束の間理性を失ってしまった。彼女は遠くに見える全裸の神父に向って、言い放ったのだ。

「あなたは堕落した神父よ!堕落した神父よ!」

いつまでも止めないクリスビーナの叫びが、空間を異様に劈(つんざ)いた。

彼女はこの神父によって、修道院内で弄(もてあそ)ばれていたのである。内側に抑圧していた感情が、このような形で噴き上げてしまったのだ。まもなくクリスビーナは、修道院の強制力によって精神病院に措置入院されて行った。

「いい子だから行くのよ。何も心配は要らないわ」と院長。
「助けて!」

クリスビーナは叫ぶばかり。しかし事態を変化させる力が彼女にはない。他の少女たちにもない。

だから少女たちは事態を受容するしかなかった。



3  それぞれの闘い



一方、マーガレットには奇跡的な事態の変化が訪れた。

彼女の実弟が神父の手紙を持って、姉を引き取りに来たのである。神父からの手紙であるということで、院長は彼女の退院を許可せざるを得なかった。

彼女は4年間、「修道院」という名の収容施設の苛酷な生活の中で、その自我の崩れを防ぎ切ったのである。

そのマーガレットが弟と共に、堂々と修道院の廊下を歩いていく。前方には、院長を先頭とした関係者たちが歩いて来る。その距離が1メートルほどに縮まったとき、彼女は院長に向って言い放った。

マーガレットの突破力
「そこを通して下さい」
「何のジョーク?偉そうに立ちはだかって、どけと言うの?あなたや弟のような分際で、無礼な態度を罰せなくては。厳しくね」
「ここを動きません」
「どうぞ。じゃあ残るのね」

院長がそう答えるや否や、マーガレットは跪(ひざまず)いて祈り始めた。

「天にまします、我らの父よ、御名が尊ばれ、御国が来たり、御旨が行われんことを。我らが人を許す如く、我らの罪を許した給え。誘惑を遠ざけ、我らを悪より救い給え・・・」

少女の祈りは終らない。

少女の前の大人たちは、妥協したように彼女を避けて通り過ぎていく。最期まで残った院長も、彼女の祈りを聞くのを拒むかのように通り過ぎて行った。


マーガレットが修道院から去って行ったある日、その修道院で40年を過ごした老女ケイティが死の床に就いていた。彼女は、自分の世話をするバーナデットに、自分のことを語り出す。

「私は死ぬの?入院させると言われて、私は拒否したわ。シスターや仲間と一緒にいたいと言って。私の母を知ってる?優しい人だった。父は言ったわ。私は頭がトロいって。でもは母優しかった。きちんとした人だった。兵士には近づくなと言った。母の忠告よ。彼の誕生日は10月15日。名前はフレディ。母は私をここへ預けたきりよ。色々と確執もあったし、家も貧しかった。シスターや仲間と暮らせば、私は幸せになれると言ったわ・・・」

ケイティの世話を焼いていたバーナデットが部屋を去ろうとしたとき、彼女は「行かないで」と言って、止めようとした。

「独りにしないで。シスターたちに叱られるわよ。独りにしたら言いつけてやる」

老女は孤独に耐えられないでいる。バーナデットはその老女のベッドの横に中腰になって、きっぱりと答えた。

「仕事があるの?分らない?シスターも私も、あんたを屁とも思わないわ。だからもう、世話を焼かせないで。早く死ねば?」

まもなく、生きる張り合いを持たないケイティは、孤独の内に死んでいった。 


ローズは院長室に赴いた。自分の子供に誕生カードを送りたい旨を、院長に懇願するためだ。当然の如く、院長は取り合わない。彼女はそこで、院長に命じられ、金庫の鍵を探すことになったが、それを棚の下に見つけても、それを院長に渡すことなく、自分の懐に隠し持ったのである。

その日、ローズが洗濯物を干しているときに、クリスビーナの子供が彼女の姉に連れられて門の外に姿を現した。

ローズはクリスビーナについての事情を知らない二人に、彼女が精神病院に入院させられている事実を話してしまったのだ。

それを知った院長は、ローズを鞭で折檻した。「鞭打ちの罰」を一ヶ月も続けるというペナルティが待っていたのである。

憔悴したローズに、老女の死を看取ったばかりのバーナデットは近づいて、囁いた。

「私たちは老いて死ぬのよ。助けは来ないわ。あなたもよ。こんな一生は絶対に嫌。無駄死になんて。やる気ある?」
「何をやるの?」
「逃げるのよ」
「どこへ?」
「外」
「頭がイカれたの?外部の人と話しただけで鞭打ちの罰よ。見つかったら、ただじゃすまないわ」
「また体罰を喰らうまでよ。理由がなくてもね。そんな女よ。逃げるの。今すぐ」

これで、二人の覚悟は決まった。

バーナデットの自力突破
彼女たちは院長室に忍び込んで、鍵を奪った。

制止する院長の胸倉を捕まえて、バーナデットはその鍵で、「ノドを突き刺すわよ」と恫喝し、抵抗できない院長を置き去りにして、修道院を脱出したのである。

ローズも一緒に行動するが、シスターたちに対する過激な行動は、バーナデットの噴き上がった感情だけが暴走することになった。

遂に脱走に成功した二人は、その後、対照的な人生の軌跡を刻んでいく。

映像の最後には、本作の主要な登場人物四人の、その様々な人生の振れ方が紹介されて、このヘビーな実話の映像が括られていった。

「バーナデットはその後、スコットランドで美容院をオープン。結婚と離婚を3度繰り返し、現在は独身である。ローズは結婚して、二人の女児が誕生。1996年に別れた息子と33年ぶりに再会。1998年になくなるまで、熱心なカトリック信者だった。マーガレットは、ドニゴールの町で小学校教師となる。現在は校長補佐で、独身のままである。クリスビーナ、本名ハリエットは、1971年に24歳で、拒食症により他界。アイルランド中の女子更正施設には、およそ3万人の女性が監禁。最後の施設は1996年に閉鎖された」


*       *       *       *



4  「箱庭の恐怖」の成立の絶対基本条件



私は映画評論を書く前に、必ずその映画について書かれた意見や感懐の類に眼を通すようにしている。自分が知らない情報との出会いを期待しているからだ。

私自身が重篤な障害者なので、主にインターネットでの映画サイトからの情報を自分の配偶者を介して受け取っているが、本作の評論を起筆する際にも、当然の如く、その習慣を踏襲した。そして私は同時にそれらの意見の類を予測するのだが、本作もまた過去のそれの幾つかと同様に、殆んど確信的に予測した文脈があった。

それは、こういうものだ。

本作が「実録物」であり、しかも未だこのような「収容所」の如き施設が存在し、且つ、それが、「カトリック」の「修道院」という空間で再現されていたことに対する「驚き」と「恐怖」、という文脈である。

私のその予測はほぼ当っていて、多くの映画鑑賞者が似たような感懐を寄せていた。しかし辛辣なことを書くようだが、そのような感懐で強調される「驚き」、「恐怖」を実感的に述べる人々は、残念ながら本作で描かれた内実について、自分の生活や意識のフィールドとは全く無縁なものであり、従ってそれを、簡単に他人事と考えてしまう了解性の内に棲んでいる平和な人たちということである。

考えても見よう。

ここで描かれた世界は、まさに民主化され、自由の幅が拡大的に保障され、その私権の領域が定着されつつある現代においても、一定の条件さえ揃えば、どこにでも平気で成立してしまう恐怖であるということを。

私はその恐怖を、「箱庭の恐怖」と呼んでいる。

従って作り手が、たとえいかなる主観性に基づいて表現したものであったとしても、それについての言及こそが、私は本作の本質的把握であると考えている。

誤解を恐れずに敢えて言えば、これは「カトリック」がどうの、「修道院」がどうの、ましてや、「アイルランドの社会」がどうのという批判の内に収斂されるような問題ではないということだ。

そしてそれは、時代と空間を越えた遍く人間の心の問題にあるという把握こそが、最も緊要な学習テーマであること。その問題意識をゆめゆめ失ってはならないのである。

だからと言って、私はここで描かれた現実世界の恐怖を軽視しているのではない。私が強調したいのは、ただ一点。

ここで描かれた「アイルランド」の「修道院」のおぞましさについて、それのみを特定的に指弾することが間違っていると言いたいだけなのである。

この一作をもって、「カトリック」を語ってはならないし、「アイルランド」や「修道院」の危険性を語ることによって、その問題を特殊化し、或いは、自分自身も大いに関与するかも知れないその「恐怖」を、しばしば人間に内在する問題として考えない、無垢なるオプチミズムの危うさについて指摘したいだけなのだ。

ここまで些か挑発的に書いたところで、私の問題意識の中で枢要な位置を占める、「箱庭の恐怖」について言及していきたい。

それは私の把握によれば、こういうことだ。

まず、それが成立するには絶対的基本条件がある。

「権力関係」の存在である。この「権力関係」の存在を「箱庭の恐怖」の成立の絶対基本条件とすれば、そこに幾つかの要件が同居することによって、恐怖の固定化が自己完結するのである。

それらの要件とは、「閉鎖系の空間状況」であり、「大義名分の心理的力学」であり、「システマティックな機能性の確保」である。

つまり、出口が見えにくい閉鎖的空間内で権力関係が固定的に成立し、それがシステマティックな機能性をもって、そこに束ねられた集団内で有効に機能し、且つ、その権力関係を合理化する幻想の体系、即ち、何某かの大義名分によって心理学的に補完されてしまえば、それが客観的にどれほどの理不尽なイメージを放とうと、いつでも、どこにおいても形成され得る恐怖であるということなのだ。「箱庭の恐怖」とは、それを成立させ得る条件さえクリアされれば、私たちの生活圏の内側で生まれてしまう何ものかであるということなのである。

アウシュヴィッツ第二収容所・ブログより転載
ナチスの絶滅収容所の例を出すまでもなく、「連合赤軍事件」の榛名山アジトでのリンチ殺人事件や、「オウム真理教事件」、近年では、イラクの「アブグレイブ刑務所」のイラク人虐待など、全て現代史のフィールドで惹起された事件であることを忘れてはならないであろう。

以上の例は、左翼急進派やカルトや戦争が生み出した特殊な事件と思ってはならない。

それが何より、私たちの生活のフィールド内で分娩されていることの典型例は、私たちの家庭空間においてたびたび問題化される、「虐待」や「家庭内暴力」であるだろう。

家庭内には権力関係が生まれやすいし、そこが閉鎖系になって継続的暴力が行使されれば、特別にシステマティックな機能性を確保せずとも、「箱庭の恐怖」の形成は充分可能なのである。そこでは「大義名分」など、いとも簡単に作り出せるはずだ。「親の躾」とか、「親の教育が悪いから、全てダメになってしまった」等々、暴力を正当化する理由は何でもいいのである。

だから敢えて、精神病院や刑務所などの虐待事例を持ってこなくても、私たちの日常で、それがどれほど不全な状態であろうと、条件さえ揃えば、いつでも「箱庭の恐怖」が作り出されてしまうということなのだ。そのことの認知がなければ、連綿と途絶えることなく頻発する、「箱庭の恐怖」的状況の、ある種の普遍的継続力のその恐怖について、正確に把握することは困難であるに違いない。

この問題意識をもって、本作への言及にシフトしたい。

この修道院は、紛れもなく、「箱庭の恐怖」のそれ以外ではなかった。

そこでは厳然たる権力関係が存在し、閉鎖系の空間状況を現出させていた。そして権力関係を補完的に強化するシステムが殆んど万全であり、何よりも、「不道徳なる娘たち」を矯正するという大義名分があった。

そしてこのような施設の存在を認知する社会的背景があり、そこに送り込まれた娘たちの親族の、堅固な協力体制が厳然と存在していたのである。

従ってこの空間は、特殊で限定的な閉鎖系でありながらも、それをカバーする、極めて信仰色の濃密な社会的サポートが存在したことで、そこに現出した「箱庭の恐怖」の理不尽なる暴力性の内に特権的に運用され、恣意的に作り出された絶対規範によって再生産されていくだろう。そこでの権力者はそれを濫用することで、自らの権力を自在に出し入れすることができたのである。

「箱庭」に存在した権力関係の中枢には、それを現出させた他の全ての例と同様に、「箱庭の帝王」が存在した。ここでは、院長であるシスター・ブリジットがそれに当る。

彼女は修道院の規範を、収容所のそれと変わらないばかりの強制力の導入によって固め上げていったのだ。

脱走を試みた少女の髪をバリカンで刈り上げて、そこに「神に背く者」のレッテルを貼り付けていく。また、私語を交わしただけで一方的な注意を受けた少女たちの弁明に対しては、「不従順の罪」のレッテルを貼っていった。

院内では、そこに収容された娘たちのプライバシーの一切が剥奪されていたのである。

まさにそこには、絶対的権力による支配と服従の関係だけが罷(まか)り通っていたのだ。

このような権力関係の固定化によって、「箱庭」は恐怖を作り出す一方、その恐怖を弄(もてあそ)ぶサディズムがそこに横行するのは殆ど必然的である。

そして、この「箱庭」の存在を許容する社会的サポート、とりわけ、少女たちの父親の積極的な協力的補完が媒介することで、「箱庭の帝王」の権力は揺るぎないものになっていく。同時に、その支配下で遂行された精神的虐待のサディズムは加速することになるのだ。

その二つのことを象徴する描写があった。

まず、父親のサポート。

これは、ウーナの逃走が失敗に終わり、院に戻された際に、実父によって鞭で折檻される描写に集中的に現れていた。家に戻ることを願う娘に、その父が叫んだ言葉が鮮烈だった。

「家はない。両親はいないと思え!親の顔に泥を塗りやがって!親の恥だ。今度脱走したら、体をズタズタにするぞ」

ウーナという少女は、これで全てを失った。

彼女は翌日、院長に丸刈りにされることによって、院内での生活の継続しか保証されない人生の選択を余儀なくされたのである。

やがて彼女は、その院長によって褒め称えられるほどの規範の従順なる服従者となり、映像は彼女が修道女として自立する姿を皮肉たっぷりに描き出していた。

もう一つの描写。

それは、シスターたちのサディズムをおぞましく映し出した描写である。

シスターたちの前で少女たちが全裸にされ、その肉体の隅々が露わにされる。あろうことか、シスターたちは、彼女たちのバストの大きさや陰毛の密度を嘲り、まるでそれが「淫乱女」のシンボルであるかのように扱き下ろすのである。

ピーター・ミュラン監督
ヨーロッパ映画は容赦しないのだ。

こんな描写を平気で映像化する覚悟がなければ、このような「告発もの」が自己完結しないと言わんばかりの括り方なのである。

ともあれ、シスターたちのこの行為の根底に横臥(おうが)するのは、修道院における倫理的規範の検証などではなく、明らかに、この「箱庭」で成立した権力関係の確認のためである。

更にそれは、爛れた権力関係の再生産の意味を持つ行為であることは否めないであろう。

シスターたちは、単にサディズムの世界に耽溺したわけではないのだ。このような行為を継続的に繋いでいくことによって、「箱庭」の中の権力関係を不断に再生産させていくのである。



5  「箱庭の恐怖」の状況下で、様々に揺れ動いた自我の表現様態



この「箱庭の恐怖」がシステム的に固定化され、継続力保障されてしまうと、一体、そこに何が現出するのか。

少女たちがこれまでその人格の内に身につけてきた、未だ不全なる自我がしばしば破壊的に崩されて、ある者は狂気の世界に入り、ある者は抵抗力を根こそぎ削られて、絶対服従の世界に潜り込んでいく。

潜り込んでいった者の中から修道女が分娩されていくという軌跡は、そこでギリギリに生き抜くための生存戦略であるとも言えるだろう。修道女になることで、少女の自我は徹底的に破壊されずに済んだということだ。

しかし、少女たちの全てが、このような軌跡をなぞっていくばかりではないだろう。

彼女たちの自我が、良きにつけ悪しきにつけ、そこに頑なな態度を表現すればするほど、「箱庭」が自らに強いてくる規範に対して、受容しにくい自我を捨てられないはずである。

彼女たちはそこで、反逆の意志を内側に漸次プールさせつつ、そのエネルギーを枯渇させないで、恐怖の城砦を突破していく意志を、集中的に身体化する時間を必然化してしまうのだろうか。

以上の文脈をヒントにして、本作で描かれた「箱庭の恐怖」の状況下で、様々に揺れ動いた自我の表現様態を、主要登場人物5人に絞ってまとめたのが以下の表である。



〈自我の適応様態〉    〈自我の最終的表現様態〉


バーナデット :  確信的不適応     確信的身体表現による状況突破

マーガレット :   同上         確信的思想的、人格的表現による状況突破

ローズ    :  通常適応        偶発的状況への身体投入によって状況脱出

クリスビーナ : 非確信的過剰適応    偶発的身体表現に起因する強制力によって、自我解体

ケイティ   : 確信的過剰適応     極限状況下での身体表現によって、自我の原点回帰



以上の表で分るように、「箱庭の恐怖」に対する5人の自我の適応様態は、そこに確信的、ないし非確信的に適応した者、適応を拒んだ者、適応するしかないとどこかで断念しつつあった者に分けられる。

その5人の中で、私はローズという少女の適応様態を平準的なラインで見ているが、彼女の状況へのスタンスを「通常性」の枠内で捉えることで、他の4人との落差が鮮明になると考えている。

ローズの自我の最終的表現様態は「状況脱出」に帰結し、それによって見事に生還を果たしたが、しかしその契機は、自分の内側にプールされた突破力のエネルギーに因るものではなかった。それはどこまでも、ベッドの隣同士で関係を深めたバーナデットの、確信的身体表現に呑み込まれるようにして動いた結果であった。

現に、院長室でのバーナデットの抵抗的暴力の前で、彼女は呆然と立ち竦むばかりだった。

彼女がその後、平和な家庭を築き、熱心なカトリック信者になったという映像の報告を見る限り、彼女が未婚の子を産んだ事態に対しても、それなりの罪悪感を感じていたであろうことは想像に難くないのだ。ただ彼女は、「箱庭の恐怖」を存分に感じ取っていたが故に「状況脱出」を選択したのであろう。

それに対してバーナデットのケースは、一貫して確信的であり、「箱庭」に対して敵対的であり続けた。しばしば沈黙を余儀なくされたのは、「箱庭の恐怖」を突破する能力を確信的に形成できないでいたからである。彼女がその自我の適応様態において確信的であり得たのは、あまりに当然のことである。

その「存在性」によって、理不尽にも「淫乱娘」呼ばわりされたばかりか、あろうことか、更正施設に強制的に入院させられたからである。孤児院で育った経緯も手伝ってか、彼女の身体表現は直接的であり、しばしば暴力的でもあった。

しかしそのエネルギーが、彼女の自我を強制力によって破壊されることのない強靭さの源泉だったのである。

本作がこの少女を主人公に設定していることでも分るように、理不尽なる暴力を突破するには、この方法論以外にないと作り手は考えているようにも思えるが、それが過半以上の真理を代弁することを、私もまた決して否定しない。

なぜなら、人間が一度「箱庭の恐怖」を作り出してしまったら、それを自らの手で反省的に自壊させるという例を、未だ聞いたことがないからである。

恐らくそれが、権力の快楽を嘗め尽くした人間の心の脆弱さを、決定的に検証させる典型的事例とも言えるだろう。だから彼女は正しかったのである。


次に、クリスビーナとケイティのケース。

彼女たちは「箱庭」に過剰に適応したケースだったが、その適応様態は明瞭に分れていた。

遥かに若い前者が、好色の神父にその身を晒すことで、「箱庭の恐怖」の最前線において、その時々の延命を図るという非生産的な切り売りを余儀なくされたのに対して、既に40年も滞院する後者の場合は、シスターたちの権力機構の中に全人格を投入することで、「箱庭の恐怖」を殆ど確信的に脱色させていったのである。

しかし、いずれのケースも、その適応に自己欺瞞性が被さっていたので、決定的状況の時間に捕捉されることによって、過剰適応の自我が内深くに封印してきた感情が解き放たれてしまったのである。

左からマーガレット、バーナデットとクリスビーナ(右)
クリスビーナは、封印してきた感情を遂に解き放ったとき、修道院より強制力の堅固なる精神病院への入院を余儀なくされ、哀れにも、その知能が些か不足する自我を解体されるに至った。

彼女に決定的に不足していたのは、その人格をおぞましい権力の侵入から戦略的に防御する自我能力であったということだ。


一方、ケイティの悲哀は殆んど約束されたものだった。

それにも拘らず、彼女自身、状況が作り出すリアリティの前で、そこに身を投じることによって我が身を守れると確信してしまった、その適応戦略の本質的な脆弱さを晒すことになったのだ。死の恐怖の只中で、彼女の自我は原点回帰する以外になかったのである。この二人こそ、「箱庭の恐怖」の最大の犠牲者だったと言えるだろう。

なぜならば、「箱庭」的状況の中では、その自我が最も弱い者ほど、そこで蒙る精神的、身体的被害がより苛烈なものになってしまうからである。

彼女たちが失った最大の価値は、そこでもう少し巧みな知恵を働かせていたら、或いは、その被害を最小限度に済ますことができた、その固有なる「時間性」であったということだ。彼女たちはまさに、未来に繋がる時間を削られてしまったのである。


最後に、マーガレットのケースに言及する。

私はある意味で、彼女こそ「箱庭の恐怖」の本質的文脈と真っ向勝負した少女ではないかと考えている。ここで言う本質的文脈とは、「箱庭の恐怖」を支える信仰体系という大義名分のことである。

マーガレット
彼女だけが、この体系の欺瞞性に異議申し立てをしたのである。

それについて書く前に、彼女の入院のケースほど、理不尽極まるものはないということを押さえておかなければならない。

彼女はレイプされた後、更正施設に送り込まれてしまったのだ。送り込んだのは彼女の両親であり、その親族一同であり、神父それ自身である。

まさに、このような連中こそ、その理不尽なる振舞いを指弾されるべき者たちであるにも拘らず、事件の最大の被害者である少女自身が、「不浄」という烙印を押されることで施設に投げ入れられてしまったのである。

果たして、このようなケースがどこまで真実性を孕んでいるか、正直、不分明であると言わざるを得ないが、事実は遥かにシビアなものであったらしい。

しかし、どこまでも一本の映像作品として本作に対峙するとき、その背景の事実論の問題は、永久に落とし所が見つからない困難さを内包することを考慮するならば、観る者は、限りなくニュートラルで、誠実な態度を堅持する必要があるだろう。そうであればこそ尚更、その背景となった様々な事柄へのアプローチについて、真摯に学習するというスタンスだけは捨ててはならないと考えている。

ともあれ、本作における彼女の存在価値の特別な意味合いに言及する。

全ては、彼女の退院の際の、その毅然たる態度に集約されるものである。彼女は実弟が神父の手紙を持って修道院に迎えに来たことによって、4年間にも及ぶ「箱庭」的状況から解放されるに至った。

その彼女が弟と共に院の廊下を歩行していく際、眼の前に院長を先頭とする関係者がその視界に
収められて、二人は廊下の隅に、彼らを迎える僕(しもべ)のような視線で固まっていたのである。

院長に象徴される、院の関係者の権力集団が一歩ずつ近づいて来て、二人は幾分緊張の表情を映し出していた。マーガレットが、彼らの歩行のラインを遮るように、彼らの前に立ち塞がったのはその瞬間だった。彼女は院長の前に立ち塞がって、きっぱりと言い切ったのだ。

その時の会話を再現する。

「そこを通して下さい」とマーガレット。
「何のジョーク?偉そうに立ちはだかって、どけと言うの?あなたや弟のような分際で無礼な態度を罰せなくては。厳しくね」
「ここを動きません」とマーガレット。
「どうぞ。じゃあ残るのね」と院長。

マーガレットは突然跪(ひざまず)き、祈りを唱え始めたのである。無論、相手の許しを乞うためではない。

彼女はこう言い放ったのである。

「我らが人を許す如く、我らの罪を許した給え・・・」

彼女は「我らの罪」という言葉の内に、この修道院の中で行われている一切の権力関係の実態を告発する心情を被せていたと思われる。彼女はまさに、「信仰の砦」の最前線の場で、その欺瞞性を撃ち抜こうとしたのである。

その思いを感じ取ったのか、「残るのね」と依然として権力的に威圧する院長は、その空気を受容することを自ら回避するかのように、黙殺するしかないかのような態度に潜り込んだのだ。

祈りによって、彼女は院長を退けたのである。

院長は無言の内に、マーガレットの横を通り過ぎていく。

跪(もが)いていた少女は、もう無抵抗な自我を晒す者ではなくなっていた。彼女は遂に自分の歩行ラインを奪回したのである。

バーナデットの抵抗的暴力
まもなく、バーナデットの抵抗的暴力が開かれて、院長の小さな身体を威圧することで、少女たちの「状況突破」が劇的に具現するに至るが、「箱庭の恐怖」を束の間、抵抗的暴力による過剰な反応で封印したバーナデットに対して、マーガレットはまさに、信仰それ自身が内包する真理の幻想体系によって、本質的な「状況突破」を図ったのである。

恐らく、このエピソードはフィクションであろうが、作り手がこのような描写をも導入したその意図が、バーナデットの抵抗的暴力との比較に於いて並存させた含みを持つことを容易に想像できるだろう。あとは全て、観る者の判断に委ねるということなのか。

いずれにせよ、この二人のみが確信的に行動し、確信的に「状況突破」を図ったのである。

全く言われなきラベリングによって「箱庭」に拉致された二人の自我は、遂に破綻することなく、より強固なエネルギーをプールさせつつ、恐怖の最前線を突き抜けたということである。

このようなアクションなしには、「箱庭の恐怖」の解体が恰も自然裡に、その武装解除に流れ込むなどという事態は決して起こり得ないということの認知を、少女たちの果敢なる事例が検証するところであろう。



6  娼婦性として特定化されたマグダラのマリア



『マグダラのマリアの浄化』(ホセ・デ・リベーラ・ウイキ)
因みに、「マグダラのマリア」について簡単に触れておく。

彼女は、「ルカ福音書」では「罪深い女」とされ、「マルコ福音書」、「ヨハネ福音書」では、イエスの処刑とその復活に立ち会って、使徒たちにそのことを伝えたことから、「使徒の使徒」と呼ばれている。

両者が同一人物であるという解釈は今も論議の的になっているが、いずれにせよ、「マグダラのマリア」が「悔い改めた娼婦」というイメージで語られているのは、共通した了解事項であると言っていい。

ここで重要なのは、この「マリア」という女性が、既に13世紀にはイタリアで、彼女の名に因んだ修道院が作られるほど、彼女の人間性が表現した現実が、私たちの普通の人格のイメージの、それと重なり合う親近感の中で形成されていたという文脈である。彼女はある意味で、最も身近なる「聖人」なのである。

この人物の名に因んで多くの修道院が建設されたが、アイルランドのこの空間のみが特殊であり、例外的な存在であったと断定するには、私の理解の範疇ではとても及ばないところである。

いずれにせよ、本作で描かれた修道院の院長は、「マグダラのマリア」の前身である娼婦性にのみ注目し、そこに女たちの最大の罪を被せた。

即ち、それがもし同一人物であるとするならば、マリアの後身であるだろう、「イエスによって浄化された魂」という最も重要な存在性を無視し、葬り去ってしまったという解釈も充分可能であるということである。


―― 本稿の最後に、「箱庭の恐怖」について一言。

残念ながら、以上で言及した「箱庭の恐怖」を作り出してしまう能力を、私たち人間が持っていることを認めなければならないのだ。

高度に発達した消費文明を作り出す能力を持つ一方、私たち人間の抑制系能力の進化のレベルなど高が知れているのである。そうであればこそ、その抑制系能力の限界性を補完し得るための工夫や知恵を振り絞って、いかに私たちの情動系の暴走を合理的に自己抑制できるかどうか、というシステムの創造が緊要であるということなのだ。

政治制度としての民主主義、経済制度としての健全な資本主義が、私たち人類の社会システム作りの当面の到達点であるとするならば、それをより効率的に運用する制度的な補完の強化を、創造的に構築していくことが求められるのであろうが、それについては本稿のテーマから逸脱するので、ここでは言及を避けて、擱筆(かくひつ)することにしよう。

(2006年9月)

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