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    1 日前

2009年12月4日金曜日

名画短感⑩  モナリザ('86)



ニール・ジョーダン監督



ニール・ジョーダン監督の「モナリザ」は、忘れられない映画である。

冴えない中年男が、謎の女に恋をした。

初めは恋ではなかった。

ボスの身代りに入っていた刑務所から出所して来たその男、ジョージは、美しい黒人娼婦、シモーヌの専属運転手の仕事をもらい、およそ吊り合いの悪い二人は、初めはいがみ合っていた。

そんな男の心が変化していくのは、女の謎の行動の意味が明かされてきて、そこに同情の気持ちが芽生えたからである。

女の暗い過去や、街娼していた頃の仲間を救い出そうとしている事実を知って、男は柄にもなく騎士の振舞いを買って出るのだ。

その振舞いが頂点に達したのは、女を追う昔のポン引きが刃物で襲って来て、これを体で受け止めたときだ。男は、そこまでして女を守ろうとして見せたのである。

男の純愛が女の世界に深入りして、そこに犯罪の臭いを嗅いだ。

男は女を救出しようと、柄にもなく一端の男っ気を見せるが、女は男というものを全く信じていなかった。


男を信じられない黒人娼婦の哀しさは、それを演じる女優によって見事に表現されている。

女を喰いものにして生きてきた性悪なヒモによって、恐らく、人格の支配下にある隅々なる部位に刻印されているようであろう、男というものの普遍的な負性価値。それが、どんなときでも、シモーヌというその女の、男へのスタンスを決めてしまうらしい。

経験が到達した文脈を、経験を媒介しない理念が、無媒介に制圧できる道理がある訳がないのだ。

ジョージというその男は、決定的な局面で、シモーヌから袈裟懸けに斬り伏せられたのである。

生涯に一度、あるかないかの男の純愛が、その純愛の相手から踏み躙(にじ)られたのだ。

俺を、そんな風にしか見なかったのか。

男は、そう吠えた。

それが、男の恋の終焉を告げた。

男は去って行った。女と出会う前の冴えない日常の世界に。

その世界で、常にジョージに寄り添っていた友人トーマスが、それまでもそうであったように、今もまた、傷心のジョージを労わった。「癒し」の役割キャラを請け負った、この目立たない男の緩やかな空気感が、ここで絶妙の彩りを添えるのだ。

それだけの映画である。

それだけの映画なのに、涙が止まらなかった。

ジョージを演じたボブ・ホスキンスの表情の微妙な変化に、自然に感情移入できたからであろう。

そのあまりに釣り合いの取れない恋に、たまらなく哀切を覚えた。


寅さん映画では決して拾えないない様々に歪んだ人間像(例えば、マイケル・ケイン扮する酷薄なヤクザのキャラクターは、微笑の奥の卑劣な人間性をリアルに表現していて印象的)が、随所に存在感を映し出していて、フラットな失恋映画やフィルムノアールにも流れていなかった。

ニール・ジョーダン監督
そのあたりの緻密な描写が抜きん出ていて、さすがスタイリッシュな映像世界を構築する、ニール・ジョーダンの表現技法を再確認させられる思いであった。


短絡性と曲折感覚を同居させる男の生き方をも考えさせた、その何とも言えない描写の深みに、響き合うものを感じたのかも知れない。

身の丈を超えた男の独り善がりの恋は破綻したが、女と関わった日々の記憶が男の内側を心地良く濡らして、いつの日か、幾分でもより確かなものに拠って立つ自己を、再び立ち上げていくかも知れない余情をそこに残し、天晴れな映像は静かにフェードアウトする。


男は束の間、スーパーマンに化けようとした。

化けられる訳がないのだ。

それに気づくために払った代償は小さくない。男には初めから翼がなかったのだ。男がそうであるしかない世界に立ち帰り、その等身大の宇宙を生きていくしかない。

女との出来事は、余情となって男の中に棲み、その眩しい彩色が男をしばしば誘って、男は再び化けることを夢想するかも知れない。

それはそれでいいのだ。どうであっても、男は男がそうであるしかない世界に戻る他ないのだから。

「モナリザ」は、男にとって常に鑑賞の対象でしかないのである。

鑑賞もまた、多くの男たちを非日常の世界に誘って、日常に活力を与える何かにはなる。ゲームとしての人生もまた、時には必要だからである。

(2009年12月)

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