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2010年9月5日日曜日

隣の女('81)       フランソワ・トリュフォー


<「禁断」の印、「不完全燃焼」、そして「安らぎ」へのシフト ―― 男の暴走の心理的背景>



1  男と女の運命を決めたガーデン・パーティーでの男の暴走



ジョルジュ・バタイユが、「エロチシズム」(筑摩書房)の中で、「性は小さな死である」と喝破しているように、「性」を本質にする恋愛の持つ「無秩序性」(衝動性、抑制困難性)が、「死」にまで突き進む「破壊性」をも内包することを証明する一篇。

トリュフォーは、「性愛の暴走」が死に至るリスクを高める、極めて危うい映像を描き切ったのである。

ここから、映像に入っていく。

ガーデン・パーティーでの男の暴走が、男と女の運命を決めた。

男の名は、ベルナール。

女の名は、マチルド。

ベルナールの暴走の直接的な原因は、マチルドが夫フィリップと新婚旅行に行くことを知って、男の内側でプールされた嫉妬心が激しく噴き上がってきたからである。

ベルナールの暴走を招来した原因がそこにあったとしても、元々、そのような状況を出来させた背景には、かつての恋人であるマチルド夫妻が、ベルナール家の隣に引っ越してきたことにある。

この「隣の女」の出現が全てだった。

その辺りは、明らかに偶然性に依拠するメロドラマの王道を行くものだが、本作は一部に映像構築の劣化を感じさせつつも、メロドラマの世俗性を突き抜けるものがあったと言えるだろう。

ともあれ、妻子持ちのベルナールの暴走の心理的背景を探っていくと、三つの要因が考えられるというのが私の仮説。

以下、それを考えていこう。



2  三つの要因によって成る男の暴走の心理的背景 ―― その①



ベルナールの暴走の心理的背景が、三つの要因によって成っているという私の仮説。

その一。

マチルド
男と女の愛に「禁断」の印がついていたこと。

その二。

かつて愛し合っていた二人の愛が、「不完全燃焼」であったこと。

その三。

男は既に平和で安定的な家庭を構築していて、円満な夫婦関係を支える推進力が既に「ときめき」→「安らぎ」にシフトしていったであろうこと。

一つ一つ考えてみる。

まず、一の「禁断」の印の問題。

私的仮説に基づく一般論的結論から書けば、「禁断」の愛は防御するエネルギーの枯渇によってではなく、それを固めて、そこに新しい価値を創造していくエネルギーの不足によって起こると言っていい。

「禁断」の愛は抉(こ)じ開けることに容易で、継続することに艱難(かんなん)なる愛なのだ。


その怖さを二人の時間の中で存分に味わって、そこに立ち竦み、狼狽し、やがて闘争の出口を模索することになるのではないか。

それほどまでに危険な愛を、なぜ人は目指すのか。

それを手に入れようと、なぜ人は時には命を賭けるのか。

簡単である。

それが「禁断」なる愛であるからだ。

「禁断」なる愛は「魔性の愛」なのである。

「魔性の愛」はその内側にたっぷりと蜜を含んでいて、その香りに誘(いざな)われし者たちが、次々と飽きることなく、そこに魔境を作っては壊していく。

その魔境の継続力の不足によって自壊するのだ。

だから「禁断」の愛の破綻は、寧ろ内側から分娩され、肥大していくということだ。

ベルナール(左)
本作の二人の性愛のケースもまた、呆気なく「魔性の愛」の虜となっていった。

一応、「隣の女」の出現を知った当初、ベルナールはマチルドと顔を合わせない努力をしていた。

彼は妻のアルレットが、隣家に越して来たフィリップとマチルド夫妻を夕食に招いたとき、仕事(タンカーの指導員)で帰宅できないと嘘をついていた。

しかしメロドラマ的偶然性によって、二人は再会するに至る。

それでも、スーパーの帰りの暗がりでの会話では、「友達になりましょ」と言うマチルドの言葉のうちに自制的対応を確認したのである。

当然の如く、この確認は呆気なく破綻する。

その直後、二人はキスを交わしあってしまうのだ。

もう、「魔性の愛」の虜となっていくのは必然的だったのである。

そこに「禁断」の印がついている性愛は、寧ろ、「禁断」の印がついていることによって踏み込む推進力と化すのだ。

「禁断」の愛は抉じ開けることに容易で、継続することに艱難(かんなん)なる愛であるということだ。

継続することの艱難さの「受難」を、まもなく二人はたっぷりと味わうことになるだろう。

「魔性の愛」の怖さを、二人の時間の中で存分に味わって、そこに立ち竦み、狼狽するに至るのである。



3  三つの要因によって成る男の暴走の心理的背景 ―― その②



次に、二つ目の問題。

かつて愛し合っていた二人の愛が、「不完全燃焼」であったという問題である。

その辺りについて、興味深い会話があるので引用する。

前述したように、二人が偶然、再会したスーパーでの帰りの暗がりでの会話である。

「一緒の時は愛を呪い、離れると愛を求めた。だから私は消えたの。気が狂いそうで・・・でも、過ぎたことよ。友達になりましょ」とマチルド。
「君の言う通りだ。そうとは知らず、君を恨んでいた」とベルナール。
「解決ね・・・でも、時々私の名を呼んで」

この遣り取りを見ても分るように、二人の若き日の愛には、どこかで感情の齟齬(そご)を生みやすい因子を含んでいたことである。

同時にそこには、激しい愛を求めるあまり、暴走しやすい「性愛の爛れ」をも予測させる負性因子が横臥(おうが)するであろう。

その負性因子をコントロールできない「関係の暴発性」こそ、看過し難い問題なのである。

ここで重要なことは、「関係の暴発性」を制御困難な、二人の関係の固有性それ自身であると言っていい。

要するに、そこに「禁断」の印がついている性愛であるとは言え、二人の関係の際立った孤立性が、二人の悲劇を決定付けた心理的背景にあるということだ。

ガーデン・パーティーでのベルナールの暴走によって、マチルドが神経衰弱の極点まで追い詰められても、彼女は夫のフィリップの狭隘な包容力のうちに、その身を預けられないという〈状況性〉の問題は無視し難いだろう。

「夫は聞き役よ。励ましてくれるけれど、人生は重すぎる」

これは、マチルドが精神科医に吐露した言葉。

「彼女と会って、運命を感じた」というフィリップだが、空港の管制官である肝心の夫は、マチルドが神経衰弱で入院した際、既に不倫関係を認知しつつも、「妻が待っているのは私ではない」と言って、ベルナールに頼る始末だった。

それらの看過し難い様々な現実が内包する負性因子が、再会後の二人の愛の危うい航跡を決定付けていくのだ。

―― 次に、三つ目の問題。

今や男は平和で安定的な家庭を構築していて、円満な夫婦関係を支える推進力が、既に「ときめき」→「安らぎ」にシフトしていったであろうという心理的背景の問題である。

ここで興味深いのは、男が選んだ伴侶のアルレットの人格像はマチルドと異なって、理性的で安定的な情緒を包含する女性であったことだ。

その辺りに、感情の齟齬を起こしやすい不安定な関係性を露わにしていた、8年前のマチルドとの愛のダッチロールと切れて、どこかで男の自我が拠っ立つ安寧の基盤を希求する感情が存在することが読み取れるのである。

現に男は、「ガーデン・パーティーでの暴走」後、アルレットの妊娠を知って、姑息だが、初めて我に返ったような反応を身体化するのである。

その辺りの夫婦の会話を再現する。

「あなたは数週間、変だった」

妻のアルレットは、夫の告白を受けて冷静に対応した。

その直後の彼女の言葉は、極めて理性的なものであった。

「憎くはないわ。でも嫉妬するわ。あなたたち二人と、あなたの苦しみに対して」

決め台詞のようなアルレットの反応は、このような女性だからこそ、夫の激情をコントロールできたことを検証するとも言えるだろう。

「彼女は8年前、僕を苦しめた女だ!結ばれない運命だ。不吉な女だ!」

こんな悪罵を放つ男がその直後、妻が妊娠していることを知って、「家族返り」を見せていくのである。

―― 以上の言及が、ベルナールの暴走の心理的背景に関わる、三つの要因についての仮説である。

4では、以上の視座によって、主観的に把握する本作を簡潔にまとめてみたい。



4  如何にもメロドラマ的な説明描写の看過し難い瑕疵



以上の三つの因子が、「隣の女」との再会によってそれぞれ微妙に揺れ動き、川の流れを止められない運命的な振れ方によって、男の中で封印されていた情動系を一気に噴き上がらせるに至ったのである。

これは、出会うことによって、その危うい末路が予想される男と女の固有の愛の、それ以外に流れようのない無秩序性を包含して、「性愛の暴走」が極点に達する運命的悲劇を描いた、トリュフォー流の「大人の愛」の爛れの様態の一つの提示であった。

ただ惜しむらくは、そこだけはトリュフォーらしくなく、如何にもメロドラマ的な説明描写が張り付いてしまって、映像の質の看過し難い瑕疵を露呈してしまったのである。

男と女の「性愛の暴走」の極点が、「闇の中の二発の銃弾」によって閉じるという映像で括るべきだったと私は思う。

映像のファーストシーンとラストシーンで、テニス・クラブを経営するジューヴ夫人が事件を語る説明描写の意味が、たとえ、語る者の不幸の過去(男に裏切られて8階の窓から飛び降り、右脚に障害を持つ)が、神経衰弱の極点まで追い詰められた女(マチルド)の、「人生最後の選択」に繋がったという意味を強調せずとも、既に映像の中に、その辺りが提示されていたことを思えば、やはりこの説明描写は不要だったと言わざるを得ないのである。

「一緒だと苦しいが、一人では生きられない」

結局、ある種のナビゲーター役のジューヴ夫人に、この言わずもがなの言葉を言わせるための映像の括りであった。



 フランソワ・トリュフォー監督
5  「愛に生きた男」の「恋愛日記」



本作もまた、「愛に生きた男」である」トリュフォーの「恋愛日記」であった。

本稿の最後に、トリュフォー研究の第一人者である山田宏一の言葉を引用して閣筆(かくひつ)したい。

「トリュフォーはひたすら映画に近づき、映画のなかに入りこんでいく。(略)すべての女優たちを愛し、その作品はまさに『恋愛日記』のようなものになるのだが、たぶん『映画以外の女性』に恋をしたことはなかったのである」

「不倫の愛という主題はごくありきたりであっても、『柔らかい肌』や『隣の女』がなまなましい迫力にみちた作品になりえたのもまた必然であったといえよう。トリュフォーの映画はあくまでも自分が生きた、あるいは『実際に目撃し、個人的に関わった』現実の人生の引用そのものなのであり、そこがゴダールの映画における『芸術的な』引用とはまったく異なるところでもあろう」(「トリュフォー ある映画的人生」山田宏一著 平凡社/筆者段落構成)

(2010年9月)

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