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2010年9月29日水曜日

エデンの東('54)       エリア・カザン


<「自我のルーツを必死に求める者」の彷徨の果てに>



1  提起された主題と、それに対する答えが出揃ってしまった時代の映画



本作は、殆ど批評の余地のない映画である。

物語の中で提起された主題と、それに対する答えが、全て登場人物たちによる台詞の中で出揃ってしまっていたからである。

昔の映画の常として、台詞によって一切を説明してしまう映画に対して何の躊躇(ためら)いもなく受容し、評価する時代があったことを再確認するばかりである。

それでも本作は、「物語」として特化するとき、ほぼ完璧なほど構築されていて、その過剰さに眼を瞑る寛容さがあれば、俳優の表現力にも一応の及第点を付与できるだろう。

そんな映画を、本稿では「人生論的映画評論」の視座のみで、簡潔に要約してみたい。

ついでに書けば、この映画はジョン・スタインベックの重厚な原作や、素材となった旧約聖書の、「カインとアベル」のエピソード(「創世記」第4章)との関連について比較する批評は、一切ナンセンスであると考える。

ジョン・スタインベック
それらは単に、映画の物語のヒントとして援用されているレベルのものとして考えるべきであって、それ以上の深入りは全く意味を成さないからだ。

それよりも中高生の国語の素材として、この映画を鑑賞の対象にすることのほうが遥かに重要なことであると思われる。

鑑賞後、グループ・ディスカッションするだけの価値のあるテーマが、この映画には詰まっているからだ。

それだけ、人間の根源的問題を扱った映画であると言えるだろう。

以下、私の問題意識を要約してみたい。



2  「自我のルーツを必死に求める者」の彷徨の果てに



簡潔に言えばば、こういうことである。

「自我のルーツを必死に求める者」と、「その自我のルーツを、幻想の中で丸ごと受容してきた者」、そして、「自我のルーツへのアプローチを塞いでしまった者」。

約(つづ)めて言えば、この三人の物語である。

前二者は、青春期の渦中にある兄弟。

三人目は、兄弟の父親である。

彼らをここでは、物語に合わせて、キャル(次男)、アロン(長男)、父親と呼ぶことにする。

物語の起動点は、自我のルーツを求めるキャルの行動によって開かれた。

キャル
彼は、「なぜ、自分だけが兄や父親のような性格と違っているのか」と煩悶する中で、行動を開いていく。

彼から見れば、兄や父親は聖書を信奉し、それを実践して生きる「善き人」であり過ぎた。

そのため、世間からの評判も良いが、世俗的な欲望を観念的に否定する態度が眼についた。

その二人と構成する家族の中で孤立するキャルは、母親が別の街で生きていることを知り、会いに行き、認知されながらも追い返されるという残酷な仕打ちを受けるが、「努力」の甲斐あって母親との会話を成立させるに至った。

本稿で使用した画像は、彼の「自我のルーツ探し」=「母親探し」を象徴する決定的な構図であると言っていい。

まもなくキャルは、父親との夫婦生活の閉塞感から、父親を拳銃で撃ってまで母親が家を飛び出した経緯を知る。

それは、相互の極端な価値観や性格の不一致を、一方通行の「愛」を押し付けるだけの、人情味に欠けた父親の狭隘な精神によって、「家庭」という常識的な枠組みのうちに閉じ込めるには、あまりに我儘な女を強引に封印しようとして惹起した悲劇でもあった。

「自我のルーツ探し」=「母親探し」の中で、「善き人」であり過ぎる父親の心象風景の真実の一端を知ることで、キャルは、「愛されていない息子」という自己像に起因する劣等感を相対化できたのである。

爾来、キャルは父親の仕事を真摯に手伝い、父親が蒙った金銭的リスクの全てを、自らの才覚を駆使して返報しようとした。

それが、キャルからの父親へのバースデイプレゼントだった。


しかし、既に結婚を前提にしたアブラ(兄の恋人)が、弟キャルとの関係の最近接を目の当たりにして嫉妬するアロンは、アブラとの唐突な婚約報告を父へのプレゼントとすることで、父親を歓喜させる。

紛う方なく、弟への報復行為だった。

キャルと父
同時に、投機で儲けたキャルからの、キャッシュのプレゼントを断固拒否し、「返して来い!」と怒号する父親がそこにいた。

キャルが受けた屈辱は、彼の自我に澱む「愛されていない息子」という自己像が、再び修復の余地のない辺りまで噴き上がった瞬間だった。

激昂したキャルの、アロンに対する復讐が開かれた。

「母性溢れる母」への幻想を、アブラへの「愛」によって代償していたアロン(注1)は、売春宿を経営する実母との「恐怖突入」を、キャルの誘導によって敢行させられ、甚大な衝撃を受けた挙句、自傷行為に走ったばかりか、「戦争は人道に反する」(注2)と言って、一貫して反対していた対独戦争(第一次大戦)に自ら参戦するに至ったのである。


(注1)本作の中で、キャルに語ったアブラの言葉が深く印象付けられる。

以下、その際の二人の重要な会話を再現する。

「あなたは悪い人なの?」とアブラ。
「そう思う?」とキャル。
「分らないわ。何が善で、何が悪なのか。アロンはとても善良だし、私は違う。彼ほど善良ではないわ。彼と一緒だと、口先や頭だけで愛を語るのよ。だけど・・・愛って何だか分らないわ。アロンの考える愛は、清く正しい。でも、それだけじゃないはずよ・・・他に話す人がいないの。時々、自分がとても悪く思えて、頭が混乱するの」
「アロンが教えてくれるさ」
「つまりね、母親の代りに、彼は私を善の塊と思っているの。彼が愛しているのは、、本当の私じゃないのよ。私はそんな良い女ではないわ」

キャルとアブラ
観覧車内での、この話を真剣に受容するキャルに、「付き合ってくれてありがとう」とアブラは答え、二人はキスを交わす。

この一件によって、二人の関係は最近接していった。

その心理的背景に横臥(おうが)していたのは、アブラもまたキャルと同様に、「父親から愛されていない娘」という自己像に悩んでいた過去があった事実である。


(注2)アロンの反戦感情は、「農夫は戦争とは無縁だ」と語る父親の戦争観に対応するもの。それと逆行するのが、参戦を祝うパレードにキャルが参加する行為だった。



3  「自己基準に合わない他者への排他性を本質にする、異常なまでに真面目な性格」を保持する男の偏狭性



この家族の悲劇は、息子たちの自我のルーツへのアプローチを塞いでしまっていた父親の、その自我防衛戦略が一気に破綻した結果、脳卒中で倒れたことで極まった。

「エデンの東に行け」(注3)と保安官に説諭されたキャルは、重篤な父親の傍らにあって、謝罪の涙を流した。

ベッドに伏すキャルの父親の耳元に、「愛されないほど辛いことはありません」と訴えたアブラの思いが通じたのか、キャルへの看護を依頼する父の一言によって、厳しい映像は最低限の予定調和を保証して閉じていく。

結局、この映画は、父と二人の息子によって構成される家族の危機と再生の可能性についてシリアスに追求した一篇だった。


(注3)弟のアベルを嫉妬に狂って殺したカインが、エデンの東にあるノドの地に追放されたエピソードを記した、「創世記」第4章に由来。


ここで重要なのは、子供にだけは許されるだろう「愛される権利」が、それを保証せねばならない父親の家族教育の歪みのうちに担保されたことである。

家族を捨てて家を出た妻に対する憎悪によって、「母性」を充分に保証できなかった空洞感を延長させた由々しき事態のうちに、父親が歪んだ家庭教育を作り上げた顕著な家族像が仮構されていった。

然るに、「母性」の本質である「無限抱擁」に近い安寧感を疑似仮構することすら叶わず、その空洞感の深刻な延長によって、それが家族の成員の二つの自我のうちに公平に保証されなかったこと。

それこそが、決定的な瑕疵であると言える。

全ての根源に横臥(おうが)するのは、潔癖過ぎるが故に、その狭隘な人格像をより強化させた男の、「自己基準に合わない他者への排他性を本質にする、異常なまでに真面目な性格」の尖りである。

アロン(左)を実母(右)に会わせるキャルの復讐
本来、配偶者として相応しくない女を妻にして、それを自分の価値観のうちに閉じ込めてしまった生き方こそ、この家族の悲劇を惹起させたものだった。

自我のルーツへのアプローチを塞いでしまった父親の行為は、一見、「善き家族」の構築という大義名分に因っているように見えるが、実際は、「自分の恥の過去」を隠蔽したいというモチ―フ、即ち、自我の防衛戦略こそ、この行為を延長させてきた心理因子であると言えるだろう。

問題は、その行為と一体化した歪んだ家族を作り上げたことである。

キャルの性格が、家を出た妻の奔放な性格と酷似していたことによって、彼の奔放な振舞いを目の当たりにする度に、父親の中で、「次男の不良性」=「不徳の妻」の人格像と重なってしまったに違いない。

いつしか、知らずのうちに、父親の防衛戦略的な自我の奥深い辺りに、次男のキャルを忌避する態度形成が作られて、それを次男に感受させるほどの歪んだ家族関係の尖りが、修復の余地のない辺りまで顕在化させてしまったのだ。

一切は、「自己基準に合わない他者への排他性を本質にする、異常なまでに真面目な性格」男の偏狭さに起因するのである。

兄弟に眼を転じて見れば、アロンの嫉妬がキャルへの復讐を生み、それがキャルの報復によって自壊する程の脆弱さを思うとき、その辺りにアロンの人格形成の観念系の色濃い仮構性が読み取れるだろう。

「自己基準に合わない他者への排他性を本質にする、異常なまでに真面目な性格」を、アロンは父から無媒介に受け継いでしまったのだ。

キャルと父(右)
そこには明瞭に、DNAの問題に収斂され得ない、幼少時以来の、「善き人」であるための父からの厳しい偏頗(へんぱ)な教育による、極めて権威主義的支配関係の様態が読み取れるのである。

それは、形成的に特化された「偏愛性」を分娩し得る何かだったのだ。

従って、「仲間意識」、「上下意識」、「競争意識」によって成る「兄弟意識」の中で、キャルの中で、兄であるアロンへの「競争意識」だけが突出したのは必然的だった。

アロンの極端な自壊行為にまで至る、キャルの報復行動が、「自分と瓜二つ」とまで言わしめた「不徳」なる母とのコンタクト、即ち、兄を「恐怖突入」へと導いたのは、「愛される権利」を公平に享受できなかったキャルにとって、殆どそれ以外にない選択肢だったと言えるのである。

一切は、「自己基準に合わない他者への排他性を本質にする、異常なまでに真面目な性格」を保持する男の偏狭性に由来するということである。

(2010年10月)

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