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2008年11月23日日曜日

羅生門('50)   黒澤 明


<杣売の愁嘆場とその乗り越え、或いは「弱さの中のエゴイズム」>



 序  秀逸な人間ドラマの深み



 その完成度の高さによって、黒澤作品の腕力と凄みを映画史に記した記念碑的な一篇。

 最後はヒューマニズムで括っていく黒澤一流の過剰さが、ここではそれほど厭味になっていない。名作と称される「生きる」の過剰な通俗性が、ここでは程ほどに抑制されていて、秀逸な人間ドラマの深みを垣間見せている。



 1  杣売の呟き



 物語を追っていこう。


 時は平安時代。場所は京の都の羅生門(注1)。

 度々の戦乱で、その門の外観は大きく崩れている。その崩れかけた一角を狙い撃ちするかのように、弾丸の雨が激しく叩きつけていて、その門下には、二人の男が雨宿りをしている。その一人である杣売(そまうり=きこり)は、隣の旅法師に聞こえるように呟いた。


 「うぅん、分んねぇ。さっぱり分んねぇ・・・」

 そこに、一人の下人が走りこんで来た。雨宿りのためである。   

 「何がなんだか、分んねぇ」

  杣売はまだ呟いている。その呟きに反応し、下人が近づいて来た。

 「どうしたい?何が分らねぇんだい?」
 「こんな不思議な話、聞いたこともねぇ」と杣売。
 「だから、話してみなよ」と下人。彼は隣の旅法師の意見も求めた。
 「物知りで名高い清水寺の上人でも、恐らくこんな不思議な話はご存知あるまい」
 「へーぇ。じゃぁ、お前さんも、その不思議な話というのを知っているのか?」
 「この人と二人でこの眼で見、この耳で聞いてきたばかりだ」

 旅法師はそう言って、杣売を一瞥した。

 「どこで?」
 「検非違使(けびいし・注2)の庭でだ」
 「検非違使?」
 「人が一人殺されたんだ・・・」
 「何だ。人の一人や二人。この羅生門の楼の上へ上ってみろ。引き取り手のない死骸が五つや六つ、いつでもゴロゴロ転がってらぁ」

 下人は旅法師の話を馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに、せせら笑った。



 「そうだ・・・戦、地震、辻風、火事、飢饉、疫病(えや)み(注3)・・・来る年も来る年も災いばかりだ。その上、盗賊の群れが津波のように荒し回らぬ夜はない。わしもこの眼で虫けらのように死んだり、殺されたりしていく人をどのくらい見たか分らん。しかし、今日のような恐ろしい話は初めてだ・・・今日という今日は、人の心が信じられなくなりそうだ。これは盗賊よりも、疫病みよりも、飢饉や火事や戦よりも恐ろしい」
 
 旅法師の話に説教臭さを感じた下人は、そそくさと二人の元から離れ、崩れかけた建物の板を剥がして、それを割っていた。焚き火をするためである。その男に杣売が、真顔で走り寄って来た。
 
 「おい、聞いてくれ!これは、どうしたことか、教えてくれ!わしにはさっぱり分らんのだ。今日の三人が三人とも」
 「どの三人だ?」

 この下人の問いに、杣売は思い起こすように、ゆっくりと語っていく。

 「三日前だ。わしは山へ薪を切りに行った・・・」

 
『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使(ウィキ)
これが映像の導入部となって、物語が綴られていく。


(注1)平安京の都城(みやこのじょう)の正門のことで、正しくは「羅城門」。原作者の芥川 龍之介は、平安時代の説話集の中の、「羅城門登上層見死人盗人語第十八」(「今昔物語集」)という話を小説化している。

(注2)平安時代に置かれた、令外(りょうげ)の官(律令に規定されていない官職)のことで、平安京の治安を任された。

(注3)悪性の流行病で、疫病のこと。「宇治拾遺 4」の中に記録されている。因みに、「辻風」とはつむじ風(旋風)のこと。



 2  杣売の証言



 杣売は、森の奥深くへ踏み込んで行く。



 木々の間から眩い陽光が差し込んできて、杣売の歩行を様々な角度から照りつけていく。男が最初に見たのは、木の上に吊るされた市女笠(いちめがさ・注4)。次に男が発見したのは、侍烏帽子(さむらいえぼし・注5)。これは地面に落ちていた。更にその先には、断ち切られた縄が落ちていて、その前方に侍の死体が横たわっていた。少し離れた落ち葉の上に守り袋が光っていた。

 飛び上がって驚いた男は、急ぎ早にその一件を役人に届けたのである。


(注4)頭をすっぽり覆う菅笠(スゲの葉で編んだ笠)のことで、身分の高い女性が被った。

(注5)武士の象徴としての礼服の被り物で、元服した男子が用いた冠物。


 杣売はまもなく、検非違使庁に呼び出された。

 男が冒頭の羅生門で事件を語ることになったその日である。男は検非違使庁に呼び出された後、雨宿りした門の前で、自分がそこで見聞した不思議な事件について語っていくのである。

 男は検非違使庁で、自分が森の奥で目撃したことの全てを証言した。

 その証言の後に、旅法師の証言が続く。その証言の内容とは、三日前の午後、侍烏帽子を被った武士が市女笠を被った女を馬に乗せて、その馬を引いていくという目撃譚。映像に映し出されたその男女は、仲の良い夫婦のイメージそのものだった。

 

 3  多襄丸の証言




 次の証言は多襄丸。

 盗賊であるこの男は、河原で落馬したところを一人の放免(注6)に捕えられて、検非違使庁に引き出されて来たのである。侍殺しの容疑で捕捉されたこの盗賊は、一貫して堂々とした態度を誇って見せていたが、落馬の失態を指摘されたことで激昂した。

 以下、彼の証言が長々と語られていく。


(注6)検非違使の配下にあって、犯人の逮捕などの警察行為を行った。


 男はその日、馬を走らせている内にたまらなく喉が渇いて、岩清水を飲んだ。その岩清水で腹痛を起こして、河原で馬を下りて休んでいたことを強調したのである。落馬を否定したかったのだ。その直後、落馬を否定したこの男は、あっさりと侍殺しを白状したのである。

まるでそれは、この男にとって、「大盗賊」という記号だけが緊要であったかのような振る舞いだった。
 
「あの風さえ吹かなければ、あの男も俺に殺されずに済んだものを・・・」
 
 多襄丸は、三日前のことを思い出しながら証言していく。
 
 男は大きな木の下で休んでいた。

 そこに侍夫婦が通り過ぎていく。侍は多襄丸に気付いて、一瞬身構えた。多襄丸も気付いたが、再び眠りに入ろうとしていた。

そのとき、馬に乗った女の脚が男の視界に捉えられた。更に、一陣の風が女の市女笠の垂れ布を開いて、女の顔が男の視界に侵入してきたのである。

男はフェロモンの芳香を放って止まない女の色気に敏感に反応し、咄嗟に侍を殺し、女を奪うことを考えたのだ。

 多襄丸は疾風の如く走って、侍夫婦に追いついた。

 侍は慌てて身構えて、「何用だ!」と繰り返す。


 男は奪い盗った刀を山の奥に隠し持っていて、その一本を売りつけようと侍にそれを手渡した。興味を示した侍を手引きして、男は刀を隠し持っている森の奥に誘い込み、突然、侍に襲いかかった。迷宮のような深い森の奥での格闘の末、男は侍を木に縛りつけ、その足で、河原で待つ侍の妻の元にやって来たのである。
 
 「急に青ざめた、そのときの女の顔。凍りついたように俺を見つめた、何か子供っぽいくらい真剣なその顔。俺はそれを見ると、急にあの男が妬ましくなった。憎らしくなった。松の根方に浅ましく括りつけられた男を、この女に見せてやりたくなった。そのときまで考えもしなかった、こういう考えが急に俺の頭に湧いてきた・・・」

 再び、疾風の如く男は走った。侍の妻を連れて。辿り着いた先に、侍の惨めな姿が晒されていた。突然、女が短刀を手にして、男に襲いかかったのである。

 「こんな気性の激しい女を見たことがない」と男は述懐する。

 男を刺し殺せない女は力尽き、号泣する。

 号泣する女を弄(もてあそ)ぶ男。男は女を抱き、自分の欲望を満たしていく。それを苦々しく見る夫は、木に縛られてその惨めさを一層曝け出す。侍を殺す気のなかった男は、そのまま立ち去ろうとするが、背後から侍の妻に呼び止められた。

 「そなたが死ぬか、夫が死ぬか、二人の男の内のどちらか一人、どちらか一人死んで。二人の男に恥を見せるのは、死ぬより辛い。私は、その内どちらにしろ、生き残った男に連れ添いたい・・・」

 この女の信じ難い懇願に、男は黙って反応する。


 侍を縛る縄を刀で切り落とすや否や、二人の男たちの意地をかけた戦いが開かれたのだ。その壮絶な戦いによって、侍が死に、男が生き残ったのである。

 「俺は男を殺すにしても、卑怯な殺し方はしたくなかったのだ。そしてあの男は立派に戦った・・・俺は男が倒れると同時に、女の方を振り返った。女はどこにもいない。俺たちが太刀打ちを始めると、その恐ろしさに逃げ出したんだろう。余程狼狽(うろた)えたと見えて、山下に出てみると、女に忘れられた馬が、静かに草を食っていた。俺はあの女の気性の激しさに心魅かれたのだ。しかし結局は、手篭めの女に過ぎなかった。俺は捜す気にもなれなかった」

 以上が、多襄丸の証言の全て。彼は自分の武勇を誇示したのである。

 

 4  杣売の否定



 羅生門で杣売の話を聞いた下人は、多襄丸の過去の悪事について付け加えた後、言い放った。

 「その馬を捨てて逃げたという女も、どこでどうしたか分るもんかい」

 その下人の物言いに、旅法師が言葉を添えた。

 「ところが、その女が検非違使へ現われた。さる寺へ身を寄せていたところを、放免の手で捜し出された・・・」
 「嘘だ!皆、嘘だ!多襄丸の話も、女の話も・・・」

 杣売の悲痛な声が刻まれた。

 「へへへ、本当のことを言えねぇのが人間だ。人間って奴は、自分自身さえ白状しねぇことが沢山あらあなぁ」

 下人の皮肉たっぷりな言葉が、杣売の過剰な反応に釘を刺した。

 「そうかも知れない。しかし・・・人間は弱いからそうなんだ。弱いからこそ、嘘を己にさえしてしまうんだ・・・」


 旅法師の悟ったような言葉が、その場の澱んだ空気を収拾しようとした。しかし、下人の世俗主義はそれを赦さない。

 「ちぇ、また説教か。俺は嘘でも何でもいいんだ。話が面白ければそれでいいんだ。一体、その女はどんな話をしたというんだ」
 「それが、多襄丸の話とはまるで違うんだ。違うといえば、その女の顔かたちも、多襄丸の言うように色よいところも少しも見えない。ただ、哀れなほど優しい風情なんだ・・・」

 先刻まで検非違使庁に呼び出されていた旅法師は、事件の事情を複雑にさせるような反応をしたのである。



 5  侍の妻の証言




 以下、侍の妻の検非違使庁での証言。

 「その紺の水干(注7)を着た男が、私を手篭めにしてしまうと、自分こそ、いま洛中に名高い多襄丸だと誇らしげに名乗って、縛られた夫を嘲るように眺めました。夫はどんなに無念だったか、でもいくら身悶えをしても、体中にかかった縄がひしひしと食い入るだけで、私は思わず夫の傍に駆け寄りました。いいえ、駆け寄ろうとしたんです・・・」


(注7)平安期には、地方武士や庶民が着用した簡素な平服。
      

 女は夫に哀れみを乞い、抱きついていく。しかし夫の冷たい視線が、犯されたばかりの妻を射抜いた。

 「私は、その眼を思い出すと、今でも体中の血が凍るような思いがいたします。夫の眼の中に煌(きらめ)いていたのは、怒りでも、悲しみでもありません。ただ私を蔑んだ冷たい光だったのです」


 女は「そんな眼で私を見るのはあんまりです」と、夫の冷徹な視線に反駁し、自らの短刀を差し出して、「ひと思いに私を殺して下さい」と懇願した。夫は何にも反応しない。ただ冷たく見つめるだけ。女は、「止めて!止めて!」と叫ぶばかりだった。

 「私は、そのまま気を失ってしまったのです。気がついて見回したとき・・・そのときの私の驚きは・・・事切れた夫の胸の上で、私の短刀が冷たく光っていたのです・・・私は事のあまりの恐ろしさに、夢うつつでその林を逃れたのでした。再び我に帰った時には、あの山の裾の池の畔に立っていたのです。私はその池に身を投げました。その他、色んなことをしてみました。けれど、私はどうしても死に切れなかったのです。私は、この弱い愚かな私は、一体どうすれば宜しいのでしょう・・・」

 女は最後まで号泣しながら、訴え続けたのである。



 6  下人のリアリズム




 羅生門での三人。

 女の話を聞いた下人は、次第に話に興味を持って、身を乗り出して来た。

 「うーん、なるほど。俺にも何がなんだか分らなくなった。最も女という奴は、何でも涙で誤魔化す。自分自身まで誤魔化し、だから女の話はよほど用心して聞かないと危ねぇぞ」
 「その死んだ男の話を聞くと・・・」と旅法師。
 「死んだ男の話?死んだ男がどうして話をしたと言うんだ?」
 「巫女の口を借りて話した・・・」と旅法師。
 「嘘だ!あの男の話も嘘だ!」と杣売。
 「しかし、死んだ人間まで嘘を言うとは考えられない」と旅法師。
 「なぜだい?坊さん」と下人。
 「人間がそんなに罪深いものだと考えたくない」
 「それはお前さんの勝手だが、一体、正しい人間なんているのかい?皆、自分でそう思っているだけじゃねぇのか?」
 「恐ろしいことを・・・」
 「へへへ、人間という奴は、自分の都合の悪いことは忘れちまう。都合のいい嘘を本当だと思ってやがるんだ。その方が楽だからな」
 「そんな馬鹿な・・・」
 「へへへ、まあいいよ。とにかく、その死んだ男の話というのを聞こうじゃないか」



 7  巫女による侍の証言



今度は、死んだ男の話。

 多襄丸によって殺されたとされる侍の話である。
 
 検非違使庁で、巫女の口から、その侍の声が届けられる。

 「私は今、闇の中にいる。一筋の光もない闇の中で苦しみ悶えている。この苦患(くげん)の闇に私を突き落とした者に呪いあれ!うううぅ・・・。盗人は妻を手篭めにすると、そこに腰を下したまま、色々妻を慰め出した。

 妻は当然、土笹(どささ)の落ち葉に座ったなり、じっと膝に眼をやっている。盗人は巧妙に話を進めている。“一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫と連れ添っているより、自分の妻になる気はないか。自分は愛しいと思えばこそ、こんな大それた真似を働いたのだ”。罪人にこう言われたとき、妻はうっとりと顔をもたげた。

 俺は、俺はまだ、あのときほど美しい妻を見たことがない!その美しい妻は、現在縛られている夫の前で、何と罪人に返事をしたか・・・


 “どこへでも、どこへでも連れて行ってください”。妻は確かにこう言った!しかし妻の罪はそれだけではない。それだけなら、この闇の中で今程までは苦しみはしまい!“あの人を殺してください!私もあの人が生きていては、あなたと一緒に行かれません!あの人を殺してください!”

 この言葉は、嵐のように今でも遠い闇の底へ、真っ逆さまに私を吹き落とそうとする・・・これ程憎むべきことが、これ程呪われた言葉が、一度でも人間の口を出たことがあろうか・・・」

 夫を裏切った女に、多襄丸は激昂した。

 彼は女に対する感情が突然失せて、女を足蹴にする。そして縛られた侍に向って、女を殺すかどうか問い質した。

 「おい、この女をどうするつもりだ?殺すか、助けてやるか?返事は頷けばいい」
 「私はこの言葉だけでも、罪人の罪は許してもいいと思った」(侍の声)

 侍が返事をする間もなく、女はその場から逃げ出した。それを追う多襄丸。

 その後、映像は縛られた男の静かな時間を映し出す。やがて女を見失った多襄丸が戻って来た。彼は侍の縄を刀で切って、解放した。

 「静かだ・・・どこかで誰かが泣く声がする・・・誰かが泣いている・・・泣いているのは誰だ?」(侍の声)

 侍は静かに立ち上がり、その泣き声を懸命に殺しながら、妻が落とした短刀を拾った。彼はその短刀で自害したのである。

 「静かだ・・・何という静かさだろう。急に日差しが薄れてきた。私の周りには、いつか薄闇が立ち込めている。その中で、私は深い静かさに包まれて倒れていた。そのとき、誰か私の傍に忍び足で近づいた者がある。誰か、その誰かの手がそっと私の胸の短刀を掴み、そして静かに引き抜いた・・・」(侍の声)



 8  旅法師の不安、下人の追求



羅生門。

 彼らの話は佳境に入ってきた。その中で、杣売が一人興奮して叫んだ。
 
 「嘘だ、嘘だ!男の胸には短刀なんて刺さっていない!あの男は太刀で刺されたんだ!」
 
 杣売はそう叫んだ後、羅生門の軒下の隅に移動して、静かに座り込んだ。そこに下人が近づいて、意地悪そうに突っ込んできた。

 「これはなかなか面白くなってきたぞ。おい、お前はこの話の一部始終を見ていたらしいな」

 杣売は黙って頷いた。

 「じゃあなぜ、検非違使でその話をしなかったんだ?」
 「わしゃ、関わり合いになるのは嫌だったんだ」
 「しかし、ここで話す分にはいいだろう?おい、話せよ。お前の話が一番面白そうだ」
 「私は聞きたくない。これ以上恐ろしい話はもう沢山だ!」
 
 旅法師はもう、話を中断したくなっていた。

 彼の中に、ある種の不安が生まれてきたようだった。それに対して、下人だけは俄然乗り気になっている。

 この男の中にも、ある種の想像が働いているようだ。

 「こんな話は、今の世の中にはざらにあるよ。この羅生門に住んでいた鬼が、人間の恐ろしさに逃げ出したという話さえあるこの頃だ・・・なあ、お前はこの話をどこまで知っているんだ?」
 「わしゃ、山で市女笠を見つけた」
 「いや、そりゃ聞いたんだ」
 「それから十間ほど行くと、女の泣き声が聞こえてきた。そっと藪の陰から覗くと、縛られた男と、泣いてる女と、多襄丸が見えた」
 「待て、待て。すると、お前が男の死骸を見つけた件(くだり)は、作り話なのか?」
 「わしゃ、関わり合いになるのが嫌だったんだ!」
 「それでか。まあ、いい。話を続けろ。多襄丸は何をしてたんだ?」
 「多襄丸は、女の前に両手をついて謝っていた」




 9  杣売による事件の再現



 以下、杣売による事件の再現。

 多襄丸は女に自分の思いを話している。自分の妻になってくれというのである。女は泣いていた。男は手をついて頼んだ。生活の面倒を見ると言う。

 「もしお前が嫌だと言うなら、お前を殺す外はない・・・俺の妻になると言ってくれ」
 「無理です。私には言えません。女のあたしに何が言えましょう」

 女は突然凛として立ち上がり、そう言った後、自分の短刀で夫の縄を切って解放した。多襄丸は、女のその行為を、「男同士で解決しろ」という意味であることを察知した。そのとき、解放された侍は男に向って言い放ったのである。

 「待て!待て!俺はこんな女のために、命を賭けるのは御免だ」

 侍はそう言って、妻に近づいた。

 「二人の男に恥を見せて、なぜ自害しようとせん!呆れ果てた女だ」

 侍は、今度は多襄丸に向って、吐き捨てた。

「こんな売女は欲しくない。強いて言うならくれてやる。今となっては、こんな女よりあの葦毛(白馬)を盗られる方が惜しい」
    
 抑鬱的な時間が漂流していたかのような、グレーな沈黙と静寂。

 多襄丸は突然、女に対して愛想を尽かし、その場を立ち去ろうとした。その男を女が「待って!」と言って追い駆ける。女は倒れて泣いているのだ。

 「泣くな!いくらしおらしげに泣いても、もうその手に乗る者はおらぬ!」
 「止せ、未練がましく女を苛めるな。女という奴は所詮、このように他愛のないものなのだ」

 ここで突然、女は狂ったように笑い叫んで、夫を面罵するのである。

 「他愛のないのは、お前たちだ!夫だったら、なぜこの男を殺さない?私に死ねという前に、なぜこの男を殺さないのだ。この男を殺してから、私に死ねと言ってこそ男じゃないか!」

 次に多襄丸に向って、女は面罵する。

「お前も男じゃない!アハハハハ!・・・多襄丸と聞いたとき、私は思わず泣くのを止めた。このぐじぐじしたお芝居にうんざりしていたからだ。多襄丸なら、この私の助けようもない立場を片付けてくれるかも知れない。そう思ったんだ。このどうにもならない立場から私を助け出してくれるなら、どんな無茶な、無法なことだって構わない。そう思ったんだ。ところがお前も、私の夫と同じように小利口なだけだった。覚えておくがいい。女は何もかも忘れて、気違いみたいになれる男のものなんだ。女は腰の太刀にかけて、自分のものにするものなんだ!アハハハハ!」

 女は森の奥の空気を支配したとき、二人の男は自らの太刀を抜くしかなかった。そこに、思いもかけない斬り合いが恐る恐る始まったのである。

 二人の男は震えている。女も震えている。

 太刀を合わせるたびに、男たちは一歩退いて、そしてまた、落ち着きのない斬り合いを開始する。二人の男は腹ばいになって、失った太刀を求めて這っていく。既に太刀を失った侍は、男の足を掴んで、男の匍匐(ほふく)を阻止しようとするのだ。

 しかし、男は太刀を手に取った。

 太刀を手に取った男は、今度は侍に向かってじわじわと躙(にじ)り寄って行く。侍の表情は恐怖に歪んでいる。「死にたくない」と叫ぶ侍に向って、男は自分の刀を投げ、刺し殺したのである。

 「キャー!」という女の叫びが捨てられて、次に男は女に躙り寄って行く。

 恐怖に駆られた女は、そのまま立ち去ったのである。
 
 まもなく、男も立ち去った。男にとって、女の存在は、もはや「夫を殺された一人の女」以外の何者でもなかったのだ。



 10  杣売の愁嘆場とその乗り越え



羅生門での三人。

「アハハハハ、こいつはどうやら本当らしい話だ」と下人。
 「わしは嘘は言わねぇ!わしはこの眼で見たんだ!」と杣売。
 「それも当てにはならねぇ」
 「わしは嘘は言わねぇ!」
 「嘘だと言って、嘘を言う奴はないからな」
 「人という人が信じられなくなったら、この世は地獄だ!」と旅法師。
 「ああ、その通りだ。この世は地獄だ」と下人。
 「いや、私は信じる!私はこの世を地獄にはしたくない!」と旅法師。

 三人の話はこれで終ってしまった。

 人間は嘘を言って生きていると断じる下人に対して、二人はそれ以上反応できなくなってしまったのである。反応するほどの空気が消失してしまったのだ。

 そこに突然、赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 その声に誘(いざな)われるように、下人は門の裏側に回った。下人は赤ん坊を包んでいる着物を剥ぎ取って、持ち帰ろうとしたのである。その下人の態度に杣売は激昂した。

「何ていう酷いことを・・・お前は鬼だ!」
 「・・・捨てた親こそ、鬼じゃねぇか」
 「違う、それは違う!見ろ!この着物に付けたお守り袋を。子供を捨てた親の気持ちになってみろ!子どもを捨てずにいられないのは、よくよくのことだ!」
 「チェ!人の気持ちを考えていたら、キリがねぇや!」
 「そんな手前勝手なこと!」
 「手前勝手がなぜ悪い!」

 杣売は、事件の証言者の自分勝手さと下人の性根が同じであると考えて、下人の胸倉を掴んで難詰(なんきつ)した。下人は直ちに反撃に出る。
 
 「そういうてめえは、そうじゃないって言うのか?笑わしちゃいけねぇ!検非違使の役人は誤魔化せたかも知れねぇが、この俺は誤魔化されねぇぞ・・・おい、あの女の短刀はどうしたんだ?・・・草の中に落ちたまま、消えちまったって言うのか?手前が盗まねぇで、誰が盗むんだ!」

 この反撃に、杣売は何も答えられなかった。突然、彼は意気消沈してしまったのである。

 「どうやら、図星らしいな。ぶふふふっ。盗人のくせに盗人呼ばわりするっつうのは、それこそ手前勝手と言うんだ!」

 下人は、すっかり先程までの攻撃性を失った杣売の頬を、思いっ切り一発叩いて、捨て台詞を吐いた。

 「おい、何か言うことねぇのか!なけりゃ、行くぜ」

 下人は馬鹿笑いしながら、雨の中に消えて行った。

 雨に咽ぶ羅生門に残された二人に、気まずい沈黙が流れていた。

旅法師が、捨てられた赤ん坊を抱いている。雨が小止みになってきて、赤ん坊が再び泣き始めた。そのとき、杣売が旅法師に近づいて、赤ん坊に手をかけた。
 
 「何をする。この赤ん坊から肌着まで剥ぐつもりか!」
 「わしのところには、子供が六人いる。しかし六人育てるのも、七人育てるのも同じ苦労だ」
 
 杣売は瞳に涙を溜めながら、旅法師に真顔の表情で迫った。法師は男の顔をまじまじと見ながら、一言答えた。
 
 「私は、恥ずかしいことを言ってしまったようだな」
 「無理もねえ。今日という今日は、人を疑ぐらずにいられる筈がねぇ。恥ずかしいのはわしだ。わしには、わしの心が分らねぇ」
 「いやあ、有り難いこった・・・お主のお陰で、私は人を信じていくことができそうだ」
 「とんでもねえ・・・」


 杣売は、旅法師から赤ん坊を受け取って、すっかり雨の止んだ広々とした街路の中に、その歩を確かめるように家路に向っていく。その表情には、うっすらと無垢なほどの笑顔が浮かんでいた。

       
  *    *    *    *    *

 
 11  袈裟斬りに一刀両断しかねない気迫の映像作家




 私の知っている限り、黒澤明という映画監督は、常に「何か言いたいもの」を人一倍強く持っていて、それを作品の中で明瞭に言わざるを得ない映像作家である。だから彼の作品はとても分りやすく、しばしば分りやす過ぎて、却って、それが映像の質を貶めることにもなっている。

 観客動員を意識した典型的な娯楽作品は言わずもがな、多分に娯楽性を含みつつも、そこに過剰なほど声高で社会派的な、或いは、ヒューマニズムの濃密な味付けを加えた作品に於いては尚更、黒澤明という人は、相手を袈裟斬りに一刀両断しかねない気迫をもって、それを映像に叩きつける主張を捨てられない映像作家である。

 良くも悪くも、これが私の黒澤明監督に対する基本理解である。この基本理解によって、本作を読み解いていく。



 12  基幹ライン ―― 羅生門に於ける描写の重要性



 「羅生門」はとかく難解だとされていて、その分析も盛んだが、私の了解ラインの範疇に充分収まる作品であると把握している。



 この作品は、「藪の中」という極めて不条理性の強い、厭世観の色濃い原作を素材にしているが、そこに「羅生門」という原作を、殆どオリジナル性の強いシナリオに仕立て上げることで、明瞭な主張を持った秀逸な映像作品として立ち上げられたのである。

 それが成功したか失敗したかは、海外での高い評価を受けたという事実を無視して考えてみたとき、そこに余分な講釈抜きに、観る者が非武装化した素のままの感覚で捉えることによって、自ずから定まっていくだろう。

 私の場合、本作に対して幾つかの疑問符を感じつつも、その完成度の高さは群を抜いていると評価している。そのことを、一つのキーワードによって読み解いていきたい。

 そのキーワードとは、羅生門下での「杣売の愁嘆場(しゅうたんば)とその乗り越え」である。とりわけ、杣売に関わる描写が重要であると思われる。

 これが、私の本作の理解のベースにある。だから当然、羅生門に於ける描写が最も重要なラインとなるであろう。

 その辺りから書いていく。



 13  杣売の「分らなさ」の内側にあるもの



 繰り返すが、この映像は、杣売である一人の中年男の心理分析が中枢となる物語であると、私は考えている。この映画の作品的価値も、映像の作り手の主題性も含めて、本作は杣売の心情分析なしには成立しない人間ドラマであると言っていい。

 全て杣売の疑問から始まり、杣売の愁嘆場を経て、そこを乗り越えていくこの男の笑顔によって括られていくのである。

 映像の中でこの男が語ったことの全てが、この映像を支配する力を持っているのだ。

 原作にはないこの男のキャラクターの導入こそが、映像の曲線的な流れの内に、それが内包する人間性の本質に関わる問題提起を、含みの多い文体によって突きつけてくるような気迫ある映像を作り出してしまったのである。

 ラストシーンが余分であるという意見が多いが、それは私から言わせると、本作を誤読しているか、或いは、黒澤映画の声高の主張に馴染まない人々の嘆息であるかのいずれかである。私もまた、どちらかと言えば後者の立場に近いが、しかし本作に限って言えば、この映像はラストシーンの劇的な展開抜きには成立しない作品なのである。

 それは単に黒澤映画であるという理由ではなく、この物語の構成と、それが辿り着くラインの括りとして、そのような描写なくして済まないからだ。ラストシーンにこそ、映像の重量感をその根柢に於いて支える描写である、と考えるからである。

 結論から言うと、最後に用意された杣売の証言を事実と見ない限り、この映像は成立しないし、ましてや、黒澤映画のその固有の映像展開が破綻してしまうのである。従って本稿は、そのことを前提にして言及していくことになる。

映像の導入は、杣売の「わしにはさっぱり分らねぇ」という、如何にも物語的な語りによって開かれた。

 しかし、この映像を最後まで観た者の素朴な疑問を記せば、この男の「分らなさ」とは一体何か、という思いが沸々と湧き上がってきて、結局、私のように現在に至るまで悩まされる者もいるかも知れない。

 あるシネフィルらしき匿名の御仁は、この男の「分らなさ」を、真実を覆い隠すためのカモフラージュであると説明していたが、私はそのような考えにとても同意できない。なぜならこの男は、冒頭の羅生門でのシーンで、わざわざ性根が悪そうな下人に、自らの「分らなさ」をダイレクトにぶつけているからである。

 この男が事件の真実から逃避したい気持ちがあれば、事件についての話題を自ら振っていく必要がないのだ。

 この男にとって、三日前の事件は、自分が訴えられるかも知れない恐れがある以上、事件の話題から遠ざかりたいと考えるのが普通である。そこが、旅法師の「分らなさ」との決定的違いである。

 なぜ、この男は、自分の「分らなさ」の解読を求めるような物言いを、事もあろうに、性根の悪そうな下人に向かって放ったのだろうか。
 
 以上の疑問の解読から、私の映像分析が始まらざるを得なかった次第である。
 
 旅法師が「分らなさ」に拘ったのは、単に、検非違使庁での三者の証言があまりに乖離していたからである。彼はその現場に居て、三者の証言の乖離に接したことと、その証言の内容のおぞましさに人間不信の感情を抱いてしまったのである。

 しかし、杣売が「分らなさ」に拘ったのは、単に、第三者的な立場に置かれた者の人間不信の感情の故ではない。

この男は明らかに、事件の現場に居合わせていたのである。男は現場にいて、多襄丸によって犯された女と、その傍らで縛られている侍の惨めな姿も目撃している。そして、その現場で展開されたおぞましい修羅場の一部始終を視界に収めているのだ。

 勿論、この仮説は、杣売の羅生門下での話を真実と認知することを前提にする。

 しかし、この前提を崩せないのは、この男の話が、下人に追い詰められた後の逃れられない状況下での表現であるということ以上に、事件を目撃したことを下人に認めたこの男に、その事件現場の再現の説明に嘘を加える必要がないからである。

 確かに、この男は嘘をついていた。

 草むらに落ちた短刀を盗んだことである。しかしそれは事件の流れの後の行動であって、事件の渦中の説明とは直接的には脈絡しないのだ。もっとも侍の死が自決であったとすれば、男は、巫女の語りの中で出てくる短刀盗みの下手人であったということになるが、これは疑わしい。

 なぜなら、侍の証言は自決を前提にしているから、自分の体に刺さった短刀が現場に落ちていなかったので、巫女の口を借りて何者かによってそれを抜き取られたという説明をしない限り、合理的に説明できなくなってしまうからだ。

 それ以上に、杣売の証言を疑えない理由は幾つかある。

 多襄丸が侍の殺害を白状したこと、夫婦間で緊張感が生まれていたこと、杣売自身が事件を役人に届けたこと。更に、侍の証言の中枢が、妻への憎悪に集中していたこと、そして、その妻が事件後に姿を眩ましていたということ、等々。これらの事実性が、本作では殆ど映像化されていたのである。

 これらは全て、杣売の証言に合致するのだ。

 そして、何より最も重要な理由は、もし杣売の証言ですら荒唐無稽な作り話であったとしたならば、この映像が映像自身にすらも嘘をついていたということになってしまうからである。即ち、ラストシーンの杣売の愁嘆場を経ての、「赤ん坊取り」という落ちまでもが作り話になってしまうのだ。そのカオス状況はもう、明瞭なテーマを持って作ったはずの映像の、悲惨なる自壊と破綻としか呼べなくなってしまうのである。

 以上の仮説を根拠に、杣売の心情世界に踏み込んでみる。
 
 まず、この男の「分らなさ」の内側にあるものは、一体何だったのか。

 事件の現場を直接目撃した男が、同時に検非違使庁で事件の三人の関係者の証言を耳にしたとき、男は当然の如く、それらの全てが偽証であり、真実から遥かに隔たった作り話であることを確認できたであろう。そして、普通の大人の感覚なら、それらの作り話の根柢にあるものの偽善性、虚栄心、自己顕示性、更に自我防衛意識が働いていたと受け取るに違いない。

 だから彼らの嘘には、自分が供述した、「短刀取り」の嘘に通底する心情ラインを読み取ることができたはずだ。

 それにも拘らず、彼は自分の「分らなさ」を、性根の悪そうな下人に自ら積極的に話しかけていったのである。黙っていれば済むものを、わざわざ自ら話題にしたという事実から読み取れるのは、明らかに、この男自身がその「分らなさ」の中で混迷し、その心の中の不可解性について打開し、それを少しでもクリアにしたいという思いがあったという切迫した心理である。

 この心理は、自分の嘘をカモフラージュする次元を超えてしまっているのだ。私はこの一点に於いても、この男のある種の誠実さを疑えないのである。

 では、この男が自分の心をクリアにしたいと思っている、その拠って立つ心情世界は何なのか。

 私はそれを、こんな風に考えてみた。

まず、男が事件を目撃したのは、三日前だった。

 そのとき、自分が目撃したおぞましい現実に対して、男は血の気が引く思いをしたであろう。しかしその後、男は細(ささ)やかな犯罪を犯した。男が短刀を盗んだのは、それが投げ捨てられた場所を確認していて、その程度の罪なら問題ないと考えたからであろう。

 彼には既に六人の子供がいて、その生活は厳しさを極めていると想像される。男は生活のために短刀を盗んで、それを換金する必要があったのである。

 事もあろうに、短刀を盗んだ男は、事件を役人に届け出た。そのまま知らん振りしていても済んだにも拘らず、男は敢えて役所に駆け込んだのである。

 その結果、検非違使庁に呼ばれた男は、真実を語らなかった。

 男がそれだけのリスクを冒したのは、訴え出ることで検非違使庁に呼ばれることがあっても、短刀の一件はバレずに済むという確信があったからに違いないが、それでも、事件を訴え出るだけの誠実さが男の内側に存在していたということ、これは無視できないであろう。

 要するに、この男は恐らく、この時代の庶民の平均的なメンタリティを示すに足る、ごく普通の生活者であったと言えるのである。

 そんな男が検非違使庁で見聞きした世界は、三日前のおぞましさを更に越える醜悪さに充ちていた。しかも、そのさまを羅生門下で語る男は、旅法師と共につい先刻まで、検非違使庁の異次元的な空間にその身を預けていたのである。男にとって、そこで語られた三人の証言は、自分がこの眼で見た現実との落差を埋められないほどのインパクトであった筈だ。

 まさに、殆どリアルタイムで語られる三人の作り話のおぞましさに、男は人間の業の深さを感じ取ったに違いない。彼らの語る話の醜悪さは、自分が犯した止むを得ざる罪と比べると雲泥の落差があると考えたのかも知れないし、或いは、自分の罪の事実認知すらにも思いを及ばさなかったのかも知れない。それでも、平気で嘘をつける杣売の自己防衛意識は、客観的に見て、それ程までに非人間的な、或いは、人間的な逸脱性を示すものではないと言えるだろう。

 男に「さっぱり分らねぇ」と言わさしめるものは、検非違使庁での三人の作り話があまりに迫真的であり過ぎたからである。

 これは、人間の業の深さを何度も見てきたはずの旅法師を混乱させるほどに、迫真性があったということだ。男の「分らなさ」は、却って男の誠実さの証左であるとも言えるのである。人間は皆、どこかで誤魔化しながら生きていることを認めても尚、あの三人の証言のおぞましさに、杣売の心はフォローできなかったということだろうか。



 14  誠実さをも兼ね備えていた、杣売の嘘をつく能力のレベル



 次に、杣売の誠実さを示す事例を挙げてみる。

 これは、「人間はどんな悪でも平気で犯す」と考えている下人との確執の中で示されている。

 その決定的な事例は、下人を難詰した杣売が逆に下人から、「手前が盗まねえで、誰が盗むんだ!」と反駁されたとき、途端に、男は意気消沈してしまったというラストのエピソードである。

 更に醜態を晒した後、旅法師の赤ん坊を受け取る際に、「恥ずかしいのはわしだ。わしには、わしの心が分らねぇ」と思わず呟いた男の態度の内に、人間的な誠実さを充分に感じることができるであろう。

 もっとも、この男のそんな態度の中にも、事件のあの三者の証言と同じレベルの嘘を指摘する向きもあるが、私にはこのような思考は「下衆(げす)の勘繰り」としか思えないのだ。

 このような御仁は、そもそも、映像表現の意味するところを理解しているのだろうかと考えてしまうのである。敢えて厭味を込めて言えば、余程、映像感性が捩(ねじ)れているか、または、映像で表現された者たちの言動に対する想像力が欠如しているのであろう。

 明らかに、黒澤明と橋本忍は、ラストシーンの「杣売の愁嘆場とその乗り越え」に勝負を賭けていた。少なくとも、私はそう信じている。
 
 結論から言えば、こういうことだ。

 男には、自分の生活を守る程度の嘘をつく能力があるが、しかし、そのことを他人から指弾されたら、意気消沈してしまう誠実さをも兼ね備えていたのである。つまり、この男の嘘をつく能力のレベルは、高々その程度のものであるということだ。



 15  「大盗賊」として鳴らした男の虚栄心



 今度は、事件の当事者たちの証言の偽証性について言及する。

 まず、多襄丸。

 事件の主役とも言えるこの盗賊が、その証言の中で明言した点がある。


 一つは、侍を殺害する意志はなかったが、犯した女の懇願があって止むを得ず斬り合いになり、自分が太刀によって侍を殺したということ。もう一つは、女の気性の激しさである。

 まず、前者については、多襄丸は侍の態度の立派さを褒めていた点。、そして、後者については、自分に夫との決闘を仕掛けておき、その勝者と連れ添いたいと言っておきながら、勝敗が決した後、女は逃走を図ってしまったという点。この二点を強調したのである。その女の狡猾な態度に愛想を尽かしたので捜す気にもなれなかったということも、多襄丸は言い添えた。この二点の指摘は、真実の説明と思われる杣売の状況説明に酷似しているのである。

 多襄丸が侍殺しを白状したことによって、盗賊の侍殺しの事実は動かせないであろう。なぜなら、多襄丸がそれを白状したことによって得るメリットは何もないからである。ただ杣売の話と食い違う点があることは、多襄丸の女に対する態度と、二人の男の決闘状況のリアリティの欠如である。これらはいちいち分析的に説明するまでもないことである。多襄丸にとって、検非違使庁での証言の場で守りたかったのはただ一点。それは、「大盗賊」として鳴らした男の虚栄心である。

 因みに、虚栄心とは、私見によると、「見透かされることへの恐怖感」である。
 
 この男は、「大盗賊」としての自分の虚栄を守るためだけに証言したのである。従って、その証言は、自分をより男らしく見せようとする態度に於いて一貫していた。しかし、多襄丸の女に対する態度の諂(へつら)いと、その女に自分の臆病さを見透かされた恐怖感=虚栄心を起点とする決闘状況への止むを得ざる展開の選択、そして、決闘に於ける腰抜けぶりのさまについては、全て多襄丸が望んだ物語のライン以外ではなかったのである。

 この男のそんな虚栄心は、放免から落馬を指摘されて激昂したその態度の内に、集中的に読み取ることができるということだ。

 

 16  現実的利益を優先した女




 次に、侍の妻のケース。

 これは完全に作り話であることが、観た者に容易く理解できるようになっている。なぜなら、この女の証言の内容は、この女によってのみ語られていたに過ぎないからである。他の三人の証言と、それは決定的に乖離していた。

 女がこのような「貞淑な妻」を演じた理由は明瞭である。

 女はあくまでも事件の最大の犠牲者として振舞うことで、自分の行為が事件のおぞましさを招来したという事実を消し去りたいからである。

 それは生き残った女にもまた、罪人の咎が向けられることを回避したかったのであろう。
 
 女の場合が、虚栄よりも現実的な利益を優先したと考えられる所以である。
 
 その端的な根拠として、女は男たちの決闘によってではなく、夫の自害によって事件を収めようとしたその証言の内にある。

女は自分が気を失って意識を取り戻した際、傍らに自害した夫が倒れていたと証言したのである。女にとっては、夫が盗賊如きに殺された事実を認めたくないが故ではなく、自分の不貞を軽蔑する夫の自害の物語を作ることで、犠牲者としての自分の立場を強調し、更には、自分が仕向けた決闘の事実を隠蔽したかったのであると考えられる。

 だから、女はひたすら号泣することで、検非違使庁での取調を乗り切ろうとしたのであろう。



 17  プライドラインの防衛にに固執した男



 次に、侍のケース。


 この男の証言の根柢には、一貫して妻への憎悪感が流れている。余程、その夫婦関係が円満に営まれていなかったのであろう。

 侍もまた、自害による物語を捏造したが、これは多襄丸と同様に虚栄心の産物であったと思われる。

 侍がその巫女の口を借りてまで守ろうとしたものは、武士としての威厳と立場、そして犯された妻を簡単に許容できない男としての、夫としてのプライドである。

侍は、自分が盗賊によって森の奥の大木に縛られたという、本事件の発端となる由々しき現実には一切触れることなく、それどころか、罪人としての多襄丸を許しても良いとさえ証言したのである。


侍は、ひたすら自分の臆病さと弱さを隠蔽したいが故に、それを見透かすように難詰した気性の激しい妻に対して、その特定的な関係の中で既に飽和点に達しつつあったかも知れない内なる憎悪感が、極限状況下で一気に高まったであろうことは、その証言の中で執拗に映し出されていた。


 侍もまた、虚栄心の塊だったのである。プライドラインの防衛に固執した男だったということだ。

そして、それ以外の何ものでもない証言を吐き出したのである。ただそれだけのことなのだ。



 18  弱さの中のエゴイズム



 ―― 最後に、最も重要な言及をしたい。

 それは、「エゴイズム」の問題である。

 作り手は明らかに、エゴイズムの問題を繊細に取り扱っている。恐らく、この映像で紹介された全ての登場人物は、一人の旅法師を除けば、エゴイズムの塊の者たちとして扱われ、観る者もその印象を否定できなかったであろう。

 しかし違うのである。明らかに、杣売のエゴと他の者たちのエゴとの間には一線が画されている。他の者たちのエゴの本質が、虚栄心を起点とする自己防衛や自己顕示欲、更に、自分を守るためだけの嘘話に流れていったのに対して、杣売のそれは最低限の一庶民としての生活を守るための、殆ど出来心に近いエゴイズムの露出であろう。

 彼らは一様に、そのエゴイズムによって見事な嘘話を作り上げた。もっとも、杣売の場合は嘘話を作り上げたのではなく、自分が見たままの真実を語らなかっただけである。真実を語らなかったのは自分が疚(やま)しい行為に走ったからであり、それでも事件を届けることによって、少しでも贖罪意識を浄化しようする思いが働いたのであろう。それは、普通の人間の、普通の感覚による、普通の行為の範疇に含まれると言っていい。

 ここで重要なのは、その杣売のエゴイズムを、作り手が受容していると考えられる点である。そうでなければ、原作にはない男のキャラクターを導入することで意図する作り手たちのメッセージ性が破綻してしまうのである。ラストシーンこそは、この男の晴れ晴れとした表情で括り切ろうとする作り手の、その最も重要なメッセージであったと捉えるべきなのである。
 

では、作り手(画像)は、そのメッセージをどのように映像で表現したのか。

 私はそれを、杣売と下人のエゴイズムについての全面対決の描写の内に表現されていたと考える。だからこの映像は、ラストシーンで一気に勝負を賭けた作品なのである。

 そのラストシーンを、もう一度再現してみる。

 それは、杣売の目撃談が終焉したところから開かれた。その会話の内容をもう一度起してみる。

 「アハハハハ、こいつはどうやら本当らしい話だ」と下人。
 「わしは嘘は言わねぇ!わしはこの目で見たんだ!」
 「それも当てにはならねぇ」
 「わしは嘘は言わねぇ!」
 「嘘だと言って、嘘を言う奴はないからな」
 「人という人が信じられなくなったら、この世は地獄だ!」
 「ああ、その通りだ。この世は地獄だ」
 「いや、私は信じる!私はこの世を地獄にはしたくない!」

 この会話の前半の下人との遣り取りの台詞は杣売で、後半は旅法師が絡んでいる。この会話の構図は、まだ下人のエゴイズムと、旅法師のヒューマニズムの対立の状態を維持している。

 しかし、赤ん坊の一件から、映像は劇的な展開を見せていく。

 赤ん坊の肌着を盗む下人に激昂した杣売が、下人の胸倉を掴んで、その拠って立つ「ヒューマニズム」を全面に押し出していくのである。

 この時点では、ヒューマニズムは二人が共有する気高さを示していて、それが圧力となって下人のエゴイズムを裁こうとしたのだ。

 しかし、下人の鋭い反駁によって、杣売はヒューマニズムの陣営から弾き出されてしまった。下人に叩かれても文句を返せない男の悲哀は、ここに極まったと言えるだろう。

 男はこのとき、下人と同じエゴイズムのラインに立たされてしまったのである。少なくとも、唯一、ヒューマニズムの旗を掲げる旅法師は、そう考えたに違いない。そして杣売もまた、追い詰められた果てに自らを責め立てたのだ。

 この描写を嘘話と蹴飛ばす者の卑小な把握は無視して、明らかに、杣売の人間的苦悩がそこで炙り出されてしまったということ、それが切実なのである。

 男は愁嘆場にあって、「恥ずかしいのはわしだ。わしには、わしの心が分らねぇ」と自分を責め立てたとき、まだ彼は、その言葉による贖罪の浄化を果たそうとしたのかも知れない。しかし彼は、その思いを行動に表したのである。それは既に、言葉による贖罪の浄化の次元を越えている。男は紛う方なく、自らの恥ずべき行為を乗り越えようとしたのである。

 作り手はそこに、二つのエゴイズムの様態を提示した。

 即ち、生きるためには何もしても許されるという下人のエゴイズムと、許されないエゴイズムを認知し、それを自らの身体表現で乗り越えていこうとする者の、「弱さの中のエゴイズム」がそれである。

 男のエゴイズムは、後者のエゴイズムである。

それは、容易にヒューマニズムにシフトすることが可能なレベルのエゴイズムであると言っていい。作り手は人間のエゴイズムに、見えない境界線を引いて、そこに辛うじて許容されるエゴイズムを表現したのである。それが杣売の「弱さの中のエゴイズム」である。

 しかし、そのエゴイズムは、その主体が自らを乗り越えていくべきラインを作り上げていくことで、初めて許容し得るエゴイズムと言える何かであった。

 作り手は、人間のエゴイズムの業の深さを認知した上で、そこに、それを少しでも浄化し得る方法論を提示したとも言えないだろうか。
 
 ラストシーンに於ける杣売の晴れ晴れとした表情は、このおぞましい物語を抉り出して止まない映像を括るに相応しい、恐らく、それ以外にない到達点だったのであろう。

 このような物語の文脈を、私は正直、全面的に受容する感情を持たないが、それでも、このような明瞭な意志を刻んだ映像の潔さを評価して止まないのである。

 その意味で、本作の映像作品としての価値は、決して時代の変化によって簡単に失われるものではないと考える。本作こそ、「黒澤明」という、稀有な映像表現能力を持つ作家の代表作であると言えるに違いないだろう。

(2006年7月)

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