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    2 か月前

2011年12月7日水曜日

es [エス]('01)      オリヴァー・ヒルシュビーゲル


<システムが作った物語の内に従属し、融合する人間の自我の脆弱性>



1  「スタンフォード監獄実験」をベースにした物語の概要


たとえそこに、常軌を逸する暴力の介在が存在したとしても、2名の死者を含む多数の重軽傷者を出したり、女性の実験助手をレイプしたり、実験の責任教授が空気銃で撃たれたり、挙句の果ては、脱獄劇のアクション映画と思しき物語構成に流れたり等々、商品価値を高めるための相当程度の映画的加工が、物語のベースとなった、人間の本質に肉薄する「スタンフォード監獄実験」(1971年)のリアリティを損ねてしまっている部分があり、そこだけは、サイコムービー的な受容感覚を許容する看過し難い瑕疵となっていたが、それでもなお、心理学的文脈において、映画の中で末梢化されずに追求されたと思われるテーマ性が、それをモデルにした心理学実験の本質を無化する不毛さだけは脱却していた、と私は見ている。

それ故に、本稿では、その完成度の高さにおいて絶賛に値するとは思えない、映画作品としての厳格な評価への思い入れの是非よりも、物語の中で追求された基幹テーマへの心理学的文脈の範疇で限定的に言及していきたい。

「スタンフォード監獄実験」をベースにした物語の概要は、以下の通り。

監獄内での「権力関係」の形成と変容の様態を、心理学的に調査するための実験に、前科のない、ごく普通の理性を有する20名以上の男たちが、高額の報酬や好奇心等の理由で募集に応じ、大学地下に仮設された模擬刑務所での、囚人と看守の役割を2週間にわたって演じ続ける実験過程で、2名の死者を含む多数の重軽傷者を出すという、責任教授の思惑を遥かに越えるに足る、自制困難な本物の「権力関係」の暴走を作り出してしまって、実験半ばで強制終了されるに至ったというもの。

そんな本作の物語構造を羅列的に要約すると、私は以下のように把握している。



2  「権力関係」の過剰な暴走による、模擬刑務所の秩序の完全なる崩壊



①【責任教授による役割説明】=被験者である参加者の役割への観念的受容 → 制服の着用による、役割の認知の物理的受容。

責任教授による実験参加の説明会
実験開始の段階では、笑みを浮かべる被験者たちに、責任教授が、「もし、面白半分に考えているのなら、実験は今すぐ中止します」と語る言葉に尽きる、和やかな空気に包まれていた。

↓ 

②【囚人被験者を、看守被験者が模擬監房に移動させる任務の形式的伝達】=役割の事務的発動と、両被験者の役割の形式的遂行による役割意識の初歩的形成。

この段階においても、「看守ごっこではありません。では、まず囚人たちの収監から始めて下さい」という、責任教授の注意喚起のサポートが必要だった。

↓ 

③【食事(牛乳の飲用)における、命令系の交叉の1次的破綻と、77号の意図的挑発】=役割の形式的遂行の限界と、敵対的感情関係の成立による役割意識への自己投入現象の発生。

実験の空気を変容させる契機になった、77号(囚人の認識番号・固有の人格性を剥ぎ取るために、認識番号で呼ぶことは既にルール化されていた)の意図的挑発とは、メガネのレンズに映る監獄内の状況をコンピューター再生させる刺激的効果を狙って、意図的に騒ぎを起こす危険な潜入取材であって、その目的は雑誌記者への復帰の熱望にあった。

ここでは、恐らく乳糖不耐症(乳糖の消化酵素=ラクターゼの量が少ないため、下痢などの症状を起こす疾病)のため、牛乳を摂取できない囚人に加担することで、77号が看守被験者に眼をつけられていくが、何より由々しきことは、77号の振舞いが看守被験者のプライドを傷つけることによって、看守被験者の内面から被験者意識を剝落させていく契機になったことである。

それは同時に、囚人被験者の意識にもまた、被験者意識を剝落させた大方の看守たちとの、由々しき敵対的感情関係の矢面に立たされていくことを意味していた。

↓ 

④【模擬模擬監房内での騒動】=役割の形式的遂行の破綻と、役割意識の膨張的拡大による明瞭な「権力関係」の形成。

77号の意図的挑発が昂じて、あろうことか、看守を監房内に閉じ込めた挙句、馬鹿騒ぎに興じる始末。


この騒動を収拾し得ない看守たちの不安と苛立ちの感情を処理するために、今や、リーダー的存在にのしあがったベルスが、囚人に屈辱を与える手法を仲間に提示し、それを遂行するに至る。

それは、既に被験者意識を剝落させていた看守被験者たちの連帯感の強化をもたらし、同様に、被験者意識を剝落させていた囚人被験者たちを全裸にさせる行為に現れているように、彼らによるルール違反の暴走の伏線と化していく。

未だ、2日目での危うい顛末を惹起させたのが、77号の意図的挑発によるものとは言え、このような秩序破壊の個人的振舞いにのみ、全ての問題を還元させる分析は合理性に欠ける面があることを留意すべきだろう。

それは、拘留状態がなお延長されている事実を認知する囚人被験者の〈状況性〉にあって、現実の囚人の初期症状と酷似する様態と言えるからである。

↓ 

⑤【模擬刑務所内での看守の抑圧的態度の身体化】=支配と服従の関係の固定化による快楽と、屈服による恐怖の空間の発生と「権力関係」の加速的な膨張。

77号(左)と同房の潜入軍人
これは、ベルスに眼をつけられ、バリカンで丸坊主にされるなど、特定的に甚振(いたぶ)られていった77号が、「恐怖によるパニックで過呼吸を起こしたんだ。息を浅く吸え。落ち着くんだ」と、同房の潜入軍人にサポートされる言葉や、離脱者の発生によって加速的に現象化した危険な状況である。

既に、個としての人格性の剥奪の象徴でしかなかった囚人の認識番号が、まさに認識番号以上の存在価値を持たない〈状況性〉に捕捉されている現実を露わにして、監房それ自身の「模擬刑務所性」の自壊を顕在化するに至ったのである。

「模擬刑務所性」の自壊とは、被験者としての模擬看守が、本物の刑務所の看守の権力を有することで、被験者としての模擬囚人が本物の刑務所の囚人との間に、本物の「権力関係」を確立した現象を意味する。

何より由々しきことは、「模擬刑務所性」を仮設した実験者たちが、膨張的に拡大する一方の危険な〈状況〉をコントロールし得なくなってしまったことである。

従って、この時点で、早くも囚人被験者から離脱者が出て来たのも不可避だったであろう。

↓ 

⑤【模擬刑務所の自壊】=「権力関係」の過剰な暴走による、模擬刑務所の秩序の完全なる崩壊。

被験者としての模擬看守と、模擬囚人、実験者たちとの間に確立された「権力関係」の暴走によって、多くの犠牲者が出るに及び、完全に統制不能な無秩序性がピークアウトに達したことで、暴走を駆動させた熱量の自給が繋げない〈状況〉下に、第3者の介入によって模擬刑務所の自壊が極まった。

この辺りは、脱獄劇のアクション映画と思しき、暴力的刺激満載の娯楽篇という印象を拭えないので、物語の詳細な言及は避けたい。

精神的に追い込まれる77号
以上、私の個人的把握に引き寄せて書けば、ここで追求されている基幹テーマは、本作で描かれたような、危うさに満ちた特定的環境をも安易に作り出す人間が、その特定的環境の中で、様々な閉鎖系の条件に搦(から)め捕られるとき、如何にその状況からの脱出が困難であるかという、私たち人間の脆弱性それ自身である。

この状況脱出の困難さを反転させて言えば、役割意識を持たされた者たちが、その役割性に過剰適応したことで作り出したネガティブな〈状況〉に、まさに、過剰適応することで自己防衛する行為を容易に身体化せざるを得ない、私たち人間の心理を本質的に言い当てているものであるだろう。

ここで言う人間の脆弱さとは、人間の自我の脆弱さであると言っていい。

以下、この問題意識に則って、本稿の稜線を伸ばしてみたい。



3  システムが作った物語の内に従属し、融合する人間の自我の脆弱性




ミルグラム教授・「アイヒマン実験」の責任教授
「アイヒマン実験」(注)を含めて、「スタンフォード監獄実験」という、由々しき二つの実験から、私たちはどのような結論を手に入れるのだろうか。

言うまでもない。

私たちが「理性」とか、「良心」と呼んでいるものの、そのあまりの脆弱さである。

「理性」と「良心」の正体は自我である。

極論を言えば、人間とは自我である、と言い換えられるかも知れない。

私見によれば、自我とは、人間の生命と安全を堅固に維持し、社会的適応を充全に果たしていくための羅針盤である。

それは、社会的適応にとって極めて有害な攻撃的衝動を抑え、人間に固有なる様々な欲望を上手に管理し、しばしば、それをエネルギーに換えて自己実現を図っていくという、高度な適応戦略を展開する形成的な基幹能力であると言っていい。

しばしば、ドーパミン等の神経伝達物質の過剰なシャワーを浴びてたじたじにな るが、人間は自我なしに生きられないし、それによってのみ、人間は人間らしい営為を継続することが可能なのである。(因みに、著名な心理学者である岸田秀によれ ば、本能を失った人間が、その「本能の代用品」として内側に作り出したものこそ自我である)

人間がしばしば犯す大きな間違いは、「本能の代用品」である人間の自我が、それに身を委ねれば殆ど大枠を外すことのない展開を示し得る「本能」に対して、その進化の様態があまりに不十分であり、およそ万全な完成形になっていないという根源的な問題に起因する。

欲望を加工したり、或いは、全く異質の欲望を動員したりすることで、私たちの自我は元の欲望を制御するのである。

岸田秀
欲望の制御は、本質的には自我の仕事なのだ。

然るに、私たちの自我は欲望から強烈な刺激を受けて、しばしばメロメロになることもあるが、欲望を制御するためにそれを加工したり、全く異質の欲望を作り出したりことすらあるだろう。

「人間とは欲望である」という命題は、従って、「人間とは、欲望を加工的に制御する自我によってしか生きられない存在である」という命題とも、全く矛盾しないのである。

人間の自我の最も弱いところは、欲望のコントロールが不全であることと、それが環境に適応するときに、しばしば過剰に反応してしまうということである。

とりわけ、自我が閉鎖的な環境に置かれたとき、その中での序列的な関係に呪縛され、支配されやすいということ。

私たちの歴史上の誤りは、殆ど、この冷厳なる現実に関係すると思われる。

人間の自我の自律性は、どこまでも社会的な関係によって規定されてしまうということ、それが問題なのだ。

従って、劣化したシステ ムの下では、自我もまた、そのシステムに合わせて劣化してしまうのである。

だから、人間にとって最大の問題は、それぞれの自我の自律的展開に大きく関与する環境や、それを支えるシステムの出来不出来に依拠しているということなのだ。

システムの中で、私たちは、自分たちが作り出した過剰なまでに便利で、しばしば厄介な道具を、いつも万全に使いこなすことができずに狼狽(うろた)えるのである。

「権力関係」が自我を支配するとき、その自我の自律性はシステムが作った物語の内に従属し、融合する。

その自我が拠って立つ正義は、システムの価値観に収斂されるのだ。

そのとき人間の自我の脆弱さが、情けないまでに炙り出されてくるのである。


「アイヒマン実験」・実験者Eの指示で、「教師」Tが「生徒」Lに電気ショック(ウイキ)

ミルグラム教授によって実施された、イェール大学での「アイヒマン実験」において、65%の者がそれを加えれば死ぬかも知れない電圧のスイッチを押したということは、やはり由々しき事態と言うより外はないのだ。

人間はこれほどまで簡単に、「理性」とか「良心」を稀薄化させることができる存在なのである。

それ以外の選択肢がないという、閉鎖的で、退路が剥奪された苛酷な状況に人間を置かないこと。

少なくとも、それだけは、人間学についての学習的な真理の一つであることは間違いないであろう。


アドルフ・アイヒマン(ウイキ)
(注)ナチス・ドイツのホロコーストの現場責任者であったアドルフ・アイヒマンが南米で逮捕され、裁判の結果処刑された翌年、狂人とされていたアイヒマンの、そ の人並みの人間性が裁判で露呈化されたことを受けて、ホロコーストに関わった者たちの精神の非狂人性を検証するための実験だった。

実験はまず、心理テストに参加するごく普通の市民たちを募集することから始めた。 応募した市民たちにボタンを持たせ、マジックミラーの向こう側に坐る実験対象の人たちのミスに電気ショックを与える仕事のアシストを求める。こうして実験 はスタートするが、事前に実験者たちから、あるレベル以上の電圧をかけたら被験者は死亡するかも知れないという注意があった。

それにも 拘らず、60パーセントにも及ぶ実験参加者は、被験者の実験中断のアピールを知りながら、嬉々としてスイッチを押し続けたのである。

これは、学生も民間人も変わりはなかった。勿論、実験はヤラセである。電気は最初から流れておらず、被験者の叫びも演技であった。しかしこれがヤラセであると知らず、実験参加者はボタンを押したのである。このヤラセ実験の目的は、実は、「人間がどこまで残酷になれるか」という点を調査することにあった。



4  「疑似権力関係」の明瞭な役割を演じ切ることによって露わにされる、私たち人間の圧倒的な脆弱性



本作のように、看守被験者と囚人被験者に分れて、そこに疑似的だが、紛う方なき「権力関係」を付与してしまうばかりか、この疑似的「権力関係」が発動しやすい特定化された空間、即ち、クローズド・サークルの狭隘で、閉鎖系の空間が仮構する〈状況〉に捕捉されてしまうと、役割を与えられただけに過ぎないにも関わらず、役割を演じながら生きていく人間の社会的な性格が反転し、抑制系を無化する程の暴走を惹起するということである。

看守組に実験を指導する責任教授
まして、そこに「疑似権力関係」の仮構の産物として、「権力関係」を発動することで得られる加虐快感という、極めて厄介な情動系がリンクすれば、疑似的に仮構したに過ぎない「権力関係」の幻想が「蜜の味」と化していくであろう。

この「蜜の味」という代物が厄介なのだ。

本作の主人公である、タレクという名のタクシードライバー(囚人の認識番号77号)による挑発的態度を抑圧することで、その77号に、「はい、看守さん」と言わしめることで手に入れた権力の格別な快楽は、そのレベルで抑制的に立ち止まるという現象を身体化させることなど殆どなく、先の見えない伸び切った快楽の稜線はエスカレートしていくだろう。

エスカレートしていった権力という名の蜜の味は、相手が敵対的人物であれば尚更、その人物の卑屈のさまを見て愉悦する加虐の暴走によって、大抵、極限まで突き進んでいく。


女性研究者まで看守に暴行されるに至る


要するに、そこで発動された疑似権力の暴走を抑えるに足る、第三者の強力な介入がなければ、既に理不尽なる「前線」と化した、袋小路の閉塞的な特定スポットの、オーバーフローした煮沸の液状のラインの内側で、人格性を剥奪された者たちの死体の山が累加されていくばかりであるに違いない。



これは元々、組織内闘争それ自身による惨劇を、全く想像だにしないで開いた連合赤軍事件での、「総括」という名の同士殺しの例を持ち出すまでもなく、多くの場合、負の条件が加速的に集合することによって惹起され得る極めて危うい事態が、袋小路の閉塞的な特定スポットの中で、ダラダラと非生産的に延長されていけば、このような〈状況〉が分娩されるリスクが高まった挙句、その〈状況〉に関与してしまった者たちの自我の崩れは一気に進み、〈状況〉を悪化させるだけの爛れ切った事態の自壊的な展開を必至にするものである。

裸にされた囚人役の被験者
それ故、本作から私たちが学習すべきものがあるとすれば、被験者たちの全てが、ごく普通の理性的人間であった事実の重さが暗に語っているように、誰しも、このような「疑似権力関係」の中に放り込まれ、そこで偶発的に要請された「疑似権力関係」の明瞭な役割を演じ切ることによって露わにされる、私たち人間の圧倒的な脆弱性への認知以外の何ものでもないだろう。


人間は、ここまで愚かになれるのであり、ここまで本来的な脆弱性を晒すのである。

それは、自我によってのみ生きる人間の脆弱性であり、その自我という、不全形の何とも頼りない有りようこそ、人間の脆弱性の根源に横臥(おうが)しているのである。

(2011年12月)

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