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2008年11月2日日曜日

天国と地獄('63)     黒澤 明


<三畳部屋での生活を反転させたとき>



 序  「面白いだけの映画」の範疇をほんの少し突き抜けて



 相変わらず曖昧さを嫌う黒澤作品の中で、存分な娯楽性を含んだサスペンスドラマの秀作。

 いつもながら描写のリアリズムだけは徹底していて、そこに声高で暑苦しい演出が塗り込められてくるから、今ひとつ私は、この巨匠の作品に馴染めないでいるが、しかしテーマ全体を象徴する印象深いラストシーンが用意されることで、この作品は単に、「面白いだけの映画」の範疇をほんの少し突き抜けることができたと思われる。

 それが理念系の適度な暴れ方を見せた、極めて強引な状況描写であったと思われるものの、言わば、ラストシーンでの、犯人竹内と実業家権藤との対決の構図の内に、それなりに良くできた人間ドラマの性格が内包されていたことは否定できないだろう。

 大筋はサスペンス映画の緊張感を含む娯楽ムービーとして、テンポ良く軽快に走ってきたこの作品に、それなりの骨格を与えるメッセージ性が集約されることで、一定の成功した社会派作品として、この「天国と地獄」という映像の評価が定まったと言えるだろうか。(この点についての評論がメインになるので、後述する)

  ラストシーンがなければ、私の中で、大いにハリウッド受けする一級の娯楽映画として片付けたであろうこの作品のプロットを、克明にフォローするのは意味がないので、ここでは簡単なストーリーラインを紹介するに留めておく。



 1   緊張感溢れるサスペンスフルな描写の連射



  「ナショナル・シューズ」という製靴メーカーの権藤専務は、息子を誘拐したという電話を受けた。ところが、誘拐犯人である電話の男が誘拐した少年は、権藤家の運転手の息子。開き直った誘拐犯人の要求は、運転手の息子の命の代償に三千万円を払えというものだった。

 煩悶する権藤は、結局、金を出すことになり、その後の展開は、権藤邸に張り込んだ刑事たちとの、緊張感溢れるサスペンスフルな描写に繋がっていく。


 特急列車からの札束入りのバッグを河川の堤で受け取った犯人は、刑事たちをを嘲笑することで、逆鱗に触れた刑事たちとの、苛烈な逮捕劇の顛末がリアルなタッチで描かれていくというのが、プロットの基幹ラインである。

 誘拐された少年は無事に戻ったが、それでなくても、孤立していた権藤は会社を追われることになった。

 事件の責任を感じた運転手は、無事に生還した息子の書いた絵から、監禁された場所が江の島近辺と判断して、毎日息子を伴って、江ノ島通いの日々を過ごす。その努力が実って、刑事たちは遂に犯人の隠れ家を探し出すが、その家には男と女の死体が置き去りにされていただけ。麻薬によるショック死だった。

 まもなく、ある病院の焼却煙突から煙が立ち昇っているのを見た刑事たちは、現場に急行した。(金を入れた鞄には、それが燃やされた際に特殊な煙が出る仕掛けが為されていたのである)

 遂に犯人が特定され、、苦労の末に逮捕するに至った。映像のラストは、犯人と権藤との直接対決が待っていたという落ちで、エンドマーク。

 犯人竹内が、彼を尾行していた刑事たちの執念によって捕縛されたという、これだけの作品だったら、単に「面白いだけの映画」として、30分も経てば忘れてしまうだろう。良かれ悪しかれ、これが「面白いだけの映画」の宿命なのだ。

 まして多くの黒澤作品は、いつも何かそこに言いたいものを持っていて、しかもそれを、叫ぶようにしてフィルムに鏤刻(るこく)してくるから、彼の作品は常に平易なのである。およそ黒澤作品には、寡黙な映像が似つかわしくなく、いつもてんこ盛りで、しばしば怒涛の如きメッセージが放たれていく。

 人間とは、社会とは、人生とは・・・という問いに、作り手自らが、何かいつもその作品の中で答えを出してしまうような、言わば、聖職者とか教師のような説教が含まれることがしばしばあり、それが私には厄介なのだ。

 そんな厄介さの片鱗が、「天国と地獄」という著名な作品にも覗えるものの、ラストシーンのメッセージ性は、俳優の演技力と、そこに勝負を賭けたような心理描写の展開によって、一定の説得力を持つことができたと言える。



 2  幻想と戦った男のあまりに悲痛な心の風景



 ―- この稿では、上述した一点にのみテーマを据えて言及する。
 
 犯人竹内の心情は屈折しているが、その屈折のさまにはリアリティがある。その地獄の生活風景から覗く、権藤邸の風景は、その周囲に広がる庶民階層との、「適正」な距離感のとれない生活のさまを、あざ笑うかのように屹立している。

 インターン(注)である竹内は、インテリとしての自分の立場にあまりに不相応な、自らの三畳部屋での生活を反転させたとき、彼の視界に映る権藤邸は、その傲慢な存在性によって憎悪の対象にしかならなかった。まさしくそれは、彼のインターンとしての不安定な身の置き方によって、その感情を加速させたに違いないと想像される何かであるに違いない。


 恐らく彼は、実母(ラストシーンで、唯一語られる)の身を削るような苦労によって大学を出た後、何のコネもなく、厳しいインターン生活を強いられる中で、その成育史に貯えられた膨大な野心やストレスの出口を失ったとき、そのエネルギーの尖った部分が権藤邸に向けられたと想像できる。(但し、このような犯人の心情描写が映像では全く欠落しているので、ラストシーンの設定が多分に浮き上がってしまった印象は拭えない)
 

(注)医学大学、または医学部の必要なカリキュラムを履修後、国家試験の受験資格を得るために課される実習訓練のことだが、1968年に廃止され、研修医制度となる。


 ともあれ、竹内が起した事件が、彼が標的とする権藤ではなく、そこに仕える運転手の息子を誘拐し、それをネタに権藤を脅迫するという事件であったことは、彼の犯罪が単に営利誘拐の範疇に収まらないことを意味している。

 彼は権藤という実業家を一気に破滅に追い込むというよりも、真綿で首を絞めるような加虐行為によって存分に苦しめ、その悪足掻きのさまを見届けることで、権藤に地獄の苦しみをたっぷり味合わせたかったのであろう。

 しかし、そのような単純な心理に留まらないところに、一つの誘拐事件が内深くに抱えた屈折の様態がある。

 その地獄を味合わせた竹内自身に対する、権藤からの深い恨みへの反転こそ、犯人竹内が切に求めて止まなかったものであるに違いないからである。

 だから彼の犯罪は、屈折した憎悪を起点とし、相互の立場の優劣性を逆転させることで、相手には悔恨の念を、そして自らは、その醜態を確認したときの快楽を手に入れるという、どこまでも黒々とした感情に支配されていたと言えるのだ。

 映像の半ばで、犯人竹内がその姿を初めて現したとき、そこに映し出された彼の曇った表情は印象的だった。

 彼が仕入れてきた新聞各紙には、他人の息子を救った権藤への絶賛記事で溢れていたからだ。

 彼は既に誘拐した息子を解放し、鮮やかな手口で身代金を手に入れていた。権藤を決定的的破滅に導き、その苦悩を愉しむという彼の目論見は綻びを見せたが、この時点で彼は、権藤との勝負に未だ負けていない。なぜなら権藤は、自ら覚悟して失った金で豪邸を手放し、彼が専務となっていたナショナル・シューズの重役の任を解かれることになるからである。

 遂に竹内は、権藤の破滅を目撃する時間を手に入れることができたのだ。

 今や彼の屈折した自我は、凶悪犯罪の主犯として、薬物依存症者の共犯者を抹殺することで、少なくとも、権藤の金と名誉を奪って、自らを守り抜くという犯罪を完結する以外に流れようがなかったのである。

 ところが、警察の地道で巧みな捜査によって、まもなく竹内は捕縛されることになった。

 それでも捕縛された犯人には、その犯罪の本当の目的を自己完結する必要が残っている。恐らく、男は捕縛されても、その犯行のモチーフさえ充足させれば十分なのだ。破産した実業家権藤と犯人竹内との、最初にして最後の決定的な直接対決が、犯人サイドから要請されたのである。

 まさに、捕縛された後の映像は、そこに勝負を賭けたと思われる、象徴的なラストシーンに流れていくしかなかったのだ。

 拘置所内でのラストシーン。

 そこに死刑執行間際の竹内と、彼に呼ばれた権藤がいる。竹内は確信犯のような笑みを浮かべて、権藤に話しかける。

 「やあ、権藤さん。どうもわざわざ。元気そうですね。今、何をしてらっしゃるんです?」


 権藤は冷静な表情を崩さないで、静かに反応する。

 「相変わらず靴を作っているよ」

 その瞬間、竹内の表情が変わった。そこに権藤への敵意の感情が炙り出されて、ただ睨みつけるだけだった。

 「小さな会社だが、それを私に任せてくれるという人がいてね。私はね、それをナショナル・シューズに負けない会社にするつもりで頑張っている」
 
 明らかに、竹内は言葉を失っている。

 彼は権藤の「地獄の日常」を確認するために、わざわざ彼をここに呼びつけたのだ。竹内の目論見の破綻は決定的だった。彼は権藤のことを、結局、何も理解していなかったのである。

 権藤が身代金を他人の息子のために出すであろうことを確信し、その権藤の人の良さが身の破滅に繋がることを予測していたに違いない竹内は、そこまで権藤のことを調べておきながら、無一文になった彼が、再び裸一貫で出直す気骨を示すであろうことを読み損ねていたのだ。

 既に彼は、最初にして最後の、この直接対決の場の冒頭で、権藤との対決に敗北していたのである。

 苦渋な沈黙の中から吐き出す竹内の言葉は、過剰なまでに芝居がかっていた。

 「どうしてそんな顔で私を見るんです!私はこれから殺される。でもそれを恐れてなんかいませんよ。だから、そんな憐れむような目つきで私を見るのはやめて下さい・・・それが嫌だから私は教誨師も断ったんです。悔い改めたり、神様に縋ったり、どうして私まで、そんなつまらないことをしなけりゃならないんです。私はね、親切な気持ちで嘘を言われるより、残酷な気持ちで本当ことを言ってもらった方がいいな・・・ところで権藤さん、私が死刑になって嬉しいでしょ?嬉しくないんですか?」
 
 竹内は、自らの敗北の認知を相手に悟られることを懸命に隠している。地獄に棲んでいた自分が、本物の地獄に堕ちることを恐れるわけがない。だから、自分を地獄に導く神の祈りを不要とするのだ。

 しかし、それが強がりであることを実感するからこそ、彼は余分な言葉を加えていくのである。毅然と構える権藤に対して、自分の処刑を望む感情を引き出したいのだ。それが引き出せれば、自分の犯罪が権藤の転落と、そこに起因する決定的な失意を招来した事実を立証できるからである。

 こんな無力な挑発に、権藤は特別な感情を交えずに反応してきた。

 「どうして、そんなこと言うんだ。君はなぜ、君と私を憎み合う両極端として考えるんだ」

 権藤は竹内の真意を測りかねている。竹内がその心情を吐露するには、このときしかなかった。

 「なぜだか分りませんね。私には自己分析の趣味なんかありませんからね・・・ただ私のアパートの部屋は、冬は寒くて寝られない。夏は暑くて寝られない。その三畳の部屋から見上げると、あなたの家は天国みたいに見えましたよ。毎日毎日見上げている内に、だんだんあなたが憎くなってきた。終いにはその憎悪が生きがいみたいになってきたんですよ。それにね。幸福な人間を不幸にするってことは、不幸な人間にとってなかなか面白いことなんですよ」
 
ここで初めて、この映像で最も核心的な表現が刻まれた。

 竹内の屈折した感情が、映像の最後で開かれたのだ。

 彼は自分の最後で、唯一のカードを切ったのである。しかし自分が切ったカードを、相手は理性的な反応によってしか返してこなかった。
 
 「君はそんなに不幸だったのかね」

 竹内にとって権藤という人格は、命を賭けて倒すべき何者かではなかった。天空に聳(そび)え立つ権藤という名の城に、貧しきインターンの竹内は、その貧しさ故に幻想しか見えなかったのである。彼は幻想を相手に戦いを挑んでしまったのだ。

 自らの不幸を見透かされる言葉を吐くことで、彼は追い詰める者ではなく、追い詰められる者になってしまったのである。苦渋な沈黙の内に、死刑囚の高まる動揺が見えないところで暴れていた。
 
 「身の上話をしろって言うんですか。真っ平ですね。私は自分がどんなに不幸せだったかを話して、今更、同情なんてしてもらいなくありませんよ。幸いお袋も去年死んで、胸くその悪い、めそめそした幕切れにならなくて済んで、本当に良かったと思ってるんですよ」
 
 権藤は直裁に反応した。

 「それで君は一体、何のために私を呼んだんだ」

 追い込まれた竹内の感情は、今やその噴出し口を見つける以外になかった。
 
 「私が泣き喚いたり、びくびくしたり、惨めったらしく死んだなんて、あなたに想像されるのはたまりませんらね・・・」

 竹内は完全に敗北していた。

 彼の手は震え、二人を分ける金属の仕切りに、その手が助けを求めるかのようにして絡んでいた。

 「この手が震えているのは怯えているからだと思うでしょ。ところが、全然関係ないんだな。長い間独房に入れられているとこうなるんです。単なる生理現象ですよ。独房から出されただけで震えてくるんです。本当ですよ。・・・私は死刑なんか怖くも何ともない。地獄へ行くのも平気だ。生まれた時から私は、地獄みたいな生活には慣れているんです。フフフ、天国へ行けなんて言われたら、それこそ本当に震えあがるかも知れませんがね。ハハハハ、ハハハハ」

 あまりに痛々しかった。

 決して見せてはいけない相手に、見せてはならない感情と脆弱な身体の悶絶を晒したとき、男はもう抑制を失っていて、息絶えそうだった。処刑の前に、既に彼の自我は壊されてしまったのだ。

 男は両膝を叩くや、頭を抱え込んだ。

 「ウォー!!」

 奇声を発して男は突然立ち上がり、再び頭を抱え込んだ。異常を察した看守が入って来て、常軌を逸した男を抱えるように連れ去った。そのとき、二人を分ける面会室のシャッターが下りてきて、権藤の凛とした後姿だけが映し出されていた。

 「天国と地獄」というモノクロの映像も、闇の中に吸い込まれていったのである。

 この娯楽映画のラストに用意された、あまりに端的なメッセージ。

 それは、幻想と戦った男のあまりに悲痛な心の風景であり、男が作った地獄もまた幻想の風景であり、結局、幻想の中で、自らを直線的に立ち上げていく物語を作り出せなかった者の、その心の弱さを炙り出すものだった。男は最後まで敗者しか演じられなかったのだ。

 一方、男が戦った壮年のビジネスマンは、勝者でも敗者でもなかった。

 権藤という男は、竹内から子供を戻すために全身全霊を賭けて動いただけであり、竹内が挑んできた「敵対者」という不本意な役割を、特別な感情を込めて最後まで演じようとはしなかったのである。


 彼の真の敵は、ナショナル・シューズという腐敗しかけた会社の中にいたが、まもなく彼らとの戦いが継続力を失ったとき、彼はまた別の新しい自己像を立ち上げていた。権藤とはそういう男だった。

 彼はやはり、黒澤の他の作品の主人公のように、ここでも逆境を突き抜けるスーパーマンだったのだ。

 そのスーパーマンに対して戦いを挑んだ竹内の哀れさは、そこに極まったのである。



 3  「高台の天国」と「低層の地獄」という風景の二極対立の、類型的な把握による映像的構図の安直さ



 残念ながら、映像を通して、竹内という男の屈折した心情描写がきちんとフォローされていないため、ラストシーンの本来の重厚さが剥落してしまった。

 映像の中盤から殆ど主流を占めた警察サイドの、緊張感溢れるテンポ良い捜索劇によって、そこだけは、トータルな人間ドラマとしての均衡を保持したかのような印象を受けるが、その分、映像のテーマ性の表現が稀薄になってしまったのである。

 中でも一番気になったのは、地獄を象徴するヘロイン中毒者に犯人竹内が接触し、その殺害に至るまでの描写の不必要なまでの長さである。

 大体この当時、横浜にここまで露骨なヘロイン中毒者が、平気で街中に屯(たむろ)している風景は考えられない。アヘン戦争時の中国の貧民窟を思わせるこの描写の不自然さは、原作に無理に照合させようとするものでなかったら、大上段に振りかざしたテーマ性から、「地獄」のイメージを強調させようとする作り手の強引な意図に拠っている。そう考えざるを得ないのだ。


 更に私が、この映画にどうしても馴染めなかったのは、権藤邸に象徴される「高台の天国」と、それが俯瞰する貧しいスラム街を思わせる、「低層の地獄」という風景の二極対立の、如何にも類型的な把握による映像的な構図である。

 この映画の原作となった欧米の階級社会の、その際立った風景を、相対的に階級意識の稀薄な日本にそのまま移設してきたかのような違和感が、最後まで私の内側に残ってしまったのである。豪邸の開放系となった窓から、遥か低き世界を見下ろす感覚は、私たち日本人には未だに馴染みにくいものがあると言えるだろう。

 周囲の視線を意識して生活する日本人には、高級住宅街という、それだけで閉鎖的な宇宙を形成する空間を受容する意識はあっても、スラムを見下ろす豪邸の所在という風景感覚は、なかなか形成されにくいものなのである。

 娯楽作品としては超一級の面白さを感じただけではなく、映像総体から孤立しつつも、ラストシーンのメッセージ性がそこに加わって、大筋では充分満足のいく作品に仕上がっているものの、以上のようなプロットや、強引とも思える状況設定のリアリティの欠如をベースに、描写のリアリズムだけが被さってしまっていて、映像から受ける全体の満足度としては60点というところだろうか。それでも切れ味鋭い黒澤演出の冴えを、充分に堪能することができたのは間違いない。              

(2006年1月)

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