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2009年6月9日火曜日

闇の子供たち('08)   阪本順治


<「象徴的イメージを負った記号」の重量感に弾かれて>



1  象徴的イメージを負った記号



ここに、6人の日本人がいる。

1人、2人目は梶川夫婦。拡張型心筋症の息子(8歳)を持ち、近々、タイで心臓移植を計画している夫妻である。①

3人目は、買春目的でタイに行き、非合法でペドフィリア(小児性愛)を愉悦し、それを動画サイトに投稿する男。②

4人目は、人の眼を見て話せないために、隠し撮りを生業とするフリーカメラマンの青年、与田博明③

5人目は、「見て、見たものをありのままに書く」ということをモットーとするジャーナリスト、清水哲夫。④

6人目は、「所詮、自分探しなんだろ」と揶揄(やゆ)されながらも、タイのNGOで行方不明の少女を捜そうと試みる、ボランティア志望の若い女性、音羽恵子。⑤

そこに、「善悪」、「正義・不正義」の観念的判断を媒介させないで言えば、本作の中に、この6人の日本人の人格の内にそれぞれ象徴される固有の人生テーマ、生活様式、欲望ライン等が付与されていて、時には対立的に、しばしば重厚にクロスし合って、物語の骨格を成している。

それぞれを、①子を持つ親の愛、②小児性愛、③視線恐怖・臆病心、④職業的な平均スタンス、⑤正義という名のの感情ラインで突っ走る直接行動主義、という風に仮託しておこう。

そしてこの6人の中で、②の日本人を除いて、他の5人と何某かの接点を持ち、且つ、この6人が身体表現する全ての象徴性を具有している日本人がいる。

南部浩行
言うまでもなく、本作の主人公である南部浩行である。

彼はバンコク支局駐在の新聞記者であるが、本社からの依頼でタイにおける人身売買の取材の過程で、生きたまま臓器移植される子供たちが存在するという震撼すべき事実を知り、まさに命懸けで、「闇の子供たち」の地下世界の深奥に迫っていく役割を演じている。

ここでは詳細なストーリーはフォローしないが、ただ本作が、そんな正義感溢れるジャーナリストのスーパーマン性を描く映画ではないことだけは確認しておこう。

その南部浩行が「ぺドファイル(小児性愛者)②」の過去を持ち、それ故、子供からの「視線恐怖③」にしばしば怯(おび)え(それを最も象徴するシーンが、花売りの少女の視線に過剰反応する序盤の描写)、それでも今はその病理の克服過程にあるのか、酒浸りの生活の中で最低限の「職業的な平均スタンス④」を捨てていないギリギリの日々を送っていた。

無論、映像は南部のその忌まわしき過去の一点のみをサスペンスタッチで描いていくから、観る者は彼のその振舞いの意味を、「闇の子供たち」の真実に肉薄しようと努める職業的な関心領域の範疇から生まれた、単に子供好きの男の自然な反応という風に了解するであろう。だから、このような描写が断片的に挿入されても、あっさりと看過してしまうはずである。

男のその最も由々しき病理を、観る者はラストシーン近くの描写によって知ることになり、そこに作り手が相当の覚悟を括ったに違いない、ラストシーンの多分に挑発的なメッセージ、即ち、「この映画は日本人自身の問題なんだ」という含みを持つ反転の描写が繋がることで、本作と誠実に付き合ってきた過半の観客は袈裟懸(けさが)けに遭うことになるだろう。

私たちは、このような物語設定の是非と評価を巡って、それぞれの感懐を持ち、或る者は許容できない気分の内に映像の嘘の世界に置き去りにされるかも知れない。当然、私も許容しないが、その辺りについては後述する。

稿を進める。

梶川克仁(右)、音羽恵子(左から二人目)
件の人物、南部浩行は、取材対象者に対する新聞記者としてのノウハウを心得ていたこともあって、攻撃性を削り取ったその穏健な態度が認知されたのか、唯一、梶川氏から二階で床に臥(ふ)す息子の姿を見に行く許可を得て、実行していた。

これは映像に映し出されなかったが、音羽恵子という突貫娘によって壊された取材の直接現場で一人残った南部に対して、梶川氏が温和に対応したのは、南部もまた妻子を持つ身であることを知った氏の、心の琴線に小さく触れたからであるだろう。①

そんな男が、独りよがりの感情的行動に走るだけの恵子を「バカ女」呼ばわりしながらも、「正義の感情ラインで突っ走る直接行動主義」とは切れてはいたが、それでもタイのマフィアに暴力を振るわれ、その命令一下で動くチットという、「闇の子供」の過去を持つ「運び屋」に、「ここはお前らにとっちゃ外国だ。外国には外国のルールがある。おかげで、お前らは買春ツアーやりたい放題だ。見てて反吐が出る。気色悪い日本人どもめ。お前ら、心の中で何度も殺してやったよ。嗅ぎ回るのをやめりゃ、殺すのは心の中だけにしてやる」などと恫喝されたとき、「分った。許してくれ」とタイ式土下座をした後、「見て、見たものをありのままに書く」ことを断念しなかったのである。

恵子の直接主義に近い辺りで、彼もまた匍匐(ほふく)していたのだ。⑤

しかし、正義の感情ラインを僅かばかり延長しただけの、男の行動主義はそこまでだった。

ラストシーンに流れるマフィアと警察との乱射の現場に立ち会ったとき、彼はチットの恫喝の際に腰を抜かした与田のような、信じ難き臆病な態度を露呈させてしまったのである。彼は血生臭い現場から恵子を脱出させようとするが、「あたしは自分に言い訳をしたくない」と凛として返される始末だった。

おまけに、恵子の放った「手を離して」という一言によって、南部はペドフィリアの対象だった少年から、同じことを言われた過去の自分を想起して慟哭するに至るのだ。彼の臆病心のルーツには、癒されない過去に捕捉されていた心理文脈が横臥(おうが)していたのである。②、③

与田博明
更に、「臆病だから、何ですか、ファインダー越しに人と眼が合うと、緊張してブレるんですよ。だから、気づかれないように撮るのがいいんですよ」と言っていた当の本人は、南部からの強い要請を渋々受けて、「闇の心臓移植」のレシピエントとなる息子を連れた梶川夫人が、タイの空港に到着した現場を盗撮した後、その行動によって心情の変化があったのか、南部を訪ねて来て、「俺も見て、見たものを撮りたくなりました」と言い放ったのである。

結局、南部浩行の「人格」の内に仮託されていた幾つかの象徴的イメージを様々に身体化していた、時代の只中に呼吸する当の本人たち、とりわけ若い世代のリアルな人格性には、まさにその時代にほんの少し風穴を空ける程度だが、しかしそれが継続力を持つことによって、相応の破壊力を手に入れるかも知れない変容を予感させることで、時代を繋いでいくに至る固有性を刻んでいったのだが、その流れに乗り入れられない南部だけが過去に捕まって、一人の少年にその歩行を遮断され、路上で置き去りにされてしまうのだ。

勿論、このような把握は、筆者自身の主観の濃度の深い勝手な読解だが、それを敢えて敷衍(ふえん)させていくと、作り手が一身に背負ったかのような覚悟の中でイメージ化され、シンボリックに仮託された「南部浩行」という人格像とは、一種の記号以外の何ものでもないということになる。

「南部浩行」は、「象徴的イメージを負った記号」であった。

だから、その役割を演じ切ったら、死出の旅路に出なければならなかったのか。結局、男はその「象徴的イメージを負った記号」の重量感に弾かれて、映像の仮構世界を漂流しているだけだったように見えるのである。

具体的に言えば、彼が与田に放った、「いいんだ。撮れたんだったら、それでいいんだ。俺もあの子の顔をしっかり見たよ」という言葉に集約されるように、「見て、見たものをありのままに書く」だけの新聞記者の仕事を終えたら、もう彼には、「手を離して」とタイの少年に言われながらも、その少年の写真を捨てられない、あのペドフィリアとしての過去の深い闇の記憶しか残らなかったのである。

南部浩行(左)と音羽恵子
少年少女たちから、特定的に見つめられることへの視線恐怖からなお解放されず、それを分娩した禁断の人身売買に、自らがアクセスしてしまった闇の記憶が決定的な局面で蘇生したとき、男はもう時間を繋いでいく熱量を自給できなくなってしまったのだ。

思えば、直接行動主義の「バカ女」の恵子に、「俺、あんたを裏切っている」と一言添えた南部の心の闇の記憶は、自らが主体的に引き受けた「闇の子供たち」の取材の只中で、より鮮烈に蘇生させる方向を露わにするばかりであった。

当然である。

それでも、彼がその凄惨な仕事を引き受けたのは、「暴露療法」(注1)的な恐怖突入を図り、一気呵成(いっきかせい)のブレークスルーを身体化しようとしたものなのか。そこに贖罪の観念への思いが垣間見られるが、なおその脈絡が判然としないのである。

しかし彼の自死を単に人間学的な把握によって、恐怖突入によるブレークスルーの挫折を意味すると捉えたにしても、恐らく、作り手による、テーマを自己に反転させていくという類の、ある種の「観念の旅路」の逢着点であったという見方を否定するものには決してならないであろう。


(注1)PTSDやパニック障害に有効とされる療法で、不安・恐怖の対象に様々な手法で恐怖突入すること等を通して、原因因子となっている記憶を希釈化し、突破・克服していくこと。


ともあれ、このような難しい役どころを演じることが要請された俳優も大変だが、私の独断的見解を言ってしまえば、案の定、この役を演じた著名な俳優は見事にしくじっていた。

阪本順治監督①
俳優の選択のミスであるとも言えるだろうが、演出の失敗でなかったら、多分に既成俳優の能力の範疇を越える仕事を求めた、製作スタッフの援護を含む作り手の乱暴な映像の、リアリティを剝落させた着地点のイメージから遡及させた、乱暴極まる物語展開の安直な構成の、殆ど予約された失敗作であるように思われるのである。

なぜなら、件の主演俳優の「心の闇」の微妙で、繊細な表現力の決定的な不足が如実に感受されてしまったからだ。言わずもがな、男の「内なる闇」の部分をサスペンス仕立てにしてしまったから、そこだけは削れないと思える重要な内面描写を、本作の作り手はいとも簡単に捨ててしまったのである。そこに本作の決定的な瑕疵(かし)があると、私は考えている。

不可避と思える重要な表現を禁じられた俳優に、一体、どのような演技表現が可能なのか。

答えるまでもないことだ。

だからこそと言うべきか、予(あらかじ)め、それなしには困難な演技表現を制約されたしまった俳優が、それでなくとも拙い技巧をカバーするに足る限定化された内面描写を、同時に限定化された虚構の世界の、その限定的な時間の中で表現し得ることの厄介さは、単にそこで表現されるものの稚拙さだけを置き去りにするだけだった。

詰まる所、「象徴的イメージを負った記号」を演じ切ることの艱難(かんなん)さだけが、私にはひしと伝わってきてしまったのである。



2  虚構性の途方もなさと、それに寄り合えない「『闇』に隠された真実の物語」の無視し難い乖離




以上、出来得る限り、本作への筆者の読解について、これでも客観的に記してきたつもりだが、ここからは主観の濃度深い辛辣な批評を展開する。

結論を言えば、主人公を一種の「記号」の如き何者かにしてしまったため、本作はその根柢において自壊してしまったと、私は見ている。限りなく「真実の物語」に寄せた映像のリアリティが、それによって削られ、稀釈化されてしまったということだ。

―― 以下、本作で挿入された了解困難な描写についての問題点、更に映像総体の本質的瑕疵と思える辺りを、単刀直入に言及したい。


公式HPで、「値札のついた命 これは『闇』に隠された真実の物語」、「実際にタイのアンダーグラウンドで行われている幼児売買春、人身売買の現実」といったフレーズで煽情的にアピールする、あざといビジネスラインがそこにあった。

「生きたまま、健康な子供が殺されて移植される」という、その真鴈性が疑われる重々しいテーマが本作の中枢にあって、かなり粗雑な心理描写を含む物語がリンクすることで、硬質の社会派の問題作が生まれたが、結局、「これは日本人自身の問題なんだ」という作り手が最も重要だと思える問題意識のアピールに収斂されていくという手法が、抑制の効かないくらい暴れてしまっていて、相当の瑕疵を内包する作品となってしまった。

一切は作り手の、「最初に結論ありき」という問題意識を起点を置いたために、そのラインに沿った物語が、その虚構性を覆い隠し切れないほどに、映像総体のリアリズムを剝落させてしまったように思われるのである。

ぺドファイルの過去を持ち、その澱んだ記憶をなお封印できず、心の奥の粘膜に張り付くものが、ほんの少しの視界のシフトによっても炙り出されるだけの鮮度を保持しているが故に、自らが「果敢」に踏み入っていく「状況性」によって反転されるという自家撞着(じかどうちゃく)に搦(から)め捕られてしまっているのだ。

「STOP!子どもの人身売買~トラフィッキング反対キャンペーン~」
あろうことか、主人公がトラフィッキング(女性、子供の性的密売)と不法な臓器移植への「恐怖突入」を委任され、その最も回避したい仕事を本社経由で受けるという設定自体が、既に充分過ぎるほど物語のリアリティを削っていた。

それも全て東南アジアのおぞましい真実を、そこに加担する「日本人の犯罪性」への糾弾というフラットで、情感濃度の深い声高なメッセージを希釈化すべく、映像は一貫してサスペンス仕立てで構築されていくが、しかしテーマが支配する問題の深刻さの内に絡み、相乗し合って、複雑にリンクしていくべき基幹の物語のリアリズムの欠如が、ここでは、映像総体として不均衡な有りようを曝け出してしまっていたのである。

臆病で、ドライで、自己中のカメラマンが真摯な社会派に変貌したり、NGOの若い女が一貫して感情だけで暴れるスーパーウーマンを演じ、しかもこの二人のキャラクターの自我を無傷にさせたまま、日本が抱える欺瞞の現実を糾弾していくキャラクターの未来像を提示し、同時に贖罪を果たせなかった主人公を自死に追い込むことで、そこにサスペンス性の強力な補完によって成った物語の、その勝負を賭けた逆転劇の妙味もまた、ある意味で殆ど予約されたかのような逢着点を見出すというストーリーライン自体によって、あまりに安直な「作り物の造形」という印象を与えてしまうのである。

考えても見よう。

繰り返すが、この映画のサスペンス性は、主人公の記者自身が、実はぺドファイルの過去を重く引き摺る男だったという一点のみにあるのだ。

それを決定的に露呈させるラストシーンの見え見えの構図が、既に作り手の思いの中で固められていて、そこから遡及させていく物語のナビゲーターを兼務する、主人公の新聞記者が内包する心の闇が、「豊かさによる需要」が「貧困による供給」を作り出す構造性を内包する現代社会の、その不可視な空間に広がる深い闇に重なり合って、臓器移植と児童買春という本作の中枢的テーマを、サスペンスフルに繋ぐ物語の内に大仰に立ち上げられていくのである。

原作者の梁石日(ヤンソギル)
しかし、前者の闇のあからさまな虚構性は、後者の闇の「真実性」の重量感に対峙し得るに足る物語のリアリティを構築できず、何かそこだけが孤立した仮構世界となっていて、言語に絶するほどの深刻なテーマを扱う映像の中で、じわじわと、しかし戦慄すべき時間の、その爛(ただ)れ切った暴力性が運ぶ圧倒的な重量感に全く合わせられないのだ。

勿論、私のこのような主観の濃度の深い感懐は、作り手の映像の構想ラインとは隔たっているだろうが、それでもなお言及せずにいられないのは、様々に複合する「象徴性の記号」としてイメージ化された感のある主人公の「人格性」には、それ故にこそ、最初からリアリティが削られてしまっていると把握するしかないということだ。

結論を言えば、このような虚構性に満ちた物語ラインは不要なのである。

それは、「生きたまま、健康な子供が殺されて移植される」犯罪性の根深さについて、作り手が覚悟を括って訴えようとしているはずの、「トラフィッキングの内的反転」という基幹テーマに収斂させていく情感が過剰に押し出されてしまったため、主人公の「内なる闇」に関わるサスペンスフルな物語を挿入させることで、ストーリーラインを堅固に構築し得たと幻視してしまったのではないか。

然るに、このような物語設定の中で映像は不必要に漂流し、拡散され、観る者の問題意識の拠って立つ基点に鑑賞者としての態度形成を保障させることなく、虚仮威(こけおど)しの効果しか持ち得ない三流のサスペンスドラマのカテゴリーに包含される類の、その虚構性の途方もなさと、それに寄り合えない「『闇』に隠された真実の物語」の無視し難い乖離の内に、殆ど噛み合わない物語ラインがアナーキーに流れ込んでしまったのである。

そこに不要な装飾を被せることなく、シンプルなまでのオーソドックスな手法で、映像を構築すべきではなかったのか。

「物語性」より、抱えるテーマの深奥の闇を抉(えぐ)り出す手法の方が、観る者の注意分割力を防ぎ得たのではなかったのだろうか。切にそう思うのだ。



3  あざとい仕掛けによるサスペンス性の危うさ



ここからは、連射された不可解な描写について、描写を絞って具体的に言及してみたい。

本作のリアリティを相当程度崩した感のある、極め付けのシークエンスがあった。

駆出しボランティアの恵子
駆出しボランティアの恵子を、ジャーナリストの南部と清水が梶川家を訪問する際に、彼女の随伴を許容するが、取材に関わるルールを確認しなかったというシークエンスがそれである。

確かに、記者たちにはタイのボランティア団体との協力が必要だった事実があった。そのために日本に戻って来た三人だったことも分る。

それでもなお、この描写の持つ意味が、物語の展開において重要である事実を先読みするのは結果論の範疇であるのが理解できていながらも、私にはエリートとは言え、新聞記者の経験則を弁(わきま)えている程度において相応に世間擦れしている筈の二人が、情緒過多の突貫娘のキャラを多いに予感させる彼女を、よりによって取材の失敗が許されないレシピエントの息子を抱えていて、しかも由々しい状況下にある梶川夫妻宅への、困難なアプローチに随伴させてしまう心理が全く理解できないのだ。

なぜなら、既に梶川夫人の昼の帰宅を待って、二人の記者が取材の申し込みをする際に、突貫娘の印象を与える恵子が件の夫人に向かって、「タイで手術を受けるのは止めて下さい。タイの子供の命が奪われるんです!考え直して下さい!」などという激情的な挑発をする現場に、二人は立ち会っているのである。

そのとき、南部は恵子に対して、「いきなりあんなことを言ったら、相手がびっくりするだろ!話なんかできる訳ないよ!世間知らずだ、あんたは!」と諫(いさ)めていたのだ。それ以前にも、「所詮、自分探しなんだろ」と、清水に言われた際にもむきになっていた恵子の性格を、二人は把握していたのである。

結局、その後、南部は梶川夫人に謝罪の電話をした後、以下のような合理的恫喝の手法によって、梶川氏の帰宅を待って、その夜、取材を許容されたのである。

「こんなことは言いたくないのですが、お話できないのなら、一方的に貴方たちのことを記事にして、新聞に掲載します。後日、裁判所でお会いしましょう。しかしもしお話できるのでしたら、日が暮れるまで表で待っています」

このような手練手管(てれんてくだ)をを弄(ろう)する程度のリアリスト(?)でもあるはずの二人の記者が、恵子を車の中で待機させることをせずに、梶川家の訪問に随伴させた理由が納得できないのである。或いは、随伴の許可を与えたにしても、恵子に対する最低限のレクチャーが必要であるだろう。もしその類のルール確認を事前に済ましていたのなら、その辺の描写を削った意味が理解できないのである。

ボランティアの女性が取材に同行していると知ったとき、恐らく、梶川夫妻はその時点で取材の中断を決断したに違いないことは明瞭である。現に、その不安が的中してしまった経緯については、そのシークエンスを再現することで確認しておこう。

以下、梶川家での会話である。


梶川氏は、事情の一端を自ら語っていく。取材の機先を制したいのであろう。

左から南部、音羽、清水哲夫、梶川
「まず、2月の頭に大山という男から連絡がありました。タイで移植を受けることができると聞きました。(略)大山はタイの移植ネットワークを知る、日本で唯一の移植のコーディネーターであると言いました。そのネットワークに登録すれば、アメリカやドイツで提供者を待つより早く手術ができ、しかもタイの移植技術は、アメリカの先端技術に劣らないとも言ってました。タイの提供者のことについては、一切聞いていません。これで記事になるんでしたら、どうぞ。あと、大山という名前を伏せておいて下さい。」

「手術費用はもう払われたんですか?」と恵子。
「まだ、来月の末。手術の直前です」と梶山氏。
「まだ支払っていないのなら、アメリカで手術を受けさせて下さい。タイで手術を受けるということは、タイの子供が一人犠牲になるということなのです!死んだ子供の臓器が提供されるのではなく、生きた子供の臓器が提供されるということなのです!こんなこと許される訳がありません!お願いします。考えを改めて下さい!」

ここで恵子は、一方的に自分の感情を吐き下していった。

「これは取材じゃないんですか?」と梶山氏。まだ冷静である。

そんな冷静な態度に、恵子は逆上する。

「どうして動揺されないんですか?ご存じだったという事ですよね。殺される子供のことを考えなかったのですか!」

今度は語気を強めて、恵子は梶山夫人を糾弾するのだ。

「私はだた、息子に手術を受けさせたいだけです。手術を受けなかったら息子の命はあと半年しか持たないのです。一刻を争っているのです。アメリカでの手術を待っていたら、息子の命は助かりません。貴方は、息子に死ねというのですか?そんな権利は誰にもありません!」

夫人は目前の恵子に向って反応するが、当然そこには、突貫娘に対峙するに必要な分の強い感情が乗せられていた。

「それでしたら、タイの子供の命を犠牲にする権利も貴方たちにもないはずです!」

恵子の反駁は、もう怒号に近かった。
その怒号に、梶山氏の感情も切れてしまった。

「もう一度聞くぞ!これ、取材じゃないのか!何で、NGOの人間がここにいるんだよ!」
「貴方たちは、人の命をお金で買うんですか!」と恵子。
「それを言っちゃダメだ」と南部。もう制止が困難になっている。
「翼は、タイに行くことが決まって、病院を出てからずっと二階の和室に寝ています。貴方たち見ますか?二階に上がって私の息子を見て下さい。やせ細って、口もきけない私の息子を見て下さい!」
「これは犯罪です!許されることではありません!お願いします。考えなおして下さい!」

恵子はとうとう、タブーを破ってしまった。

「私の子供に何の罪もありません。それなのに死ねというのですか!帰って!帰って!」

梶山夫人の感情の氾濫も、抑制不能になっていた。

その後、一人残った南部は、梶山氏から子供のことを聞かれ、「今は一緒に住んでいません」と答えるのみ。

「一緒に暮らした方がいいよ」と言う梶山氏の許可を取って、「拡張型心筋症」(注2)で病む氏の息子の顔を見に行くが、映像は映し出すことをしなかった。恐らく、観る者の感情移入を回避したかったのだろう。


(注2)「拡張型心筋症は、心筋の細胞の性質が変わって、とくに心室の壁が薄く伸び、心臓内部の空間が大きくなる病気です。その結果、左心室の壁が伸びて血液をうまく送り出せなくなり、うっ血性心不全を起こします。左心室の血液を送り出す力は、心臓の壁が薄く伸びるほど弱まるので、心筋の伸びの程度で重症度が決まってきます。拡張型心筋症の5年生存率は54%、10年生存率は36%と極めて不良で、突然死の発生もまれではありません」(「goo ヘルスケア」HPより・【執筆者:前嶋康浩氏、伊藤 宏氏】)


次の描写は、スナックでの三人の会話。

「あんたの言ったことは説得じゃない。ただの感情だ。『人殺し』とただ叫んでいるだけだ。あんたはバカだ」と南部。
「貴方に感情はないんですか!助けたいとは思わないんですか!」と恵子。
「助けたいさ、俺も。助けたいに決まってるだろ、タイの子供を!心臓を取られる前に、たとえ、その子を救えたとしても、また次の子供が連れて来られるんだ。それをどうやって、食い止めるって言うんだ!」
「それじゃ、このまま見て見ぬ振りをするんですか!」

この攻撃的な問いかけに答えたのは、カラオケを終えた清水。

「俺たちは見て見ぬ振りなんかしないよ。見て、見たことを書くんだ。同じことが起きないように、見て、見たことを、ありのまま書くんだよ」と清水。
「それは貴方たちの仕事でしょ!」
「自分だけが辛いと思ったら大間違いだ。バカ女!」

相変わらず攻撃的な恵子に対して、南部の感情が爆発してしまった。

「あたし帰ります」と言って、帰りかけた恵子に向かって、南部は小さな声で一言。
「俺、あんたを裏切っている…駅、右だから」

全く意味不明な、南部のこの唐突な反応に観る者は違和感を覚えるに違いない。

阪本順治監督
要するに、本作の作り手は、最初から決めたラストシーンの決定的な構図への布石を打っていくのである。

そこだけが物語の中枢となっている本作の作り手の、そのあざとい仕掛けによってのみサスペンス性が支えられているから、観る者に読解させない程度において、様々な布石を小出しにする必要があるのだ。

それにしても、この「俺、あんたを裏切っている」という言葉の直接性には驚きを禁じ得ない。

それでもまだ種明かしはしないという作り手の自信が、このような類の稚拙な台詞を吐かせている訳だから、余程、主人公役の俳優の清新なイメージが鮮烈であり過ぎるのか、それとも件の俳優が、その内面描写の決定力によって観る者の注意喚起力を惹起させないのか不分明だが、明瞭に言えることは、そのような感懐を観る者にもたらすことがないほど、作り手が虚仮威(こけおど)しのトリックに熱心だったという事実以外ではないだろう。

何しろ、この作り手は、「この映画を見る人たちには、たじろいでほしい」などという、観る者の感性受容度を勝手に測ってしまうほどに傲慢な発言を残す映画監督だから、相当に「覚悟」を括った御仁なのだろう。全く「たじろぐ」ことがなかったばかりか、観終わった直後、その映像的完成度のお粗末さに呆れ返るだけの私にとって、この作り手のコメントに触れて、思わず吹き出してしまったほどである。



4  説得力を持ち得ない内面描写の脆弱さ



批評を繋いでいく。



この後、タクシーの車内で、南部らしき男が子供の手を引くシーンがあるが、同様に簡単に素通りしてしまうに違いない。その場面でも、内面深く漂流しているかの如き暗鬱な旋律が追いかけてくるものの、車内で思わず首を振る男の闇のイメージラインは壊されないのである。私には、一切が不要な描写であるという以外になかった。何もかも目障りなのだ。何もかも過剰なのだ。

結局、梶川家を端緒とする一連の強引なシークエンスは、「内なる闇」を持つ南部と、それを全く持たない突貫娘との、特定的な活動前線での一つの小さなスポットで、「バカ女!」と男に言わせる交叉と、その男の自己矛盾を確認させる交叉によって対峙する関係様態を鮮明化し、後に本物の「前線」で再会を果たす二人の、その方向性の決定的な相違への布石になっているということだ。

要するに、物語の「勝者」と「敗者」を判然とさせる含みが、この重要な一連のシークエンスの内に集約されているのである。だから物語の基幹ラインを壊さないためにも、このように極めて強引な描写が挿入されたと把握する以外にないのだろう。

一切が、「勝者」と「敗者」を明瞭に分け、それによって生じる価値観の選択状況への侵入を、それもまた無遠慮に、且つ堂々と、観る者に要請してくるかのようでもあった。

ついでに言えば、最終的に「勝者」となった「バカ女」の恵子が、危険を顧みず、ゴミ袋からアランヤーを救出するというシーンでは、大の男を蹴り上げて路傍に倒し、とうとうミニ・スーパーウーマンに変容して見せるのだ。こんなシーンなしに救出劇を描出できると思えるのに、敢えてアクション映画の娯楽性をも導入するに至ったということであるのか。

咄嗟の腕力を必要とするこんな行動が、体の小さな突貫娘に可能であったとはとても考えられないが、それでもここでは「映画」の虚構性に丸投げすることで、消化不良の観客に一服の消化剤を処方したかったのだろう。


更に書けば、もう一人の「勝者」を予約した感のある、他人の眼を見て話せない視線恐怖を自認する、隠し撮り専門のフリーカメラマン与田博明は、「お前ら、心の中で何度も殺してやったよ」と恫喝するチットが去ったとき、腰を抜かして、「前線」の恐怖をリアルに感受する「普通の臆病さ」を体現していたはずだが、「前線逃亡」を決めて帰国の途に就こうとしたそのタイミングに、南部からの要請を渋々受けて、梶川夫人がレシピエントの息子を連れて到着した所を盗撮した後、その状況のリアリズムに目覚めたのか、突然、ヒューマニストに変身してしまうのである。

そのときの会話。

「疑ってたけど、嘘じゃないですね」と与田。
「これから十日間ほど検査だ。検査が終わったら、次は提供者の子供が連れて来られる…」と南部。
「カメラマンに向いてないんすかね」と与田。
「でも、カメラがなかったらダメだったんだろう」と南部。
「まだ、続けるんですか?」と与田。
「犠牲者の子供が、どんな顔してあの入口から入って行ったのか、見なきゃいけないだろう。助けられなかった代わりに。それで見て、見たものを書くんだ」

同僚の清水が恵子に答えたこの言葉を南部が援用して、結構、決定力のある言葉の前で、与田はより反応を鮮明化していくことになる。後日、南部を訪ねた彼は、「俺も見て、見たものを撮りたくなりました」と言い放つのである。

徹底して自己中のドライな若者が、「本物の盗撮」を成功させたという理由だけで、映像は「未来の勝者」を約束させてしまうのである。あり得ないことではないが、それを描くならもう少し、そこに至る合理的な把握を可能にする何某かの心理描写を挿入すべきだったのではないか。

そしてもう一つ。

私の中で未だに了解困難な描写があった。その描写は、再び梶川家のシークエンスでのこと。

恵子が梶川夫妻に対して、タイでの臓器移植を止めさせるために、タイの臓器移植の現実を突き付けた際、その現実を受けて過剰な反応をしない夫妻に対して糾弾した一件である。

「ご存じだったという事ですよね。殺される子供のことを考えなかったのですか!」

恵子はそう言ったのだ。

そして映像は、この恵子の言葉が事実であることを印象付けるように描いていくのである。

仮に、この時点で梶川夫妻が事実であることを初めて認知したとしても、その後に実施される手術の状況性を本作は導入しているので、梶川夫妻はタイの子供のの殺人と引き換えに、我が子の命を買ったということだ。

果たして、こんな現実が起こり得るのか。

起こり得たとしても、それが日本人であることが可能なのか。更に言えば、そこに南部からの恫喝的話術が媒介されていたとは言え、ここで描かれているような冷静で、人の話を聞く姿勢を持つ理性的なタイプの人間が、「我が子と変わらぬ年齢の異国の子供を殺すことを前提に、その我が子の命のみを救うという行為」に走れるものなのか。

人間である限りどのような事柄でも起こり得ると信じる私でも、この状況設定の甘さが執拗に気になって、結局、「日本人の加害性」を強調する映画を撮りたいと決めつけたに違いない作り手には、単に「何でもあり」に過ぎない物語を、「震撼すべき世界の現実」という類の虚仮威(こけおど)し的効果を利用して、緩々(ゆるゆる)の世の中を恫喝したかったのだと把握した次第である。

何度観直しても、私には、この最も重要なシークエンスの中から、「我が子と変わらぬ年齢の異国の子供を殺すことを前提に、その我が子の命のみを救うという行為」の心理的文脈を感受することができなかった。

本作を通して、私が何より一貫して感じたのは、説得力を持ち得ない内面描写の脆弱さである。それなしに済まないであろうと思われる描写が、簡単に流れていってしまうのだ。

例えば、「社会派映画」という概念が成立する映像表現のジャンルを認知した上で、梶川夫妻が苦悩するシーンを確信的に蹴飛ばしたのだとしたら、この作り手は明らかに勘違いしている。

闇深き時代性の中で蠢(うごめ)く社会に呼吸する人間の問題を、抽象度の濃密な形而上学的にではなく、どこまでもリアルな映像展開によって描こうとする限り、そこで描かれる人間の心の問題が緻密に映し撮られることのない表現世界は、既に枢要な何かを捨ててしまっているとしか思えないのである。



5  表現の自由に関わる倫理学



ここで言及のテーマを、先の由々しき問題に戻す。

一体、本作で描かれた、おぞましくも苛酷な現実、即ち、「生きた子供の臓器が提供される移植手術」や、「そこに日本人が関与する」というような震撼すべき事実が存在するのかという問題である。

本稿の最後に、その問題に言及したい。

言わずもがな、児童買春については周知の事実だから言及しない。(注3)


(注3)参考までに書けば、「毎年120万人の子どもが人身売買の被害にあっていると言われます。特にタイは子どもたちの受け入れ国であり、中継国であって、送り出し国でもあります。隣国のカンボジアなどから売買された子どもたちが組織的にタイに連れてこられ、そこから日本やアメリカなどに売られるという実態です」(丸谷佳織衆院議員公明党・HPより)ということ。

また、アメリカの「人身売買に関する年次報告書 」をも紹介する。

「アメリカ国務省が毎年発表している人身売買に関する報告書で、142の国と地域を、TIER1(基準を満たす)、TIER2・TIER2 WATCH LIST(基準は満たさないが努力中)、TIER3(基準を満たさず努力も不足)に分類している。TIER2 WATCH LISTとTIER3は監視対象国。2005年、日本はTIER2に分類されている。日本では、アジア、中南米等からの女性・子供らが性産業で働かされ、また、その主要な到着地の一つであることが指摘された」(ウイキペディア「人身売買」より)


首都バンコク(イメージ画像・ウイキ)


結論から言えば、タイで「生きた子供の臓器が提供される移植手術」の実例は存在しないということ。まして、「そこに日本人が関与する」という事実も存在しないということだ。

既に記事になっているから多くの人は確認しているだろうが、ここで改めて、映画製作のアドバイサーとして本作に関与した、大阪大医学部付属病院の福嶌教偉(ふくしまのりひで)氏の言葉を引用する。

「まずはタイで、日本人が心臓移植を受けた例はないということですよね。

次に、心臓移植を受けようと思っている子供の両親が、よその子供を殺してまで自分の子供を助けたい、精神的にそう思っている人は、一人もいないということです。

親だから、子供をなんとしても助けたいという思いはあっても、みんな我慢して死んでいっている。人を殺してまで、生きたい、生かしたいという親はいません。

もう一つ、心臓移植はリスクが高すぎて、儲けということでは成立しないかもしれない。

というのも、心臓移植をしようと思ったら、心臓を止めている間に人工心肺の器械を動かしていないといけないし、手術するためにはたくさんの人がいる。腎臓移植なら、ある程度うまい人がいたら、助手と二人で手術をすますことができる。でも心臓の手術はぜったい少人数ではできませんから。それはありえない」(「日経ビジネスオンライン」08年8月8日・11日付/筆者段落構成)

福嶌教偉教授
更に、「心臓麻酔の専門医と、人工心肺の器械をまわすのに1人、手術医が3人と看護婦という具合に計算していくと、エキスパートが8人は揃わないと心臓移植は行えないという」(同上)事実を、氏は述べている。

「8人を口止めして、儲けも出そうなんて考えたら、ビジネスとして儲からへん。それに、見つかったときには心臓だったら死刑でしょう。タイの外科医といえばエリートの人たちです。その人たちがいくらなんでも、そんな危ないことに手を貸すとは思えない。映画では、なんらかの事情があってということにしているけれど、そこは医療の現場にいる者の目からすると、映画のフィクションといえるでしょう」(同上)

この記事によって本作のフィクション性が明瞭だが、念のために私は、映画に協賛している「(財)日本ユニセフ協会・広報室」に、その事実を確認してみた。

そこで確認できたことは、以下の通り。

映画のセンセーショナルな展開の骨格を成す「生きたままの臓器移植」と、「エイズに罹った子供がゴミ袋に入れられて、無造作に捨てられる」という事実については、「映画は児童ポルノ・児童買春について取り上げているので、あくまでもフィクションであることを前提にして、日本ユニセフとして協賛した」ということだった。

更に、協会の広報担当は、「しかし、現実的にこういうことが起き得る状況にある」との説明も添えていたが、この曖昧さこそが問題なのである。

「現実的にこういうことが起き得る状況」という説明をすることの論理的誤謬は、仮に、「こういうこと」が起きなかったときに、「それを起こさない努力をしたからだ」という、検証困難な言い訳に逃げ込むことができるからである。

ついでに、本作の「公式HP・プロダクションノート」の中で公開している、斉藤百合子氏(恵泉女学園大学・明治学院大学准教授)の言葉の一部を拾ってみよう。

「坂本監督とプロデューサーから小説『闇の子供たち』の映画化へ打診があったとき、私は反対した。映画化することでかえって児童買春者に刺激を与えてしまうこと、センセーショナリズムは一時的な関心と同情を呼ぶが、人身売買となる社会経済および政治的な構造的な解決には向かわないと考えたからである。

斉藤百合子・明治学院大学准教授
また、小説を映画化するには事実誤認と思われる箇所もあったし、何よりも、国として日本よりもずっと先進的な人身売買対策を行っているタイ政府に失礼ではないかと思われる箇所もあった。また、タイ国内の臓器移植についてはほとんど知らなかったので、あいまいな情報を映像化されることに大きな抵抗があった」(「『闇の子供たち』公式HP・プロダクションノート」より)

要するに、このような危うい状況下で本作の撮影が断行され、苦労の果ての完成後に、映画公開に至ったということだ。

そしてその予告篇の中で、「値札のついた命 これは『闇』に隠された真実の物語」というキャッチコピーが、大仰に喧伝されていったのである。

「真実は複数だが、事実は一つ」と言われるように、「事実」に対する評価を随伴するものが「真実」であるという哲学的見解を踏襲すれば、本作を「真実の物語」と看做(みな)すことには誤謬がないということなのか。

しかしネットサイトを含む巷間では、本作が「ノンフィクション映画」とか、「ショッキングな真実」、更に「目を背けたくなるような、タイでのおぞましい現実はお金のために子供の命を容赦なく奪うものだった。そんな現実を真正面から凝視し、映画化したのがこの『 闇の子供たち 』」(某ブログ)などという類のコメントが後を絶たないのである。

始末が悪いことに、作り手自身が、「脚本化に先立つ現地調査で『フィクションではなく真実だと分かった』」( 「読売新聞」7月31日付)などと語っているのである。

この作り手が言う所の、「真実」の内実が一貫して不分明であること――まさにその一点の内にこそ、この国の言葉使いの曖昧さとマヌーバーが潜んでいるから、余計始末に悪いのだ。

つくづく、映画・テレビ等の情報媒体から、歴史や現実の問題を学習することの怖さを思い知るのである。

私の言いたいことは、唯一つ。

タイで生きたまま子供を殺し、心臓移植を行うという事実が存在しないなら、「・・・の部分がフィクションである」ことをキャプションで明記すべきだということ、それ以外ではない。

靖国 YASUKUNI」の批評の際に書いたように、それが「反日」であっても一向に構わないし、或いは、本作のように、「児童買春する日本人の犯罪性」への告発であっても一向に構わないのだ。

唯、「事実」と印象付ける映画を、そこに何の説明もなく製作するのはフェアでないばかりか、それが及ぼす影響力のリアクションを考えるとき、その危険性は軽微なものではないが故に勘弁してもらいたいと思うのだ。それだけである。

この国の映画界にも、それを観る者のリテラシーと、それを作る者の、「表現の自由に関わる倫理学」が要求される時代がやって来たようだ。

いつものことだが、「覚悟」を括っているようでいながら、「逃避拒絶」という最も肝心な心理前線において、括り切れない印象を多分に残す「映像作家」が、そこにいた。

(2009年6月)

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