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2010年4月8日木曜日

俺たちに明日はない('67)      アーサー・ペン


<「初頭効果」によるインパクトを提示した映像の挑発的突破力>



1  「ヘイズ・コード」というタブーに挑戦するかの如く



後に、「クレイマー、クレイマー」(1979年製作)を監督したことで世界的に知られるに至った、テキサス州出身のロバート・ベントンが、ニューヨーク生まれの脚本家であるデヴィッド・ニューマンと組んで、共同執筆した一本のシナリオ。

それが、テキサス生まれの実在の銀行強盗犯でありながら、世界恐慌下の「悪のヒーロー」としての人気を得ていた、「ボニーとクライド」の実話をベースしたシナリオであった。

当時、無名の30代の青年が共同執筆したモチーフの起点は、1950年代後半に、フランス映画界に出現したヌーベルバーグの澎湃(ほうはい)たる波浪の気運の内に求められるだろう。

ジャン=リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」(1959年製作)に代表される、「物語」の呪縛を解いた映像革命を目の当たりにした二人は、警官殺しの主人公を描き出した件の作品に衝撃を受け、ハリウッドムービーのタブーに挑戦するかの如く、「悪のヒーロー」=「反秩序・反道徳・反体制のヒーロー」像の映画化を目途に疾駆したのである。

「ヘイズ・コード」―― それこそ、ハリウッドムービーのタブーの元凶だった。

検閲権を映画産業の下に置いたMPPDA(アメリカ映画製作配給業者協会)による、セックス、バイオレンスの直接的、且つ、過激な描写の規制によって、アメリカ社会と、そこに住む家族に対する健全なイメージを頑固に守り抜いていたという自負が、この国の映画界には存在していたのである。

その検閲システムこそ、ハリウッドムービーのタブーを定めた「ヘイズ・コード」だった。

この「ヘイズ・コード」の存在によって、脚本を執筆したものの、ハリウッドに相手にされない二人は、彼らのスピリットに共通するヌーベルバーグの一方の旗手、フランソワ・トリュフォーに脚本を送りつけたのである。

一方、そのフランソワ・トリュフォーと関係を作ろうとしていた、一人の有名なアメリカの俳優がいた。

ウォーレン・ベイティ
彼の名は、ウォーレン・ベイティ。

彼は「草原の輝き」(1961年製作)によって、少なからぬ注目を集めていた新人だったが、それ以降、会心のヒット作に恵まれず、ハリウッドでの復活を虎視眈々と窺っていた。

フランソワ・トリュフォーとの関係は、ウエルメードな作品への依頼によって開かれたが、折悪しく、他の仕事(「華氏451」)を受けていたトリュフォーが推薦したのが、ロバート・ベントンらから送られていた「ボニーとクライド」だった。

シャーリー・マクレーンの実弟であるというコネもあって、ハリウッドと深い関係を持つウォーレン・ベイティが、この脚本に強い関心を示し、その映画化を考えたことで、一気に無名のライターたちの毒気含みの脚本が世に出ることになったのである。

その脚本の監督を、「奇跡の人」(1962年製作)のアーサー・ペンが引き受け、プロデューサーを兼ねていたウォーレン・ベイティが主演することで、この国の映画史を塗り替えるエポックメイキングな革命的事態が惹起されたのだ。

フランソワ・トリュフォー
フランソワ・トリュフォー経由で呱々の声をあげたその作品(原題:Bonnie and Clyde)を、日本では「俺たちに明日はない」(1967年製作)という邦題による著名な映像として紹介され、ここに、その後、十年ほど続く「アメリカン・ニューシネマ」の先駆になったのは周知の事実。

伝説とは得てして、このような偶然の産物から生まれるように見えるが、しかしこの作品が世に出る「動乱の60年代」という歴史的背景こそが、実質的な推進力になったと言えるのだろう。


以下、簡単に本作のプロットをフォローしたい。



2  「運命的出会い」、そして「銀行強盗という『アドレナリンドライブ』」



「君はただの女じゃない。僕と一緒に何かを求め続ける女だ」

これは、刑務所から出所して来たばかりのクライドが、田舎町のウェイトレスという退屈な仕事に飽きていたボニーと、初めて出会ったときの殺し文句。

クライドの「男らしさ」に惹かれたボニーに、「運命的出会い」を感じたかのような言葉を添えていくことで、二人の関係は忽ちの内に急接近する。

妙に気の合った二人は、その後、車を盗むことに飽き足らず、一気に「銀行強盗という『アドレナリンドライブ』」を繰り返すようになる。

殆ど無邪気な二人が惹起した、「銀行強盗という『アドレナリンドライブ』」の中で、ボニーはクライドに惹かれていくものの、「女は苦手だ」と言い張るクライドには、インポテンツというコンプレックスを抱えていることが判然とし、ボニーを失望させる。

まもなく、二人の「銀行強盗という『アドレナリンドライブ』」の仲間に、別の3人が加わることで、クライドとの「蜜月のドライブ」が希釈化されていく。

加わった3人とは、銀行強盗の遂行に水を差す愚鈍な若者、C・W・モスと、クライドの兄夫婦であるバックとブランチ。

「バロウズ・ギャング」
「バロウズ・ギャング」として知られる、強盗団の誕生である。

限りなく「人民大衆」に迷惑を及ぼさない「ルール」を遵守していた彼らだが、犯罪の計画性の欠如も手伝って、遂に殺傷事件を惹起するに及び、「バロウズ・ギャング」は郷土意識の強いテキサス・レンジャーから狙われる事態になり、今や、「皆殺し」も辞さないレンジャーたちとの銃撃戦を常態化させていった。

クライドの兄のバックが銃殺され、初めから気乗りのしないブランチも銃撃戦の渦中で眼を撃たれ、呆気なく捕えられてしまった。

やがて、C・W・モスも父親の監視下に置かれたことで、寄せ集めの遣っ付け仕事に終始した「バロウズ・ギャング」は解体されるに至った。

結局、元のボニーとクライドによる銀行強盗に戻るが、それは「銀行強盗という『アドレナリンドライブ』」の犯罪形態とは切れた、二人の深刻な表情を映し出すリアリズムの内に映像が流れていく。

そして、衝撃のラストシーン。

ボニーとクライドは、テキサス・レンジャー(テキサス州公安局に属する法執行官)からの弾丸の嵐を浴びて、遂に絶命するに至った。



3  「自爆」という、予約された「犯罪者のリアリズム」



「バロウズ・ギャング」の中枢を占有した、ボニーとクライドによる「銀行強盗という『アドレナリンドライブ』」の本質は、世界恐慌下で、富裕層が預金する銀行に象徴される「体制」を襲撃し、その「体制」から収奪した現金を抱えて、「体制」の「権力機構」である警官の執拗な追走からエスケープするドライブ行だったと言える。

「体制」という名の「秩序」からのエスケープこそが、彼らの無邪気とも思える「銀行強盗という『アドレナリンドライブ』」の本質であった。

それはある意味で、命を賭けた「エスケープ・ゲーム」と把握することも可能だ。

無邪気な彼らの犯罪は、元々、人を殺傷する意志を持たなかったが、機械的に計算し得ない犯罪の流れ方によって、否が応でも、人を殺傷する行為を必然化し、彼らもまた死の恐怖に直面する。

「体制」の「権力機構」から加えられた銃丸の嵐が、彼らを「エスケープ・ゲーム」の文脈から、エスケープ以外に流れていかない、「犯罪者のリアリズム」いう文脈に収斂させていくのである。

無邪気さを失った彼らの選択肢の幅が完全に封印され、決定的に限局化されたという把握に逢着したとき、既に「死のバレエ」の時間が待機していたのだ。

要するに、ボニーとクライドによる、「体制」との「エスケープ・ゲーム」のフィールドが、広大な連邦共和国の内側の複数のステートに跨(またが)りつつも、その限定的なエリアでの「アドレナリンドライブ」であったので、当然の如く、「体制」の「権力機構」である警官の銃丸の「餌食」になる外になかったと言える。

彼らの「銀行強盗という『アドレナリンドライブ』」は、「自爆」という、予約された大団円を迎える以外になかったのである。

彼らの「エスケープ・ゲーム」は、攻撃的意志による状況突破を見せた、「バニシング・ポイント」( 1971年製作)の覚悟の熱量には届き得ない次元での、ある種の「自爆」以外に流れていかない運命を不可避にしたということだ。

それ以外ではないだろう。



4  「初頭効果」によるインパクトを提示した映像の突破力



「初頭効果」という心理学の概念がある。

最初に提示された情報が与える影響の大きさが、その情報に触れた者の印象度を過大視しやすいという心理効果のこと。

「出会い頭のインパクト」と言ったところか。

要するに、「観る者に衝撃を与え、驚かす映画」とは、この「初頭効果」によるインパクトによって立ち上げた映画に多いだろうという話である。

当然ながら、「観る者に衝撃を与え、驚かす映画」が、必ずしも傑作とは言い切れないのは常識の範疇であるに違いない。

その常識の範疇の一つの例が、ここにあった。

「俺たちに明日はない」という邦訳が充分に的を射た本作の、あまりに壮絶なラストシーンの衝撃は、既に、甘美な「青春映画」のカテゴリーを超えた挑発的ムービーの先駆的価値を約束させるものだった。

人通りの少ない一本の広い田舎道に、漸(ようや)く結ばれた男と女がいて、そこに突然、無数の弾丸が発射されてきた。

「堂々」とその姿形を見せる男と女。

その男と女に発射された弾丸の主たちは、姿を現さないのだ。

「死のバレエ」
90発近くの弾丸の嵐の中で、「死のバレエ」を踊って斃れゆく男と女を視認するために、漸くその姿形を現わした男たち。

彼らはラインを成して、無言のうちに視認する。

「騙し打ち」によって射止めた「反逆のロビンフッド」の、存在それ自身を全否定する「狡猾さ」、「邪悪さ」、「暴力性」こそ、まるで「体制」の「権力機構」の「爛れ」の本質であるかのような構図を、映像表現によって確信的に提示する意志が、そこに垣間見えたのである。

壮絶なラストシーンに全てを賭けた映像の衝撃は、「ヘイズ・コード」の呪縛による、予定調和のハリウッドムービーに馴致させられてきた観客には、「初頭効果」のインパクトによる、「観る者に衝撃を与え、驚かす映画」として充分に抜きん出ていたであろう。

しかし、私の率直な感懐を言えば、それだけだった。

「不朽の名作」と伝説化された映像の内実は、ジーン・ハックマンの際立った演技が深く印象付けられるものの、私には、極めてテンポの悪い凡作以上のものではなく、せいぜい、「アメリカ映画史の画期を成す問題作」という評価を超える何かではなかった。

因みに、「初頭効果」によるインパクトを映像が提示したイメージは、フェイ・ダナウェイが扮したボニーに集約される人格像であったと言える。

いきなり、フェイ・ダナウェイの唇のアップとヌードから開かれたカットそれ自身が、既に「ヘイズ・コード」への挑発的映像だったのだ。

「女だてら」に、彼女は煙草を吸い、それを鼻から排出し、インポテンツのクライド相手にオーラルセックスで愉悦する表情を見せるという大胆さ。

更に、ポリス相手に銃をぶっ放す「無邪気な銀行強盗犯」の演技によって、止めを刺すに至ったのである。

思うに、それまでのハリウッドムービーには登場しない女性像の挑発的提示は、1960年代から展開された世界的な反体制の巨大なムーブメントの後押しを受けて、遂に本作の出現をもたらした事態と大いに関係するだろう。

とりわけ、泥沼のベトナム戦争が一群の若者たちの感受性に深々と鏤刻(るこく)した、「アンチ」のメンタリティの影響力の甚大さは計り知れず、その生々しい歴史状況の後押しなしに、本作の出現と、そこで実験・検証された映像スタイルの拡大的定着は存在し得なかったに違いない。

要するに、本作の価値は唯一つ。

「ヘイズ・コード」に象徴される、向かう所敵なしと言った覇道を行くが如き、かの「ハリウッド文法」に風穴を穿ったこと。

それ以外ではなかった。



5  深い共存への感情が濃密に絡む緊張感が相対化されて



最後に、この映画で私が最も気になった点を書いておきたい。

それは、主役二人の男女の関係の描写が、些かフラットな印象を受けたこと。

元々、無邪気な銀行強盗犯が「自爆」へと至る地獄のプロセスの中で、二人の関係には明らかな変化が垣間見える。

自分の母にも見捨てられた状況悪化のリアルな風景の中で、男を求める女の気持が今までになく昂揚し、男もまた「共依存」関係にも似て、「恐怖の只中での危うい共存性」を仮構し、女の愛を全人格的に受容するに至った。

映像のラストにおいて、C・W・モスの父親であるアイヴァン・モスの農場で、男と女は初めて結ばれたのである。

「初めのうちは、世界を征服したみたいだった。もう終りね・・・逃げるだけ・・・」

男の膝枕の中で、女は、切迫感に押し拉(ひし)がれた者のような嗚咽を小さく結んだのだ。

「愛してる・・・」

男には、これ以外の反応ができなかった。

こんな会話もあった。

「もしも急に何かの奇跡が起きて、明日、ここを出られて、真人間の暮らしができたら、前科も消え、人にも追われずに・・・」

ここでも、女の方から問いかけてきた。

「生活を変える。第一に、初めての州に行く。そこでまともに暮らし、『仕事』はよその州で・・・」

ここでも男には、これ以外の反応ができなかったのだ。

しかし、男より少しばかり現実を把握できる女は、一瞬、思い詰めた表情を見せただけで、それを小さな笑みの内に浄化していった。

一切が幻想であることが、もう充分に了解済みなのだ。

だから男と女は、「恐怖の只中での危うい共存性」を、ひた走る以外になかった。

地獄の前線での運命共同体を繋ぐ意識が、そこに寝そべっていた。

二人にとって、もう相手の存在なしに〈生〉を繋ぐことができない心理文脈の中で、一貫して、刹那的な生き方を自己完結する流れ方しか持ち得なくなったのである。

「生活を変える」

男は女に、なお自由を繋ぐユートピアのイメージを語ってみせるが、それが二人の幻想であることは、疾(と)うに理解していたはずである。

ただ、状況の悪化と反比例するように、「共依存」関係を進化させてきた二人が、初めて結ばれたときの描写は、あまりにフラットであり過ぎなかったか。

アーサー・ペン監督
性愛描写を完全にカットしたのは、なおハリウッド文法への妥協が見られるのだろう。

しかし、恐怖前線下の、深い共存への感情が濃密に絡む緊張感が、そこで相対化されてしまったのである。

そのことが、映像に希薄な印象を与えてしまったように思われるのだ。

男と女の追い詰められた心理の、その深い辺りにまで届くことない映像の希薄さが、本作をして、社会規範を厭悪(えんお)するフラットなアウトローの物語に落ち着かせてしまったのはないか。

そう思えて仕方ないのだ。

(2010年4月)

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