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2011年10月9日日曜日

隠された記憶('05)    ミヒャエル・ハネケ


<メディアが捕捉し得ない「神の視線」の投入による、内なる「疚しさ」と対峙させる映像的問題提示>



 1  個人が「罪」とどう向き合っているかについての映画



 「私たちはメディアによって操作されているのではないか?」

 この問題意識がミヒャエル・ハネケ監督の根柢にあって、それを炙り出すために取った手法がビデオテープの利用であった。

 覗き趣味に堕しかねないビデオテープを、「メディアの真実性を問う」ツールとして巧みに活用し、ミステリー映画として立ち上げることで生み出したものは、今や、「何を伝えたか」という視座ではなく、「何を伝えなかったか」という鋭利な視座が問われている、高度な科学文明の現状を包括している状況を見れば、既にメディアの欺瞞性を問うというテーマの帰趨が鮮明化されている事態をも超えて、ビデオテープによって捕捉された対象人格が、ごく普通に遣り過ごしている虚飾と欺瞞の意識体系の奥深くに封印する「闇の記憶」であった。

 それは、テレビ局という代表的なマスメディアに勤める、人気キャスターの家屋の外貌が、一台の定点カメラで映し出される冒頭のシーンによって開かれた物語の中で、じわじわと執拗に炙り出されていく。

 同様に出版社というメディアに勤務する妻を持つ、件の人気キャスターの心中で封印している「疚しさ」を、「闇の記憶」から炙り出し、追い詰めて、相対的に安定した日常性を破綻させていくのだ。


 それに近い同義の文脈を持って、ミヒャエル・ハネケ監督(画像)は語るのである。

 然るに、その〈生〉の包括的な内実の中で、そこに様々な意識の有りようの差異があろうとも、「疚しさ」を持たない人間など、果たしてどこにいるだろうか。

 私自身のことを考えても、それが「犯罪」でなくとも、封印したい「疚しさ」の記憶が少なからずある。

 それらは、人間の脳の基本的機能の一つである、「記憶」として鮮明であるものが大半だから、張り巡らせた防衛機制によって、単に個人的問題の軽微な何かとして処理され、現在の〈生〉を脅かすに足るものになっていないだけである。

 その意味で、「疚しさ」の希釈化の問題は、意識の内部で惹起した矛盾を、「認知的不協和理論」などで合理化する自己防衛機能の発現であることと同義の文脈であると言っていい。

 ただ、この「疚しさ」が、個人的問題の軽微な何かとして処理されない毒性を持ち、じわじわと現在の〈生〉を脅かしていったらどうなるか。

 ハネケ監督は、まさにこの類の「疚しさ」が内包する問題に注目し、それをミステリーの体裁を仮構する戦略的映像のうちに立ち上げたのである。

 
ファーストシーン
何より、ハネケ監督にとって、この類の「疚しさ」 が内包する問題とは、「個人の罪と集団(国家)の罪が重なり合う事態」となったときに惹起された心の攪乱であり、それによる、拠って立つ自我の安寧の基盤の破綻の問題でもあった。

 「先進国で生きるわれわれは絶対に後進国や貧しい人々を犠牲にして高い生活水準を保っている」ことの罪悪感を、ハネケ監督は厳しく問うのだ。

 然るに、「政治的なメッセージを込めた映画」を嫌うハネケ監督は、その由々しきテーマを、いつものように、「個人が『罪』とどう向き合っているかについての映画」に変えていく。

 人間の心理学的洞察に抜きん出たハネケ監督には、その得意分野を駆使した手法が最も有効性を持ち得るのだろうが、それにも関わらず、豊かさを占有することに鈍感過ぎると断じる先進国の既得権者(豊かな中産階級者)たちに対して、最低限の「疚しさ」を感受させ、その意識を極限まで突き詰め、己が〈生〉の根源的問題のうちに反芻させることによって、自足的な既得権を持ち得ない後進国の人々が捕縛されている様々な困窮の問題の、その負のイメージを炙り出していくという本作の物語構成それ自身が、既に、鋭利な政治的メッセージになっている事実だけは認知せざるを得ないのである。

 
その辺りに、典型的な階級社会であるフランス等の国家に呼吸を繋ぐ、一部の知識人たちの憤怒を感じ取ることができるだろうが、格差の弊害が指弾されつつも、件の階級社会の袋小路の状況性から相対的に解放され、「パラダイス鎖国」の如き印象をなお脱色し得ない、我が国に呼吸を繋ぐ大方の人々から見れば、ハネケ監督の憤怒の熱源の有りように想像力が及ばないのもまた、由々しき現実であるのだろうか。

 それ故にこそと言うべきか、ハネケ監督は、ポップコーン・ムービーの乗りで自作を観る者たちへの、適度な警鐘を打ち鳴らす「悪意」を存分に込めて、このような厳しい映像を突き付けてきたに違いない。

 従って、適度な警鐘を打ち鳴らされたであろう鑑賞者は、このような映像作家による、このような厳しい映像と向き合うとき、何よりも、作り手の基幹の主張と、肝心のマスメディアの多くがスル―しかねない、その背景となっている時代の見えにくい風景への最低限の情報の確保による理解・把握が、切に求められるのもまた否定できないのだ。

 それなしには、本作で描かれた主人公の「疚しさ」の根源的問題に迫り得ないだろう。

 そう思わざるをない映像を、ハネケ監督は構築したのである。

 では本作において、「集団(国家)の罪」とは、具体的に何を指しているか。

 以下、この由々しきテーマを包括させながら、どこまでも、「疚しさ」に関わる、主人公のジョルジュの内面の振幅の様態に焦点を当てた物語を追っていこう。



 2  攻撃的に張り巡らしたつもりの、防衛機制のバリアの空洞感が露わにされた醜悪さ その①




 差出人不明のビデオテープが届く事態に不安を募らせていく、テレビ局の人気キャスターの夫と、出版社に勤務する妻。

 夫の名は、ジョルジュ。

 妻の名は、アンヌ。

 そこに送付されていた、子供が血を吐く拙い絵。

 更に、今や介護者と共に暮らす実母が住む、ジョルジュの生家を写すビデオテープが届くに及んで、ジョルジュは忘れていた遠い昔の記憶を想起する。

 そのビデオテープと共に送付されていた拙い絵に描かれていたのが、鶏の頸を切って、鮮血が迸(ほとばし)るものだったからだ。

 生家に出向くジョルジュ。

 自慢の息子の珍しい訪問を歓迎しながらも、深刻な事情を察知した母は直截に聞いていく。

 「どうしたの。悩みでもありそうだね?」
 「何でもないよ」

 映像で初めて見せるジョルジュの穏やかな表情には、最も聞きたいことがあっても、母に心配をかけまいとする配慮が窺えるのだ。

 「どこか変だよ。心配になってきた。話してごらん」
 「何でもないよ」

 結局、近況報告に終始した母子の会話だった。

 最も聞きたいこと ―― それは、6歳のとき、養子にしていたマジッドについてのことである。

 養子にしていたマジッドを孤児院に送り込んだ過去が、差出人不明のビデオテープの事件に絡んでいると確信したから、ジョルジュは生家に出向いて来たのだ。

 「思い出したくもないね」

 母の一言で、息子はマジッドの件に触れずに話を切り上げ、眠りに就いた。

 その夜、悪夢を見て、うなされるジョルジュ。

鶏の頸を切断した一人の少年が、傍にいた別の少年に斧を手に向ってくる悪夢である。

 前者の少年がマジッドであり、後者の少年がジョルジュであることは、やがて物語の中で判然とするが、ここでは、「過去の忌まわしい記憶」に呪縛されているジョルジュの恐怖の片鱗が描かれているだけだった。

 帰宅したジョルジュが、次に送られたビデオテープを、妻のアンヌと共に見ている。

 これが、その直後の映像だ。

 今度は、ストリートと集合住宅が写されたビデオである。

 警察に相談しようという妻の意見を擯斥(ひんせき〉して、「思い当たる人がいる」と答えるジョルジュ。

 彼は、その集合住宅の部屋にマジッドが住んでいると確信しているのである。


 しかし、妻にも言えない秘密を持つ彼は、肝心な情報を共有できない妻との間に隙間ができ、これが夫婦の信頼関係の破綻に繋がっていくが、彼には自分の中でのみ封印せねばならない秘密を、なお隠し込んでおく必要があったのだ。

 翌日、彼はその集合住宅に出向いて行った。

 「驚いたな」と部屋の住人。
 「君は誰だい?」とジョルジュ。

 訪問者であるジョルジュが相手に尋ね、尋ねられた相手が訪問者を特定したのである。

 「何が望みだ?金か?」

 途方に暮れるような攻撃性に、言葉を失う部屋の住人。

 それには答えない部屋の住人=マジッドは、逆にジョルジュに問い返した。

 「よく俺を捜し当てたな?」

 ジョルジュも、それには答えず、「この悪だくみの目的は?」などと畳みかけていく。

 「何のことだか分らない」とマジッド。

 相手の反応によって、既に相手がマジッドであることを確信したジョルジュは、その相手にいきなり、ぶしつけな発問を加えるばかりの不毛な時間が流れていく。

 会話が成立しないのだ。

 
マジッドとジョルジュ
マジッドに例の拙い絵を見せて、相手の反応を窺うジョルジュ。

 そのジョルジュに、マジッドは、自分の思いを静かな口調で語るのだ。

 「いつかはお前に会うと思ってた。俺が死ぬまえにな・・・偶然、テレビを見たんだ。数年前だ、ゲストたちと椅子に座り、顔を近づけて、連中と話していた。確信はなかった。だが、不快な気分になった。不思議だよな。訳も分らず、吐きたくなった。最後に名前を見て、理解できた・・・お前から何を盗ると言うんだ。突然来て、俺が脅迫してると言う。昔と同じだな」

 40年ぶりに会って、相手にそこまで言われても、脅迫を止めろという反応しか返せないジョルジュ。

 最後まで、会話が成立しないのだ。

 相手が金銭目当てで脅迫してくると一方的に決めつけ、自分の思いのみを押し付ける男だからこそ脅迫されるに足る偏見居士であるという、歪んだ自我を自覚し得ない脆弱性が、そこにたっぷりと曝されていた。

 それは、攻撃的に張り巡らしたつもりの、防衛機制のバリアの空洞感が露わにされた醜悪さであると言っていい。



 3  攻撃的に張り巡らしたつもりの、防衛機制のバリアの空洞感が露わにされた醜悪さ その②



 まもなく、ジョルジュとマジッドだけしか知り得ない、このときの二人の会話のビデオテープが送られてきた。


 そこでは、ジョルジュが去った後に、マジッドが嗚咽するカットが添えられていたのだ。

 このシーンが演技ではないことを指摘する妻のアンヌは、この事実を隠していた夫を責め立てていく。

 「一体、何があったの?」

 ここで、観る者はアンヌに感情移入するだろう。

 それほど、マジッドの嗚咽のカットは観る者の心を揺さぶるからだ。

 BGMなしの、たった一つのカットの挿入が、ミステリー仕立ての映像の空気を変える力を持ってしまうのである。

 その辺りのハネケ監督の力量に、驚かされることもない。

 既に私たちは、「ファニーゲーム」(1997年製作)における、約9分間に及ぶシークエンスに及ぶ長廻しの中で、「クローズドサークル」(出口なしのミステリー)の極限状況に捕捉された夫婦の心理描写の、その圧倒的なリアリティに最近接する「虚構の映像の破壊力」の凄みを知っているからだ。

 物語に戻る。


 観念した夫は、妻に、マジッドとの関係について吐露していく。

 「彼の両親が家で働いていた。働き者だったよ。61年10月17日、民族解放戦線がアルジェリア人にパリでのデモを呼び掛けた。当日、警視総監のパポンは、約200人のアルジェリア人を溺死させた(注)。マジッドの両親も2度と戻って来なかった。パパが捜しに行くと、“黒いのがいなくなって喜べ”と言われたとか」
 「それから?」とアンヌ。
 「マジッドを養子に迎えることになった。理由は知らない。責任を感じたんだろう」
 「それから?」とアンヌ。
 「僕は家に入れたくなかった。でも、6歳の僕と同じ部屋に住んだ」
 「彼に何をしたの?」
 「嘘を告げ口しただけだ」
 「ご両親に?」

 肯くジョルジュ。

 「それだけ?」
 「ああ」
 「それが復讐の遠因?」
 「そのようだ」

 ジョルジュの妻への最初の「告白」である。

 しかし、事態は更に暗転していく。

 息子のピエロの家出騒動が出来したのである。

 これをマジッドによる誘拐事件と断定したジョルジュは、警察に連絡し、マジッドが住む集合住宅に赴き、そこにいたマジッドと、彼の息子を逮捕する事態に発展したのである。

 拘留されて、大声で喚き続けるマジッド親子。

 事態が容易に収束し得ないこの夜、思わず、ジョルジュは、一人で嗚咽する。

 ジョルジュの自我もまた、クリティカルポイントに達しつつあるのだ。

 彼のみが、その内側で必死に秘匿し続ける、過去の暗い記憶に耐え切れなくなったのである。

 
「アルジェの戦い」より
翌朝、友人の母に伴われて、ピエロは帰宅する。

 まもなく、ピエロの家出騒動は終息するに至る。

 親に内緒で、友人の家に無断外泊していたのである。

 一連の盗撮騒動によって3人家族に亀裂が入り、感じやすい思春期のピエロが起こした偽装家出だった。

 何より由々しきこと ―― それは、マジッド親子が「誘拐事件」とは無縁だったという事実である。

 そして、マジッド親子を拘留した警察と、彼らの逮捕・拘留を求めたジョルジュの差別意識が顕在化されたのである。

 この一件は、最も忌まわしい事態を出来させるに至る。

 マジッドがジョルジュを呼び出したのである。

 「何のつもりだ?」とジョルジュ。

 相変わらず、防衛機制のバリアを攻撃的に張るだけの男が、そこにいる。

 「私とビデオは関係ない。お前にこれを見せたくて呼んだ」

 そう言うや、剃刀で自分の喉笛を掻き切って、その場に斃れるマジッド。

 一瞬の出来事だった。

 血飛沫(ちしぶき)が鮮血の赤に染めていく小さなスポットで、その場で立ち竦んで、放心状態のジョルジュ。

 夜の街を彷徨(さまよ)い、深夜に帰宅するや、ジョルジュは寝室に籠ってしまう。

 客がいることを知って、妻に連絡した。

 「客を追い返してくれ。寝室にいる。恐ろしいことが起きた」

 灯りを消した寝室で、客を返した妻を待つ。

 その間、殆ど静音状態。

 妻が入室して来た。

 灯りを点けた妻に、再び消灯させた。

 マジッドの自殺について話す夫。

 動顛(どうてん)する妻。

 「彼に何をしたの?」

 二人の関係の根柢にあるものを、今度こそ、妻は問い糺(ただ)すのだ。

 観念したジョルジュは、妻アンヌへの、事の真相に触れた「告白」が開かれたのである。

 ジョルジュの、誰にも語ることなく秘匿し続けた、真相の「告白」。

 言うまでもなく、6歳のときの「マジッド追放」の顛末の真相である。

 「血を吐いた、とママに言った。信じなかったよ。一応医者に診せたが、何でもない。老いぼれのじいさんで、掛り付けの医者だ。今度は奴に、パパが鶏を殺せと言ったと嘘を。怒りっぽい鶏で、いつも僕らに向かってきた。それで奴が、首を刎ねて殺した。胴だけで刎ねていた。僕を怖がらせたと告げ口した。だから、喉を裂いたんだ。イカれたユーモアだよ・・・」

 決して忘れ得ない顛末の記憶を封印していたはずの男の自我が、闇のスポットで怯(おび)え、震えているのだ。

 ジョルジュの内面の振幅の様態は悲哀にも見え、内面的に追い詰められたエゴイストの煩悶のようにも見えるが、一貫して変わらないのは、攻撃的に張り巡らしたつもりの防衛機制のバリアの空洞感が露わにされた醜悪さだが、それが、このような立場に置かれた者の振舞いの中で、益々曝され続けていくのである。


アルジェリア独立戦争(イメージ画像・ウィキ)

(注)この事件は、アルジェリア戦争下の仏のパリで、1961年10月17日、アルジェリア民族解放戦線(FLN)が行ったデモを解散させるにあたって、フランスの警察がパリに住む約200人のアルジェリア人を虐殺した事件のこと。詳細は以下の通り。

 「多数のアルジェリア人がフランス警察の銃撃を受け、それを逃れようとする多くの人が、セーヌ川に身を投げて亡くなりました。また数多くの人が、フランスの拘置所で虐待を受けて命を落としました。フランス司法省、パリ市警察、パリ検察庁の公文書保管所の資料によれば、1961年10月17日の夜、200人のアルジェリア人が死亡、200人が行方不明となった他、およそ1万2000人が逮捕されました。逮捕されたアルジェリア人のうち、2000人は、当時フランスの植民地下にあったアルジェリアの収容所に送られました。この事件の後、当時の内務大臣は、こともなげに、『パリでの衝突の死者は3人、負傷者は64人だった』と発表したのです。

 フランスのメディアは、この事件に関する報道を禁じられ、その後30年間、フランス政府はこの事件に関する全ての資料を未公開のまま保管し続けましたが、1991年、フランス人作家ジャン=リュック・エノディが、この事件に関する本を出版しました。この本の中で、エノディは、パリに住むアルジェリア人の大量虐殺に関する事実を明らかにしました。アルジェリアの歴史家は、この事件について、『これは政府による組織的な犯罪で、全ての国際法規を無視したものだった』と語っています。多くのアルジェリア人は、この事件が、アルジェリアの独立を早めることになったと考えており、この事件の数ヵ月後の1962年1月、アルジェリアは独立を果たしました。

 
アルジェリア独立戦争(イメージ画像・自費出版のリブパブリのブログより
現在、アルジェリアの人々は、フランスに対し、この犯罪への謝罪を求めています。しかしフランスのサルコジ大統領は、このような要請を拒否すると共に、『祖先がしたことを、現代の人間が謝罪する必要はない』としています」(「IRIB WORLD SERVICE 2010年 10月18日 エレクトリーク解説員」)(画像は、1961年1月、アルジェリア戦争下の「バリケードの1週間」)



 4  重苦しくも、そこから抜け出すことが困難な「クローズドサークル」の心理劇のインパクト



 マジッドの息子がテレビ局に訪ねて来た。

 しかし、長身の青年と話し合おうとしないジョルジュ。

 益々曝され続けていく、内面的に追い詰められたエゴイストの醜悪さ。

 ジョルジュの態度に不満を持ち、マジッドの息子はエレベーターに乗り込み、その狭隘なスポットで、ただひたすら対象人格を睨み続けるのだ。

 異様な空気が漂っても、身体暴力を加えないマジッドの息子の鋭利な凝視が、無言の圧力となって、気の弱い男の自我を食い潰そうとしているようだった。

 因みに、入念な準備を重ねて臨んだという、ステディカム(カメラの手振れを防御する装置)使用による、このエレベーター・シーンの映像表現の中で、ハネケ監督が狙ったのは、一連の事件に深く関与していると決め付ける対象人格から攻撃的に睥睨(へいげい)され、圧倒されるジョルジュの心理の捕捉であるが、この表情がミラーに映し出されるショットの迫真性は抜きん出るものがあった。

 既に、二人の心理的権力関係は、このエレベーター内の閉塞した狭隘なスポットの中で形成されていたのだ。

 その直後の映像は、執拗に食い下がる長身の青年の存在に迷惑がったジョルジュが、青年をトイレに呼び出して、「ビデオを送るのは止めろ」と言うばかりのカット。

 一連の事件の中で最も肝心な対象人格と対峙し得ないばかりか、必死に退路を探る防衛的心理が曝されて、男の脆弱さが際立ってしまったのである。

 「僕じゃない。あなたが僕の父の教育の機会を奪った。施設で育った父が僕を育ててくれた。あなたのお陰で」

 それが、長身の青年の反応だった。

 
「アルジェの戦い」より
攻撃的に張り巡らしたつもりの、防衛機制のバリアの空洞感がすっかり露わにされた男にとって、そこまで言われても返す言葉もなく、その場を去るしかなかった。

 「待って下さい」
 「殴り合いでもしたいか?」
 「お望みなら」
 「イカれてる。父親と同じだ。何を吹き込まれたか知らないが、言っておく。僕は後悔などしない。彼の人生が苦しかったとしたって、僕のせいじゃない。そうだろう?謝って欲しいのか?」

 この男には、常に防衛機制のバリアを張り巡らしたつもりの、このような物言いしかできないのだ。

 「誰にですか?僕に?」
 「何が望みなんだ?」

 同じ言葉を返された長身の青年は、一貫して変わらない男の防衛機制の過剰さに触れて、丸ごとイメージ通りの感情を惹起させ、それ以外にない言語に変換させていく。

 「何もないです。疚しさとは何かと思ってた。これで分りました」

 男の「疚しさ」の有りようを見届けた青年には、もう、それ以上の言語は不要だった。

 その日、早々と帰宅した男は、妻の会社に電話し、疲弊し切っていることを告げ、「今から寝るから起こさないでくれ」と伝言した。

 睡眠薬を飲み、ガウンを羽織り、いつものように寝室のカーテンを閉め切って、ベッドに潜り込んだ。

 その直後の映像は、6歳のときの、最も思い出したくない出来事の夢だった。

 無論、早々とベッドに潜り込んだ男の夢である。
 
 「逃げないで!」
 「嫌だ!放して!行きたくない!」

 ジョルジュの生家の中庭で、マジッドが孤児院の二人の大人に強制的に連れて行かれる悪夢なのだ。

 最後は、大きな男が逃げるマジッドを担いで、強引に車に押し込んでいく。

 車内でも暴れて、抵抗するマジッド。

 そんな少年を乗せて、発車する車。

 映像の最後に映し出した男の夢は、突き付けられ、問い詰められ、追い詰められた男が、長く封印してきた記憶のコアの部分を鮮明に噴き上げるものだった。

 それは、自分の告げ口によって、両親を虐殺された孤児を施設に送ることで、そのダークサイドな生涯を予約させた決定的な出来事だった。

 悪夢の中で分娩された男の「疚しさ」が、悪夢からほんの少し解かれた日常性にどこまで繋がっていくか、一切不分明である。

 ただ、男の自我が張り巡らしたつもりの防衛機制のバリアが、いよいよ空洞化されつつある内的状況下で、男がそれまでと同じ日常性を継続させていく保証など全くないのだ。

 ミヒャエル・ハネケ監督は、この一連のシークエンスの中で、「疚しさ」に最近接する男の自我の振幅を肯定的に描き切る物語を、恐らく、最後まで観る者に提示していない。

 それにも関らず、この一連のシークエンスの中で、内面的に追い詰められた男の「精神の焼け野原」とも言うべき、その惨状の様態を描き出したことだけは間違いないのだ。

 妻への最初の男の「告白」から、「真相告白」を含んで、ラストカットの直前までの、この重苦しいシークエンスこそ、本作の生命線であると言っていいだろう。


 そこに記録された、「疚しさ」に関わるジョルジュの内面の振幅の様態の描写こそ、本作の真骨頂なのだ。

 「肝心なのは、ジョルジュの内面の振幅の様態を、『歴史の証人』として見届けること」

 追い詰める男が、それを加速させるほど、追い詰められる内面の振幅の様態を描き切った本作の要諦(ようてい)をこそ見逃すな。

 ミヒャエル・ハネケ監督は、そう言っているようでもあった。

 従って、ピエロとマジッドの息子の「共犯性」を暗示させるラストカットの曖昧さは、「ミステリー映画としての、説得力のある軟着点を深追いしても意味がない」という、ハネケ監督のメタメッセージとして読解することも可能である。

 或いは、ラストカットでも判然とする通り、ピエロとマジッドの息子による「共犯性」の強調によって、独立を求めるアルジェリア人への虐殺事件を起こしながら、人権を説く政治家や、その事実をきちんとフォローしないメディアに象徴される先進国の欺瞞性と、かつて同時代に生きながら罪悪感を持たない、「先進国で生きるわれわれ」への指弾を、次世代の若者たたちが使命感を持って継承していくという文脈で読み解くこともまた可能であるだろう。

 ミステリー映画に特段の関心のない私だが、本作に限って、テーマと重厚に絡むと思われるので、以下、稿を変えて、私のイメージラインを書いておきたい。



 5  メディアが捕捉し得ない「神の視線」の投入による、内なる「疚しさ」と対峙させる映像的問題提示



 何より、ラストカットをどう読み解くかという問題がある。


 もし、ピエロとマジッドの息子が左端に写っているラストカットの構図が、第三者による「悪意の視線」(即ち、「真犯人」)によるものと仮定するなら、本作は際限ないミステリーのゲームになってしまうだろう。

 基幹テーマから安直に逸脱するはずがないハネケ監督が、ミステリーを勝手に独歩させたりしないだろうと思われるのだ。

 だから私は、このラストカットの意味は、鋭いメディア批判を重ねてきたハネケ監督の意図が内包された何かであると考えたい。

 即ちそれは、先進国の大都市にあって、人それぞれ自由な生活を謳歌しているが、常にそこには、メディアが捕捉し得ない「神の視線」が濃密に介在しているのだというメタメッセージである。

 定点ショットの如きラストカットの構図の意味を、そのような文脈で把握した上で、以下、シンプルな私の見方を、主に心理学的アプローチに則って記述しておきたい。

 まず、ラストカットで暗示されているように、恐らく、主犯はマジッドの息子であるだろう。

 彼は、父マジッドとの共同生活の中で、日常的に差別される者の視線を感受してきて、それに対して憤怒の感情を抱いていた。

 既に、父から40年前の出来事について知らされていた件の息子には、どうしても遂行せねばならない「仕事」があった。

 その「仕事」とは、テレビというマスメディアを介して、知りたくもない不快な情報を得てしまったジョルジュという人間の、その偽善・欺瞞性への「許し難さ」に発した行為 ―― それは、もしかしたら、長年の下積み労働が昂じて、重篤な疾病等によって死期が近づいていたのかも知れない父の無念を晴らす行為である。

 然るに、その行為の内実は、先進国がかつて後進国に加えてきた露骨な暴力的攻撃ではなく、遥かに精神的な意味合いを持った何かだった。

 直截(ちょくさい)に言えば、ジョルジュの「疚しさ」の有りようを確認すること。

 それに尽きるだろう。

 ただ、それだけの理由で、マジッドの息子は動いたのではないか。

 そして、社会的正義感溢れる息子の、そのような企みに関知しない父に、ジョルジュ本人を直接的に対峙させる方略を思いつき、遂行するに至ったのではないか。

 そこで彼は、ジョルジュの息子であるピエロに接近し、その思いの丈を吐露していく。


 12歳という最も感じやすい年頃にあるピエロもまた、マスメディアに勤務しながら不倫する母や、キャスターとして偽善的言辞を吐き散らしている父に対して、全く馴染めない感情が育まれていた。

 そこには、悪戯半分の思いもあったかも知れない。

 しかし、少なくとも、マジッドの息子だけは本気だったのだ。

 そして、実現した40年ぶりの、マジッドとジョルジュの再会。

 その模様を隠しカメラで収録するという、アクティブな仕掛けを施すマジッドの息子は、後にこのビデオを見て、憤怒の感情をマキシマムに噴き上げていったに違いない。

 若い彼は、父を訪問するジョルジュの言葉の中に、「疚しさ」の有りようを実感し得るに足る淡い思いを抱懐していたのだろう。

 ところが、そのオプチミスティック期待は完全に裏切られる。

 ジョルジュは父に謝罪するどころか、父の知らない盗撮行為の犯人呼ばわりしたばかりか、あろうことか、「金が目的か」などという許し難い言辞を吐いたのである。

 だから私は、この二人の再会のシーンこそが、本作の肝であると考えている。

 もしここで、ジョルジュがマジッドの父に、「疚しさ」の感情の片鱗を柔和に表現したならば、恐らく、その後の展開は変わっていただろう。

 二人の再会シーンは、それほど重要な設定だったのだ。

 ジョルジュの攻撃的で、差別意識丸出しの反応に激しい憤怒を覚えたマジッドの息子は、そのことをピエロに話す。

 その事実を知らされ、衝撃を受けるピエロが選択した行動は、「家出」の偽装だった。

 恐らく、単独行動だったのだろう。

 だからこそ、その直後の映像が、遣り切れない物語を極限まで暗転させていく展開になっていくのだ。

 ピエロの誘拐の犯人扱いされた、パリに住むアルジェリア人の父子は、大した証拠もなく、所轄の警察署に逮捕され、留置されるに至ったのである。

 留置所で、遣り場がない憤怒を噴き上げるマジッド親子。

 その結果、意を決したように、マジッドはジョルジュを呼び寄せ、自死するに至るのだ。

 この展開は、当然の如く、マジッドの息子やピエロの想像の埒外(らちがい)にあった。

 もう、ここまできたら直接対決するしかなかった。


 それが、テレビ局でのエレベーターシーンから、トイレでの二人の会話に繋がったのである。

 そして、その結果、そこだけはマジッドの息子が想像しなかった現実を引き出したのだ。

 即ち、ラストカット直前の、あの由々しきカットの映像である。

 40年前に出来した、施設へのマジッドの強制連行事件である。

 意に反した結果を目の当たりにした二人の青少年は、残念ながら、ジョルジュの悪夢について認知していない。

 それにも関わらず、二人の青少年が引き出したジョルジュの悪夢。

 それこそ、「疚しさ」の映像的具現と言えるのかも知れないのだ。

 しかし、現実は甘くない。

 裕福な自分の家庭を破綻に追い込むリスクを負うだろう、ピエロの遣り場のなさと、最後まで、最も欲していたはずの、「疚しさ」の言辞を本人から引き出すことができなかったと信じるマジッドの息子。

 映像は、この二人の青少年に対しても、ペナルティを加えたのか。

 その二人が、ラストカットで談笑してるかのようかのような構図の意味は、「君らの振舞いをも、神は見ているんだぞ」という、意地悪な作り手のメタメッセージだったのかも知れないのだ。

 これが、由々しきテーマへの逸脱を許さない、ハネケ映像のミステリーラインについての私の解釈である。

 閑話休題。

 
以上の私の解釈とは無縁に、恐らく本作は、永遠に答えの出ない犯人探しによって、本作を観る「先進国で生きるわれわれ」に、内なる「疚しさ」と対峙させることが最大のモチーフとなった映像なのだ。

 この重苦しくも、そこから抜け出すことが困難な「クローズドサークル」の心理劇のインパクトこそ、犯人探しのミステリーゲームを根柢において相対化し切る何かだった。

 そう把握する以外にないラストカットだったのである。

 それにしても、ミヒャエル・ハネケ監督。

 とてつもなく凄い映像を作ってくれたものだ。

 「神の視線」の投入によるラストカットを、DVDで繰り返し観ながら、その構築力の高さに言葉を失う程だった。

 何より、半ば空洞化されつつも、防衛機制を必死に張り巡らせるジョルジュの揺動する自我の、その奥深い辺りまで、深々と描き切った映像の凄みに震えが走った程だ。

 ジョルジュを演じ切ったダニエル・オートゥィユ。

 彼の内的表現力なくして成立し得ない難しい役どころを、見事に演じ切ったプロ魂に敬意を表したい。


【なお、本稿のミヒャエル・ハネケ監督の言葉は、「映画.com ミヒャエル・ハネケ監督インタビュー/聞き手:北小路隆志 2006年4月25日」、「DVDの付録にある特典映像での監督インタビュー」より引用】

(2011年10月)

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