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2010年12月22日水曜日

少年時代('90)       篠田正浩


<「思春期前期」の抑制困難な氾濫の中で ―― 汝の名は「擬似恋愛」なり>



1  「子供の世界における『権力関係』の様態」、或いは、「『思春期前期』の氾濫への戸惑い」



一般論を言えば、人間の問題で最も厄介な問題の一つは、「権力関係」の問題である。

「権力関係」はどこにでも発生し、見えないところで人々を動かしているから厄介なのである。

その「権力関係」が、子供の世界でも形成されているのは当然過ぎること。

その子供の世界で、「権力関係」の逆転や「クーデター」が起こったとしても不思議ではないだろう。

子供にも存在する「権力関係」を、成人社会のそれをカリカチュアライズさせながらも、そこで再現した関係構図がリアリティを持つのは、その「権力関係」がどこにも存在する普遍的な力学を持っているからだ。

その意味で、本作はラストでの駅での送別でのシークエンスで表現された、主人公の叔父の台詞、即ち「『予科練の歌』でもいいから歌え。軍歌以外に他に歌を知らんがよ」と言って、「予科練の歌」を主人公への送別歌とするシークエンスの挿入を除いて、基本的に「時代」を借景しただけで、「時代」を描いた映画でも、「時代」の中の特殊な人間群像をテーマにした映画でもない。

それは、もっと普遍的な関係についてテーマを限定にした映画である。

そのテーマとは、「子供の世界における『権力関係』の様態」であり、「『思春期前期』の氾濫への戸惑い」と言っていい。

さて、本作のこと。

この映画には、4種類の少年が存在する。

権力を失っても決して誇りを捨てなかった少年と、その少年を視認したことで、自分が失った誇りを土壇場で回復させた少年。

そして、「権力関係」を戦略的に駆使し、自らが「権力」の頂点に立って、その関係構造を支配・維持する小利口な少年と、その他大勢の関係の力学に振れて動くだけの少年たち。

この4種類である。

ここでは、前二者の少年が中心となって描かれているので、以下、その特殊な関係の力学に焦点を当てて言及していく。



2  「思春期前期」の抑制困難な氾濫の中で ―― 汝の名は「擬似恋愛」なり



「何も言うな。俺は可哀想なんかじゃない」

クーデター前のガキ大将の少年が放ったこの言葉が、本作の健全なヒロイズムを根柢から支えている。

この映画の強さは、そこにある。

この強さは、そこに至るまで表現してきたものの構築的な強さである。

従って、その強さは充分に自律的であった。

―― そこに至るまでの簡潔なプロットを書いておこう。

昭和19年の晩秋。

あと半年もすれば、10万人の死者を出した東京大空襲(1945年3月10日)という、未曾有の大戦災に遭う緊迫した戦況下で、小5の風間進二は、富山の伯父の家に「縁故疎開」(親類・知人を頼る疎開)することになった。

当然の如く、東京出身の進二は、唯それだけの理由で古典的ないじめに遭うが、その進二に親近感を覚え、私生活面で何かとサポートしたのは番長の大原武。

ところが、学校内ではよそよそしい態度に終始するばかりか、威張って見せる武の「別人」ぶりを、進二には理解できない。

進二は問いただした。

「どうして大原君はこんなに優しいのに・・・どうして・・・」
「いじめる言うがか?・・・分らんのう!分らんのう!」

そう言って、進二の頭を押し付ける武が、そこにいた。

問いただされたガキ大将も、自分の感情を把握し切れないで、彼なりの身体表現を展開するのみだった。

このような時期の、このような感情を精緻に描き切ったという一点において、本作の評価は揺るがないものとなったと言っていい。

何より、「児童期後期」の特徴は「思春期前期」と重なっていて、同性・同年齢児によって構成されるミニ集団を作ることで、ミニ集団の枠外に存在する者への排他性を特徴づけ、そこには、固有の価値を持つ、相応の「権力関係」による一定の序列と役割分化が見られるだろう。

ここでは、「児童期後期」の特徴が、「思春期前期」と重なっているという事実こそ重要である。

即ち、この時期の男児の場合、身体の外形の顕著な変容によって自我が不安定になることで、自己コントロールが十全に作用しなくなるという由々しき事態が出来するに至るのだ。

それは、身体の外形の変容が「思春期前期」のステージに踏み込んでいるにも拘らず、当該自我がなお、「児童期後期」のステージに捕捉されているからである。

しかし、思春期の二次性徴として、精巣や副腎から分泌されるテストステロンなどの性ホルモンの分泌が活発化することで、精神面の不安定さが常態化されていくが、異性感情に大きく振れていく「思春期後期」の氾濫には届くことなく、未だ自我がなお、「児童期後期」のステージにあって、同性関係の延長線上で、「擬似恋愛」という未知のゾーンの只中をダッチロールしているのだ。

立山連峰(イメージ画像・ウィキ)
まさに、武の心理的混乱の正体は、彼の身体の変容が、既に「思春期前期」のステージに踏み込んでいるにも拘らず、その自我がなお、「児童期後期」のステージに捕捉されているという矛盾の発現だったと言えるだろう。

学校内での、進二との「権力関係」の中においても、「思春期前期」のステージに踏み込んでいる武の「擬似恋愛」は、特段に「厄介」な光芒を放っていて、抑性の困難な感情に拉致されて当惑する外なかったのである。

進二もまた、武の感情を充分に受容できないのは、同様に、異性感情に振れていくことのない「児童期後期」の幼児性を引き摺っていたからだ。

「進二はお前のために話とるんじゃない。俺のために話とるんじゃ」

武の放つ、この言葉の含意は重要だ。

その体型の違いから既に声変わりを果たし、同年代の「児童期後期」の仲間たちを置き去りにして行った一人の少年、それが武である。

この少年だけが、「思春期前期」に現象化する男性ホルモンによって引っ張られる感情に搦め捕られていたのだ。

そこに、「擬似恋愛」という未知のゾーンの誘(いざな)いによって、自分でも抑制困難な感情体系を引き摺っていた。

通常、思春期の子供の内側に出来する氾濫によって、ステップアップした自我の形成を立ち上げ、「仮想敵」を作っていく。

その「仮想敵」のターゲットは、まず自分自身になるだろう。

それで処理できない感情を、今度は身近な家族や友人に吐き出していく。

教室では、教師もまた有力な「仮想敵」になる。

しかし、敗色濃厚の戦時下の時代状況にあって、社会規範の暗黙のルールの中で、大人への反抗は封印されているので、結局、沸騰した感情は、同年齢の仲間たちとの喧嘩や憂さ晴らしなどで処理されていくだろう。

そこでは、最も力の強い武がボスとなる「権力関係」が形成されていく。

そんな武の思春期の宇宙の中枢に、垢抜けた都会から飛来して来た、美形の少年の存在が捕捉されることで、武は、進二と名乗るその少年に「擬似恋愛」の感情を抱くに至った。

いつしか、ガキ大将の少年の内側に、独占感情と嫉妬感情が湧き起る。

それが、先に武の放った言葉となった。

ところが、肝心の美形の少年には、武の感情の氾濫が全く理解できない。

当然である。

身体の小さい進二は、未だ「児童期後期」の感情体系に収斂されていたのである。

二人の少年の拠って立つ感情体系には、同年齢の枠組みの制約に収斂されない、「異文化」に近い世界の様態を露わにしていたのだ。

ガキ大将の「権力関係」が及ばないテリトリー外で惹起した、外部暴力による進二の身に起こった危機を、「スーパーマン」の疾風の振舞いのうちに救った武にとって、進二と二人で収まる、写真館での「思い出のショット」は、殆ど「ハネムーン」の記念写真以外ではなかったのである。

武の中の、「児童期後期」と重なる「思春期前期」の抑制困難な氾濫 ―― 汝の名は「擬似恋愛」なり。



3  「何も言うな。俺は可哀想なんかじゃない」 ―― 「権力」を失っても誇りを捨てない少年の健全なヒロイズム



武との「権力関係」の中で庇護される進二は、校長先生の親戚で、大阪から疎開して来た美那子からキツイ一言を浴びせられた。

「ガキ大将に取り入って、結構な羽振りやもんな」
「取り入ってなんかいない!」
「ええやないの。世渡り心得とるなあって、お母ちゃんと安心したんやから」

進二と美那子
さすがに、美那子のストレートの威力に傷つけられた進二は、その夜、海岸の高みに立って、海に向かって叫ぶのだ。

「俺は弱虫なんかじゃない!取り入ってなんかない!」

その翌日のこと。

進二は、武に副級長を辞めたいと申し出た。

前日の美那子の、内角を抉るストレートの威力が、なお尾を引いていたのである。

武に慰留されても、形式的なだけの副級長の役割に対して、進二の気持ちは全く乗れないのだ。

そんな小さなエピソードを繋いでいった映像は、一転して、その風景を変えていく。

「校内クーデタ―」が勃発したのは、季節が変ってまもない頃だった。

春になって、病欠の身にあった副級長の須藤が復学してきたことで、知略に長けた須藤の「オルグ」が功を奏して、武の「権力」はあっという間に失墜するに至ったのである。

この須藤こそ、前述した4種類の少年の中で、「権力関係」を戦略的に駆使し、自らが「権力」の頂点に立って、その関係構造を支配・維持する小利口な少年であった。

この小利口な少年に操られて、その他大勢の関係の力学に振れて、動くだけの少年たちがいた。

その中に、利口だが、喧嘩が弱い進二が含まれていたのは言うまでもなかった。

そんな進二が、「自分が失った誇りを土壇場で回復させた少年」に変容する直接の原因は、「権力を失っても決して誇りを捨てなかった少年」を視認したからである。

言うまでもなく、その少年の名は大原武。

「校内クーデタ―」によって、ガキ大将の「権力」を奪われた少年である。

「手下」を失い、校内で完全に孤立し、「倍返し」のリベンジを受けることを常態化する武だが、その毅然とした態度には、少なくとも、感性の鋭敏な少年の心を捉えるものがあった。

感性の鋭敏な少年とは、風間進二。

武に近づく進二。

自分の家に来ることを誘う。

だが、頑なに拒まれるだけ。

「何も言うな。俺は可哀想なんかじゃない」

この言葉は、そのときのものだ。

映像総体を通して、最も重要な台詞である。

「権力を失っても決して誇りを捨てなかった少年」が、教室の片隅に凛として座って、読書しているのだ。

それは、「感動の括り」を狙った、「大カタルシス」挿入のラストシークエンスのあざとい感傷よりも、遥かに力強いメッセージであった。

良い意味で、本作のリリシズムとヒロイズムを根柢から支えている台詞だったと言ってもいい。


映画のモデルになった富山県入善町・ブログより
同年齢ながら、「児童期後期」の少年が、「思春期前期」に踏み込んでいる少年の内側に蠢(うごめ)く、様々に複雑な感情を理解するのは難しかったに違いないが、その言葉が放つ眩さに、「全身児童期後期」の少年は明らかに反応したのだ。

「権力」を失ってもなお誇りを捨てない、凛とした振舞いが逆照射する、「児童期後期」の少年(進二)の自我に張り付く「後ろめたさ」の感情と、失いかけた誇りの実相。

防衛的自我が日和見的に動き回っただけに過ぎない、自分の立ち居振る舞いを相応に内省し得る健全な自我が、進二には内在しているのである。

以降、進二は「思春期前期」の少年(武)の内部世界に、自らその身を預け入れようとするのだ。

それは、武との関係の中で初めて惹起した、進二の極めて鮮度の高い感情だった。

何よりそれは、「権力」を失っても誇りを捨てない少年の、本来的なる健全なヒロイズムだったのか。

武の感情世界の中枢辺りで、そこだけは常に堂々としているものに、進二は触れてしまったのだ。

健全なヒロイズムには、友情の芯を堅固にするパワーが包括されるのだろう。

それを証明する寡黙なる態度が、「児童期後期」の少年の視界のうちに、眩い光芒を放っていたのである。



4  「親友」としての価値を持った者への贈り物を残して



時恰も、玉音放送による「終戦」を迎え、1年間にも満たない疎開の季節は終焉した。

東京から命辛辛、迎えに来た母に抱かれても、進二の思いは疎開先で出会った、武という不思議な存在との関係の有りようだけが気になっていた。

そこには、未だ解決していない何かがある。

その何かを埋めることなしに、焼け野原の東京に戻り得ないと思う少年の心が、忙しく揺れ動いているのだ。

だから少年は、行動に出た。

それは少年にとって、武だけが心の底から笑みを交換して別れていく、「親友」としての価値を持った瞬間だった。

疎開に出る際、父にせがんで貰ったバックルを携え、少年は武の古い家屋を訪ねて行った。

しかし、そこに誰もいなかった。


明日の最終列車で帰郷するというメッセージを、誰もいない民家の暗みに向かって少年は放って、その屋内に、何より大切なバックルを残して立ち去って行った。

それは、「親友」としての価値を持った者への、それ以外にない贈り物だった。


このショットがラストシークエンスの重要な伏線となって、そこだけは情感系の濃度の深い映像のうちに閉じていったのである。



5  100パーセントの「大カタルシス」を約束させる、100パーセントの文部科学省選定映画



本稿の最後に、存分な厭味を張り付けておこう。

本作のように、極めて限定的なテーマを、限定的な空間の、限定的な関係枠の中で、限定的な年齢枠に現象化する制約下で、このような抑性的な筆致によって、比較的に淡々と物語を繋いでいくならば、その物語の最終的な軟着点は、このようなラストシークエンス以外にないと容易に想像させる映像の評価もまた、限定的であるだろう。

それは、100パーセントの「大カタルシス」を約束させる、100パーセントの文部科学省選定映画の受容の是非か、或いは、最後まで抑性的な筆致を守り切って、50パーセントの余情含みの「寡黙の美学」による表現性の受容の是非か、そのいずれかであるに違いない。

然るに、作り手が後者の括りを選択するとき、幅広い観客との「感動」の黙契への「裏切り」によって、当然、手に入れるはずの「大カタルシス」を奪われたという類のクレームを、「表現の自由」の名において内部消化できるなら全く問題ないが、そこで失うだろう世俗的賛辞によって狼狽(うろた)える脆弱さを露呈するならば、「表現者」としての「矜持」はおろか、ビジネスラインに普通に合わせた者の「安堵」への拘泥にも辿り着けない、遣り切れないような空洞感を晒すかも知れない。

だが、本作は、後者の括りを選択しなかったことで、数多の観客との「感動」の黙契を自己完結させるに至った。

本作は、100パーセントの「大カタルシス」を約束させる、100パーセントの文部科学省選定映画の一篇となって、その受容の是非をも論外とさせたようだ。

だからと言って、この映画が悪いというのではない。

篠田正浩監督
寧ろ、稀有な良質の作品と言っていい。

だが、良質し過ぎるのだ。

毒気がなさ過ぎるのだ。

そのような映画を求める人たちには、ラストシークエンスで100%の「大カタルシス」を手に入れることで浄化し切る充足感こそ、かけがえのない何かであるだろう。

しかし、「予定調和のハッピーエンド」が大嫌いな、私のような天の邪鬼の鑑賞者には、100%浄化し切れない作品のうちにこそ、「余情」を存分に汲み取れると決め付けて止まないのである。

そんな嗜癖を持つ者には、「映像構成との程良い均衡」という観点で言うならば、箸にも棒にも掛からない、「夏が過ぎ 風あざみ だれの憧れにさまよう 青空に残された 私の心は夏もよう」などという、感傷全開の叙情詩の挿入歌に抱かれて閉じていく、情感的軟着点を拒絶する基本スタンスは変りようがない。

なぜ、100パーセント予約させる叙情歌を、ここで嵌め込むことに我慢できないのか。

なぜ、100パーセントの「大カタルシス」を保証させるに足る、あまりに見え透いたドラマの括りに流れ込んでしまうのか。

他にも、幾らでも表現手法があったのではないのか。

それはもう、「好みの問題」と言うしかないのだが、ラストシークエンスの叙情歌の挿入と、情感的軟着点の張り付けは、他の多くの作品と同様に、この映画もまた、「北の国から」という情感過多なテレビドラマと一線を隠さない、「名作群」のカテゴリーのうちに収斂される瞬間を露呈してしまったのである。

(2010年12月)

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