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2010年7月31日土曜日

男と女('66)   クロード・ルルーシュ


<「叙情」と「緊張」という二つの「視聴覚の刺激効果」を挿入する〈愛〉の揺曳>




1  「叙情」と「緊張」という二つの「視聴覚の刺激効果」を挿入する〈愛〉の揺曳


クレイジーラブやミラクルラブが溢れ返る映画に馴致し過ぎてしまうと、何とも退屈な映画にしか見えないことを再認識させられる一篇。

しかし、このような私的事情を抱える男女がいて、このような心理的交叉を継続していくならば、現実には、このような男女の関係しか構築できないだろうと思わせる説得力があった。

この説得力が、本作を根柢において支え切っていたのである。

実際のところ、そこに「禁断」の印が張り付いていなかったり、思い詰めた末の「駆け落ちの推進力」であったりするならば例外だが、本来、「非日常」の世界に捕捉されやすい性格を持ちやすい時間の大半を、本作のように、親子ぐるみの「日常」の稜線上に地道に構築される男女の〈愛〉の様態の多くは、恐らく退屈極まりないものだ。

長いスパンを要して、漸く、惚れた女の手を握る男と女の〈愛〉を丁寧に描くことで生まれる、フラットな展開による退屈感を希釈するために、作り手は、この映画に二つの「視聴覚の刺激効果」を挿入した。


「日常」と「非日常」が微妙に交叉する中で、「逢瀬」の度に少しずつ、「距離」を縮めつつある大人の男女の繊細な関係の振幅の内に、「叙情」と「緊張」という「視聴覚の刺激効果」を挿入したのである。(画像はクロード・ルルーシュ監督)

それは、本来なら退屈極まりない時間の共有を累加させていく、内面的には「プロセスの快楽」の渦中にある至福の境地を占有する時間でありながらも、それを観る者には届きにくい心理に訴求力を持たせるための技巧であった。

その技巧とは、男女の心理に寄り添い、それを代弁するような「音楽」の導入であった。

これが、「叙情」である。

もう一つは、男女の心理の中枢を、時空を抜けて劈(つんざ)いていく「映像」の導入である。

これが、「緊張」である。

ここで重要なのは、この「緊張」の描写が、モノクロやセピア色、更にカラーの色彩を纏(まと)って映像の「緊張」を掻き立てていく技巧が、「物語」を補完する決定的な役割を担っていることである。

なぜなら、この「緊張」の描写の中に、忘れようとしても決して忘れられない、配偶者の悲惨な死に関わる描写が特定的に切り取られていたからである。


ゆきげの グリーフワーク講演会(イメージ画像・ブログより
最も愛する者を喪った者の「グリーフワーク」は、新しい魅力的な異性との邂逅によって、簡単に具現し得るほどのレベルではなかったと言える。

特に、女の場合がそうだった。

自分の眼の前で、スタントマンを職業にする最愛の夫が、悲鳴を上げて事故死してしまったのである。

そんな女への、殆ど一目惚れの感情を抱懐した男もまた辛い過去を持っていた。

スピード・レーサーである自分が重傷を負ったショックで、愛する妻が自殺を遂げてしまったのだ。

ただ男の場合、その後もモンテカルロ・ラリーの制覇を目指すプロ・レーサーを延長していることから、女の自我に張り付く「心的外傷」に比較すれば、相対的に自在性が確保されているのだろう。


以上の文脈で見る限り、「日常」と「非日常」を微妙に往還する二人の男女の物理的距離感が縮まったとしても、その心理的距離感を完全に解放系にするには、言葉では言い表せない障壁が存在したということだ。


クロード・ルルーシュ監督は、そういう難しい映像を、「叙情」と「緊張」という二つの「視聴覚の刺激効果」を挿入することで、どこまでも「プロセスの快楽」を超克できない、大人の男女の〈愛〉の揺曳と振幅を精緻に描き切ったのである。



2  女の自我に張り付く「非在の存在性」の決定的な重量感



男女の睦みの中で、亡夫との思い出が過(よ)ぎる女に、一時の快楽の至福が中断されてしまうのだ。

男の感情だけが、睦みの時間の中で置き去りにされた。

「なぜだ?」と男。
「夫のせいよ」と女。
「もう死んだ」と男。

首を横に振る女。

「汽車で帰るわ」

その一言を残して、女は去って行った。


このとき、BGMで流されるメロディの、「心は闇に閉ざされる」などという歌詞は、明らかに説明過剰なもの。


そして、あまりに有名なラストシーン。

男は、女を乗換え駅のホームで待った。


陰鬱な別離を安ホテルに捨てて来た女の脳裡には、男の慕情を拾えなかった悔いが張り付いていたのだろう。

男を視認して、その思いが弾けたとき、女は男の胸に身も心も投げ入れていった。

この構図に勝負を賭けた作り手の狙いは見事に嵌って、本作の名は、29歳の無名の新進監督の快挙として、少なくとも、フランス映画史に残る不朽の名作という評価の内に今も語り継がれている。

しかし、ラストシーンの意味を、観る者は履き違えてはならないだろう。


形式的には「ハッピーエンド」だが、それは明らかに、ハリウッド文法の文脈で収斂される何かではない。


そこで、男の胸に身も心も投げ入れた女の心理を支配したのは、男の変わらぬ慕情を切り捨てた、自らの振舞いに対する悔いの念であった。

そして、その感情が決定的な推進力となったが故に、〈状況心理〉が加速的に反応してしまったのである。

それが、ラストシーンの本質だった。

私はそう思う。

とりわけ、女の自我に張り付く、「非在の存在性」の決定的な重量感が変らない限り、男と女の〈愛〉の行方は、いつまでも「迷宮の森」から解放されないだろう。

果たしてそこまで、男の慕情の継続力が、逢瀬の時間で絡み合う欲情の鮮度を保持し得るか。

相当程度、困難であると言わざるを得ないのだ。

「グリーフワーク」を切に必要とする者の記憶の深淵に関わる、男と女の「タイムラグ」の問題を決して疎略にしてはならないのである。

(2010年8月)

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