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    2 週間前

2011年10月22日土曜日

やわらかい手('07)         サム・ガルバルスキ


<「不健全な文化」を適度に包括する、「健全な社会」の大いなる有りよう>



1  「感動譚」を成就させる推進力として駆動させた文化としての「風俗」



難病と闘う孫を、その孫を愛する祖母が助ける。

「あの子のためなら何でもするわ。後悔なんて少しもよ。家くらい何なの」

冒頭シーンで、既に家を手放した祖母が、息子に吐露した言葉だ。

祖母の名は、マギー。

ロンドン郊外の町に住んでいる。

この冒頭シーンで、予備情報を持たない観客は、本作が在り来たりの「感動譚」であるというイメージを想念するだろう。

大抵、この類の「感動譚」の物語構成は、「無償の愛」という犠牲的精神をフル稼働させて、その「無償の愛」によって救われる「心優しき愛の受給者」と、「心優しき愛の供給者」という関係性の枠内で安直に処理されるケースが多いからだ。


そんな安直な設定だけでも感涙に咽ぶ「物語の需要者」が、この世にごまんと存在するが故に、いつしか「物語の供給者」も、マンネリ化した「感動譚」を過剰に垂れ流す不埒な戦略に鈍感になっていく。

挙句の果てに、「物語の需要者」にも飽きがきて、この類の「感動譚」の連射も頭打ちになっていく運命を免れなくなるだろう。

ところが、「感動譚」の定番の如き虚飾と欺瞞に満ち満ちた話を、この映画は、観る者が思わず赤面するような直球勝負で描かないのだ。

あろうことか、この「感動譚」を成就させる推進力として駆動させたもの ―― それは、およそ「感動譚」とは無縁な文化としての「風俗」であったこと。

そこが、この映画の最も面白いところでもあった。



2  「ゴッド・ハンド」を持つ「イリーナ・パーム」の立ち上げ



何かと問題が多い、「NHS」(英国の国営医療サービス事業)の制度によって、一応、治療費は無料だが、難病の故、可愛い孫の治療はオーストラリアでしか実施し得ないので、地理的に離れたオーストラリアまで、遠路遥々、出向かねばならず、宿泊代等を含めた費用たるや6000ポンドの大金を捻出せねばならなかった。

難病と闘う孫を助けるために、祖母のマギーが窮余の一策として選択した職業が、何と性風俗店でのアルバイトだった。


ロンドンの歓楽街として有名な、ソーホーの一角にある性風俗店でのマギーの「仕事」 ―― それは、壁に穿たれた小さな穴の向こうに立つ男たちのペニスを「手コキ」することで、男たちのザーメンを放出させてあげるという、ある意味で実に簡単な「仕事」だった。

壁の向こうの「美女」を想像しながら、列を作って居並ぶ男たちを射精させる技術は容易ではないと思われるが、その辺りをスル―した物語で描かれていくのは、当然の如く、世間擦れしていないマギーが、最初は嫌がっていたこの「仕事」に馴れることで、店一番の「達人」ぶりを発揮していくという顛末と、そのことが彼女の人間関係に与える余波である。

何はともあれ、「風俗」の「仕事」に対するマギーの抵抗感を要約すれば、その「仕事」が「道徳」に背馳するということだろう。

ここで、この想定外の物語構成について考えてみよう。

要するに、社会的に支持された規範を「道徳」と呼ぶなら、この「道徳」という規範体系もどきの文化フィールドと隔たった距離にあるだろう、インモラルなイメージが被された「風俗」に、「無償の愛」の一念で驀進(ばくしん)する「心優しき愛の供給者」をリンクさせることで、その「無償の愛」の「善行」=「高い道徳性の表現」にさざ波を立ててしまう物語構成が、この映画の基幹の骨格を形成しているのだ。

そればかりではない。

「無償の愛」によって、勇気を持って自らを立ち上げた、世間擦れしていない「心優しき愛の供給者」の、その人生の本来的な有りようにまで肉迫していくのである。

物語を続ける。


いつしか、大胆なまでの変容を遂げていく「心優しき愛の供給者」。

マギーは、「風俗」の店内に絵や花を飾ったりして、自室のような雰囲気を出すのである。

マギーの「やわらかい手」が「ゴッド・ハンド」であったためか、彼女の目当ての客ばかりが増えていくのだ。

お陰で、稼げない従業員が馘首(かくしゅ)される現実もまた、「性風俗」の業界の習わしなのか、今や、「イリーナ・パーム」という源氏名を持つマギーだが、友人のルィーザが解雇されるに及んで、深く心を痛める。

「SEXY WORLD」のオーナーのミキに、マギーは陳情した。

そのときの会話。

「客はお前が目当てだ。お前には居てもらう」
「私が辞めたら呼び戻す?」
「借金が、あと8週分ある。それを返したら辞めてもいい。関係がなくなる」
「私はそれだけの存在なの?商売だけの・・・」

自分の存在感の感触に鈍感な反応を見せるミキに不満を漏らすほど、マギーは、「性風俗」の世界に入れ込んでいたのである。

その後、マギーは馘首されたルイーザを訪ねるが、けんもほろろに追い返されるのだ。

「私たち、友達じゃないの?」とマギー。
「友達よ。なのにあなたは・・・」とルイーザ。
「私は何も・・・」
「客を奪ったのよ。さっさと消えて」

悄然とするマギーに、降って湧いたように、別の「風俗」の店から引き抜きの話が舞い込んできて、彼女の借金も返済すると言うのだ。

その件をミキに話すと、引き留められ、喜ぶマギー。


このとき以来、二人はプライベートな事情を話し合い、加速的に最近接していく。

翌日、オシャレして店に出るマギーが、そこにいた。

ミキと満面の笑みを交歓するマギーは、今や、「ペニス肘」になるまで稼ぎ続ける「プロ」に変貌していくのである。



3  自我関与する「軽侮される母親」への後ろめたさの、爆発的な反転感情の行方



難病と闘う孫の命を救うために、自らを犠牲にしたはずの「心優しき愛の供給者」は、単に、「無償の愛」の手段でしかなかった「風俗」の渦中に自己投入しながら、そこに、近所の主婦連との井戸端会議の世俗文化の次元では、とうてい手に入れられない自我アイデンティティを獲得するという流れを意志的に作ってみせるのだ。

作ってみせた主体は、無論、本作の「ヒロイン」である中年の寡婦マギー(「心優しき愛の供給者」)である。

だからと言って、マギーは、自らの「無償の愛」によって救われる「心優しき愛の受給者」の存在を、一時(いっとき)でも忘れることがない。

ミキとマギー
マギーにとって、「心優しき愛の受給者」である難病の孫の存在は、殆ど絶対的に無限抱擁の対象人格なのである。

しかし、そこだけは、このような映画の定番の如き、お決まりのエピソードを挿入する。

マギーの秘密が、息子に露見してしまうのだ。

母のマギーが、6000ポンドの費用を捻出したことに訝しがったからである。

その日、マギーの息子が母の後をつけ、「SEXY WORLD」の店内に入って、母の外貌を目視してしまうのである。

全てが発覚し、指弾される母。

「分って欲しいの」
「分らないね。世の中謎だらけさ。母親が売春婦になった理由も」
「売春婦じゃないわ」
「あの金は全て返す!あんな汚れた金なんて!あんたは薄汚れた女だ!もう一生汚れたままだ!」
「無理よ」と息子の妻。
「指図するな!」と息子。

怒鳴られて、息子の嫁は部屋を出ていく。

彼女には、「性風俗」の世界に入ってまで、孫の命を救おうとする義母の思いに感謝の念が深いのである。

「私は後悔していないわ。二度と売春婦と呼ばないで」

「売春婦じゃないわ」というマギーの反駁の中に、「そこまで堕ちていない」というマギーの意地が窺えるが、それは取りも直さず、売春婦を軽侮する中年の寡婦の差別意識が露わになっている事実を検証するものだった。

そういう心理をもきちんと拾いあげる作り手の、欺瞞を擯斥(ひんせき)するリアリズムへの拘泥は心地良い。

何より、息子にとって、母親の存在は己が自我のルーツであって、罷(まか)り間違っても、「女」ではないのだ。


息子の憤怒の本質は、深々と自我関与する「軽侮される母親」への後ろめたさの、爆発的な反転感情であって、それ以外ではないのである。

そこが、己が自我のルーツではない息子の嫁の反応と別れるところだが、無論、孫の命を救おうとする母の献身的行為が理解できない訳がない。

この、「軽侮される母親」への後ろめたさの、爆発的な反転感情を身体表現せずして収斂され得ない、自我関与する者の反応は、一時(いっとき)、激発させることで、多くの場合、それ以外にない軟着点に流れ込んでいくのである。

それ故に、母との和解を果たすという物語の流れには、特段の違和感がなかったと言える。

その意味で、予定調和の括りのうちに閉じていく物語構成の基幹ラインは、このような難しい題材を選択した作り手にとって、殆ど必至であったと了解せざるを得ないのだ。



4  「不健全な文化」を適度に包括する、「健全な社会」の大いなる有りよう



「『やわらかな手』の中で、マギーは“大いなる旅”をします。何も成し遂げた事が無く、洗練もされていない人間から、自分自身について、そして人生において何が大切かを、これまでよりも確信するひとりの女性へと成長するのです。とても若くして結婚し、平凡な人生を過ごしてきた、信じられないくらい世間ずれしていない女性として、最初、彼女は私たちの前に登場します。病気の孫のために、彼女は自分の家までも犠牲にしてしまいます。孫の医療費を工面しなければならないという責任を彼女はあえて引き受けるのです。この気の毒な女性は、多くのことを我慢する人生を送ってこなくてはならなかったけれど、それが何故なのかがわかっていません。しかし、偶然 “セクシー・ワールド”に足を踏み入れた日、彼女の人生は思いがけなく変わり始め、最後には、愛へと導かれるのです。

マギーは、秘密の仕事を誰かに見つかるのではないかと、とても神経質になっています。彼女は、他人がどう思うか、非常に気にして心配しています。これを乗り越える事が、彼女の“旅”の全てです。映画のラストでは、彼女はくだらない噂話や批判的な意見を、もはや気にしません。マギーは、人々が言う事は重要ではない、ということを学ぶのです。本当に重要なことは、あなたがあなた自身をどう考えるか、ということなのです。私は、このことを、因習になど全くとらわれないクールな両親から常に学んできました。しかし、それでも、人生を振り返れば、私が人々にどう思われているかということで動揺した時代もありました。しばらくの間悲嘆にくれましたが、私はそれを乗り越えたのです」(「マリアンヌ・フェイスフル・インタビュー オリジナルプレスより」)


マリアンヌ・フェイスフル(ウイキ)

これは、マギーを演じたマリアンヌ・フェイスフル自身の言葉。

このインタビューから、本作が、「何も成し遂げた事が無く、洗練もされていない人間から、自分自身について、そして人生において何が大切かを、これまでよりも確信するひとりの女性へと成長する」人間の物語であることが判然とするだろう。

この言葉の持つ意味は、極めて重要である。

「人々にどう思われているかということ」ということよりも、「人生において何が大切かを、これまでよりも確信する」ことによって、「SEXY WORLD」のオーナーとの再会を果たすという、「大人の愛」へと導かれるラストカットを必然化するに至ったからだ。

これは、サム・ガルバルスキ監督の、以下の言葉と重なるものである。

「風俗ビジネスの醜い面のルポルタージュを作るつもりはありませんでした。マギーは純粋で正直なキャラクターなので、彼女の仕事を慎みや羞恥心をもって撮影しようと決心しました」

この文脈の中で、「純粋で正直なキャラクター」のマギーの「内的闘争」の様態を把握し得るだろう。

「純粋で正直なキャラクター」のマギーは、難病と闘う孫の命を救うために、自らを犠牲にしたはずの風俗ビジネスの最前線に自己投入することで、いつしか、「くだらない噂話」を好む近所の主婦連との表面的な関係を、自らの強い意志で壊してしまうのだ。


何より彼女は、「性風俗」に密かな関心を抱きながらも、「性風俗」の存在を、社会的に支持された規範を逸脱する、卑しいインモラルな何かとしてしか軽侮し得ない近所の主婦連の差別の視線を突き抜けて、堂々と、根性の座った「大人物」の如き振舞いを身体化し、「今の〈生〉」を、より輝かせる時間に加工することで、それまでの「ぼんやりした〈生〉」の一切を相対化し切って、歓楽街の中枢に自己投入していったのである。

そこが、この映画の肝であることを認知せざるを得ないのだ。

「私は、友人の脚本家・フィリップ・ブラスバンドが考えた、政治的でないロマンティックな悲喜劇を作ろうというアイディアが気に入りました。しかし、後にこれは資金調達が非常に難しいプロジェクトだということに気付かされます。このプロジェクト実現には長い時間がかかりました。(略)皆がオリジナルの脚本を探しているのに、実際それを持って行くと、彼らは怖じ気づいてしまうのです」(「サム・ガルバルスキ監督・インタビュー オリジナルプレスより」)

このサム・ガルバルスキ監督のインタビューで表現されている言葉は、相当に重い。

「怖じ気づいてしまう」ほどの脚本であるが故に、「資金調達が非常に難しいプロジェクト」を具現したガルバルスキ監督の突破力に、改めて敬意を表したい。

なぜなら、真に「健全な社会」とは、「性風俗」のような、厄介なる犯罪の温床と切れた、適度な「不健全な文化」を包括するからこそ保持し得ているということを、今更のように想起させてくれる本作の問題提示には、大いに価値があると思うからだ。

「不健全な文化」を適度に包括する、「健全な社会」の大いなる有りよう。

これが、私の率直な感懐である。

(2011年11月)

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