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2010年4月23日金曜日

無防備都市('45)    ロベルト・ロッセリーニ


(神父の殉教死を見つめる少年たち)
<「時代限定の映画」の賞味期限が切れたとき>



1  「3つの死の悲劇」を囲繞する者たちのリアリズムの欠損感



「『無防備都市』と『戦火のかなた』、そしてそれより小さな規模で『ドイツ零年』がおさめたつかのまの成功は、誤解の上に成り立っていた。人びとはネオリアリズモについてさかんに語り、わたしをそれの推定上の父親として、そこにひとつの流派、ひとつの組織、そして新たな美学に至るまで、求めようとしていた。

見せもの社会が、自分にとってやっかいなもの、ないしは定められた限界を超えた感動を生み出すものをとり込んでしまおうというやりかたが、ここにも見られる。実際には『無防備都市』の新しさは、伝統的な機構が役に立たなくなったので、スタジオを使わなくて映画が撮れるような新しいテクニックを自分で考え出さなければならなかった、という事実のおかげである。このリアリズモは、労働条件から生まれただけのことだ」(「ロッセリーニの〈自伝に近く〉」ロベルト・ロッセリーニ著ステファノ):ロンコローニ編 朝日新聞社/筆者段落構成)

以上のロッセリーニの言葉はとても正直で、好感が持てる。

「世界の映画シーンを全く変えてしまったロベルト・ロッセリーニに“戦争3部作”とは、史上、『無防備都市』(1945年)『戦火のかなた』(46年)、『ドイツ零年』(47年)をいう。いわゆるネオレアリズモの揺るぎない代表作であり、未だ鮮烈な衝撃を与えずにはおかない。たとえ、戦争を知らない世代にたいしても、である」(株式会社ジェイ・シー・エー ビデオジャケット解説:杉田誠一)

こんな褒め殺しが引きも切らない中で、ロッセリーニの言葉は、映画史の画期を成すと言われるネオレアリズモの代表的な映像作家であることの重荷と、過剰なラべリングに対して苛立っているようにも見えるからだ。

「無防備都市」に対する私の評価は、とても褒め殺しの類に内包される文脈の内に説明できる何かではない。

この映画に対する私の基本的な感懐を要約すれば、ロッセリーニの強い問題意識と、旺盛な熱意・意欲によって、極めて強引に映像を引っ張り切ったというものだ。

そのため、ストーリーラインの骨格を支える、3人の中心人物の描写が物語を支配し切ることによって、彼らの「勇敢な生き方」を補填し得るはずの、周囲の登場人物の描写が希薄化し、相当に粗雑になってしまった。

これは、「二人の殉教者と、愛を求めて路上で射殺される女」についての物語が、劇的に、且つ、特化されて記録されていくというストーリーラインの骨格が強調されるあまり、そこに関わる者たちの肝心の描写が拾えなかったと把握してもいい。

こうした物語の広がりの切断によって、リアリズムの濃度を希釈化させることで、ドキュメンタリー映画のような雰囲気を壊す「愚」を、意図的に回避しようという狙いを作り手が持っていたとしたならば、それは明らかに、リアリズムについての読み間違いであるだろう。

因みに、リアリズムには、「展開のリアリズム」と「描写のリアリズム」があり、両者は相互補完することによって、映像に「完成度」の高さを保証するのである。

前者は、「有り得ない話を作らないというルール」であり、後者は、「個々の状況・情景・人物・事象等の現実性を保証するというルール」のことで、私自身の仮説。

ネオレアリズモの秀作・「自転車泥棒
そのことを考えるとき、ストーリーラインの骨格を支える、3人の中心人物に関わる者たちの肝心の描写を拾うことに、殆ど意味を見い出さないかのような問題意識の拘りが、作り手が望んだであろう、「3つの死の悲劇」を囲繞する者たちのリアリズムの欠損感を惹起させることで、観る者の共感的理解を削り取ってしまったのである。

一部の例外を除いて、ネオレアリズモの作品にに多く見られる「人物描写の脆弱さ」が、本作において決定的な瑕疵を生んでいるのだ。

その辺りについては、2で言及していこう。





2  「人物描写の脆弱さ」の事例について



「人物描写の脆弱さ」の事例を本作から挙げれば、レジスタンスの指導者マンフレーディの愛人である、マリーナの描写の脆弱さが目立っていたように思われる。

本作で重要な役割を果たす彼女は、ゲシュタボの手先であるイングリッドとの同性愛に溺れ、麻薬への逃避にも歯止めが効かず、更に、空襲の際に逃げなかったということでマンフレーディに惚れられたものの、その自堕落で退廃的な心情風景が、終始、靄(もや)に霞んでしまって、件の闘士を裏切り続ける心理を彼の冷淡さに収斂させてしまう、如何にも御座なりで、説得力の弱い印象付けで映像処理されてしまったのである。

僅かに拾われていた、二人の会話。

「人生なんか汚いものよ。貧乏したら悲惨よ」とマリーナ。
「哀れなマリーナ。君の幸せとは、大きな家に住んで、いい服を着ることか?」

このマンフレーディの辛辣な言葉に、マリーナは答えた。

「愛してくれないからよ。お説教するだけ、他の男たちより悪いわ」

この会話のみで二人の関係の歪みを斟酌してくれ、と言わんばかりの描写の導入は、最後まで関係をフラットに拾い上げる脆弱さを克服できなかったと言える。

これ以外でも、「どうも性格が合わないようだ」と、マンフレーディがピーナに吐露する場面があったが、全く深みのない、言わば添え物のようなマリーナの描写は、凄惨な殉教を果たしたマンフレーディの自我を囲繞する周辺背景を、その根柢において空洞化させてしまったのである。

彼女の存在なしに成立し得ない物語が抱えた瑕疵は、決して小さくなかったのだ。

また、ピーナの妹に関する描写に至っては、姉の死を知らずにフランチェスコと再会したときの驚きが描かれただけで、その後のフォローが全くなかった。

ピーナの死
たとえ不和であったとしても、姉の死を知って、妹が動揺する描写を簡単に捨てることは、あまりに不自然であるか、それとも映像構成において粗雑過ぎると言えるだろう。

更に、イングリッドの振舞いも表面的な描写に終始していて、最後まで感情への立ち入り禁止のゾーンを崩すことはなかった。

彼女たちの人物描写は、「3つの死の悲劇」の悲惨さを際立たせる上で無意味なだけで、厳粛な反独パルチザンの「殉教死の栄光」の物語にとって、リアリズムとの不調和を来す障害でしかないと言いたいのだろうか。

然るに、このような周辺人物の描写の脆弱さが、却って、主人公たちの苦闘や苦悩の深い部分を照射させなかったのだと、私は思う。



3  「ナチス・ドイツの典型的なデカダンな日常」―― 善悪二元論の陥穽



「人物描写の脆弱さ」の問題に次いで、私が非常に気になったのは、殉教に向かう反独パルチザンと、彼らを拷問死させたり、銃殺したりするゲシュタポたちの描き分けが善悪二元論によって固められてしまったこと。

この点で想起するのは、ゲシュタポ高官ベルイマンと高級将校との、看過し難い退廃的な会話のエピソード。

以下の通り。

「今夜は楽しみがある」とベルイマン。
「何だ?」と高級将校。
「ある男の口を割らせる」とベルイマン。
「自信は?」と高級将校。
「ある」
「失敗したら?」

この高級将校の発問に、ベルイマンが答えた言葉には、ドイツが世界で最も優秀な民族であるとするナチス・ドイツの狂信濃度の深さを露わにするものだった。

「頑張り通したら、イタリア人を見直すよ。支配民族であるドイツ人と差がないということになるね。戦う意味もなくなる」

この言葉を受けた高級将校の反応は、多分に「受動的ニヒリズム」(精神の劣化・衰退)に充ちたもの。

彼は、こう吐き出したのだ。

「当時俺も、ドイツが支配民族だと信じていたよ。だが、フランス人らは協力を拒んで死んでいった。奴らの自由思想は理解に苦しむよ・・・俺たちは殺して殺して殺しまくった。ヨーロッパ中でだ。この戦争は必然的に憎悪を生む。憎悪に囲まれて、希望はない。俺たちは絶望の中で死ぬんだ」

この会話の導入の意味に、私は違和感を抱く。

あまりに明け透けで、「これがドイツ人の平均的人格像」であるという決め付けが見え見えの、人間観察の甘い、際立って厭味に充ちた描写であるからだ。

「地獄に堕ちた勇者ども」より
まるで、ルキノ・ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」(1969年製作)で描かれた、デカダンスな生活態度に汚れ切った風景を彷彿させるような、「ナチス・ドイツの典型的なデカダンな日常」をそこに描くことで、彼らの「悪徳性」を強調する作り手の意図がありありで、狡猾でさもしいまでの描写であると言わざるを得ないのだ。

なぜなら、この描写によって、彼らの敵である反独パルチザンの「高潔で、純粋な愛国心を持ち、仲間を裏切ることなく、殉教に向かう勇敢な生き方」を強調する、それ以外にない「感銘深き物語効果」が予約されてしまうからである。

そして、映像は観る者の思いにピタリと合わせて、ガスバーナー、ペンチ、電流というような拷問セットによる、先人たちの如き壮絶な「殉教死の栄光」(「ヨハネの黙示録」)を遂げたマンフレーディの最期をアップで画面一杯に映し出した後、その英雄の崩れ果てた相貌を撫でて、「よく頑張ったね」というピエトロ神父の慈悲に充ちた表情を繋いでいったのだ。



4  「殉教死の栄光」―― 「戦う神父」の「絶対善」



本作は、3人の主要登場人物の中で、最も「殉教死の栄光」に近い生き方を貫徹した、ピエトロ神父の聖人性を強調するラストシーンに流れ込んでいくという括りの内に閉じられていくが、それにしても物語構造の、このあまりの単純さに、正直、私は辟易する。

ピーナ(左)とピエトロ神父(右)
ここでは、「戦う神父」としての、ピエトロ神父の「殉教死の栄光」について言及しよう。

本作の主題提起性が、最も端的に表現されていたからだ。

「殉教死の栄光」を遂げたピエトロ神父の描写の凄惨さは、それが凄惨であることによって、殉教に向かう反独パルチザンの「絶対善」と、彼らを虫けらのように屠るゲシュタポに象徴されるナチス・ドイツの「絶対悪」という善悪二元論を、より効果的に印象付けていくだろう。

「死ぬのは難しくない。生きるのが難しい」

これは、ピエトロ神父が残した、最も説得力を持つ名文句。

この言葉の中に、作り手の主題提起力の力強さが窺われ、深い共感を禁じ得ない。

元より、このピエトロ神父という人物造形が、本作を通して最も魅力溢れるキャラクターとして描かれていたのは事実。

それは、ただ単に、ゲシュタポから逃げ回っているだけの印象を与えるマンフレーディの、最後までフラットな「人物描写の脆弱さ」と比較したとき、一頭地を抜いた存在感を放っていた。

ユーモアを解し、穏やかさの中に強靭な信念=信仰を持ち、辛辣な言葉を名文句に変える「戦う神父」の人間性は、充分に魅力的だった。

「人助けが仕事ですから」

これが、「ミサもしないで出歩いている。困った人だ」と他の神父から嘆かれる、「戦う神父」の口癖だった。

「自分が勝手なことをしながら、何かあると、すぐ天を恨むのが人間なんだ」

これは、生活苦のため教会に行けないで悩む、信仰心の厚いピーナを励ます神父の言葉。

相当の糾弾の意志を込めて、神父の「存在価値」の相違を意図的に描き分けた映像は、当然の如く、「戦う神父」の面目躍如たる生き方を強調して止まないのである。

その「戦う神父」の面目躍如たる生き方が、情動の爆発を噴き上げるまでに至ったシーンがあった。

マンフレーディの拷問死に立ち会ったときである。

「お前らは地獄に落ちるんだ。畜生ども!」

激昂した神父が、ベルイマンらに向かって糾弾したのである。

当然の如く、「戦う神父」の覚悟の糾弾は、ゲシュタポによって処刑されるラストシーンの決定的な伏線になっていく。

ピエトロ神父の殉教
その印象的なラストシーン。

地獄に堕ちることを恐れたのか、居並ぶ射撃兵は、「殉教死の栄光」に結ばれる「戦う神父」を殺すことに躊躇していた。

殺せないのだ。

「戦う神父」の「殉教死の栄光」の対極にある、「殺戮のドイツ人」の「悪徳の所業」に加担するに足る、充分な「理性的文脈」を手に入れられないからである。

映像は、そう語っているようだった。

「3つの死の悲劇」の悲惨さを、淡々と繋いでいく映像の着地点に待機する、「戦う神父」の「殉教死の栄光」の前で緩やかに時間を流し、「殺戮合理主義」を貫徹する「機械的に動くドイツ人の範型」のみを強調することで、遂に自壊した彼等の「理性的文脈」の爛れ方を、「絶対正義」の王道を行く、文句なしのフィルムに刻みつけたのだ。

結局、「戦う神父」の命を奪ったのは、恐らく、無神論者であるに違いない、「俺たちは絶望の中で死ぬんだ」と吐いた、あの「受動的ニヒリズム」の高級将校だったというオチがついて、映像は閉じていったのである。

それは、「受動的ニヒリズム」の高級将校の拳銃によって呆気なく頭蓋を砕かれた「戦う神父」が、「殉教死の栄光」の内に包まれた瞬間だった。

詰まる所、この高級将校の「受動的ニヒリズム」は、なお延長されていったということである。

従って、ベルイマンと議論する件の将校の描写もまた、「ドイツ人の中にもこのようなヒューマニストがいる」という把握とは無縁であり、何ら反省的な文脈で生きる人物として描かれている訳ではなかったのだ。

マリーナとの情交を想像させるカットの挿入でも判然とするように、この男の自国への批判の言葉の根柢にあるのは、「自我防衛」としての「自虐気取り」でしかなく、どこまでも、「典型的なデカダンに耽る、ナチス・ドイツの『絶対悪』」を強調する効果しか持たなかったのである。



5  「『絶対悪』としてのドイツ」へのラべリングの映像効果



多くの場合、この種の映像は、「心の清くないパルチザンの闘士」を描かないし、ましてや、「高潔なヒューマニストのドイツ人」を描くことなどないからだ。

作り手の強い問題意識と、それを補強する旺盛な熱意・意欲が、既に物語構造の骨格と、件の映像構成を、二元論的に単純化するイメージラインの内に収斂されてしまっているからである。

「高潔なヒューマニストのパルチザンの闘士」であるフランチェスコが、翌日に結婚を控えたピーナに語った有名な話がある。

これには、時代背景の簡単な説明が必要だろう。

要するに、「無防備都市」((注1)であるはずのローマが、1943年から翌年にかけて、ドイツ軍に占領された事態によって生まれた反独パルチザンの決死の活動もあって、治安と食糧事情の悪化が深刻で、明日に控えた結婚に不安を隠せないピーナの動揺も沸点に達していたのである。

そんなピーナに、フランチェスコが言葉を添えたのだ。

「きっと、また春が来るさ。美しい自由な春が。それを信じて待つんだよ・・・とにかく、何も恐れる必要はないんだ。正義は俺たちの側にあるからね。勝利の日まで頑張ることさ」

ピーナの連れ子である、闊達なマルチェロ少年に、「パパと呼んでいい?」と言われるほど優しき夫であり、義父でもあるフランチェスコの柔和な語りのシーンであった。

パン屋の襲撃に参加したほどのピーナの動揺を感受した、フランチェスコの包み込む優しさこそ、まさに「高潔なヒューマニストのパルチザンの闘士」であったという訳だ。

それは、このシーンの直後に描き出される「ピーナの死」の重要な伏線となることで、過剰な情感の導入を忌避するはずの「リアリズムの映像」は、敢えて、「結婚前夜の男女の睦みの会話」という感動的な描写を目立たない程度に挿入したのである。

ピーナの死の有名なカット
無論、路上でドイツ兵によって射殺される「ピーナの死」の描写の意味が、「無防備都市」下での「あってはならないドイツの蛮行」を象徴させる「虐殺」として、本作の最初のピークアウトへの誘導の映像的効果を狙ったものであるのは言うまでもない。

更に、「リアリズムの映像」は、このとき捕捉された「フランチェスコの生還」を描き出すことによって、そのフランチェスコを必死に追い駆けただけの「ピーナの死」の徒死の不幸を、「無防備都市」の「最悪の悲劇」として観る者に強く印象付けたいのである。

そして、この「ピーナの死」の描写は、「無防備都市」という「リアリズムの映像」の絵柄の中で、誰にでも記憶される決定的な場面として、今なお、映画史の画期を成すと言われるネオレアリズモへの郷愁を誘(いざな)って止まないのだ。

言うまでもなく、それは充分に、「『絶対善』としてのパルチザンの闘士」の対極にある、「『絶対悪』としてのドイツ」へのラべリングの映像効果を、問わず語りに持ち得てしまったのである。


(注1)軍事力による侵入を防止する宣言によって、住民の安全が担保された都市で、ハーグ陸戦条約で規定。



6  「時代限定の映画」の賞味期限が切れたとき



最後に、映画史の画期を成すと言われる、本作に対する過分な評価の風景に言及したい。

「映画の歴史は2分される。『無防備都市』以前と以後だ」

オットー・プレミンジャー監督
作り手に「高いハードル」を負わせたであろう、オットー・プレミンジャー(注2)のこの言葉は、本作を知る者の間では、殆ど伝説的逸話である。

この映画が本国で不評を浴びた後、アメリカやフランスで熱烈に支持された理由を考えるとき、私には単純な文脈しか想起できないのだ。

それについて、たっぷり皮肉を込めて言えば、こんな風にも言えないか。

「善悪二元論」が何よりも大好きなアメリカと、フランス人の「不屈のレジンスタンス」を讃える会話が、本作の中で挿入されていたこと。

この一言に尽きないか。

はっきり書けば、巷間であまりに高い評価を受け、今なお継続されているこの作品の完成度は、決してウェルメードのものではないと、私個人は思っている。

酷くはないが、前述したように、映像構成が脆弱なのだ。

要するに、作り手の「問題意識と意欲のみで突破した、リアリズムの金字塔」という風に言えるだろうが、然るにそれは、この映画の製作が、1945年という劇的な変換を遂げた時代の産物であったが故に、自由と解放感を求める者たちの熱烈な歓迎を受けたという基本的把握によって瞭然とするだろう。

もっとはっきり書けば、本作は「時代限定の映画」であったというこだ。

良かれ悪しかれ、「時代限定の映画」には賞味期限がある。

従って、混迷の時代をほんの少し突き抜けて相対的安定期に踏み入れたら、映画の歴史を2分させたはずの、「無防備都市」という「一代の傑作」は、そこで賞味期限が切れてしまうという類の作品だった。

何の先入観も持つことなく、本作とじっくり付き合ってみれば、そのことが了解し得るだろう。

少なくとも、私の場合はそうだった。

公開後、程なく「絶賛の嵐」が追い駆けてきたという、表現世界のフィールドで往々にして出来する現象もまた、自由と解放感を求める人々の後押しを受けた「時代の風」の歴史的産物だったと言えないか。

ロベルト・ロッセリーニ監督
国際連合憲章の条文(53条、77条)において「敵国条項」扱いにされてもなお、「あの反独パルチザンの闘争の『栄光の歴史』があったから、自虐の歴史解釈に流れずに済んでいるのだ」、という矜持を保持し得ると信じる人々が健在で、元気に呼吸を繋ぐ歴史が延長される限り、賞味期限の終焉を知ることなく、「時代限定の映画」と睦み合えただけなのかも知れないのだ。

あの時代、「反独パルチザンの闘争の『栄光の歴史』」をテーマにした多くの映像は、もうそれだけで、「子供と相撲を取る大人の腕力」という既得権を手に入れた気分ではなかったのか。

そう思えてならないのだ。

普通の知性の水準で考えてみれば、多くのネオレアリズモが重要視して来なかった、人物描写を欠いた「リアリズム」とは、張り子の城塞のようなものだったと認知すべきであるだろう。


(注2)イスラエル建国秘話を描いた、ポール・ニューマン主演による「栄光への脱出」(1960製作)で有名な、オーストリア出身のハリウッドの映画監督。

(2010年4月)

2 件のコメント:

ルミちゃん さんのコメント...

日本人が観ると分りにくいのですが、最後の神父の銃殺のシーンで、銃を構えたのはイタリア人の兵士でした.
彼らは、神父を撃つことが出来なかった.これがラストシーンです.
「死ぬのは簡単だ、生きるのが難しい」処刑を前にして、神父はこう言い残します.
死ぬのは簡単だ=戦争を始めて殺し合うのは簡単だ.
生きるのが難しい=戦争を終わらせて皆が平和に生きるのが難しい.

レジスタンスがムッソリーニ政権を倒したら、ドイツに占領され、イタリア軍の兵士はドイツ軍の管理下で、イタリア国民に銃を向けてしまった.
「神よ、彼らを許したまえ」この言葉の後、神父はドイツ軍の将校に撃ち殺されます.
『戦果のかなた』は、ファシストを描いて、国民の団結を訴えました.
『無防備都市』は、イタリア軍人と国民の融和を訴えていると思います.

ルミちゃん さんのコメント...

レジスタンスの指導者だった男は、拷問に耐え抜いて死んでいった.
他方、脱走兵の軍人は拷問に耐えられないと悟り、自殺した.
軍人は、ひ弱な人間に描かれているのだけど、彼も秘密を守り通したと言う意味では、強い人間だったと言える.
と、こんな風に考えれば、拷問に耐えられず口を割ってしまった人間も居たことが、当然の事実として理解されるはずであり、同時に、その人たちを裏切り者として責めることは誰にも出来ない事である、この点も理解されると思います.
レジスタンスの指導者だった男は、拷問に耐え抜いたけれど、元を質せば、彼の愛人の裏切りに依って彼らは捕まることになった.このように、拷問と裏切りを絡めて考えるように描かれているのです.
ドイツ軍の将校が酔って自己批判を始める.
『俺達は殺して殺して殺しまくった.皆に恨まれて死んで行くんだ』言葉の通り、悪いのはドイツ軍なのです.
『無防備都市』『戦果のかなた』この二本の作品は、もうすぐ戦争が終わるであろう、そうした頃から撮影が始まりました.先に書いた神父の言葉にあるように、イタリア人同士が憎しみあうのを止めて、融和し戦争を終わらせなければならない、それを目的として撮られた作品であるあるとしておきます.