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2010年4月18日日曜日

アンダルシアの犬('29)  ルイス・ブニュエル サルバドール・ダリ


<「殺人への絶望的かつ情熱的な呼びかけ」というライトモチーフの破壊力>



1  第一次世界大戦のインパクトが分娩したもの



ヨーロッパを主戦場にした第一次世界大戦 ―― それは、開戦当時の予想を遥かに超える膨大な犠牲者を生み出した悲惨な戦争だった。

2000万人近くの死者を生み出した、このサバイバルな消耗戦を終焉させたとも言われるスペイン風邪(1918年から19年にかけて、5000万人の犠牲者を出した)によって、全世界を襲う本格的なインフルエンザ・パンデミックが惹起しなかったら、敵軍に決定的な打撃を与えられず、終わりの見えない陰鬱な塹壕戦に収斂される長期消耗戦を延長させていたかも知れない恐怖が、そこにあった。

とりわけ、「西部戦線異状なし」(1930年製作)で描かれたように、陰鬱な塹壕戦による長期消耗戦は、極度の寒さによる感染症を招来したことで、そこに閉じこもる兵士たちのディストレス(最悪な心身状態)は尋常ではなかったのである。

帝国主義の時代を背景とする、世界再分割のための帝国主義戦争であった第一次世界大戦は、史上初の世界戦争であり、同時に、総力戦であった現実のインパクトの凄惨さを鮮烈に印象付けただけの、前例のない不毛な神経戦であったと言えるだろう。

ダダイスムの創始者・トリスタン・ツァラの肖像画
加えて未知なる恐怖を分娩したその戦争は、戦闘機、戦車、火炎放射器と毒ガスの登場によって、人間の物理的抹殺を容易に遂行し得たのだ。

それは、独仏両軍合わせて70万人以上の死傷者を出した、「ベルダンの地獄」(1916年)と呼ばれた陰惨さに象徴される、「20世紀の地獄」の様相を晒したのである。

この一次世界大戦のインパクトによって齎(もたら)された不安・恐怖、怒り・嫌悪、抵抗・虚無を根柢にして、それを内面化したダダイズムという名の芸術運動の立ち上げは、殆ど必然的であったに違いない。

既成秩序に対する挑発的否定の精神の沸騰が、一群の芸術家を自覚的な表現者に変えていったのである。



2  シュールレアリスムの原点としての、「挑発的否定と攻撃性の精神」



当時、既に「夢判断」を発表していて、ヨーロッパ文化に影響を与えつつあったフロイトの心理学に触れた、一人のフランス文学者がいる。

アンドレ・ブルトン
「シュールレアリスムの法王」と言われた、アンドレ・ブルトンである。

既成秩序や常識に対する反抗心において接続しつつも、極端に自己破滅的で、退廃的、且つ、生産性の乏しい印象を濃密に残すダダイズムと切れたブルトンが目指したのは、フロイト心理学の影響による、「意識下の世界を客観的に表現する芸術」の立ち上げであり、「無意識において心象風景を捉える芸術表現」の具現であった。

その手法は、「オートマティスム」(自動記述)という意味を持つ、理性的自我の介在を許容しない「自動筆記」という、一種の時代限定の鮮度の高い表現技巧。

まさに、夢という至極日常的な体感現象の記述こそ、「オートマティスム」の格好の方法論であった。

このように、ブルトン主導による「シュールレアリスム宣言」を嚆矢とする芸術運動が、映画表現の世界で挑発的に開かれたとき、そこに現出したのが、観る者を驚嘆させるに足るインパクトを包含した、「アンダルシアの犬」という衝撃的映像だった。

スペインの敬虔なカトリック教徒の家庭で育ったルイス・ブニュエルが、当時、無名だった前衛画家のダリと、二人で見た夢の話をベースに映画製作を企図し、その処女作が「アンダルシアの犬」であったというのは有名な話。

その「アンダルシアの犬」の公開が、当時の前衛芸術のフィールドで熱狂的な拍手で迎えられたことで、彼らがシュールレアリスムの芸術運動に自己投企していったのは自然の成り行きだったし、彼らもまた自覚的な表現者だった。

そこで表現されていたものは、紛れもなく、シュールレアリスムの原点である、既存の秩序・体制への「挑発的否定と攻撃性」。

「美学」やポエムの抒情性、更に合理的な「物語性」を全否定した、本作の「アンダルシアの犬」が内包する「挑発的否定と攻撃性の精神」こそ、シュールレアリスムのアナーキーな思想性を包含する表現様式そのものだったのだ。



3  「殺人への絶望的かつ情熱的な呼びかけ」というライトモチーフの破壊力



ルイス・ブニュエル
ここに、ルイス・ブニュエル自身の言葉がある。

「これは殺人への絶望的かつ情熱的な呼びかけでしかなく、美でも詩でもない」(企画・制作・発売元:株式会社アイ・ヴィー・シー ビデオジャケット解説より)

この言葉の中に、「アンダルシアの犬」のライトモチーフが集約されている。

映像で描かれた世界は、多分、私たちが封印したい特段の過去を持ったり、顕在化された恐怖や怒りを抑えられなかったりというような状況下で、限定的に出来するようなある種の夢のパターンであると言っていい。

本作の内容は些か過剰だが、合理的なストーリー性を持ち得ない「夢の無秩序性」は、恐らく、本作のようなおどろおどろしい「夢魔」の如き世界で表現されている何かであるだろう。

なぜなら、夢だけは、私たち人間の自我が関与できない特殊な時間であるからだ。

ここで私事を書けば、ガードレールクラッシュ以降、私の夢は本作で描かれたほどに破壊的な内実を持たないが、それでも、それに近い陰惨な内容の「夢魔」の如き連射の日々が続いて、正直、夢を見るのが怖いと思った時期があった。

自己防衛的に他者を殺戮するという「夢魔」は、近年見ることはなくなったものの、先日などは、狭い部屋の中で、幾重にも折り重なったクロゴキブリが蝟集(いしゅう)し、足の踏み場がないという薄気味悪い夢を見たばかり。

そんな私にとって、「ダリの蟻や蝶」のイメージは、全く普通の範疇の世界にあると言えるのだ。

夢だけは自我がコントロールできない世界であるが故に、自我の潜在下にある記憶の束の処理の他、理性によって封印された欲望、不安、恐怖などが無秩序に騒ぐ、言わば、「日常下の非日常」という特殊な時間の中で分娩されるもの。

これが、夢についての私の基本認識である。

それ故、訳の分らぬ「夢魔」の後で、覚醒時に、それについて自己省察する多少の材料にはなるが、しかし私にとって、夢とはそれ以上のものではないのだ。

自我がコントロールできない世界での大騒ぎに真剣に付き合う程、私はフロイト主義者でもないし、或いは、比較的好意含みで認知するユング心理学の熱心な信奉者でもない。

ところが前述したように、映像の中で縦横に展開された無秩序な世界は、二人の作り手の夢を統合させる共同化作業であったということ ―― それ自体、既に覚醒化した自我の意図が関与しているということだ。

サルバドール・ダリ
具体的に言えば、「蟻の夢」を見たダリと、「眼球を切った夢」を見たブニュエルの二人が、一気呵成にシナリオを完成させ、それをブニュエルが監督した作品が20分にも満たない本作であった。

その手順は、秩序性・合理性に少しでも関与する夢の部分を削り落すことで、シュールレアリスムのアナーキーな思想性を包含する表現技巧によって、特定的に拾い上げた作品に「昇華」したというものである。

それは、時系列を無視した自由奔放な夢の単純な羅列ではなく、覚醒化した自我の意図が充分に反映された表現以外ではなかったのだ。

それは、紛れもなく、「殺人への絶望的かつ情熱的な呼びかけ」というライトモチーフに沿った映像だった。



4  シーン繋ぎの合理性を捨てた無秩序なカットの連射



コラージュであるが故に、殆どストーリー性を排し、シーン繋ぎの合理性を捨てた無秩序なカットが繋がれていく。

ファーストシーンは、剃刀を鋭利に研ぐ男が映し出された後、その男が年若い女性の眼球を、その剃刀でカットするという有名な場面だが、これはブニュエルの夢。

死んだ子牛の眼を用いたとは言え、もしそれが生きた動物だったなら、「アニマルウェルフェア」(動物福祉)や「家畜福祉」の観点からばかりでなく、ALF(動物解放戦線)によるテロの弾劾の対象になりそうな冒頭の描写であった。

狭隘なモラルの視座で、この描写を批判する人が散見されるが、本作が1929年の映画であることを忘れてはならない。

当時、ピーター・シンガーも生まれていなければ、「アニマルライツ」(動物の権利)という概念もまた存在しなかったのだ。

闘牛の存在それ自身と、その維持が批判の対象になったのが、高々、近年の出来事なのである。

ともあれ、ブニュエルの反カトリシズムの精神を具現化した描写が、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」からの選曲をモノーラル(録音・再生方式)したBGMに乗って、次々に繰り出されてくるのだ。

自転車を漕ぐ女装姿の男の転倒と、蟻に食い破られた手を見入るシーン。

その女装姿の男が、二階から路上に切り落とされた手首を見詰めているが、その手首を箱に入れたまま、群衆が去った路上に立ち尽くす若い女。

その若い女も、猛スピードの車に轢かれて即死するのだ。

その若い女の死によって性衝動に駆られたのか、女装姿の男は、血の涎(よだれ)を垂らしながら女のバストやヒップを撫で摩る連想に耽り、とうとう我慢できずに女を追い駆けていく。

女の必死の形相。

なお、女に迫る男の視線は、獲物を追い駆けるハンターのものになっていた。

映像が映し出した次の描写は、究極のシュールレアリスム。

ロバの死骸を乗せたグランドピアノが、二人の修道士をロープで繋いでいた。

そのロープを体に巻き付けられた男は、恐怖感に慄く女に近づけないのだ。

ドアの向こうに逃げた女と、そのドアに手を挟まれ、再び蟻がその手の周りを騒がせていた。

因みに、この映画で頻りに顔を出す、「ドア」の存在の意味は、時空を繋ぐ「とば口」であり、それは虚実の境界点であるだろう。

時は、16年前に遡る。

二人の男がいる。

拳銃を持った男が、相手を撃ち殺してしまう。

再び、例の男女が映像に現れて、執拗に追い駆け合っている。

女の腋毛が、男の口の周りに生えてくるというシュールな描写の後は、男に舌を出した女が、部屋を去って行くというもの。

そして、女が向かった先に待つのは、とある浜辺。

その浜辺には若い男がいて、女の執拗な口説きを回避しようとするが、結局、自分に言い寄った女と、最後に睦み合う。

ラストカットのインパクトこそ、シュールの極致。

それは、季節が変って、件の浜辺に半身埋もれて死んでいる、例の睦み合った男女の死体という構図で括られたのだ。



5  〈状況圧〉のリアリティと、容易に折れない融通無碍の表現者



ジークムント・フロイト(ウイキ)
4で簡単にフォローした映像の無秩序な流れを見る限り、一応の「夢分析」的、或いは、「映像分析」的把握が可能かも知れない。

恐らく、評論家を自称する人は、フロイト理論に拠って立つ解釈を奇麗にして見せるだろうが、私にはそんな「確信幻想」に興味がないので、特別な意味付けをするつもりは毛頭ないし、その能力も不足する。

それにも関わらず、本作には、「殺人への絶望的かつ情熱的な呼びかけ」というブニュエルの言葉が最も相応しいと思われる。

見ようによっては、ブラックユーモアをふんだんに摂取した一種のスラップスティック(ドタバタ喜劇)とも言えなくもない本作は、どこまでも二人の夢が素地になっていて、その夢を膨らませ、自在に仮構していった挙句の、「反物語」という「物語」であると考えた方がいいのかも知れない。

従って本作は、彼らの夢のコラージュのダイレクトな再現記録ではなく、覚醒した表現者たちの自我による加工的映像であるからだ。


本作を貫流する主題のイメージは、「死」であり、「性」であり、「恐怖」、「不安」、「怒り」、そして束の間の「愛」であるが、それらを統合する観念は、やはりブニュエルの言う、「殺人への絶望的かつ情熱的な呼びかけ」というフレーズで説明される何かであるだろう。

既成の秩序に対する、「挑発的否定と攻撃性の精神」。

シュールレアリスムを代表するルネ・マグリット「迷える騎手」
明瞭に、写実主義へのアンチテーゼとしてのシュールレアリスムという表現戦略。

この端的な把握のうちに、20代の2人の無名のスペイン青年の、内側に抱える強い表現者の意志が結合したのだ。

そして、第一次大戦後になお延長される、拠って立つ自我の安寧の基盤を構築し得ない不安感が、至る所で蜷(とぐろ)を巻いている時代の虚無の広がりの只中で、彼らをして、シュールレアリスムの原点に立ち戻させる毒気を過分に持つ、「挑発的否定と攻撃性の精神」による表現を開かせるに至ったのである。

そんな風に考えてみるとき、まさに本作こそ、時代が芸術表現を作り出すという典型的事例であると言えるだろうか。

しかもこの事例は、シュールレアリスムの歴史を超える、映像史それ自身の一つの極北を示す表現となって記録されたのである。

一方は絵画における前衛の表現者となり、他方は映像世界における異端的表現者として、その先に待機する、遥かにハイコストで甚大な世界戦争の後にも、他に類例のない独創的な創造世界を構築していったことは巷間に知られるところである。

とりわけ、ルイス・ブニュエルの軌跡は、カトリック世界を含む独裁政権との極度の神経戦の歴史であり、それ故にこそと言うべきか、「上映禁止の映像作家」というラべリングの、その曲線的プロセスの中で構築した映像表現の尖鋭性は、一貫して折れることがなかったと言える。

ベルダンの地獄
元々、医学部の学生だった10代のとき、衛生兵として対独戦に徴兵された彼は、戦場で神経を病む兵士の治療の非日常的な経験を通して、人間心理の深層に情感的に触れることになった。

恐らく、この非日常的な経験が青年衛生兵の自我を深々と捉えたに違いない。

この経験がトリガー(契機)となって、一人の青年衛生兵はフロイト理論に逢着するからである。

ブニュエルの軌跡が逢着した、内面世界の非合理な不思議の世界がそこにあった。

閑話休題。

ともあれ、一切は20分にも満たない本篇に凝縮していた、既成の秩序に対する、「挑発的否定と攻撃性の精神」を起点にしていたということだ。

正直言って、この類の作品は私の好みと大きく乖離するものだが、彼らが生きた時代の凄まじい〈状況圧〉のリアリティを想起するとき、多くの点で圧倒的に恵まれている、「21世紀的状況」の視座で安直に批評する愚は避けたいと考える次第である。

いつの時代でも、荒々しく粗野で、均衡性を欠いた蛮行を理念系の文脈で糊塗する、顕著に尖った時代への、夜郎自大とも錯覚されかねない異議申し立ての尖った意志の集合が、容易に折れない融通無碍の表現者を育てていくのだろうか。

そう思わざるを得ない一作だった。

(2010年4月)

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