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    4 か月前

2010年12月1日水曜日

シリアの花嫁('04)    エラン・リクリス


<「境界突破」の果敢な「進軍」 ―― 「少しの希望」を象徴するもの>



1  狭隘なイデオロギーのうちに収斂させないユーモア含みの物語構成



現実の政治の世界は、むしろ「境界」を作り、「境界」によって策定された内側に規範を作ることで、「境界」の内側にあるものの価値を守り切っていくことにある。

それ故、「境界」に侵入してくるものを排除し、時には外交的、或いは、軍事的戦争を招来するに至るのである。

政治の世界は、リアリズムによってしか構築できないものなのだ。

然るに、芸術表現の凄みは、様々な「境界」を容易に超え、現実を超え、時間を超えていくところにある。

だから、一切のバリアを超えた芸術表現による跳躍力は、簡単にリアリズムを壊してしまう凄みであるのだ。

しかし、その凄みが厄介なのは、簡単に「境界」や時間を超えた勢いで、現実の政治の世界に侵入してくることである。

芸術表現と政治の世界を、観念のゲームの中でクロスさせ、そのゲームを愉悦するのは構わない。

しかし、簡単に境界を超えていく芸術表現の理念系を、政治の世界に安直にリンクさせ、恰もそれが「人間の最高善」であるがの如く錯誤し、しばしば、それを「革命」などと幻想し、無理な理想の具現を全人格的に開こうとする、一連のプロセスの運動系が分娩されてしまう事態の怖さに、私たちはもっと自覚的にならねばならない。

そう思うのだ。

芸術表現と現実の政治を、安直にクロスさせてはならないのである。

ところが、一切のバリアを超えた芸術表現による跳躍力の凄みを、ユーモア含みの物語構成によって、見事に提示してくれたのが本作である。

花嫁モナの家族
「シリアの花嫁」と題する本作は、必ずしも、現実の政治のリアルな世界に安直にリンクさせず、狭隘なイデオロギーが拠って立つ「正義」のうちに収斂させない表現によって、「境界突破」という困難なテーマ性を抱えた物語を、大カタルシスの自己完結感を保証する類の欺瞞とも切れて、狡猾にまとめなかった技量を検証させた秀逸な一篇だった。



2  「境界突破」の果敢な「進軍」 ―― 「少しの希望」を象徴するもの



「イスラエル占領下のゴラン高原。若き娘モナがシリア側へ嫁いでゆく一日の物語。一度境界を越えてしまうと、もう二度と愛する家族のもとへは帰れない。それでも、女たちは未来を信じ、決意と希望を胸に生きてゆく」(『シリアの花嫁』公式サイト)

これが、本作の骨子である。

その歴史的背景を簡潔に書いておく。

ゴラン高原(イメージ画像・ウィキ)
かつてシリア領だったゴラン高原が、イスラエルに占領されて一方的に併合されたのは、第三次中東戦争(1967年)によってである。

現在に至っても、イスラエル領土と認知されていないゴラン高原は、単に実効支配地域であるが故に、「軍事境界線」によってシリアから分断された状況が常態化されていて、そこに居住するシリア人はイスラエル国籍を拒否し、「無国籍」の民となっている。

そんな「無国籍」の民である一つの家族の悲哀を、官僚主義批判のスパイスを効かせて、ユーモア含みで描き切ったのが本作である。

エラン・リクリス監督は、来日会見で語っている。

「花嫁はシリア側へ渡ると、二度とイスラエル側に入ることはできません。とても悲しい結婚式です。このような結婚式は年に3~4回行われます。私がゴラン高原に行ったちょうどその日に、いつもと違う出来事が起こりました。イスラエル側の通行手続きの変更により、結婚式がその場でキャンセルになったのです。中東で起きている様々な出来事を包括するような出来事であると感じました」(監督来日レポート < シリアの花嫁)

更に、エラン・リクリス監督は、他のインタビューでも語っていた。

「人生はたくさんのガッカリと、少しの希望からできている。だから、過酷な現実を映し出す一方、超現実的な場面も用意した。異なる要素を正しいバランスで見せることが大切なのだと思います」(2009年2月6日 読売新聞)

「人生はたくさんのガッカリと、少しの希望からできている」という言葉に、全く異議はない。

「異なる要素を正しいバランスで見せる」というスタンスにも、異議はない。

ゴラン高原の略地図(ウイキ)
ところで、「少しの希望」を象徴するのは、花嫁が「境界突破」の意を決して、単身で、花婿が待つシリア側の領土に向かって歩き出して行くラストシーンである。

そこに至るまでの、官僚的な事務処理の愚昧さを抉ったプロットラインを説明しておく。

要約すれば、以下の通り。

花嫁のパスポートに押されてある、イスラエルの出国スタンプを視認したシリア検問所の係官が、ゴラン高原がイスラエル領として確認するようなパスポートを受領できないという問題が生じたことで、国際赤十字のジャンヌは、イスラエル側とシリア側を繰り返し往復するに至った。

その結果、シリア側の係官が提示したアイデアは、出国スタンプを修正液で塗り潰すという突飛なものだった。

イスラエルの係官は、その突飛なアイデアを受容してスタンプを塗り潰すが、あろうことか、シリア側の係官が既に交代していて、当然、「事情の引き継ぎ」が行われていないので、折角のジャンヌの努力も元の木阿弥。

有名なコメディアンである結婚相手が住むシリアに行けば、2度と帰って来ることができない状況下で、殆ど有無を言わせず選択せざるを得なかったであろう(?)、「写真結婚」の具現を覚悟しての花嫁モナは、イスラエル側が用意してくれた椅子に座って、長時間待機させられるばかり。

「軍事境界線」での、花嫁モナとの今生の別れを惜しんで、モナの家族が思い思いに情感を交叉させるが、事態の停滞に苛立つしかなかった。

遂に、ジャンヌのギブアップ宣言。

そのときだった。

突然、モナの姿が見えなくなった。

何と花嫁モナは、シリア側の境界に向かって歩き出して行くのだ。

しかし、このラストシーンには最終的な結末がない。

映像は敢えて、それを描かなかったのである。

一切は、観る者の判断に任せたのだ。

要するに、エラン・リクリス監督は、「境界突破」を遂行しようとするヒロインのモナを、ハリウッド的な映像文脈の中に堂々と立ち上げて、「奇跡的勝利」の大団円を描くことを拒んだのである。

だからそれは、或いは、銃殺されるかも知れない「悲劇」をも予感させる閉じ方であったと言えるだろう。

「境界突破」の意を決して歩き出して行く花嫁の、果敢な「進軍」の結末を描かずにエンドロールに流れていったのだ。

やはりそれは、どこまでも、「少しの希望」でしかないからである。



3  「境界突破」の「前線」で闘う女性の自我の、もう一つの表現様態



もとより、本作の基幹テーマは「境界突破」の困難さと、その可能性についてであって、それ以外ではない。

そして、その「境界突破」によって「突破」される「境界」の内実は、決して政治的なカテゴリーに含まれるものだけではない。

それ故、政治的な視座のみで映像を語るのは、あまりに狭隘であり、無意味なのだ。

本作は、人間の現実の社会の中で出来している、様々に尖り、鋭角的に絡み合う日常レベルの「境界」の問題を視野に収めているのである。

アマルとモナ
その意味で、「人間ドラマ」としての本作を根柢において支え切った登場人物は、この映像で重要な立ち位置を確保していたであろう、花嫁の実姉であるアマルである。

思春期の子供を持つ彼女は、保守的な夫のアミンの無理解を突き抜けてまで、自ら大学に入学し、日頃から関心の深い社会福祉の学習をするつもりなのだ。

そんな妻の振舞いを、我がままな行動としか考えない夫の心情の根柢には、「女房をも支配できない情けない亭主として、仲間から嘲笑される」という防衛的自我が横臥(おうが)していて、これが、「境界突破」を具現できない男の限界の象徴的構図を露呈していたと言っていい。

このことは、「勇敢なる姉妹」の父親にも言えるだろう。

「勇敢なる姉妹」の父親であるハメッドは、親シリア派の政治的活動家の前歴によって、保護観察中の身分でありながら、逮捕覚悟で、イスラエルの不法占領を糾弾するデモに参加するのだ。

「デモに参加しないと、仲間から腰抜けと言われる」

これが、ハメッドの言い分だ。

今生の別れになる、次女のモナの結婚式の当日であろうとなかろうと、モナの父親は自らが拠って立つ信念を曲げる訳にはいかないのだろうが、その信念の継続を強いる共同体からの逸脱こそ、彼は最も恐れるのだ。

ハメッド
「憎悪の共同体」を仮構する「仲間」の冷眼視 ―― この見えない視線の恐怖が、アマルの夫のアミンやハメッドの自我を縛っているのである。

因みに、自分がある人間、または組織・国家を憎悪するには、当然の如く、憎悪するに足る充分な根拠があると確信し、その確信を他者と共有することで、特定他者・組織・国家に対する意識の包囲網を形成せずにはいられないようだ。

この意識の包囲網を、私は「憎悪の共同体」と呼ぶ。

人々の憎悪が集合することは、個人の確信を一段と強化させるから、仮想敵に対する攻撃のリアリティを増幅させていく。

そこに集合した憎悪は何倍ものエネルギーとなって、大挙して仮想敵に襲いかかる。

そこに、得難い快楽が生まれる。

この得難い快楽が共同体を支え切るのだ。

だから、この特化された物語に終わりがこないのである。

もとより、以上の仮説は、ゴラン高原に対するイスラエルの不法占領の問題とは無縁に、私の思考を記述したもの。

閑話休題。

親シリア派の政治的活動家であると同時に、ドウルーズ派(シーア派の分派)の宗教的制約に縛られているハメッドは、ラストシーンの和解に至るまで、異教徒と結婚した弁護士の長男のハテムを一貫して許そうとしなかった。

視線すら合わせない父と子が、そこにいた。

ロシアから妻子を随伴し、遠路遥々、妹の結婚式に出席するために「国境」を超えてやって来た8年間、家に帰っていない長男のハテムの家族を温かく迎えたのは、長女のアマルであった。

彼女は、父親によって拒まれた結婚式の参加のお膳立てまでしたのである。

エラン・リクリス監督
まさに長女のアマルこそ、「境界突破」の「前線」で闘う女性だったという訳だ。

ラストシーンにおける、彼女の妹モナの果敢な「進軍」は、狭隘な「境界」に呪縛されないアマルの自我の、もう一つの表現様態だったのである。

「核となる物語自体はとてもシンプルなので、キャラクターの一人一人にいきいきと命を吹き込みたかった」(2009年2月6日 読売新聞)

これも、エラン・リクリス監督の言葉。

「キャラクターの一人一人にいきいきと命を吹き込」んだ本作が、秀逸な「人間ドラマ」である所以を、何より物語る言葉であった。

(2010年12月)

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