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2010年9月8日水曜日

偽れる盛装('51)       吉村公三郎


<浮薄な感傷を突き抜けた、「世界を分ける踏切」の構図という主題提起力>



1  「男に踏まれても、それを跳ね返す女の強さ」を身体表現する、京マチ子の圧倒的存在感



邦画界の狭隘な縛りを抜けて、作家的主体性を貫徹するために松竹を退社した新藤兼人が、吉村公三郎らと作った「近代映画協会」の第一回作品である本作は、男の欲望の犠牲になっていく悲哀を描いた、「祇園の姉妹」(1936年製作)の作り手である溝口健二へのオマージュでもあった。

しかし、脚本を書いた新藤兼人の思惑がどうであったにせよ、私には本作の基調音が、成瀬巳喜男の「あにいもうと」(1953年製作)のそれに近いという印象を拭えないのである。

両作の中で重要な役柄を演じた、京マチ子の存在感が際立つからだ。

恐らく、このような役柄を演じさせたら、京マチ子の全人格が放つ圧倒的存在感は、数多の女優の姑息な「演技力」が嵩(かさ)に懸かって来ても、それらを蹴散らす「身体表現力」において一頭地を抜くものがある。

近代的自我を保持する、「おもちゃ」(「如何にも的」なネーミング)という名の芸妓をヒロインに仕立て、封建体制下での日本女性の「被害者性」を強調する溝口よりも、どんな体制下にあっても、バイタリティ溢れる生き方を身体表現する成瀬の映像世界のヒロインたちのイメージと、まさに京マチ子の全身が放射する、「男に踏まれても、それを跳ね返す女の強さ」のイメージが見事なまでに重なるのだ。

爛熟した色気から放射される性フェロモンによって、男を手玉に取る狡猾さを身体表現する「関係支配力」を、その人格の根柢において支え切る「自立的な強靭さ」こそが、″肉体派女優″と揶揄された彼女の本質である、と私は考えている。

その″肉体派女優″が最も輝いたシークエンスがある。

祇園・新橋通(イメージ画像・ウィキ)
京都祇園界隈で、靜乃家という小さな芸者置き屋の唯一の稼ぎ頭である君蝶が、格式の高い置き屋の年増芸者からパトロンを奪ったときの場面だ。

元々、靜乃家は芸者出身の古風な母の置き屋だが、昔のパトロンの恩義から、住まいである置き屋を抵当にして金銭を工面したため、借金の返済で四苦八苦していた。

バイタリティ溢れる君蝶が置かれた立場は、置き屋と家族の双方を守るという二重のプレッシャーに捕捉されていたのである。

その問題は、彼女が男を手玉に取る狡猾さを身体表現せざるを得ない充分な理由に成り得たと言えるだろう。

そんな状況下で出来した、パトロンを眼の前にしての年増芸者との直接対決は、喰うか喰われるかという世界で生きる女たちの壮絶なリアリティに溢れていた。

「取ったり、取られたりがウチらの商売や!」

これは、君蝶を演じる京マチ子の歯切れのいい啖呵だった。

その挙句、年増芸者との激しい取っ組み合いが開かれて、当然、君蝶の圧勝となった。

格式の高い芸者置き屋からパトロンを取ったことに恨みを持たれた際に、「パンすけ」呼ばわりされながらも切ったこの気持ち良い啖呵が、君蝶=京マチ子の真骨頂であったという訳だ。



2  過激な「営業」への怨嗟が爆発した、遮断機の降りた踏切前の悲劇



しかし君蝶の過激な「営業」は、資金提供力を失ったパトロンからの怨嗟の的となった。

「お前は薄情な女やな」
「こっちゃかって、大事な体を提供してまっせ。女房子供があるのに、芸者買いなどしはるさかいや。これに懲りてじっくり反省しいや」

この怨嗟が、本作のクライマックスシーンに繋がっていく。

君蝶
男の怨嗟は、花柳界の温習会(舞踊などの発表会)のステージの只中で爆発する。

懐に出刃包丁を秘めた件の男が、全く翻意しない女の前で、遂にその刃物を持って切り掛かっていったのだ。

当然の如く、温習会の「都おどり」のステージは混乱の坩堝(るつぼ)と化し、逃げ惑う人群れを押し分けて、男の殺気だけが特定的な対象人格に向かって牙を剥くのだ。

温習会のステージから逃げ伸びた女は、細く長く伸びている祇園の街路を疾走する。

そして女は、遮断機の降りた踏切の前で立ち往生する。

その踏切に男が追いついて、女の背中から出刃包丁の鋭利な一太刀が切りつけられ、女の悲鳴が捨てられた。

〈状況〉に捕捉された女の恐怖の感情を表現するBGMの、如何にも芝居じみた仰々しさが些か耳障りだったが、本作のクライマックスシーンは、禍々(まがまが)しい「事件」が内包する、人間の愛憎劇の醜悪さを極める時間のうちに閉じていった。

しかし、君蝶は生き延びたのである。

生き延びた君蝶は、すっかり芸妓稼業に嫌気をさしていた。

映像は、不安な未来を抱える君蝶の嘆息を拾い上げる一方で、君蝶の実妹である妙子の不安だが、しかし、新しい世界での旅立ちをイメージさせる自立歩行の可能性を印象付けてエンドマークに流れ込んでいった。



3  浮薄な感傷を突き抜けた、「世界を分ける踏切」の構図という主題提起力



この映画の主題は、「世界を分ける踏切」の構図のうちに収斂されていた。

以下、それについて言及する。

「世界を分ける踏切」の構図

「世界を分ける踏切」の構図 ―― これが、この映画の全てであると言っていい。

「世界を分ける踏切」の向こうには、他人のプライバシーに必要以上に踏み込む権利を持たないが故に、「私権の拡大的定着」が少しずつ保証されつつある、東京に象徴される大都市の近代的な世界が眩い輝きを放っている。


一方、「世界を分ける踏切」の此方には、他者と自己との格式の違いを重んじることで、その世界に侵入してくる他者を異端視扱いする、古風で伝統的な文化が保持されているが、しかし極めて封建的な風土の色濃い世界が渦巻いている。

靜乃家の長女である君蝶は前者を代表する人格像であったのに対して、次女の妙子は後者を代表する人格像であったと言える。


逃げていく君蝶
従って、「世界を分ける踏切」の前で降ろされた遮断機によって、踏切の向こうの世界に身を預けられない君蝶は、深く理不尽な怨嗟を抱く中年男が振りかざす、肉切り可能な、幅広で峰が厚い出刃包丁の鋭利な一太刀の犠牲になったのだ。

しかし次女の妙子は、遂に「世界を分ける踏切」の遮断機を開かせるに至った。

今度は、その辺りについて書いてみる。

「格式が違うんですって」

これは、妙子の言葉。

「随分封建的ね。そんなもの、あなたたちの手でぶち壊さなくちゃダメよ」

この些か強面(こわもて)の言葉は、家の格式の違い故、同じ職場に勤める恋人である孝次との結婚を、相手の家族から反対されている妙子に対して、東京在住の親友の雪子が放ったもの。

雪子は、堅気の仕事に就く妙子を東京に誘っているのだ。

その際、恋人の孝次との「駆け落ち」を勧めているのである。

そんな「アジテーター」の雪子が放った言葉は、極めてラジカルな内実を含んでいた。

以下の通り。

祇園・花見小路(イメージ画像・ウィキ)
「京都は幸い戦災を免れたけれど、でも、それが京都にとって幸せだったかどうか分らないわ。古い歴史の跡は保たれたでしょうけど、その代りに封建の匂いも強烈に残したわ。それが、あの奇麗な屋根瓦の下に根強く残っているわ」

そんな「アジテーター」の思惑とは無縁に、養子の立場にある孝次には、どうしても養家との縁を切る決断ができず、東京での自立の自信も持ち得なかった。

一方、物事を一刀両断する度胸も、生活力も備わっている姉の君蝶から見ると、孝次の優柔不断さが我慢ならなかった。

加えて、孝次の母が、身分の違いに拘泥する高慢な態度には許し難い感情を持っていたのである。

その感情が、遂に噴き上げてしまった。

君蝶は孝次の頬を叩いてしまったのだ。

この一件は、「刺傷事件」以前の顛末。

そして、「刺傷事件」によって入院している病院に、トランクを持った孝次が訪ねて来た。

孝次の用件は、養家を説得した彼が、妙子を随伴して、東京行きを決断したことの報告だった。

妙子と孝次
映像のラストシーン。

妙子と孝次が身体を寄せ合うようなパーソナルスペースの中で、生まれ育った祇園の街を捨て、東京に上京するための確かな歩行を刻んでいく。

二人が例の踏切に差し掛かったとき、列車が折良く通過し、遮断機が開いた。

彼らは、踏切の向こうの新しい世界に侵入することに成就したのである。

東京在住の雪子の訪問によって、上京への誘いを受けるシークエンスの会話に端を発した妙子の身の振り方は、恋人と共に踏切の向こうの新しい世界に侵入することによって自己完結を遂げたのである。

若い二人を病院の2階の窓から見守るのは、「世界を分ける踏切」を超えることすら考えていない妙子の母と、「世界を分ける踏切」を超えることが叶わなかった妙子の姉の君蝶であった。

彼らはどこまでも、踏切の向こうの新しい世界に侵入するカップルを「見送る者」でしかないのだ。

「世界を分ける踏切」の構図という主題提起を象徴的に映像化した近代映協の第一回作品は、「溝口健二へのオマージュ」という浮薄な感傷を突き抜けて、如何にも独立プロらしい明瞭な主張を、その骨太の映像のうちに凛として鏤刻(るこく)したのである。



4  成瀬の「男女観」と、「対極の象徴的関係構図」の力動感不足の瑕疵



蛇足的な物言いを二点ばかり。

一点目。


吉村公三郎監督
まさに近代映協の独立心旺盛な壮年の作り手たちは、その骨太の映像のうちに、「封建制を打破する女の戦い」を描いたのだろうが、観る者が受ける印象は、先述した成瀬的映像宇宙でのヒロインたちの振舞いと大いに重なるのである。

成瀬は、彼の構築した主要な映像宇宙のうちに、封建制を敢えて批判するような台詞や象徴的構図の切り取りを提示しなかった稀有な作家である。

成瀬から見れば、封建体制下でもこの国の女は強く、相対的に男は弱いのだ。

およそ相性が合わない嫌いな夫に向かって、三行半を平気で突き出した江戸時代の女たちの強(したたか)さを見る限り、「虚栄で生きる男」と「本音で生きる女の強さ」の関係構図の基本ラインが、近代以降も根柢において殆ど変っていないという把握が、成瀬の「男女観」の認識に深く張り付いているように思えてならないのである。

二点目。

映像を総括して、私がいの一番に感じた点は、靜乃家の二人の姉妹の生き方が対極的に描かれていながらも、残念なことに、次女を演じる藤田泰子の女優としての表現力が圧倒的に脆弱であったため、却って、長女を演じる京マチ子の、抜きん出た「すれっからし性」だけが過剰に浮き上がってしまったこと。

この瑕疵が、映像総体の求心力を著しく劣化させてしまったのではないか。

「対極の象徴的関係構図」の力動感なしに成立しない映像の瑕疵は決して小さくなく、「吉村公三郎の最高傑作」と持て囃される割には、製作側のキャスティングミスと演出力の不足が目立ってしまって、せいぜい「佳作」という評価以上の何ものでもなかったという外にない。

残念ながら、これが私の辛口評価である。

(2010年9月)

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