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2011年4月5日火曜日

青春の殺人者('76)     長谷川和彦


<過剰把握された青春の自立の脆弱性、或いは、自己を相対化し得た若者の心の軌跡>



1  「解放的自我」とは無縁な若者の破壊の内実



このような環境下で、このような育てられ方をすれば、このような若者が生まれ、且つ、その若者が、このような状況下に置かれれば、このような犯罪を犯すかも知れないという説得力において、本作を凌駕する作品と出会ったことがないと思わせる映画 ――― それが「青春の殺人者」だった。

「親殺し」という、忌まわしき禁断の世界に踏み入れた若者の自我の脆弱さ。

その自我を作り上げた父母の、過剰把握の様態。

そして、その過剰把握の現実を破壊した若者の、その近未来に待つ世界のイメージの貧困さ。

それが、本作の全てかも知れない。

若者の自我を雁字搦めに縛り上げていた、「絶対的体制」を破壊し尽くして手に入れたものの内実は、本来それでなければならないと思わせるような、実存的な未来を切り拓く「解放的自我」とは無縁な何かだった。

その空洞感は、自分が犯した忌まわしき行為の報酬と完全に乖離していて、若者の「新しき旅立ち」を蠱惑(こわく)的に彩る、原色系の世界のイメージに届き得ない、寒々とした風景を露わにするばかりだった。

なぜ、そうなってしまったのか。

なぜ、若者は「解放的自我」を手に入れられなかったのか。

映像の前半で、その辺りの中枢に澱む基幹テーマが提示されていたと言っていい。

若者の「親殺し」を描いた本作の基幹テーマは、主人公の若者と、その両親との関係の歪みと、その歪みによる破壊を描いた前半3分の1の映像の中で、殆ど語り尽くされていたであろう。

以下、映像前半で語り尽くされていた物語を再現してみよう。

そこに登場するのは、若者と、その父母である。

斉木順
若者の名は、斉木順(以下、「順」、または「若者」、「息子」)。

その父母の固有名詞は、紹介されることはない。

恐らく、この時代に生きた「戦中派」に特有な、「糊口を凌いで、困難な時代を抜けて来た人々」という記号性が、件の「両親」のイメージに被せてあるのだろう。




2  屈辱感に打ち拉がれた息子の「父殺し」




父親から一方的に与えられ、その経営を任せられても、常に父親の監視の眼が光る状態下でスナックを開いても、父親が雇い入れた若い女と遊ぶことによってしか楽しめない順は、今や件の女を邪魔者扱いする両親の横槍に苛立つ日々を送っていた。


件の若い女の名は、ケイ子(以下、「ケイ子」、または「女」)。

父親に会いに行く順
両親の仕打ちに遂に切れた順は、父親に取り上げられた愛車を取り戻すために、両親が経営するタイヤパンクの修理工場兼自宅に、意を決して向かった。

息子の訪問を待ち受ける両親。

車を取り上げた行為そのものが、ケイ子との関係を清算させるための両親のトラップだったのだ。

この時点で、既に息子は、両親との「戦争」に敗北していたのである。

以下、余裕綽綽(しゃくしゃく)たる面持ちの父親と、気色ばむ息子との「論争」。

「順は怒りだすかも知れないが、俺、興信所を使って調べさせたんだ。母さんには内緒でな」
「俺のときにやったみたいにか?下品だな」
「ケイ子とは別れろ!あっさり」
「あと、3カ月したらな」
「早い方が良い。でないと、母さんの言い草じゃないが、あの体に雁字搦めにされる」
「体、体って、そんな」
「じゃ、人間に惚れたっていうほど、たいそうなものなのか・・・どうしてもって言うなら、あの店は辞めてもらう外はない!」
「何でだよう!今取り上げるなら、最初からスナックなんか、やらせなければいいじゃねえかよ!車だって、そうだよ!買ってくれなきゃな、我慢したよ。ケイ子だってよ、連れて来たのは、そっちじゃないかよ!何で、一回許したものを取り上げるんだよ!そんなことされたらな!誰だって気が変になるの、当り前じゃねえか」
「こんな所で気が変になられちゃ、たまんないよ。刃物があるからな」
「例えば、だよ」
「例えば、けい子の左の耳か?あれ、何で聞こえないんだ?」
「お袋に殴られたんだろう?こういうのが、興信所の調査に書いてあるのか」
「何で殴られたんだと思う?」
「イチジクだよ。うちのイチジク。俺んちのイチジクの実を中学生のあの子が盗んで、それで」
「浜の家には、イチジクなんてなかった・・・どこまで人が良いんだ。女の言うこと、何から何まで・・・女親が娘をツンボになるほど引っ叩くって、どういうことだと思ってるんだ。少しは頭を働かしてみろ・・・あれの母親が引っ張り込んだ男に手篭(てご)めにされた。それを母親に見つかって、ぶっ叩かれたんだ。あの子は人をたぶらかすためには、どんな嘘でもでっちあげるんだ」

勝ち誇ったような、父の不敵な笑み。

もう反駁し得ず、屈辱感に打ち拉(ひし)がれたような息子の暗鬱な表情。

切り裂かれる自我。

その直後に映し出されたのは、父の惨殺死体だった。



3  イニシアティブを取られて、指図される「母殺し」の凄惨さ



買い物から帰って来た順の母は、夫の惨殺死体を見て驚愕した。

「見るな!あっち行け!」と息子。
「病院は?救急車呼んだ?息しない・・・?死んじゃ嫌だよ!死んじゃ!」


動顛(どうてん)する母の叫びが、狭い室内を劈(つんざ)いた。

「喚かないでくれ・・・俺がやった・・・」
「あんた!こんなにある血の分量・・・拭くだけじゃ、間に合いやしない・・・」

逸早く状況を把握した母は、驚くほど冷静な対応をする。

「バカ!何でこんなの持ってるの、いつまでも!」

そう言い放つや、息子の頬を叩いて、手に持つ庖丁を取り上げたのだ。

「いいよ。警察で話す」

自首するつもりの息子に、ここでも母は、信じ難い言葉を言い放つ。

「え!あたしは嫌だよ!警察に縛られるのなんか!誰がそんなとこ行くもんか!何も、他人様に害を加えた訳じゃないんだ!」

それは、このような母親なら、このようなインモラルな言葉を言い放つだろうという振舞いが、そこに展開されていた。

「死刑だよ」
「私は絶対にやだよ!」
「しょうがない。国で決めたアレだから」
「国なんか何よ!」
「法律だよ」
「法律が何だって言うのよ」
「国も、法律も・・・」
「私の言うこと分った?」
「少し・・・」

「息子による夫殺し」という凄惨な事態の処理を、息子の母親がイニシアティブを取って、息子に指図し、強引に同意を得るのだ。

母が死体の処理を命じ、血を洗い流す息子。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

冷たい床に横たわる夫の死体を前に、手を合わせて読経する妻。

「どうか救って下さい。警察に捕まっても、負けないだけの力を貸して下さい」

エゴ丸出しの事態の進行に、「父殺し」の当事者である息子には合点がいかないようだった。

「でも、あんまり手応えがなさ過ぎるじゃねえか。警察も裁判も無関係だなんて」

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

意に介する様子もない母は、読経するばかりの妻。

「仕方がないわよね。こうするより他。どうせ、始末するんだから」

そう言い放った後、息子は、「罰当り!罰当り!」などと叫んで、死体に洗剤をかけていくのだ。

死体硬直を恐れたが故に、早く洗浄して処理したかったのである。

興奮する息子を台所から連れ出して、信じ難い言葉を言い放つ母。

「順ちゃん、これから親子二人で暮らそう。お父さん、どっかの若い女と蒸発したことにして」
「そういうことか」
「ね、お願い。ね、あたし本当のこと言うと、こういうこと望んでいたような気がするの」
「俺がやるってか」
「違うわよ。漠然とよ・・・朝から晩まで仕事で追いまくられなくて済む」

シャッターを降ろし、笑みを浮かべながら、工場もスナックも売って、二人でマンションで生活することを提案する母。

大学に行って、学者になりなさい、などと捲(まく)し立ててていくのだ。

「それから、おとなしいお嫁さんもらうのよ」

時効になるまでの10数年間、この母は驚愕すべき言葉を言い放つのだ。

「あたしがお嫁さんの代りになるから、我慢しなさい。そのときまで、誰にも気を許さないってことよ。守れる?」
「うん」

ケイ子
ケイ子と別れることを勧め、それを承諾された喜びで、後ろから抱きついて、息子の頬を撫でる母。

「気持ち悪いんだよ!何から何まで指図するのか!まるで幼稚園みたいに!」

20kgもあるホイールドラムを使って、「水葬」という体裁で、死体を海に投棄することを勝手に決め、その処理をも指図する母に、ここだけは息子は反駁していく。

「自分一人でやるよ!」

突然、心臓に痛みが走った母の意気消沈ぶりを見て、自分で処理をする息子の耳に、一転してペシミズムが襲ってくる。

「私は死んだ方がいい」

泣きだす母に、息子の憤怒は簡単に希釈化されてしまうのだ。

「すまない。いま謝っても仕方がないけど」

下着になった母は起き上がって、「女」になって息子に迫るのだ。

「一緒にアレしよう」

そう言って、息子誘惑する母。

抱きつかれた息子は、思わず「よせよ!」と言って、母を突き飛ばす。

ペシミズムに憑かれた母は、台所に行って、包丁を右手にタオルでグルグル巻きにするのだ。

その後ろ姿に、不穏で殺気立った雰囲気を感じながら、息子は死体の処理を始めようとする。

突然、後ろから、息子にシーツを被せ、包丁を振り下ろす母。

「騙し討ちか!よせ!やめろ!」
「順ちゃん、私も後からすぐあれするから、一家心中何だから!」

階段を上がって、逃げようとする息子が、母を蹴飛ばした。

「お父さんと同じことか、これで」と母。
「そんなんじゃない」と息子。
「隠さなくったっていい・・・いざとなったら、ケイ子と相談してあったんじゃないか」

母を殺害する順
そう言って、包丁を振り回す母をシーツで覆って、息子は包丁を取り上げた。

「そうっとやって。痛くないように」

観念する母の一言だ。


まるで、その母からの指図に従うように、取り上げた包丁で、震える両手で母を突き刺した。

「痛い!」
「死ね!」

そう叫んで、息子は繰り返し刺し続けた。

「痛いよう!死ぬ!・・・もう、働かなくていいんだ・・・もう、働かないよう・・・良かったよ、順ちゃん・・・予備校行って・・・大学行って・・・大学院行って・・・」


虫の息となっても、自分の思いを伝えようとする母からのメッセージであった。


この「親殺し」という、忌まわしき禁断の世界をリアルに描く一連のシークエンンスの中に、過剰把握された若者の自我の脆弱さが切り取られていたと言えるだろう。



4  終わりが見えない若者の旅



「簡単だったね」とケイ子。
「ああ。何もかも捨てちゃった」と順。
「こんなに簡単でいいの?」とケイ子。
「何にも起こらないでやんの!ちょっとは罰でも当たればいいのに!ハハハハ!」

犯行後、ホイールドラムを使って、死体を海に投棄した際の、逃避行の車内での、順とケイ子の会話である。


ケイ子を振り切って、一人で死体投棄を遂行しようと考えた順だったが、孤独にされ、不安になったケイ子の強引な訪問で、事件を知った彼女も加わって、死体処理を遂行したのである。

イチジクの話が、ケイ子の作り話だと彼女から確認する順。

その後、二人は海水浴たけなわの浜辺に行って、噛み合わない会話をクロスさせるが、順の内側でコントロールし切れない感情が騒いで止まないのだ。

貧しい父がアイスキャンディ売りをしていた幼き日々の思い出が、順の脳裡に浮かぶ。

本作の中で極めて重要な回想シーンが、ここで挿入されるが、これについては後述する。

二人のドライブは、成田闘争で殺気立っている機動隊の検問に引っ掛かった。 

「これで今朝、死体運んだ。親父とお袋のだよ」

唐突な順の「自首」にリアリティがなく、厄介払いされる始末。

「お前ら、権力は!」

一人喚き立てる順のシュプレヒコールは、「頭、変らしいのです」という機動隊員の一言で無化されてしまうのである。

この時点で、順の犯罪が「反体制」の行動と無縁であることが提示されるのだ。

スナック店に戻った順は、ジュークボックスの音楽をかけながら、ナイフを右手に持ち、左腕を切り裂いていく。

自殺を決行しようとしたのだ。

「順ちゃん、やめて!」

ケイ子の叫びを、「うるせえ!」と言って封印する。

「死ねやしないや、こんなもんで!痛えだけだよ!」

死のうとしても死ねない若者の脳裡に、スナック店を開店したときの賑やかなパーティーの映像が浮かんでくる。

そこには、祝福する父がいて、優しい母がいた。

それから3ヶ月後、全てを失った若者がいる。

彼には今、死ぬことしか脳裡を過ぎらない。

「私も死ぬ」

そう言って、ケイ子もナイフで左手首を切ろうとする。

「よせ、ケイ子。やめろ!」
「愛しているって言って!お願い、順ちゃん!」

何も答えない順。

ケイ子が動いてポリタンクを倒し、店内にガソリンが流れ出ていく。

「行け!行け!」

絡みついてくるケイ子を外に追い出した後、順は、ポリタンクのガソリンを店内一面に広がるように撒き散らした。

そこに火を点け、臆病な自分の退路を断つように、手首を縄で縛って、梁にロープをつけ、天井から吊る下がり、そこに火を点けたのだ。

火炎に包まれる店内。

悲痛な叫びを上げるケイ子。

しかし、順の自殺は未遂に終わった。

店内に入って来たケイ子を連れ、縄が解(ほど)けた順は店内を脱出したのである。

自殺することもできない若者の孤独が、そこに晒されていた。

火事騒ぎで集まって来た見物人の人混みの中で、与えられた物とは言え、唯一の拠り所であったスナック店が塵灰と化す、ただならぬ現場を凝視する二人の若者。

ラストシーン。

気付かれないように、ケイ子から離れていった順は、トラックの荷台に潜り込んで、当て所もない旅に出て行った。

「順ちゃん!順ちゃん!」

置き去りにされた女の叫びが、虚空に雲散霧消していった。

「非日常」の極点にまで追い詰めていった若者の旅には、終わりが見えないのだ。



5  「仮想敵」として再発見されていく青春の彫像運動



まだ固まっていない漂泊する青春が、その内側に蓄えてきたネガティブな熱量が、唐突に噴き上がっていくときの「憤怒の暴走」は、青春そのものの尖りであるだろう。

それは青春が初めて、その「憤怒の暴走」を身体化させていくに足る「仮想敵」と対峙して、その「前線」で展開される「銃撃戦」を回避し得ない尖りであるのか。

従ってそれは、自我を固有な形に彫像していく運動に収斂されていく範疇の中で、その運動が極端に規範を逸脱しない限り、一種の通過儀礼としての一定の社会的認知を享受すると言っていい。

青春を鍛えるには、それが鍛えられるに相応しい「仮想敵」が求められるからである。

「仮想敵」の存在しない青春ほど、哀れを極めるものはないのだ。

そもそも、「敵」とは何か。

異質な価値観を持ち、その存在によって自らの自我の安定を崩してしまう不安を抱かせる存在それ自身である。

その意味で、青春の最初の「敵」は、青春それ自身と言っていいだろう。

思春期のテストステロンなどの男性ホルモンの分泌によって、青春は自分の中に全く異質の現象のうねりを経験し、しばしばそれに翻弄され、突き上げられ、名状し難い恐れや不安、時めきや感動、と言った過剰な衝動に動かされるのである。

内なる攻撃性を感覚的に認知したとき、既に青春は独自の航跡を描き始めているのだ。

青春の最初の「敵」は、まさに自分自身なのである。

やがてその新しい生命の展開は、その展開に驚き、しばしば怯懦(きょうだ)する周囲の大人たちの抑圧に阻まれるという、殆ど原則的な展開に立ち会うに至るであろう。

青春は、その展開の直接的な対峙者である親たちの存在に、第二の「敵」を見出すことになるのだ。

ここで青春は、自らの自我の支配の枠組みを超えて、「法治下の社会」という未知なる世界に飛び出していく。

「敵」の存在が、今度は社会の中で、「仮想敵」として再発見されていくのだ。

(以上の一文は、「心の風景・遅れてきた『反抗的なエロス青年」 ―― その情感系の暴走』」等より部分的に参照・引用・加筆した)



6  過剰把握された青春の「自立」の脆弱性



本作の若者もまた、テストステロンの分泌の澎湃によって、遂に「仮想敵」との直接対決を辞さない状況に追い込まれた。

若者にとって何より不幸なのは、「仮想敵」である両親が、揃って若者を過剰に把握していたという現実が存在したことに尽きるだろう。

しかも若者の自我は、父親からは、「あれも選択できず、これも選択できない」という「ダブルバインド」の状況に捕縛されていたのだ。

継続的に、特定他者から矛盾するメッセージを受け続けた挙句、身動きのとれない精神状態を固められてしまうという、「ダブルバインド」の状況の厄介さが、この父子の関係を規定する。

過剰把握の対象人格の息子に、父親は形ばかりの「自立」を求めていく。

当然の如く、その「自立」には、父親のイメージの範疇でしか動けない堅固な縛りがあって、その「絶対規範」への従属が若者の「自立」の内実の全てとなったとき、「自立」しようと我が身を踏み入れるや否や、父親の人格が土足で侵入してくるのだ。

それ故、若者は永遠に「自立」を果たせない。

そのことを最も感受していたが故に、若者は父親との意味のない会話を回避する。

厄介なことに、回避する若者を追い駆けるように、重要な決断を迫られる度に、父親の心理的介入が常態化してくるのである。

それが、映像冒頭における勝ち誇ったような父親の笑みと、それを屈辱的に受容する息子の対極的な構図が描かれていて、その直後の映像が映し出したのは、惨殺された父親の死体だった。

追い詰められ、追い詰められた果ての息子の取った行動は、彼にとってそれ以外にない攻撃的衝動の身体化だったのだ。

最も堅固な「体制」という、厄介な「仮想敵」を倒した息子の前に、今度は、「究極の母性」で把握する母親の、もう一つの過剰把握の様態が現出する。

息子は、この母親をも倒さなければならなかった。

高校時代の若者が作った8ミリの自主映像のテーマであった「親殺し」をなぞるように、自分を過剰に把握し続けた、二つの巨大な「体制」という「仮想敵」を壊した若者の未来に待つのは、「解放的な自我」の立ち上げであるべきはずだったが、しかし衝動的な若者の行為が分娩した未来像には「自立」に向かう心理的文脈が濃密に内包されていないのである。

結局、若者は、自分が拠って立っていたものの「体制的基盤」を壊すことによって、それによってのみ形成されてきた自我の、空疎で、浮薄な様態しか存在し得なかった現実と遭遇するに至るのだ。

自分を支えた土台を壊した若者は、その土台によって作られた脆弱な自我によって未来を切り拓くしかない。

それは、殆ど自家撞着と言える何かである。

拠って立っていたものの大きさを初めて知った若者は、自分が破壊し尽くした行為によって、それが「精神の焼け野原」でしかなかったことを感受するに至るのだ。

第二の「敵」を倒しても自らの自我の支配の枠組みを超えて、「法治下の社会」という未知なる世界に飛び出していくパワーの余力すらなく、若者の「敵」の存在を、社会の中で再発見される遥か手前で完全失速してしまったのである。



7  自己を相対化し得た若者の心の軌跡



確かに、荒削りなだけで、随所に、その「完成度」を疑うに足る、非科学的で、稚拙極まる描写が挿入されていたが、その瑕疵をも包括するダイナミズムにおいて、両親によって過剰把握された若者が、最後まで「自分サイズ」の軟着点を手に入れられずに揺動する心の風景を、ここまで深々と描き切った映像を、私は他に知らない。

「母殺し」のシークエンンスは、観る者に相当の心地悪さを与えたであろう。

しかし、それこそが、「殺人」の生々しい現場ではないかと思わせるリアリティに満ちていた。

これだけは言える。

恐らく、このような凄惨なシーンを執拗に見せつけられたら、「暴力」や「殺人」に対する嫌悪感を抱くに違いない。

それがリアリズムの凄みであり、初発のインパクトの破壊力である。

中野区立の学校で試験的に実施された「スケアードストレート」
心理学で言う「恐怖突入」が、そこに再現されたのである。

これは難しく言えば、「スケアードストレート」の方法論である。

「スケアードストレート」とは、観る者に恐怖を実感させる交通実験再現教育のこと。

要するに、薬物依存症者に、繰り返し、薬物の怖さを感じさせる実写フィルムを見せることで、依存症への一定の歯止めにする教育的方法論のようなものである。

そして何より、捩(ねじ)れに捩れた末の「母殺し」のシークエンンスは、それを遂行する苛烈な状況に追い詰められた脆弱な自我の有りようを、惨たらしいまでに的確に表現し切っていたが故に、このシークエンンスなしに、それ以降の物語の曲折的な心理的文脈に説得力を持たせることは困難だったであろう。

そう思わせるに足るシークエンンスだった。

本作の作り手は、スナックを初めてまもない若者が、その両親によって過剰把握されている心理の歪んだ航跡を、その両親との唯一の絡みを描いた、この「親殺し」のシークエンンスの内に表現しようという映像的実験を遂行したのではないか。

少なくとも、私にはそのように思えるのである。

そして、本作の作り手は、その実験に成就したのだ。

このシークエンスの後に待機している、最も重要なシーンがあった。



それは、犯行後に、恋人のケイ子と共に、当て所ないドライブを繋いだ果てに、一呼吸する浜辺のシーンである。

まさに、本作の主人公の曲折的な心理的文脈の中で開かれた、それ以外にない圧巻の回想シーンがそれである。

それは、一人でアップ系になっているケイ子の情感に同化することを拒んだ若者の、その孤独感が一つのピークアウトを示すシーンだった。

再現してみよう。

時代の昂揚する気分に乗って、サーフィンを愉悦する、同世代の若者たちの世俗の情感世界と対極の心情が、そこに晒されていた。

「親父は、これ売ってた。ちりんちりんの自転車で、これ」

そう言って、若者は、ケイ子から買ってもらったアイスキャンディを食べながら、それに眼をやった。

若者の視界には、浜辺で自転車を漕ぎなながら、右手でちりんちりんを鳴らす父が幻視されている。

「他に仕事がなくて、こんなもん売ってたんだ。そのうち金貯めて、でっかい商売しようなんて思って、食うもんも食わないで、飲むもんも飲まないで・・・バッカだなあ・・・」

若者は、もうアイスキャンディを食べられない。

若者の頬を、液状のラインが濡らしていく。

「俺はお袋に手を引かれて、毎日、弁当を持って、親父を迎えに行ってた」

若者の涙を見て、隣に座るケイ子は訝しげに尋ねた。

「順ちゃん、泣いてんの?」
「バカ!汗じゃねえか、こんなの」
「順ちゃんが泣いてる。泣かないでよ」
「汗だよ、汗が眼に入ったんだよ」

若者が汗と涙を拭く仕草を見て、隣のケイ子の眼から涙が光った。

「断れば、断ることができた。俺、店が立つ前、あそこで親父と相撲した。そのとき断れば、断れた。俺は自分のものなんか、持たない方が良かったんだ。だけど俺、何にもないことが寂しかったから、つい俺・・・」

この若者の言葉は、物語の中で決定的に重要なものである。

なぜなら、彼は映像の中で初めて、自己を相対化しているからである。

自己を相対化し得た若者は、自分の犯した罪と向き合うのだ。

その後の物語の劇的展開を開くに至る映像の世界は、そこに情感投入していく作り手の独壇場であると言っていい。

長谷川和彦監督
かつて、アイスキャンディ売りをしていた父を、母と共に迎えに行く回想の、その独立系の時間の内に、「今、ここにある揺動する自我」を丸投げしていくこのシーンは、感傷含みながらも、主人公の内面が、観る者の情感に架橋する哀感を的確に映し出していて、恐らく、それなしに済まない内面描写の感度の高さを提示していたと言えるだろう。

繰り返すが、このシーンの挿入によって、自死に振れていく、その後の主人公の心的過程のダイナミズムの描写が説得力をもって繋がっていったのである。

この若者が、最後には「反体制の闘士」に化けるという、嘘臭い観念系の閉じ方を拒絶し、なお当て所ない旅を繋ぐ孤独の失踪をラストシーンに用意したこと。(注)

それこそが、沸騰する時代の内に溶融できなかった若者の、その曲折的な内面世界を切り取った本作の普遍性を決定付けた括りであった。


(注)「孟(脚本家の田村孟のこと。大島渚と仕事をすることが多い/筆者注)さんの決定稿では、ラストで主人公は言い切っていたわけですよ。言葉は違うけれども意味としては、『俺はゲリラになるんだ』みたいなことを。アフレコまで一応やらせてはいたんだけど、切ったわけですよ。俺ないしは俺の主人公がそこまで言い切るほどになっていないんだね。言い切るとウソなんだ。俺はあの映画を観念にすることにすごく抵抗したわけですよ。孟さんの場合、観念として貫徹していないと表現物というものは意味がないんだという非常に強いものがあるから、それとけんかするのは大変なことだったわけです」(「長谷川和彦全発言」より引用 「決算号特集I 中堅・若手監督対談 『'77が俺たちの年であるために』 藤田敏八 長谷川和彦)

「俺はあの映画を観念にすることにすごく抵抗した」という、長谷川和彦の選択は正解だったのだ。(筆者)

(2011年4月)

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