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  • アジサイはアートである 「我が町・清瀬」2017初夏 - アジサイを接写していると、色相のグラデーションの鮮やかに驚かされること頻りである。 だから、毎年、初夏になったら「我が町・清瀬」で写真を撮る。 この一期一会の思いでアジサイを観賞していると、アジサイが一つのアートであることを実感する。 アジサイはアートなのだ。 時々刻々に変色していくアジサイは...
    3 か月前

2008年12月20日土曜日

野良犬('49)     黒澤 明


 <「前線の死闘」、そして「平和の旋律」へ>



 1  凶悪事件の暗い予感



 映像にいきなり映し出される飢えた野犬の尖った視線、獲物を一撃で噛み殺してしまうような牙。

 そこに「野良犬」という大きな字幕が映し出されて、「その日は恐ろしく暑かった」という導入が、観る者をサスペンスフルな映像に誘(いざな)っていく。

 若い村上刑事が射撃練習の帰路、うだるような暑さの中、バスに乗り込んだ。

バスの中は蒸れた人いきれの異様な熱気で、40度にも迫ろうとするような混雑振り。彼は白い私服のスーツの内側のポケットに、コルト式拳銃(アメリカ・コルト社が製造した回転式連発拳銃)を無造作に入れていた。

 「村上は疲れていた。それに何という暑さだ。バスの中は人いきれで気が遠くなりそうだった。赤ん坊が泣いていた。それから、隣の女の胸の悪くなるような安香水の匂い」(ナレーション)
 

 その日、村上刑事はこのバスの中で、不覚にも、警察官の自己証明でもあるコルト式拳銃を盗まれた。
そのことに逸早く気づいた彼は、犯人と思しき男を追って、必死に追い駆けていく。

 

「米兵が撮った1945年の東京」より①
この国の戦後の復興間近な殺風景な町並みを、男たちは走り続けた。いつまでも走り続けた。しかし追う男は、逃げる男を遂に捕捉できなかった。
 
 
 警視庁捜査第一課での会話。

 「自分はどんな処分を受けても仕方がないと思ってます。自分は・・・」
 「自分は、自分はというのは止めて欲しいな。ここは軍隊じゃないんだから」
 「自分は、いや私は、どうしたら・・・」
 「どうしたらって、処分が決まるまで、そうやって突っ立っている訳にもいくまい。俺ならまず、スリ係に行くな。餅は餅屋だ」

 村上は明らかに、自分を失っていた。

 彼は軍隊出身者なのである。だから言葉の端々に、「自分は・・・」という主語が出てきてしまうのだ。相手は、警視庁捜査第一課の主任警部。軍隊で言えば、下士官か将校だろう。これは軍隊帰りの男が、刑事になって初めて起した不祥事だったのである。
 
 村上はスリ係の市川刑事のところに赴き、知恵を貸してもらうことになった。彼は鑑識課の手口カードを調べて、そこからスリのお銀の名を知ったのである。そのお銀こそ、彼とバスに同乗した女だった。

 市川刑事と二人で、村上はお銀を訪ねた。

 当然のように、お銀は白を切った。

 しかし、新人刑事は簡単に諦めない。自分の大失態で事件が起きる可能性があるからだ。刑事はお銀の後を、どこまでも追い駆けて行く。二人の我慢比べが、勝負の分け目となった。お銀は遂に、刑事の執念に根負けするに至った。彼女は場末の盛り場で、貸しピストル業を潜りとする者の存在を、刑事にヒントとして提示したのである。
 
 まもなく、場末の盛り場に薄汚れた軍服姿の男が出現した。

 村上刑事である。

 彼の視線は、獲物を追う野良犬の尖りをギラつかせていて、過剰なまでに攻撃的だった。

 
「米兵が撮った1945年の東京」より②
モノクロームの映像は、刑事の厳しい表情と彼の歩行を執拗に捉えていく。獲物を追う眼と、その獲物を寸時の判断で追い駆ける前線兵士のような脚。雨に打たれても、ギラつく陽光に灼かれても、獲物を求める男の身体の緊張感は飽和点に達しつつあった。

 そんな中、「はじき要らねえか?」と声をかけてきた若い男がいた。その男の紹介で、村上はピストルを扱う一人の女と会った。彼は女に自分の身分を明かし、裏稼業の元締めの名を迫ったが、埒が明かなかった。

 新人刑事はまた一つ、不手際を加えてしまったのである。


 彼は係長から、三ヶ月間の減俸処分の辞令を受けることになった。

 その間、淀橋所轄内で彼のコルトと思われる拳銃による発砲事件が発生した。村上刑事は責任を感じて、主任警部である係長に辞表を出した。職務に誠実な男には、それ以外の責任の取り方が考えられなかったのである。

 「不運は人間を叩き上げるか、押し潰すかどちらかだ。君は押し潰される口か?心の持ち方次第で、君の不運は君のチャンスだ。なぜこの事件を担当させてくれと言わないんだい?こちらから阿部警部が担当主任として行くけど、行ってみる気あるかい?」

 係長は村上刑事の辞表を受理せず、彼の刑事魂に火をつけるようなフォローをする。

 「はっ!」
 「淀橋には、佐藤という、第一課出身の名うての刑事長がいる。一緒になるよう、電話しておいてやる」
 「はっ!」

 係長の言葉に九死に一生を得たかのような、如何にも青年刑事らしい反応である。相変わらずの軍隊口調で応対した青年刑事が、直ちに捜査の前線に飛び込んで行ったのは言うまでもない。

 そこには、如何にもベテランらしい風格を持つ佐藤刑事がいた。

 彼が取り調べていたのは、先に村上が捕捉した女だった。

 
後楽園球場
佐藤刑事の巧みな取り調べの結果、まもなくその女の口から、本多という男の名が浮上した。その本多こそ犯人と見込んだ佐藤の反応は、極めて迅速だった。本多という男が日常的に通うとされる後楽園球場に、一大捜査網を敷いたのである。


 その日の後楽園球場は、いつものように満員の観客を呑み込んでいた。

 グラウンドには、背番号16の川上哲治もいた。ジャイアンツ対ホークスの熾烈なゲームが開かれていく。緊迫したゲームの盛り上がりの中で、佐藤と村上はゲームの流れに心を合わせず、犯人の特定とその逮捕の方法に知恵を搾り出していく。

 その結果、場内放送を使って犯人を呼び出す手段を考えついた。人いきれの熱気で澎湃する場内に、犯人の本名が告げられたのだ。村上たちは犯人の反応を感じ取って、素早く動いた。まもなく、犯人は通路で逮捕されたのである。

 その犯人の供述から、一人の男の名が浮かび上がってきた。その名は遊佐(ゆさ)。

 この男こそが、村上のコルトを使って刑事事件を起した真犯人だった。捜査本部は、遊佐を逮捕するために一丸となっていく。その先頭に村上刑事がいた。

 「あの子は復員してから、すっかり人間が変わってしまって。可哀想に、復員のときに汽車の中で全財産のリュック盗まれて、それからグレ出したんです」


 佐藤と村上の両刑事は、遊佐の実姉を訪ね、犯人の事情を本人から聞き出した。

 「家出する前の様子は?」と佐藤刑事。
 「そうですねぇ。そうそう、あれは家出した日かしら、ご飯に呼んでも出て来ないんで、覗いてみると、あの子ったら、薄暗い部屋の中で頭抱えて泣いているんです。あたし、何だか怖いみたいで・・・」

 佐藤刑事が遊佐の部屋から手に入れた本人のノート。そこには、姉の不吉な予感を暗示する内容が書かれていた。

 「今日も眠れない。雨の音の中から、あの捨て猫の声が聞こえるような気がする。雨の中でまとわりついてきたあいつ。どうせ苦しんで死ぬんだ。一思いに殺してやれと思った。踏んづけたあの足の感じがまだ残っている。俺は弱虫だ。あのビショぬれの猫と同じだ。どうせ・・・」 

 犯人の手記の断片を読んだ両刑事は、この男が起す凶悪事件の暗い予感に捉われていた。


 両刑事は執念の捜査の結果、遂に遊佐の所在を突き止めた。彼には幼馴染の恋人がいて、その恋人の元に身を寄せていたのである。彼女の名はハルミ。ダンサーである。両刑事は彼女の踊りを観客席で見て、本人確認をした。

 映像は、踊りを終えたダンサーたちの舞台裏を映し出す。疲弊し切った彼女たちの露出された体から、滝のような汗が吹き出てきて、ダンサーという、一見華やかな職業の厳しさを暗黙裡に伝えていた。

 その楽屋に、両刑事が訪ねて来た。

 「遊佐っていう男を知ってるね?幼馴染だがそうだが、子供のとき、友だちだったのかね?」
 「友だちって、半年ばかり隣同士で話したことがあるだけ」
 「正直に言ってもらわないと困るんだがね」
 「嘘なんか言ってません!」
 「まあいい。最近は、どういう関係だったんだね?」
 「どういう関係って?」
 「例えばさ、恋人とかさ」
 「そんなんじゃありません!」
 「じゃあ、ただのファンかね」
 「そんなんでもないんです」
 「じゃ、何だい?毎日のように来てたそうじゃないか」
 「だって、追い返す訳にもいかないわ」
 「最後に会ったのはいつだね?君」
 「考えてるんです」
 「考えてるって、どうしたんだい君」
 「あたし、何にも悪いこともしないのに!」

 女はここで蹲(うずくま)り、泣き出した。

 佐藤刑事はそれ以上詰問しなかった。帰路、村上は佐藤刑事に尋ねた。

 「あの女、何だって泣いたりしたんでしょうね?」

 「疲れたのさ。あの子も、俺たちも。まずいことをしちまったよ。疲れていると、堪え性がなくなってな。ものを聞くのは難しいよ。上手に組んだら、こっちの負けさ。相撲と同じだ・・・ああいう、感じやすい女の子ぐらい、頑固な者はないのさ。気持ちこじらしたら、まるで石だ」


 こんな表現をサラリと言ってのける男は、既に充分に人生の熟達者である。このような男がこのような感懐を抱くのは、叩き上げられた刑事人生の集積であるに違いない。

 人生の熟達者であるような佐藤刑事は、村上刑事を自宅に招いた。
 
 ベテラン刑事の簡素な自宅には、長い刑事人生の誇りを示す幾つかの表彰状が壁に飾られていた。村上刑事は、佐藤刑事の苦労多き人間性の一端に触れた思いであった。

 「俺の家もご覧の通りのあばら家だが、遊佐のとこもひどいね。人間の住まいじゃないな、あれは」
 「世の中には悪人はいない。悪い環境があるだけだ。そんな言葉がありますが、遊佐という男も、考えてみれば可哀想ですね」

 「いかん、いかん。そういう考えは、俺たちには禁物だよ。犯人ばかりを追い回していると、よくそんな錯覚に起すが、一匹の狼のために傷ついた沢山の羊を忘れちゃいかんのだ。あの額の半分は死刑囚だが、大勢の幸福を守ったという確信がなかったら、刑事なんて全く救われない。犯人の心理分析なんて、小説家に任せておくんだな。俺は単純にあいつらを憎む。悪い奴は悪いんだ」

 「僕はまだ、どうもそういう風に考えられないんですよ。長い間戦争に行っている間に、人間っていう奴が、ごく簡単な理由で獣になるのを何回も見てきたものですから」
 「君と僕の年齢の差かな。それとも時代の差かな・・・その、何とか言ったな・・・アプレ・・・」
 「アプレゲール(注1)」
 「それそれ。その戦後派ってやつだよ、君は。遊佐もそうかも知れん。君には遊佐の気持ちが分りすぎるんだよ」

 「そうかも知れませんね。僕も復員のとき、列車の中でリュックを盗まれたんですよ。ひどく無茶な、毒々しい気持ちになりましてね。あのときだったら、強盗くらい平気でやれたでしょう。でも、ここが危ない曲がり角だと思って、僕は逆のコースを選んで、今の仕事を志願したんです」

 「そのアプレゲールにも二種類あるんだな。君みたいなのと遊佐みたいのと。君のは本物だよ。遊佐みたいなのは、アプレ・・・いや、アキレカエルだ」

 どっと笑いが起ったところで、難しい話は中断された。村上の心の尖りも、ベテラン刑事の包容力の内に吸収されたのである。


「米兵が撮った1945年の東京」より③
(注1)元々は、第一次大戦後に欧米で起こった新しい芸術表現運動のことを指すが、ここでは第二次大戦による敗北によって、この国に価値観の崩壊による規範意識の乱れによって、主に若者の間で様々な犯罪事件などが頻発して使われるようになった言葉。因みに、その反対語はアバンゲール(戦前派)。





 2  追う者と追われる者の苛烈な感情衝突が残したもの




 しかし、事件は再び起こった。


 百日紅(さるすべり)が爛漫と咲き誇る、如何にも長閑(のどか)で平和然とした家が強盗に襲われて、その家の主婦が殺されたのである。

事件の出来によって、束の間、収まっていた村上の心の尖りはぶり返してしまった。

彼は自分のコルトによる事件の疑いを拭えずに、心穏やかではなかった。そして、その予感は当たってしまったのだ。


 募る焦燥感が、若い刑事の自我を無残にも削っていく。彼はもう、解き放たれた野良犬になる以外になかった。

 「本当に来そうだな、今晩辺り」と佐藤刑事。

 電車の中から、外の天気を気にしている。

 「え!誰が来るんです?」と村上刑事。

 彼には犯人のことしか頭にない。

 「誰?僕は夕立のことを言ったんだ。いかんな。神経ばかり立った刑事なんて困りもんだぜ」
 「僕は神経衰弱になりそうですよ、佐藤さん」

 「そんなこと言うところをみると、もう神経衰弱になってるのさ。僕はここが勝負のしどころだと思うね。あいつは人を殺した。人を殺した人間は、言わば狂犬さ。狂犬がどんな動き方するか知ってるかね?川柳にこんなのがある・・・・狂犬の眼にまっすぐな道ばかり。遊佐には、もうまっすぐな道しか見えない・・・あいつにはもうハルミしか見えない。あいつは、きっとハルミの所にやって来るよ」

 佐藤刑事の勘を頼って、二人はハルミの家を訪ね、そこで犯人に対する聞き込みを始めた。

 二人はハルミの部屋に犯人が連絡することを確信しているから、張り込みを続けることになったのである。佐藤刑事はハルミの部屋にあったマッチの旅館を訪ね、その旅館に遊佐が滞在していることを直感的に見抜いていた。
 

 一方、村上刑事はハルミのアパートの部屋に残って、居心地の悪さを味わっていた。玄関で後ろ向きになって小さく座る新米刑事に、ハルミの攻撃性が牙を剥き出しにする。

 「刑事さん、いつまで私たちを苦しめるつもり?」
 「苦しめているのは君の方だよ」
 「違うわ。あの遊佐がどんなことをしたか知らないけど、私には何も悪いことをしなかったわ。時々楽屋で、悲しそうな眼で私を見ていただけよ。私、そんな人、自分の手で捕まえさせるようなことできないわ」
 「じゃあ君は、遊佐の居所を知っているけど、言えないって言うんだね」
 「そうかも知れないわ。あんたたちが捕まえるのは勝手よ。でも、私が捕まえさせるのは嫌だわ」

 ハルミはまだ吐き出したいものが足りなかったのか、押入れの中から綺麗に畳まれたドレスを取り出して、それを刑事に向って投げつけた。

 「さあ、これを返すから、帰ってちょうだい!」
 「お前、いつの間にこんなもの?」

 ハルミの母は、不安げな表情を隠し切れないでいる。

 「あの人がくれたのよ。二人で歩いていたとき、ショウウインドウで見たんだわ。私こんな綺麗な洋服、いっぺん着てみたいって言ったの。そのときあの人、とっても悲しそうに私の顔を見てたわ。それから一週間位して、楽屋にこれを持ってきたの」
 「ハルミ、じゃあお前・・・」と母。


 「そうよ。あの人、私のために悪いことしたんだわ。でも私だって勇気があったら、自分で盗んだかも知れない。ショーウインドウにこんなもの、見せびらかしているのが悪いのよ。私たちこんなもの買うためだったら、盗むよりもっと悪いことしなけりゃダメなんだ。皆、世の中が悪いのよ。復員軍人のリュックを盗むような世の中が・・・」

 「それは遊佐が言ったんだね?」
 「そうよ」
 「復員のときリュックを盗まれたのは遊佐だけじゃない。僕だって盗まれた・・・僕はこう思うんだ。世の中も悪い。しかし何もかも世の中のせいにして、悪いことやる奴はもっと悪い!」
 「だって悪い奴は大威張りで美味いもの食べて、綺麗な着物を着てるわ。悪いことする者が勝ちよ!」
 「本当に君はそう思っているの?じゃあ、なぜその通りにしないんだ!この服だって着たらいいじゃないか。さあ、着てみたまえ!なぜ、着ないんだ!」

 刑事のその挑発的な言辞への反発感から、殆ど衝動的に、女は狭い部屋の中で踊り出した。

 ドレスを着て踊り出したのだ。

 殺人犯が買ってくれたドレスを着て、「楽しいわ!楽しいわ!」と叫びながら、刑事の前で旋回しているのである。そこに捨てられた叫びの空虚さをも、女の小さな旋回は悲しく炙り出していた。

 それは、異様な光景だった。

 ハルミの母は、「バカ、バカ!」と娘を罵って、娘の着たドレスを脱がせた。母はそのドレスを窓の外に放り投げたのである。「お母さん!」と号泣する娘は、母に縋り付いていった。新米刑事は、その異様な光景を呆然と眺めるしかなかった。

 嵐が小さな町を襲いかかっていた。

 村上刑事は、母に泣きつく娘に向って、その正直な思いを告白する。

 「どうも言い過ぎちゃって。何しろ今度の事件は・・・遊佐が持っているピストルは、僕の不注意から盗まれたピストルなんですよ。だから・・・僕のピストルで二人も撃たれたんです。しかも、一人は殺されたんだ。それに今夜は、変に胸騒ぎがするんですよ。何かが起こりそうな」


 村上刑事の声には、少し嗚咽が混じっていた。その言葉が、ハルミの心の琴線に触れたのである。彼女は刑事の心の奥に澱むものに一気に近づいていったのである。


 一方、佐藤刑事は、犯人の遊佐を追いつめていた。

 屋外は、激しく打ち付けてくる弾丸の雨。

 偽名で旅館に泊まる犯人を捕捉するために、彼は村上刑事に連絡を取ろうとしていた。しかし本人になかなか繋がらない。ようやく電話が繋がったとき、佐藤刑事は犯人を確認して、咄嗟に受話器を外した。

 そこに、一発の銃弾。ベテラン刑事は、自らをガードする余裕すらなく犯人に銃撃されたのである。
 
 救急車で運ばれた佐藤刑事の入院先に、村上は急いで駆けつけた。また一つ、村上のコルトによる犠牲者が加わったのである。

 「佐藤さん、死なないでくれ!お願いだ!」

 佐藤刑事の緊急手術を待つ村上の呻きが、病院内に響き渡った。村上は病棟の一角の階段で小さく蹲(うずくま)っている。その眼には輝きがなく、まるで悪霊にとり憑かれた者の空洞感を辺り一面に撒いていた。そこにハルミが近づいて来た。

 「遊佐は、6時に大原駅で待っています」

 その一言で、男は我を取り戻した。本来の職務に誠実な警察官に戻ったのである。彼は直ちに動き、駅に直行した。

 
「米兵が撮った1945年の東京」より④
駅に直行したものの、村上刑事は遊佐の顔を知らない。刑事の中に、少しずつ焦りが生まれた。

 「どれが遊佐だ。慌てるな、慌てるな。落ち着け!落ち着くんだ!落ち着いて・・・28歳、白い麻の背広。しかし洋服は替えたかも知れない・・・あ、そうだ。夕べ遊佐は、土砂降りの中を飛び出したんだ。泥だらけの靴、泥だらけのズボン・・・あ、左手!」
 
 大原駅の待合室。

 男は必死に、心の中で冷静になろうと努めている。待合室で電車を待つ、28歳くらいの白い麻の背広を着た犯人を特定しようと、男の眼は限られた視界の中を弄(まさぐ)っていく。そして泥だらけの靴を履き、背中まで泥を跳ね上げて、左手でマッチを擦ろうとする一人の男を捉えたとき、刑事の本性が激しく反応した。
 
 その反応に相手の男が気づくや否や、男は待合室から素早く走り去った。
 
 その男を、刑事は追い駆けていく。
 
 朝靄の林の中を、凄い形相で追い駆けていく。そして遂に追いつめた。追いつめられた男は左手に拳銃を持って、それを刑事に向けている。

 閑静な林の向こうから、軽やかなピアノの音が聞こえてきた。朝の陽光が男の顔を悲しげに映し出したとき、男の左手から一発の銃丸が放たれたのである。

 刑事の左手から、幾筋かの血が滴り落ちた。

 しかし刑事は倒れない。犯人に向っていくのだ。

 銃丸が更に二発放たれて、木の太い幹の表皮を削り、大きな枝葉を揺さぶった。男は更に発砲しようとするが、銃丸は既に切れていた。男には三発の銃丸しか残されていなかったのだ。男は刑事に空砲となったコルトを投げつけた。刑事は逸早くそのコルトを拾い上げ、それを懐に収めた後、激しい気迫を前面に押し出して犯人を追走したのである。

 池の中を這い、雑草の群落を這い、そして遂に刑事は男の両手に手錠をかけた。


 犯人と刑事は、そこだけは小さな輝きを放つ、箱庭のような花畑の上に仰向けになり、粗い呼吸を吐いている。そこには言葉はない。追う者と追われた者の苛烈な感情の衝突が、今、一つの終焉の場所に呑み込まれて、だらしなく寝そべっている。

 その男たちの耳に、子供たちの童謡の軽やかな響きが侵入してきた。

 「蝶々、蝶々、菜の葉にとまれ・・・・」

 その無垢な歌声に、犯人の遊佐は表情を悲しく歪めた。

 男は啜り泣いていた。やがてその声は号泣に変わり、呻きに変わった。

 傍らで寝そべっていた刑事の村上は、男のその激しい感情のラインを凝視するばかりだった。犯人を号泣させたのは、紛れもなく、子供たちの無垢なる旋律であったに違いない。村上だけがそれを確認したのである。

 何もかも、全て終った。

 まもなく村上刑事は、一命を取りとめた佐藤刑事の病室の静けさの中に、その身を置いていた。

 「・・・でも何だか、あの遊佐っていう男のことが・・・」

 「その気持ちは俺にも覚えがあるよ。最初に捕まえた犯人って、妙に忘れられないものさ。しかしね、君が考えているより、ああいう奴らは沢山いるんだ。何人も捕まえている内に、そんな感傷なんかなくなるよ・・・でもね、窓から外を見たまえ。今日もあの屋根の下で色んな事件が起るだろう。そして何人か善良な人間が、遊佐みたいな奴の餌食になるんだ。遊佐のことなんか忘れるんだな・・・」

 ベテランの刑事の言葉が、このリアルな映像の括りとなったのである。

     
                      *       *       *       *



 3  野良犬が狂犬を追い駆け、捕捉するまでの痛切な物語



 
「踊る大捜査線」より
古い話だが、「踊る大捜査線」という大ヒットを放った三流ドラマを観終ったら、妙に懐かしさを覚える昔の映画があった。

 黒澤明監督による「野良犬」がそれである。

 何度観ても、この映画には観る者を魅きつけるものがあり、全く色褪せない。きちんと時代を映しとっていて、人物描写も的確で、不足はあまり見当たらない。敢えて言えば、犯人遊佐の心理描写が少し足りないくらいで、これが充分であったら、もっと犯人への感情移入が容易となり、映画に相当の深みを与えたはずである。

 それにも拘らず、本作はそのリアルな描写において秀逸であり、スーパーマン揃いの黒澤作品の中で、その濃度が稀薄なこの映画こそが、私にとって最も好ましい映画の一つとなっている。

 「野良犬」の主人公、村上刑事は、自らの不注意で奪われたコルトによって惹起された事件の故に、まるで「真昼の決闘」の保安官のように、全篇を通して苦悶する生身の青年刑事を陰々と表現する他にない。

 簡単に事件を括れない普通の人間の感覚の、その最大値のストレスシャワーを被浴して、青年刑事はひたすら町を這う。
 
 ギリギリの状況下で確信なく蠢(うごめ)く男が、丸ごとケーン保安官のイメージに重なって、そのリアルタイムで進行するかのような異様な緊張の高まりに、私はぐいぐいと引き寄せられていった。

 苦渋に顔を歪めるのは、村上刑事だけではない。犯人の遊佐も苦しんでいる。恋人との逢瀬によっても解消されない棘のようなものが、遊佐の内側を食(は)んでいる。これは、彼の残したノートから明らかである。

 そのノートには、こう書かれていた。

 「今日も眠れない。雨の音の中から、あの捨て猫の声が聞こえるような気がする。雨の中でまつわりついてきたあいつ。どうせ苦しんで死ぬんだ。一思いに殺してやれと思った。踏んづけたあの足の感じがまだ残っている。俺は弱虫だ。あのビショぬれの猫と同じだ。どうせ・・・」

 彼は自らを、「捨て猫」に例えている。

 「どうせ苦しんで死ぬんだ」という思いは、戦後派の実存主義文学の名作を読むような訴えを持っていた。これは、椎名麟三の一連の作品群の写しではないかと思えるほど、私には妙な親和力を放つ文章であった。勿論、そこにはズブズブの甘えと卑屈さが寝そべっている。苦しんでいるのは、遊佐一人だけではないからだ。
 
 
村上刑事の苦しみは、遊佐の甘えと卑屈さとは、紛う方なく切れていた。

 彼もまた復員兵なのだ。二人とも地獄から生還したが、地獄から引き摺ってきたものから未だ充分に解き放たれていなかった。それが映像を通して、観る者に否応なく伝わってくるのだ。

 獲物を追う彼の眼は、野に放たれた一匹の野犬と変わらない。

 遊佐が野良猫なら、村上は野良犬だった。

 しかし野良猫は、自らが惹起した強盗殺人という凶悪犯罪を契機に、一匹の狂犬に変わってしまった。これは、野良犬が狂犬を追い駆け、捕捉するまでの痛切な物語でもあったのだ。
 


 4  自己像修復という課題



 狂犬と野良犬にまだ化けきっていないそんな二人が、復員の車両の中でなけなしの財産を盗まれて、途方に暮れることになった。財産を失った二人は、ここで「野良」の世界に踏み込んでいったのである。
 
 しかし踏み込んでいったその世界から、その「野良」たちは全く逆方向の人生の軌道を描いてしまったのだ。

 一人はそんな悪と対決する仕事を選び、もう一人は犯罪の道に滑るように染まっていく。

 刑事はこの違いを、僅かな偶然の差によるものと考えた。それ故にこそ、他人事とは思えない一連の事件の渦中に、刑事は覚悟を決めて踏み込んでいく。刑事はそこに殉じるつもりなのだ。刑事の苦渋の根柢には、分身であると信じる犯人の暴走を食い止めることで、自己救済を果たさんとするかのような思いが垣間見えているのである。


 然るに、刑事のそんな主観的な自罰意識の存在それ自身が、既に犯人の自我の脆さと決定的に隔たっている。二人の差は、刑事が主観の世界で自虐的になったように、単なる偶然の差ではないのである。

 いつの時代でも、状況の苛酷が同質であっても、その苛酷に背を向けず、それと必死に対峙し、そこを突き抜けていく者が存在する。その一方で、状況の苛酷に砕かれて、自我をより強靭に固められないまま流れに沈んでいく者がいる。

 この差は僅かなものではない。

 苛酷を突破できない者が自我を守るためには、一切の責任を社会か、他者に転嫁する他にない。復員のリュックを奪われた遊佐は、「復員した世界での再生」を最大の課題にして、それを突破していかなければならなかったが、男はそれに頓挫した。というより、彼は再生への強い思いを内側に貯えることをせず、そのアンニュイな感情を自らのノートに撒き散らしただけだった。


 因みに、「課題の失敗」という事態に直面したとき、自我を傷つけずに済ます第一の把握は、失敗因を外部要因に集約させてしまうことである。

 以下の表は、心理学の知見を示したものである。(米国の心理学者・バーナード・ワイナーの「「達成動機づけの帰属理論」」)

     
           安定要因    非安定要因
   
   内部要因    能 力      努 力
   
   外部要因   課題困難度      運


 これを見ても明らかなように、「課題の失敗」を外部要因に転嫁することは、その課題が自分の能力の範疇を越えたような困難さに因るものか、もしくは、運が悪かったと考えて簡便に処理してしまうことである。そうすれば、自我の崩れは最小限に抑えられるだろう。運の悪さに還元することは、失敗因を神のせいにすることになる。これほど楽なことはないのだ。

 問題は、「課題の失敗」を内部要因に求めてしまう怖さである。

 
努力の問題に還元させれば、人は「今度頑張れば、何とかなる」という物語を手に入れられるだろうが、厄介なのは、「課題の失敗」を自分の能力の問題に求めてしまうときである。自我が破綻する危機は、常にその辺りにあると言える。

 なぜならば、恐らく、それなりに努力した事柄の結果が、自分の能力の不足にあると認知せざるを得なくなれば、人は自らに関わるイメージ、即ち、より膨らみを持たせて作る多くの親愛的な自己像を修復せざるを得なくなるからだ。自我が真摯であればあるほど、人はその現実に狼狽(うろた)え、不安を抱えるだろう。自己像修復という課題こそが、実は人生にとって最も切実な問題だからである。



 5  「全て世の中が悪い」という根拠のない便法



 以上の知見を念頭に入れて、物語を考えてみる。

 犯人遊佐は、復員時にリュックを盗まれたことから開かれた、「復員した世界での再生」という困難な課題に対して、恐らく逸早く絶望感を深めてしまったと思われる。その辺の事情については後述するが、ここで推測できる遊佐の心理は、課題への突破力への自信の欠如という一点に尽きるだろう。

 彼は兵役体験の影響も手伝ってか、そのとき自分の「社会的適応力」の欠如感を自覚していたに違いない。更に彼は、課題に対して地道にコツコツと努力するタイプの人間ではなかった。努力もまた人間の最も大切な能力の一つだから、ノートに記す教養のレベルを考えれば、彼は自らの能力的欠陥について、どこかで認知できていたはずだ。

 「自己奉仕バイアス」という心理学用語があるように、脆弱な自我に限って、全ての責任を外部要因に求めてしまう傾向が強い。彼もまた、自らの課題のハードルの高さを認知することでペシミズムに流れていったと思われる。同時に、自分の運の悪さを嘆いたであろう。

 
「米兵が撮った1945年の東京」より⑤
それにも拘らず、課題のハードルの高さを認知すればするほど、自分の能力に対する無力感を加速することになる。この思考回路を断ち切る方法は一つ。「全て世の中が悪い」と考えることである。

 それを否定する何ものもないという抽象度の高さにおいて、あまりに漠然とし過ぎている、その便利な背景因子に、彼はその思考を委ねる安直さを存分に晒すことになった。こうして一応、彼の自我の破綻は防ぎ得たが、しかし、彼はこの厄介なる観念を暴走させてしまったのである。観念を暴走させることで、「全て世の中が悪い」という根拠のない便法を検証することも可能だからである。彼の知性は、このアンタッチャブルな観念操作を転がしていかざるを得ないほどのニヒリズムを、自らの内側に同居させてしまっていたと考えられるのだ。

 ともあれ、こうした観念操作によって守られた自我は、そこで守られた安心感と、この観念ゲームで得た快楽を取っ掛かりにして、今まで封印されてきた拡大衝動を解き放ち、その自我を外側に一気に開いていくという跳躍をしばしば果たす。抑え込んできた闇への、自我のリベンジなのだ。これは、「反社会性人格障害」(注2)を病む者にしばしば散見される行動様態であると思われる。
 
 コルトとの出会いは自我を跳躍させる引き金になり、受難の復員兵、遊佐は、未来のない加速的暴走に、その身体を駆り立てていった。観念のゲームで得た快楽も、殺人という暴走によって相対化されたとき、犯人の未消化な知性が自らを食(は)んでいき、犯人の苦渋に歪んだ表情を継続的に晒していくものとなっていった。悪に徹し切れない男の苦渋が、「野良犬」の終幕まで流れ込んでいくのだ。


 これは苦渋な時代の、苦渋な男たちの、苦渋に満ちた物語だった。


(注2)近年、「サイコパス」と呼ばれる一種の精神病質のことで、妄想、幻覚などの症状を示す精神疾患である統合失調症(「精神分裂病」という概念は使用されなくなった)のような精神病とは分けられている。自我形成に問題があり、他人に対する想像力が著しく欠如し、しばしば反社会的な行動に走るため「性格異常」と括られている。



 6  復員兵のリュックサック



 私は本作を、一応三つのキーワードによって把握している。

 それらは、「復員兵のリュックサック」であり、「前線の死闘」であり、「平和の旋律」である。それらを考えてみる。

 
 ――「復員兵のリュックサック」。

 これは、物語の中枢を占めるほど重要な概念である。

 全てはそこから始まり、それを中心に動き、そしてそれを奪われた者たちの「死闘」の内に完結されることになったからだ。
 
 正直、私は本作を若き日に初めて観たとき、「リュックを盗まれたくらいで、なぜ男は犯行に走ったのか」という疑念を持ち、終始、その思いが消えないでいた。しかし今回、本作を観直してみて、その思いへの蟠(わだかま)りが一応解消されたのである。私の中で、リュックへの問題意識の重要度が高まったからだ。

 その辺りから書いていく。


 よくよく考えて見れば、「復員兵のリュックサック」の持つ意味は余りに大きいのだ。(画像は、昭和21年、福島駅に降りたった復員兵/福島県福島市ホームページ)

 そこには、復員兵が最も大切だと思うものが優先的にチョイスされて、彼らの弱った肉体で担げる最大限の物資が詰まっているのである。それは彼らが、命を賭けて戦ってきた南方や大陸の前線で消耗した、言語を絶するエネルギーと等価であると信じたい何か―― それがリュックという、彼らの身体の延長でもある唯一の搬送道具の中に詰まっているのだ。

 ここに、私がネットサイトから拾った三つの文章を紹介する。

 いずれも、「復員兵」、「リュックサック」というキーワードで検索した文章である。それを読めば、リュックの持つ価値が了解されるだろう。

 
 「昭和21年4月のある日、英国国旗を掲げた貨物船が2隻入港した。豪州からの食料だった。バター、チーズ、コンビーフ、小麦粉、ビスケットなど、25000人の一ヶ月分であった。スティール准将とアーノット少佐が約束を果たしてくれたのである。坂部大尉は目頭が熱くなったという。『受領に行った船長室で出された紅茶とビスケットのうまかったこと!ふと、そのビスケットのブランドを見たら〈アーノットカンパニー〉とあった。復員船が入ったのはその日から約一ヶ月後であった。食料不足の日本に帰る復員兵のリュックサックには、このコンビーフやビスケットが大事に詰め込まれていた』という」(「軍事評論家 佐藤守のブログ日記」より)

 
 
「米兵が撮った1945年の東京」より⑥
「復員準備が始まったのであるが、内心は、ホットといった気持ちも多少は在ったが、故郷に帰って、壮行会で見送ってくれた皆に会うことが、恥ずかしく思えたり、オメオメ敗残兵と して帰るのが残念に思えたり複雑な心境であったと覚えている。
 
 各人には、多少の米、砂糖、缶詰が配分された。それに、復員証明書とそれまでの給料と、退職金として、九百七十円ぐらいの現金が渡された。

 当時の、千円は大金であった。現金を貰ってびっくりもした。

 ちなみに、二等兵の給料は、五円五拾銭、一等兵は、壱弐円くらい、上等兵が一六円五〇銭くらいで、それに、八割くらいの戦時加俸が支給されていたのであるが、我々は、手にしたことは無かった、歯磨きや、私物の購入費用は、班長が俸給から差し引いて、貯金として保管されていて、我々は、現金を必要とするような外出も無かったし、現金を手にしたことは無かったので、退職金にそれまでの俸給が合わせて、支給されたのである。年端の行かない自分は、軍隊に奉公に行ったつもりで、金のことなど頓着なく、俸給が出ることさえ怪訝に思ったりもした」(船狂ち爺のホームページ「私の予科練記その4」より/筆者段落構成)


 「復員兵の帰還が始まると私は家の側を走っている東海道線の線路脇に立って窓からはみだして乗ってる人々の中に父の姿がないかと探す日々が続いたが、2年後に父が復員して来た時は本当に嬉しかったことを今も鮮明に想い出すが、復員して来た父の大きなリュックの中からはまるで魔法の袋のように、当時は貴重品の肉の缶詰や数々の食料品、毛糸で編んだセーターなどが出てきた。軍隊には豊富な物資が残っていたのである」(ネットサイト:寺部律子の部屋・近況報告「終戦記念日に寄せて」より)


 
「米兵が撮った1945年の東京」より⑦
いずれの文章もそれぞれ事情が異なっているので、その詳細な説明は省く。要は、リュックの中身に詰まった物の価値の大きさが了解できればいいだけの話である。
 
 以上の文脈によって把握し得る事柄は自明であろう。

 それほどに価値のあるリュックを、ほぼ同じ頃、二人の男は盗まれたのである。飽食の時代を生きる私たちの貧弱な想像力を越えて、リュックを盗まれた男たちの衝撃の甚大さを、まずここで確認する必要があるということだ。

 そして何より重要な事柄は、彼らの人生の再生を賭けたであろう財産の喪失という事態が、彼らを勇壮なマーチで送り出した祖国の、その帰省の列車内で惹起されたという点にある。「命を賭けて戦地に赴いた者たち」に対するその乱暴な洗礼に対して、彼らの自我は深く傷つき、怨念にすら繋がった可能性すらあるのだ。
 
 
 そのことを考えるとき、いつも想起されるのは、「ベトナム帰還兵」の問題である。

 愛国心と正義の使命感に燃えて東南アジアの侵略戦争に出征した結果、彼らの自我の多くもまた深く傷つき、ドラッグを手放せない社会的不適応者になってしまった。彼らの自我を甚振(いたぶ)ったのは、故郷で待っていた反戦デモによる糾弾や、「戦争殺戮者」というラベリングの汚名であったに違いない。彼らは自らが信じた物語の空洞を埋められず、その一部は犯罪者にまで成り果てたのである。 

 
 本作に眼を転じてみると、「ベトナム帰還兵」がそうであったように、架空の映像の二人の若者が祖国で味わった経験は、物質的な困窮による焦燥感である以上に、精神的な次元でのカルチャーショックに近かったと言えるだろうか。

 

 7  「前線の死闘」と「平和の旋律」



 ―― 次に、「前線の死闘」と「平和の旋律」について。

 帰還兵の二人が、コルトを介して一本の見えない絆によって繋がれてしまったのである。

 それ以前には、単に一方は「野良猫」であり、他方は、正義の実現を信じる「権力の犬」であるに過ぎなかったが、コルトの盗難によって、それぞれ、「狂犬」と「野良犬」に変貌してしまったのだ。二人の中の鬱屈した「野良性」が、事件を境に剥き出しになっていったのである。


 
その二人が直接対決した場所は、大原駅近郊の雑木林。

 そこには池があり、樹木が揺れる擬似自然の地。

 まさにそこは、何年か前に彼らが身を沈めたであろう「前線」であった。その「前線」で男たちは死闘を結ぶ。正確には、追う者の強靭な攻撃性が、追われる者の醜悪な修羅場を作り出し、そこに野犬と狂犬の苛烈極まる情念が刻まれたのである。

 だから実際のところ、死闘にはならなかった。

 狂犬の牙が砕かれて、野犬のハンター魂が周囲の空気を切り裂いただけだった。それでも、そこに展開された風景は、「前線の死闘」と呼ぶべき何かだった。

 死闘を終えた二人が耳にしたのは、子供たちの童謡の歌唱の朗らかなるメロディ。それは「平和の旋律」とも呼ぶべき何であるだろう。

 この「平和の旋律」が狂犬の心を、単に「野良猫」だった時代のニヒリズムの世界に戻し、更に「野良猫」であった遥か以前の、それなりに秩序があった日常性の世界にまで戻したのかも知れない。そのことを想起することで、狂犬は啜り泣き、やがてそれを空気を劈(つんざ)くような嗚咽に変えていったのかも知れないのである。

 「前線の死闘」は、まもなく「平和の旋律」の内に吸収されていった。

 野良犬は番犬に戻り、彼の日常性を回復させていった。彼の中の「野良性」は今や、あるべき秩序のラインと矛盾しない類の尖りでしかなかったのである。

 新米刑事はいつの日か、あの佐藤刑事のような達観した刑事魂の内に収斂されていくだろう。彼の本来的な誠実さと忍耐力は、彼が自ら選び取った職業の継続的遂行の中でこそ、真価を発揮するものであるに違いないからである。
 
 
「米兵が撮った1945年の東京」より⑧
一方、「前線の死闘」に破れた男の将来には、殆ど暗黒の世界が待ち受けているといっていいだろう。全てを「世の中の悪」に還元させる思考の持ち主は、それが還元できなくなった醜悪さを晒すことで、なお恨み節を唸って止まない者の病理を克服できないからである。

 

 8  「我々はいつまでも野良犬であってはならない」 ―― 「前線の死闘」の交叉の中で放たれて  



 ―― 最後に一言。

 
 「野良犬」は極めて良質な映画だったが、必ずしも欠点の少ない作品ではなかった。

 最も残念なのは、犯人遊佐の心理の奥深くまで迫っていなかったこと。そこにもう少し物語を肉付けする描写があったなら、「前線の死闘」の描写のリアリティは遥かに抜きん出ていたはずだ。

 それ以外にも気になる点は幾つかあったが、それでも私は本作を、恐らく、黒澤映画ファンの一般的評価の枠組みを超えて、紛う方なく支持したい。そこに、この時代にしか作れなかったであろう鮮烈な歴史的な状況性を感じ、またその時代に生きる人々の息吹を嗅ぎ取ることができるからだ。


 「我々はいつまでも野良犬であってはならない」という作り手のメッセージが、ラストの二人の無言の交叉の中で放たれた。(画像は黒澤明監督)

 「野良犬」はまさに、この時代に描写されるしか術のない必然性を負って、過剰なまでの真摯さと時代感性によって、定まらぬ社会の只中に、最も刺激的な手法で無造作に放り出されるに至ったのである。
 
 充分な熱気をもって、人々はこの映画を迎えたであろう。

 私が観る限り、作り手の体力、気力と人々のそれとが、ここでは見事な嵌り方を見せたていた。人々の熱気が文化を支えたのである。「我々はいつまでも野良犬であってはならない」と、人々もまた切望していたのであろうか。

 こんな時代が、かつてこの国にあったのだ。

(2006年6月)

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