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    1 日前

2008年12月17日水曜日

キリング・フィールド('84)    ローランド・ジョフィ

<「異文化を繋ぐ友情」 ―― 或いは「現代史が膨らませた負の遺産」> 



序  実録映画に対する評価の難しさ 



この映画ほど、実録映画に対する評価の難しさについて痛感した作品はない。私は基本的にどのような映画作品も、そこに如何なる原作を下敷きにした作品であったにしても、その原作とは無縁に創作された表現作品として、それらの映像と向き合っていかなければならないと考えている。

しかし、その映像のベースになった原作が、明瞭なる歴史的事実について映像のテーマ性に極めて濃密に関与する表現性を内包するものであるならば、どうしてもそこで描かれた歴史的事実の真贋性や、その語り口に対する批評の観点をも加えていく必要が出てくる。

それ故に、そのような映像作品の批評は、映像の背景となった事実を含む作り手の主観的、または客観的把握に対する偏見のない批評が切に求められるところとなる。

これは言葉で説明するのは簡単だが、とても厄介な作業なのだ。そこに映画評論の困難な課題の一つが、殆んど不可避なまでに包含されていると言えるだろう。

それでもそのような類の映像を批評する者は、限りなく独自の視点でそれと対峙し、批評していかねばならない。本作の批評は、まさにその辺りの批評の難しさを迫られるものだったが、それでも、本作を相応に秀逸な人間ドラマの一篇として考える私としては、本作に対する批評から回避する訳にはいかなかった次第である。



1  雨に咽ぶ危険な町の中に



本作への批評は後述するとして、ストーリーラインを追っていく。


「カンボジア。西欧人とって、それは天国、秘境だった。だがベトナムの戦火は国境を越え、カンボジアに広がった。私がこの地を訪れたのは1973年、ニューヨーク・タイムズの特派員として内戦の取材に訪れた。政府軍とゲリラ“赤色クメール”(注1)の激戦の中で会った、ガイド兼通訳のディス・プラン。この男が私の人生を、激動の国で変えてしまった。私が愛し始めた国で・・・」

これが冒頭のナレーションとなって、「THE KILLING FIELDS」というタイトルが、真紅の画面を背景に映し出されてくる。

その意味は、「殺戮の大地」。そのタイトルが消えない間に、英語のニュースが流されていく。

「“アメリカの声”の東南アジア向けニュース。時刻は6時45分。天気は所により曇り。ワシントンも黒雲です。ウォーターゲート(注2)について、ニクソン大統領が正式に声明を出します。大統領の会見は5月。ホワイトハウスに疑惑の目が集中しています。これはまさに、政治家と検察の対決で、憲政の危機とも言えます。世論調査によると、大統領の支持率はこの20年間で最低を記録しました。最高裁のダグラス判事は、大統領の要請を退け、カンボジア爆撃の継続を延期させました。議会はこの爆撃を違法として・・・」


クメール・ルージュ書記長・ポル・ポト
(注1)正確には、「クメール・ルージュ」と言い、カンボジア共産党のこと。アメリカの傀儡(かいらい)政権であったロン・ノル政権を倒して、1975年から79年にかけて、国土の大半を支配下に置いた。毛沢東思想の極端な影響下で、中国文革派の支援もあって、その革命の内実は、農民主導による原始共産制への強権的シフトを断行しようというもの。

(注2)1972年、ワシントンD.C.のウォータービルにあった民主党事務所への不法侵入の事件を端に発して、1974年に、それに関与したとされるニクソン大統領への弾劾条項が可決され、辞職するに至った一連の事件。


ニューヨーク・タイムズの記者、シドニー・シャンバーグは、カンボジアの首都プノンペンに到着早々、ゲリラの爆破事件に遭遇した。

そこに彼を迎えに来たプランがやって来て、空港に迎えに行けなかった事情を話した。

「大変な事件が起こった。米軍が田舎を爆撃した」
「確かか?」
「大勢が死んでいる」
「情報は?」
「それしか」
「行こう!」
「無理だ。危険過ぎる」

シャンバーグは米軍のベースキャンプに入って、爆撃の地であるニェクロンについての情報を得ようとするが、全く埒が明かなかった。

プラン(左)とシャンバーグ(右)
彼の積極的な情報収集の活動の結果、ニェクロンの爆撃が、コンピューターの異常によるB52の誤爆であることが判明し、彼はプランを伴ってニェクロンの町に入って行った。

そこには誤爆による負傷者が群れを成していて、リアルな戦場の凄惨さを浮き彫りにしていた。

たまたま二人は、そこで赤色クメールのゲリラ兵が政府軍に捕縛され、処刑される現場に立ち会った。

まさに廃墟の町の、廃墟なる風景が、其処彼処で展開されていたのである。

政府軍に軟禁されていたシャンバーグは、米国民であることを理由に解放され、プランを伴って、その前線の現場を後にした。

1975年3月10日。

二人は再び前線に戻って行った。取材のためである。

しかし、赤色クメールの攻勢は激しさを増して、政府軍はどこの町でも防戦一方だった。

灼熱の町の廃墟の中に、「コカ・コーラ」の看板が倒されていて、その傍らで、難民となった子供の悲鳴が天を劈(つんざ)いていた。

まもなく二人は、宿泊地でラジオ放送を耳にした。

「カンボジア大使がワシントンで会見しました。“あなた方は我々を利用したのだ。賢いアメリカに戦いを仕向けられた。”200万の難民のいるプノンペンに、赤色クメールは日一日と接近して、包囲の輪を次第に縮めています。政府軍によると、戦況は極めて不利で、負傷者を車で運ぶのにもガソリン不足の有り様です」

赤色クメールのプノンペンの侵攻が目前に迫っていたのである。

政府や軍の関係者は早々と脱出を図っていたが、シドニー・シャンバーグはそんな中でも、テレックスを母国に打ち続ける。

そのテレックスも送信所の破壊によって一時的に中断され、いよいよ、首都の脱出行の必要性が現実化していくことになった。

彼は家族を持つプランを案じて、語りかけた。

「アメリカ大使館に行ったよ」
「朗報が?」
「いいや。占領されたら大虐殺があるだろうと・・・脱出の段取りは付けておいた。どうするか、自分で決めろ」
「あなたは?」
「関係ないだろう。君はどうしたい?」
「あなたを家族だと思ってる。僕も記者の端くれだ。分るか?」
「無理するな。今ここで決めなくていい。余り時間はないが・・・」

やがて激しい混乱の中で、プランはシャンバーグの尽力により、自分の家族を米軍機でアメリカに脱出させることに成功した。

プラン自身はシャンバーグと共に、記者魂を繋ぐことを決意したのである。


1975年4月、ロン・ノルは国外に亡命し、隣国のベトナムでもサイゴンが陥落し、凄惨なまでに苛酷なベトナム戦争が終結した。

まもなく、赤色クメールのプノンペン入城が具現し、長く険しいカンボジア内戦が開かれたのである。

プノンペン市民はクメールの兵士をこぞって歓迎し、その輪の中にプランもいた。

しかしそれは、これからこの国で出来するであろう凄惨なる物語の序章でしかなかったのだ。

アメリカ人カメラマン、ロッコフを含めてシャンバーグやプランらは、内戦で犠牲になった民間人たちの取材のためにプノンペンの病院に行くが、そこで彼らは赤色クメールの兵士たちに拉致されて、同じような仲間たちがいる村落に送り込まれた。

唯一、クメール語を話せるプランは、兵士たちに懸命に事情を報告し、自分たちが彼らの敵対者でないことを弁明した。

その間、兵士たちによって処刑される現場を目の当りにして、シャンバーグらは自分たちの最後を覚悟していたのである。

なおも必死に弁明を続けるプランの尽力によって、何とかシャンバーグらの救出に成功した。

プランは4人のジャーナリストの命を救ったのだ。

既にその状況の中に、この国の近未来の地獄絵図が象徴的に映し出されていたのである。

多くのプノンペン市民が、兵士たちの誘導のもとに市街を離れて行った。地雷で足を喪った子供や、多くの女性や老人たちもそこに含まれていた。

ラジオでは、そんな不安定な社会情勢を伝えていた。

「カンボジアの情勢は不明で、プノンペン上空を飛んだ記者は、大量の避難民が移動中だと報じました。仏大使館には200名の西欧人と、多数のカンボジア人が非難。新政権からは何の声明もなく、指導者シアヌーク殿下(注3)も所在不明・・・」


(注3)カンボジア王国の国王。70年のクーデター後に追放されるが、75年クメール-ルージュの侵攻の際に帰国。82年、民主カンボジア連合政権樹立で大統領。93年の新憲法の下で王制が復活し国王に復位するが、2004年に退位した。


そのフランス大使館に、4人は臨時に保護されていた。

しかし、そこは一時的な避難所に過ぎなかった。

彼らは今や、最も危険な町と化しているプノンペンを脱出するために奔走したが、カンボジア人であるプランを脱出させるためのパスポート偽造工作が失敗してしまったのである。

「なぜあのとき、彼を逃がさなかった?勝手な男だ」

仲間の記者のシャンバーグへの批判に、プランは泣きながら訴えた。

「僕は記者だから分る。彼は兄も同然だ。彼のためなら何でもする。さようなら」

プランは仲間と別れの挨拶を交わし、雨に咽ぶ危険な町の中に単身飛び出して行った。

そのプランがシャンバーグに残した伝言。

「妻に“愛してる”と伝えて・・・子供たちを頼む。妻は英語が話せない。お願いだ。彼女を守ってやってくれ・・・」

友を見送るシャンバーグの表情は、涙に濡れていた。

それは、最も信頼する同士を救い切れなかった後悔の感情のようにも見えた。


まもなく、ニューヨークの摩天楼を対岸から見上げるシャンバーグが、カンボジアに残してきたプランの問題に、様々な思いを巡らしていた。

プランを何とか救出しようと、シャンバーグは帰国してからも画策したが、残念ながら実らなかった。

シャンバーグはプランの家族にも会って励ますが、夫が死んだと信じるプラン夫人の悲嘆は深かった。

独りニューヨークにあって、安穏とした生活を送るシャンバーグもまた、心痛の極みにあったのである。

テレビ画像が伝えるカンボジアの情勢が、決して恒久的平和と秩序を保証するものではなかったからだ。



2  沈黙だけが生きる道



その頃プランは、赤色クメールの監視下で、苛酷な農作業に従事していた。

そのことは、フランス大使館を離れざるを得なかったプランが、赤色クメールに拉致された事実を物語るものであった。

「シドニー。君と家族がとても懐かしい。赤色クメールは、神が死んだと言う。そしてわが党の“オンカー”(注4)が全てを与えるのだと・・・党は新しい病が蔓延(はびこ)っていると言う。それは、革命前のカンボジアの生活に思いを馳せる追憶という名の病だ。我々は四面楚歌を敵に囲まれている。また、敵は内部にもいる。誰も信用するな。余計な考えを捨て、党にだけ従順な牛になれ。オンカーだけを愛せよ。飢えているのに、野菜を育ててはならない。過去に汚されていない子供に敬意を払え・・・」

以上は、農作業を強制される日常を繋ぐ、プランのモノローグ。

その後、一人のオンカーが農作業を終えた人民を前に、いかにも慈父のように語る映像が続く。

「医者に教師、オンカーは諸君を必要としている。過去は許そう」

そのスピーチの呼びかけに手を上げた一人の知識人が前に出て、リーダーの抱擁を受けた後、後方に待機する兵のもとに行くように指示された。

再び、プランのモノローグ。

「シドニー。苦難の時代に楽をして生きたことは罪である。農民に背を向けた者は告白せよと彼らは言う。今は0(ゼロ)年で、全てが新しくなるからだと。私は恐ろしい。フランス語も英語も分らぬ振りをしなければ。過去を断ち切るのだ。今は0年。その前は何も存在しない。風は恐怖と憎しみを囁き、争いが愛を殺した。オンカーに告白した者は姿を消し、行く先を聞く者もいない。沈黙だけが生きる道だ」

この間、オンカーの前で手を上げた者たちが次々に引き立てられ、処刑されていく風景を映し出す。

プランはその現場を目撃してしまったのである。

しかし彼のその行動が発覚して、オンカー支配下の兵士たちに凄惨なリンチを受け、その身をロープで大木に縛られることになった。

運良く彼は知り合いの兵士の手によって救われたが、農作業を営む者の中には、その手が明らかに農民のものでないことを理由に引き立てられていく者もいた。


(注4)カンボジア語で「組織」を意味する。1976年に「民主カンプチア」と党名を変えたカンボジア共産党(赤色クメール)の最高指導者であったポル・ポトが、各地に派遣した監視要員のことで、全てがオンカーによって決定されたと言われる。                       



3  脱出行の果てに



プランの脱出行が敢行された。

水田の深みの中に潜り込み、そこを這うようにして脱出し、林間を走り抜けて行く。

彼が広い池の辺りを渡るときに、足を滑らした場所に広がっていた風景は、累々とした屍の山だった。

まさにそれは、「キリング・フィールド」そのものだった。

そこに群がる多くの屍の主は、プノンペンで都市生活を送っていた住民であると思われる。

とりわけ知識層の人々の大半が抹殺されたのである。


一方、米国ではカンボジアの取材の功績により、シャンバーグがピューリッツァ賞受賞講演の壇上に立っていた。

「栄誉の半分はディス・プランのものです。彼なしでは書けなかった。このお祭り騒ぎも結構だが、プランの協力で米国民の注目を集めた、あの罪なき人々を思わずにいられない。米国民が思案する間に、カンボジア侵攻を決定した要人は、多くのことをした。大規模な権力闘争。ドミノ理論。北ベトナムへの傲慢な態度。南ベトナムからの巧妙な撤退。内政問題もあった。だからカンボジア爆撃を極秘にしたのだ。彼らが私利私欲に無縁だったとは思えない。彼らはカンボジア人に関心がなかった。その民族、その社会、その国家を政策の建前に利用した。プランと私は、一連の決断の結果を現実に示したかった。人類に・・・彼らは行政から取り残され、代価だけ払い、泣きを見た。プランのためにも受賞は光栄です。彼も多いに誇りに思うでしょう」

講演後、シャンバーグはカメラマンのロッコフから声をかけられた。

「おめでとう。当然の受賞だ。とても感動的だったよ」
「何しに来た?」とシャンバーグ。

その言葉には明らかに棘があった。しかし、相手の言葉はもっと露骨だった。

「気に入らん」
「何が?」
「プランを引き止めたのは、くだらない賞をもらうためだ」
「邪推するな」
「そうかな?図星だろう」
「俺は最善を尽くした」
「元気でな。俺はフロリダへ行く・・・」
「手は尽くしたんだ」
「現地で捜したのか?初耳だな」
「皮肉を言うのは止めてくれ。入国できるなら行ってるさ。国境の難民収容所に、何百枚も写真を送った。手掛かりがあれば飛んでいく。だが、人生は映画と違う。世の中は甘くないんだ!お前に言われるとは!」
「おめでとう」

ロッコフ
その皮肉な一言を残して、ロッコフはシャンバーグの前から姿を消したのである。

そしてシャンバーグは、機を見計らったようにしてメディアから追求されることになった。

「プランの家族はどこに?」
「シスコに住んでいる」
「赤いクメールの残虐性を見くびったという点で、あなた方も非難されていますが・・・」
「誤算だったよ。70億ドルの爆撃が、人に理性を失わせるとは・・・」

明らかに批判の的になっているシャンバーグは、帰宅しても気分が全く優れない。

彼は自分を慰める妻に、赤十字やWHOに500通もの写真を送ったことを話した。

「手は尽くした。俺のせいだ。脱出できたのに、俺が彼を追い詰めた。ロッコフには相談したが、彼とは話してない。俺のために残ったんだ。俺が残ったのは・・・」

映像は、シャンバーグの弁明のような感情の表出をそれ以上映し出すことをしなかった。


「キリング・フィールド」の最前線から脱出することに成功したプランは、ある村の有力者の家で下働きをしていた。

その家の主は、プランが外国語を話す知識層の者であることを疑い、英語で質問してきたが、プランは質問の意味が判然としないポーズを取ることで切り抜けていく。

「彼は僕を疑っているが、親切にしてくれる。気をつけないと。色々なグループがある。アンカーは新しい敵がいると言う。ベトナムから旧領土を取り返すために、我々は戦わねばならぬと。君と妻や子供が恋しい。そして戦況が知りたい・・・」

プランのモノローグ。

彼は一人部屋の隅で、そんなことを考えていた。そのとき、英語のラジオ放送が耳に入った。

「ベトナムと民主カンプチアの間で、戦闘が始まりました・・・」

思いもかけないニュースに、プランは飛び起きた。

「やっぱりか。運転手だと?答えろ」

プランの後ろに、家の主が立っていた。

彼はプランを試すために、英語放送を流したのである。

観念したプランは、家の主に事情を話す前に、彼の話を聞くことになった。

「この国を愛してる。全て犠牲にした。妻も革命に命を捧げた。だがオンカーは、人民を信用していない。私も彼らを信用していない。疑われている。この先どうなるか不安だ。私の息子が好きだろう?君に預けたい」

プランは家の主の意外な説明に当惑するが、少なくとも自分の敵ではないことを知って安堵した。

「戦いが近い。ベトナム軍が来たら、オンカーは全てを破壊するだろう」

プランは心の中で呟いた。

彼は「キリング・フィールド」の最前線から未だ解放されていなかったのである。

まもなく、プランが厄介になっていた村が爆撃を受け、彼は家の主人の依頼を受諾して、主人の小さな息子を引き取った。

赤色クメールの攻勢は激しく、その間隙を縫って、プランは村を脱出することに成功したのである。

ジャングルのような鬱蒼とした山間部を超えた辺りで、プランが預かっていた子供が地雷を踏み、あえない最後を遂げた。

彼は悲嘆に暮れる間もなく、少年を火葬した後、今度は単独の脱出行を試みる。

そして遂に、彼が辿り着いた山の高みから俯瞰できた世界は、タイの難民キャンプ場だった。

殺戮の大地から、平和の大地に足を踏み入れた瞬間だった。


キャンプ場で健康回復を図っていたプランの前に、一人のアメリカ人が訪ねて来た。

シャンバーグである。

二人は暫く見詰め合って、その信じ難い再会の感動に浸っていた。

「許してくれ」とシャンバーグ。
「許すことなどない」とプラン。

その表情には、笑みが零れている。

ジョン・レノンの「イマジン」の優しいメロディが、二人の固い抱擁をいつまでも祝福していた。

「1979年10月9日。ディス・プランは米国で家族と再会し、今はニューヨーク・タイムズのカメラマンとして働いている。カンボジアの苦悩は終っていない。難民キャンプは、虐殺の野を逃れて来た子供で溢れている」

これが、映像の最後を括る言葉であった。


*       *       *       *



4  「人間の本質的な脆弱さ」についての学習



本作は、あまりに凄惨な歴史の現実を描きながらも、いかにも、バランス感覚に配慮した識者の視座に嵌ったかのように、小綺麗にまとめ上げた分だけ、却って、未消化な部分を残す作品に仕上がっているように見える。

本作についてケチを付ければ、いくらでも出てくるような類の「問題作」の範疇に収まるものであることを認めつつも、それでも私は本作を評価するのに吝(やぶさ)かではない。

これは社会派ドラマであると同時に、それなりに優れた人間ドラマの一篇であると考えているからだ。

キリング・フィールドにある慰霊塔(ウィキ)
しかしそれ以上に、私が本作を一定程度評価する最大の理由は、「いつか誰かが、それをテーマにして描かなければならなかった映像」の中の一つであると認知するからである。

現代史が刻んだあまりに重苦しい問題を映像作家が果敢に取り上げることで、それについての言及が不可避であるラインの許容域内において、その問題が内包した、「人間の本質的な脆弱さ」について学習することもまた、充分に可能であると思うのだ。

深刻な現代史が抱えたテーマの中に、私たち人間が殆んど恒久的な課題として背負い続ける、厄介な宿痾(しゅくあ)の如きものが張り付いて止まないのである。

本作は、そんな宿痾が分泌する膿の一滴でもあった。



5   異文化を繋ぐ友情



本作のテーマのキーワードは、以下の三点に尽きると私は思う。

一点目は「異文化を繋ぐ友情」であり、二点目は、「状況突破と、それを支えた生への執着」であり、三点目は、「現代史が膨らませた負の遺産」である。

その一つ一つについて言及していく。

まず第一点。「異文化を繋ぐ友情」というテーマである。

恐らく、このテーマこそが、作り手の最も強いモチーフになったと思われる。

映像のファーストシーンとラストシーンが、「出会い」と「再会」の描写によってまとめ上げられているからである。

そしてこの二つの描写、即ち、「起」と「結」を繋ぐ長い描写の間に、「キリング・フィールド」の凄惨な世界が、些か抑制的に映し出されていく。

この抑制的な描写が、却って、映像のバック・グラウンドとなった歴史の現実をリアルに炙り出す効果となっていて、物語の「承」と「転」の部分の重量感を保証したのである。

そしてこの、「承」と「転」の状況描写を、二人の主人公の交叉する感情が複雑に絡み合い、時には縺(もつ)れ、時には重なり合って歓喜する魂の、優しくもシビアな触れ合いの時間が駆け抜けていく。

この映像の一つのクライマックスは、プノンペン陥落を間近にした二人の職業意識の振れ方に関わる描写だった。

記者の使命感によって、取材の継続を選択したシャンバーグに対して、陥落後の険悪な事態の展開が予想される中で、知識人としてのプランは、その態度の決定を迫られていく。

既に家族を米国に脱出させていたプランは、最も信頼する相棒によって選択を迫られた結果、「俺も記者の端くれだ」とその真情を吐露したのである。

プランの決断によって、二人の思いは、そこに僅かに生じていた異文化の隙間を埋めることになった。

元々、仏語と英語を流暢に話せるほどに欧米文化の表層に馴染んでいたプランだったが、それ故にこそ、危険な事態が予想される決定的な局面で、彼は知識人としての歴史的役割を自らの人格のうちに引き受けたのである。

これはシャンバーグとの異文化の溝を、プラン自身が自らの意志によって埋めることで、そこに深い同志的結合にも似た精神文化的繋がりが、殆ど決定的に形成されたことを意味するだろう。

然るに、プランのこの決断がどれほど果敢で、一つの固有の友情の深化を決定付けるものであったとしても、二人の思いの重なり合いとは無縁に、そこに立ちはだかる出自の差が、二人の立場を峻別する状況を招来することになったのである。

プランは仏語や英語を話せても、根っからのカンボジア人であり、しかも赤色クメールの標的にされる危険性の高い職業に従事していたのだ。

そのことを当然、シャンパーグは認知していた。

しかし彼は、その決断をプラン自身に委ねてしまったのだ。

シャンバーグにとっても、プランの存在の大きさを無視できなかったから、彼を米国に脱出させなかったという穿(うが)った見方もできるであろう。

その点をロッコフに非難されても、何も応えられない男がそこにいた。

果たして、シャンバーグは、友情よりも職業的価値の方を優先的に選択したのだろうか。それについては、映像を観る者が判断するしかないだろう。

しかしこれだけは言える。

プランは明らかに、あのとき自己決断したのであり、それについて全く相棒を恨む感情の何ものも存在しなかったということだ。

彼は相棒との友情を明らかに選択したに違いない。

しかしそれ以上に、自らが育った国の行く末について、自分の人格的な能力が許す限り、どこまでも関わっていきたいと考えたか、或いは、それを責務のように感じた思いが、彼の中に存在していたことを無視できないのである。

結果的に、プランは最悪の状況にインボルブされ、生死の危機を何度か彷徨(さまよ)った挙句、幸いにも奇跡的な生還を果たすことになった。

その辺の記述は次のテーマ言及で触れることにして、ここでは省く。ともあれ生還を果たしたプランに待っていたのは、彼が最も信頼し、その思いを深く繋いだ相棒との再会だった。

「許してくれ」
「許すことなどない」

二人の再会に、これ以上の言葉は一切不要だった。

いや、こんな言葉も不要だった。二人にはもう、言葉のキャチボールが一切不要なほど、その思いが自然に溶け合っていたのである。

それは、異文化を超えた繋がりが完結した瞬間だった。

但し、ジョン・レノンの歌は蛇足である。

この重苦しい映像のラストに、「イマジン」を添える作り手の思いは理解できるが、しかし、抑制的な映像で駆け抜けた覚悟があればこそ、「イマジン」という添え物は不要であったと言える。

そこに東南アジアの自然の音響をBGMにして、二人の固い抱擁が、まさに大自然に抱かれた映像の中枢に映し出されれば、それで充分だったのである。



6  状況突破と、それを支えた〈生〉への執着



第二点。「状況突破と、それを支えた〈生〉への執着」というテーマについて。


カンボジアの通訳でもあり、ガイドでもあったディス・プランの状況選択は、彼自身もまた、記者であると認知する者の覚悟の上の選択だった。

その険しい歴史の展開が予想される状況にその身を投げ入れた結果、脱出の機会を逃した末に赤色クメールに捕縛されたという状況へのインボルブもまた、ある意味で最初の状況選択による必然的帰結であると言っていい。

しかし、彼がオンカー指導下の農村で目撃した現実は、明らかに、彼の「革命政権」に対するイメージラインを大きく逸脱するものであったに違いない。

彼はアメリカ大使館経由で、反動分子に対する大虐殺の事態の現出の予想を聞き知っていたにも拘らず、プノンペン陥落の際には、赤色クメールの兵士たちの入城を歓迎する群集の輪の中に、その身を預けていたのである。

彼は自らの立場を、政府軍サイドに立つ記者であると認知していなかったばかりか、寧ろ、米軍の誤爆に抗議する人民サイドに立つジャーナリストであると信じ込んでいたに違いない。

それは事実なのであろうが、しかし、シャンバーグを含む報道関係者のいずれもが、ロン・ノル政権を倒した革命軍の本質的な恐怖を正確に認知できなかったのは事実である。

まさかその革命軍が、プノンペン在住の都市住民を悉く中国文化大革命をなぞるようにして「下放」(農村に送って労働に従事させた政策)させられ、それどころか、知識層の全てが虐殺の標的になるであろうことを、仮に、彼らの最悪のイメージラインのうちに収まっていたとしても、そこに相当のリアリティを随伴する実感とはどこかで切れていたに違いないだろう。

然るに、現実の事態の展開は、このような甘い予測を根柢から覆すものだった。

オンカーのそれほど感情を込めない慈父のような語り口に、次々と識者たちが自ら手を上げて、オンカー指揮下のクメール兵に連行されて行った。

彼らのその後の苛酷な事態を誰も予測できないから、プノンペン在住の教師や医師らの識者たちは、次々に手を上げることを止めなかったのだろう。

彼らが生還し得る現実に猜疑心を抱くプランは、自ら動いて処刑の現場を目撃することになった。

プランは心のどこかで、そのような最悪のイメージを捨てていなかったためか、彼だけは仏語と英語を話せる識者であることを、最初からオンカーにアナウンスしなかったのだろう。

それが正解だったのだが、不運にも彼は処刑の現場を目撃したことでリンチに遭い、大木に縛られた。

不幸中の幸いと言うべきか、クメール兵の中に知人がいたことで、彼が処刑を免れることになった経緯は映像の中で丁寧に語られていた。

だがそれは、単に偶然でしかなかったのだ。

プランはこの偶然を拾った僥倖に満足する余裕すらなく、この苛酷なる状況からの脱出を図るべく行動に繋げていく覚悟を持って、それを断行したのである。

まさに、「状況突破」という映像のもう一つのテーマが、重苦しくも、長々と続く苛烈な描写の中で映し出されていったのである。

プランの脱出行を根柢から支えたものは、一体何だったのか。

一つは、彼の「記者魂」であろう。

彼は米国で待つであろうシャンバーグに呼びかけて、彼との同志的結合のうちにその思いを仮託することで、必死に崩れそうな自我を支えているかのようだった。

しかし彼の脱出行を、その根柢において支えた最大のモチーフは、「生」への強い執着であり、そこから出来した「恐怖突破」に向う感情だったと思われる。そして、その感情を支える自我の拠って立つ安寧の基盤には、ニューヨークに住む彼の家族の存在の重量感が固く張り付いていた。

それ以外に考えられないのだ。

ディス・プランという誠実なる男は、最後まで自我を壊されることなく、奇跡的な生還を果たすに至った。

本作は、この男の存在なしに成立しない映像なのだ。

彼が体験したこの世の地獄の風景は、彼の脱出行を繰り返し映し出していくことによって、観る者の記憶のうちに異様な印象を張り付けていく。

観る者は彼の身体と不安なる内面世界に侵入することで、この歴史の現実を追体験することになるのだ。

当然ながら、映像は、決してオンカーの視界から状況を描くことをしない。

赤色クメールの集団は、最後まで不気味な狂信徒たちの王国のイメージで描き出し、それはまるで「地獄の黙示録」のカーツの王国を髣髴(ほうふつ)させる異界でしかなかった。

その辺の言及は後述するとして、ここではディス・プランの「状況突破と、それを支えた生への執着」というテーマである。

ローランド・ジョフィ監督
それについては前述した通りだが、それほど確信的な知識人ではなかったようなプランの果敢な行動の源泉は、ひたすら家族や相棒との再会への強い思いであったに違いない。

人間は常に確実な親愛対象への思いを、その存在を確信し得る不在感のうちに、より良好なイメージラインを繰り返しなぞっていく、己の自我の営為を捨てない限り簡単には壊れないし、また、そこそこの免疫力を作り上げる能力すらも発現し得るということなのである。

だからと言って、人間の自我の堅固さを安直に信じ込んではならないだろう。

それについては、次のテーマ言及で触れていく。



7  現代史が膨らませた負の遺産



第三点。「現代史が膨らませた負の遺産」について。


カンボジア発の「キリング・フィールド」(殺戮の野)は、現代史が生んだ最悪なる負の遺産の一つである。

それは僅か4、5年という短い時間の中で、あろうことか、自国民に対する大量殺戮の蛮行を、まさに自国の歴史にどす黒く刻んでしまったのである。

そしてそれが単に、カンボジアという、東南アジアの一国内で自己完結に至った問題ではない所にこそ、このジェノサイドの根の深さが窺えるのだ。

文革・ブログ・「Red Fox」より拝借
古くは、トルコのアルメニア人虐殺(注5)に始まって、ナチスドイツのホロコーストや、スターリンの大粛清(注6)、更には中国文化大革命という名の国家的規模の粛清と抑圧の嵐、中国のチベット人虐殺(注7)、近年の例で言えば、ルアンダでの大虐殺(注8)等々、その「虐殺」の歴史的事例は枚挙に暇(いとま)がないほどだ。


(注5)19世紀末のオスマントルコ帝国下と、第一次大戦中の青年トルコ党政権下での二度にわたるアルメニア人虐殺のことで、そこには、辺境地に住む異教徒へのムスリムによる宗教的、民族的弾圧の様相が濃厚であった。しかし、トルコ政府はこの虐殺の事実を認めていない。

(注6)1934年のキーロフ暗殺に端を発した、スターリンの政敵と目された者や、反動分子とされた多くのかつてのボルシェビキの同志たちを含む、およそその犠牲者の累計が2千万人とも言われる大粛清事件。1938年頃まで続いたという。

(注7)1949年、中国革命が成功し、その翌年には中国人民解放軍がチベット侵攻。それ以降中国はチベットに対して、90%以上の仏教寺院を破壊し、仏教経典及び仏像に至るまで、チベットの「心」の中枢を解体するという蛮行を繰り返し、その社会の基盤すらも破壊するに及んだ。この蛮行に対して、チベット人民は1959年に大規模な暴動を起すが、中国軍によって徹底的に弾圧され、虐殺を含む人権抑圧の歴史は、基本的には「民族浄化」であり、この一連の歴史過程を中国政府は一貫して「国内問題」との強弁に終始。1950年から80年にかけて、100万人を超えるチベット人の不自然な死が出来したという報告もある。

(注8)1994年、フツ族とツチ族の部族間の紛争が政治絡みで、大虐殺事件に発展した。現代アフリカの問題を露呈した事件で、その背景に旧宗主国であったベルギーが、元々部族間の対立を煽ったという歴史的事情があった。現在もなお、部族間で様々な遺恨が消失されず、その事件の根深さを物語る。また、ベルギーから分離独立したブルンジでの内戦も、ルアンダ内の部族紛争の基本ラインと変わらない。                                                 


以上の例は、必ずしも自国民の虐殺という範疇に収まらないが、私がここで言及したいのは、それらの蛮行の根源にある問題は、私たち人間がその内部に抱えた、「過剰反応と、抑制能力の欠如」という宿痾(しゅくあ)のような問題であるということだ。

私たち人間は、本能によって定型的な活動が決定的に不足している分だけ、それを補填するものとして「自我」という戦略的な能力を作り出してしまった。そ

れを作らなければ、「人間」に進化できなかったのだ。

逆に言えば、人間に進化する駆動力こそ、自我という決定的な能力であった。それは、大脳を肥大させた人間の必然的帰結だったと言えるだろう。

自我とは大脳であり、もっと正確に言えば、大脳新皮質にある前頭前野という部位こそ、自我の正体であると私は考えている。

映像から
自我は、人間が生きていくための生存と社会的適応の戦略的基盤である。

だから人間は、自我なしでは生きていけないのだ。

それは現実原則(損得の原理)によって、人間を抑制的に駆動させていくものだが、そこに理想原則(善悪の原理)という極めて厄介な心情ラインが、しばしば濃密に絡んでくることで現実原則の範疇を逸脱し、思いもかけない過剰な感情、行動傾向を形成するに至るのである。

自我は良心の砦でもあるが、それが現実原則と乖離して、そこに過剰な感情傾向、例えば偏見とか極端な原理主義的な観念などに捕縛され、マインドセットされてしまうと、本来抑制的に機能し得るはずの自我機能が鈍磨してしまうのだ。

これが、最も厄介な問題なのである。

それは煎じ詰めれば、私たちの自我機能が万能でも磐石でもなく、その能力を超えた様々に複雑で艱難(かんなん)な事態に捉われてしまうと、その本来的な脆弱さを無残なまでに晒してしまうのである。

だからこそ、その脆弱なる自我を少しでも堅固にしていくための作業が求められるのだ。それが乳幼児期以降の「教育」なるものの本質と言っていい。

残念ながら自我を作るのは親であるから、その親の人格能力の差が、その血脈を繋ぐ次の世代の自我の形を決めてしまうという問題があるということだ。これは余談だった。

ともあれ、私たちの自我が本来的に脆弱であるという心理学的問題の最大テーマを、まず私たちは認知せねばならない。

そんな自我に未知のゾーンから、理想的な夢物語の誘(いざな)いが絡み付いてきたとき、しばしば人間はその理想ゆえに人を殺め、殆んど問題なく機能していたシステムを解体し、それに代わって「王国」を作り上げることをも厭わないのだ。

「あいつは敵だ。敵は殺せ。殺せば、私たちの人類の真の平和と幸福を作り上げることができる」

トゥール・スレン虐殺博物館で
こんなシンプルで乱暴な議論は、しばしば理想主義者の黄金律になってしまうのである。

そのとき、人間の自我機能は殆んど麻痺して不全の状態にある。自我を支配する巨大な感情傾向が、自我もどきの特定的な羅針盤によって、既に人間の行動様態を固め上げてしまっていると言っていいのかも知れない。

しかし広い意味で、それもまた自我の歪んだ様態という把握のうちに可能なのである。私たちはそんなとき、しばしば適正覚醒水準の許容域を逸脱して過剰反応になり、たいてい必要条件としての自己統御能力を鈍磨させてしまうのだ。過剰反応と自己統御能力の欠如は、時としてとんでもない世界に私たちを誘(いざな)ってしまうのである。

そんな例の一つに、「箱庭」の王国の現出がある。

多くの場合、理想主義者の作り出した王国は、その理想の文脈が現実と遊離していればいるほど、尖った文脈に現実を合わせて行こうとする傾向が現出して、そこに形成された落差を権力的に処理していく政治のおぞましい実態が露呈することになる。

既にそこでは、統治者の自我から現実原則のルールが削られてしまっているのである。

そこに作られた王国は、巨大なる「箱庭」であり、その「箱庭」に君臨する者こそ、「箱庭の帝王」である。そして、この「箱庭」から日常的に分娩する「箱庭の恐怖」の中で、人々は次第に王国が要求する呼吸の律動に合わせていくから、王国はその外側の世界にどれほど爛れた現実を晒してもなお、内部の異様なる圧倒的な規範の体系は保証されてしまうのである。

クメール・ルージュの最高指導者であるポル・ポト(本名サルト・サル)が作り出した世界は、まさに巨大なる「箱庭」の王国だった。

ポル・ポト
ポル・ポトはカンボジアという巨大なフィールドで、原始共産制のユートピア的復元を思わせるような王国を、紛れもなく現代社会の只中に作り出してしまったのである。

あろうことか、毛沢東主義の強い影響下にあったポル・ポトは、「プノンペン解放」の後、首都に在住する住人を農村地区に強制移住させ、オンカー指導下でその日常性を管理掌握することで、農作業と無縁な生活を送ってきた者たちの「ブルジョア性」を剥奪する最終手段として、処刑による抹殺を常態化してしまったのだ。

肥沃なる国土は瞬く間に「キリング・フィールド」と化し、その数は300万とも、それ以上とも言われているが、「死者に口なし」の諺にあるように、ポルポト法廷が遅々として開かれることのない状況下にあって、その様態はトゥールスレン博物館の負の遺産と生還者の体験的告白に頼る外ない現実である。

因みに、生還者の凄惨な体験談によると、本作で描かれた「地獄」は「殺戮の野」の現実にすら届いていないそうだ。

ともあれ、私たちはこのような歴史と地続きな世界の中で、それぞれの呼吸を繋いでいるということ。

いや寧ろ、それは大量破壊兵器を作り出した軍事科学の飛躍的な進化を遂げた現代史の只中でこそ、圧倒的に現出した事態であるとも言える。

トゥール・スレン虐殺博物館(ウィキ)
勿論、「キリング・フィールド」の場合は、大量破壊兵器の使用による虐殺でないだけに、却って、そこで現出した事態のあまりのおぞましさが際立ってしまうのである。

人間は限りなく愚かになり得るという、まさにその典型が「キリング・フィールド」の世界であったとも言えるのだ。

だからそれは、一定の極限的な理念系によって多くの者たちの思いを簡単に束ねて、そこに軍事的基盤を設(しつら)えておけば、「個と全体」という関係様式の中で絶対的に脆弱なる自我の表現様態は、「全体」の枠組みのうちに完膚なきまでに収斂されてしまうことを意味するだろう。

このような、「イデオロギー」と称される近代文化の産物が、現代に至っても、より強固に人々の自我を束ね上げていく力学的作用を及ぼして、いわゆる「全体主義思想」と呼ばれる負の遺産を、まさに現代史において決定的に膨らませてしまったのである。

だから「キリング・フィールド」の問題は、現代の北朝鮮の統治様態を例にとるまでもなく、「今、この世界での、由々しき事態」のカテゴリーに含まれる問題であって、決して古典的な歴史の遺物ではないということだ。

トゥール・スレン虐殺博物館で
逆に言えば、それだけ最高の政治制度であると思われる民主主義の人類史的普及が、切に求められると言えようか。

但しそれは、国民国家を構成するその国の国民が、自らの手で苦労して作り上げたものであることが理想であるに違いない。

それ故に艱難な作業であるということだ。

そして、もう一つ。

そのような政治制度を長い時間をかけて作り上げていかねばならないほど、私たち人間の本来的な愚昧さについてシビアに認知すること。

それが最も緊要な自己把握であるに相違ないからである。



8  「闇の王国の恐怖」の欠落



最後に、映像に対する不満を一言。


私が本稿において、第三のテーマとした、「現代史が膨らませた負の遺産」という問題意識が、作り手の中で極めて稀薄に見えたのである。

その表現も些か表層的な描写に終始していて、残念ながら本作では、「キリング・フィールド」の本質に肉薄する映像的達成には至らなかったように思われる。

赤色クメールに捕縛されるディス・プランの脱出行の描写に重点が置かれてしまっていて、その背後にある「闇の王国の恐怖」を充分に描き切れていなかった。

それは本作が、「異文化を繋ぐ友情」のテーマを描くことに力点を置いたためと考えられる。

そのテーマ性の描写から受ける感動は決して薄っぺらなものではなかったが、しかしこのような重苦しい歴史的事実をテーマのうちに取り上げる以上、やはり相当の表現者としての覚悟を括った上で望んで欲しかったのである。

東南アジアの政変の背後で不気味に動いた大国の歴史的相関関係についても、本作ではそれなりに言及していたが、しかしその表現もまた、リベラリストのバランス感覚のうちに収斂される何かでしかなかったように思われたのである。

それでも本作の存在価値を、私は全く否定しない。

それどころか、この作品を通して現代史の奥深い闇の世界に観る者を誘(いざな)っていく効果については、決してプロパガンダ性の枠内に収まるものではないと考えるからである。


【余稿1】

ここに、一冊の手記がある。

そのタイトルは、「キリング・フィールドからの生還」(吉岡晶子訳 光文社刊)。

そしてその著者の名は、ハイン・ニョル。

彼こそ、「キリング・フィールド」という映像の「主役」を演じたディス・プラン役の俳優である。生粋のカンボジア人である。

その彼が自ら体験した「キリング・フィールド」の実態について、その口述筆記で綴られた手記の中で、リアルに報告している一文がある。

それは、ハイン・ニョルがシャンバーグの手記をベースにした脚本(ブルース・ロビンソン)を読んだときの感想から始まっている。

それを、ここで引用してみる。 

「脚本を読んでみて驚いた。ディット・プラン(映画ではディス・プラン)は私そのものだ。といっても、まったく同じ体験をしてきたというわけではない。プランはジャーナリストであり、私は医者だった。彼は西洋人のもとで働き、私はカンボジア人の中で仕事をしていた。彼の妻子はプノンペン陥落前にヘリコプターで脱出したが、私の家族や妻フォイはカンボジアにとどまった。農村に追いやられてから、プランもクメール・ルージュに痛めつけられるが、私のように投獄されたり、ひどい拷問を受けることはなかった。だが、そうした相違点よりも類似点のほうがはるかに重要である。私が彼であり、彼が私だというのは、二人とも同じ年ごろのカンボジア人であり、内戦、革命、外国軍の侵略、ついには難民キャンプに逃れアメリカへ渡るという、同じような恐ろしい出来事に翻弄されてきたからだ。クメール・ルージュの時代を生き延びてきたことは私たちの一生で最も重大な事実であり、アイデンティティの核心をなしている。それに、二人ともあの時代をよくぞ生き延びてこられたというのが実感である」(同著より)

以上の手記の一文によって、本作の基本ラインが理解できるであろう。

本作で描かれた現実は、実態よりもまだまだ抑制的だったということだ。

因みに、ハイン・ニョルは本作への出演によってアカデミー助演男優賞を獲得し、後に三人の黒人による強盗にあって射殺されたという数奇な運命を駆け抜けた人物だった。

当時、彼の死がポル・ポト派の残党による仕業であるという説があったが、その真相は、今では単にコカイン目当ての強盗事件であったとされている。

しかし、まるでそれは、本作の続編の括りでもあるかのような、彼の固有なる曲線的な人生だったと言えようか。

享年56歳の、あまりに劇的な人生だった。合掌。


【余稿2】

本稿を締め括るのに、最も相応しくない演説原稿をここに引用する。

それは「ポル・ポト政権の児童に向けた指令文書」とされているものだ。

インターネットのサイトから拾ったもので、残念ながらその検証をしていないが、ポル・ポト政権の内実を端的に表明したものとして興味深いので、引用させて頂く。

「我々は独自の世界を建設している。新しい理想郷を建設するのである。したがって、伝統的な形をとる学校も病院もいらない。貨幣もいらない。たとえ親であっても、社会の毒と思えば微笑んで殺せ。今住んでいるのは、新しい故郷なのである。我々はこれより過去を切り捨てる。泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。」(アスパラZ HP「琴線に触れる演説・台詞集」より)

以上のスピーチは、まさに本作の主人公であるディス・プランが、オンカーによって叩き込まれた訓示に重なるものであった。

全国民を農民にしようとしたかのような極端な農本主義を、二十世紀の現代に出現した社会変革の悲惨な結末は、殆んど約束された、「理想主義の必然的末路」と言っていい。

クメール・ルージュ裁判・ブログより
人間はここまで愚かになり得るのだ。

そしてその愚かさにインボルブされた人々の機能不全の自我は、更に愚かさを増幅させていった挙句、最も見えやすい残酷の極限的な専制支配の様態を晒すに至るであろう。

「理想」を「主義」として、それを政治的支配の内に具現化されたときの恐怖を、ここまで典型的に検証し得る歴史的事例がかつてあっただろうか。慄然とする思いである。

各個人の内面世界で程ほどに陶酔し、程々に赤面して、それでもなお捨てられない余情を、芸術表現などを通じて、自分の気が済むまで確信的な態度を崩さずに、そしてしばしば声高に叫んでいればそれでいい。

それが、内なる「理想」を上手に浄化する一つの知恵の自己処理の方法でもあるだろう。

成熟した自我とは、現実から遊離した「理想」の気分の酩酊を、自覚的に浄化し得る能力であると言っていい。

少なくとも、私はそう考えている。

正直に書けば、そしてそんな文脈上の帰結が、「キリング・フィールド」という歴史的事実から、私が再確認した唯一の了解事項だったということである。

(2006年10月)

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