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2011年1月11日火曜日

ドレッサー('83)     ピーター・イエーツ


<「宮廷道化師」としてのアイデンティティと誇りを賭けて>



1  「宮廷道化師」としてのアイデンティティと誇りを賭けて



本作は、第2次大戦下のドイツ軍の空襲の中で、有数のシェイクスピア劇団の老座長であり、自己中の名優である男に一貫して仕え、件の名優にとって唯一の「前線」である絢爛たるステージにおいて、名優に100%のパフォーマンスを表現してもらうために影となって努めた「道化師」の、そのアイデンティティと誇りを巡る闘いの物語である。

サーの称号が与えられているほどの名優(以降、“サー”と呼称)に仕えた男の名は、ノーマン。

「ドレッサー」(衣裳係を兼ねた、何でも屋の付き人)と呼ばれる、一級の「道化師」である。

“サー”を劇団の「権力」の象徴とすれば、この「ドレッサー」は、「権力者」の主人を楽しませる役割を担っていた「宮廷道化師」と言っていい。

然るに、「宮廷道化師」は、仕えた主人に直言し得る唯一の存在でもあったのだ。

そんな男の、「権力」との闘いがピークアウトに達したのは、既に200回を超える「リア王」公演のステージであった。

ところが、それが具現される予定の、ブラッドフォード公演のステージが開かれる只中に、ドイツ軍の空襲爆撃が出来し、事態は一転する。

空襲の難に遭ったブラッドフォード公演で、“サー”は、恐怖感のあまり異常な精神不安に捕捉され、ノーマンは“サー”を病院に送るが、「リア王」上演の使命感の故に、“サー”は病院を抜け出して公演実施への意志を示すものの、明らかに“サー”の腰は引けていた。

現在のブラッドフォードウィキ)
ドイツ軍の爆撃が始まるや、空襲警報の発令が続くのだ。

そんな渦中で、「リア王」の公演の幕が開かれた。

「我々は予定通り芝居を上演しますが、生き残りたい方は、なるべく静かにご退場ください」

イギリス全土がドイツ軍の空襲を蒙る中、ノーマンの口上で、「リア王」の幕が上がった。

しかし、空襲によって精神不安が沸点に達した“サー”は、肝心の舞台での登場場面に出られないのだ。

ノーマンたちは、必死に“サー”を舞台に出そうとするが、「リア王」の体が動かないのである。

観客席から大きな拍手が起こっても、自分のペースを保持できないと立ちどころに弱気になる、この厄介な「権力者」は、腰が抜けてしまったように立ち上がれない。

“王のお出ましだ”

ストラトフォードにあるロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(イメージ画像・ウィキ)
既に舞台に出ている役者たちは、アドリブを効かせて、何とか時間稼ぎをする。

それでも動けない“サー”。

この重大な「前線」での局面で、“サー”を蔑視する個性的な役者のオクセンビーが、必死にアドリブで繋いで、なおも時間稼ぎを延長させている。

“王だと思ったら、私の見間違いだった。よろしければ、私が王の傍に行って、様子を見てまいります”

そんなアドリブを「前線」に捨てるや、オクセンビーは舞台裏にやって来て、「早く出てくれ!」と一喝する。

追い詰められた挙句、ようやく「前線」に踏み込もうとしたとき、空襲の音が劇場に轟いて、途端にへたれ込んでしまう“サー”。

彼はもう、シェイクスピア劇団の座長という名の、全き「権力者」の誇りすら失っていた。

「戦って下さい!」

ノーマンに押されるようにして、“サー”は舞台に出た。

舞台という唯一の「前線」に出たサーは、200回以上も公演を熟(こな)してきた経験の力量で、かつてそうであったようなシェイクスピア劇の名優の表現力をもって、「リア王」を演じ切っていったのである。

それは、「宮廷道化師」としてのノーマンの、アイデンティティと誇りを賭けた闘いのピークアウトでもあった。




2  時には絢爛に、時には激越に、舞台という眩い「前線」を駆け抜ける「権力者」



「リア王」の有名な嵐の場面。

ノーマンのアイデンティティと誇りを賭けた闘いの「前線」は、舞台裏で苛烈に展開されていく。

「もっと激しく!」

女性舞台監督のマッジの指示で、舞台裏のノーマンたちは、嵐の効果音を出すために、すっかり疲弊し切るまで頑張り通すのだ。

打楽器を必死に叩くノーマン。

それでも嵐の効果音が弱く、出番を終えたオクセンビーが応援に駆けつけ、自らも協力して嵐の効果音を出す裏方に徹するのだ。

“サー”を蔑視しつつも、舞台役者としての矜持が、「前線」を成功に導くための努力を惜しまないのである。

まもなく、「独り芝居」を終えた「リア王」が舞台裏に戻って来て、不満を爆発させる。

「滝となり、竜巻となる嵐だぞ!それがチョロチョロ。そよそよ。樫の木を二つ裂く雷鳴と言ったのに!お前たちの雷鳴は、蝿の屁だ!私は嵐だ!」

まるで先程の弱気が嘘のように、「火の玉」と化して興奮し切った男の熱演の情動が、男に「狂気のリア王」を延長させるのだ。

それでもノーマンは、座長の熱演を褒め称(そや)し、機嫌を取ることを忘れない。

ノーマンと“サー”
「ノーマン、ここにいてくれ。独りにしないでくれ」

本音を漏らす“サー”。

ノーマンなしに座長という「権力」を維持できない、老化衰弱した男の脆弱さが透けて見える。

その限界を密かに感受しつつも、ワンマン座長という、今ではすっかり等身大のレベルを超えた役柄を押し通すには、今まで以上に、ノーマンのような「宮廷道化師」の存在なしに表現できない困難さを抱える男が、そこにいる。

老化衰弱という不可避な矛盾を抱えながらも、リア王を演じ切る男の〈生〉は、まるで「狂気のリア王」の域にまで達しなければならない宿命を負って、体全身で十字架を担ぐ老いた名優の芝居道が、時には絢爛に、時には激越に、舞台という眩い「前線」を駆け抜けていくのだ。



3  無力なる「宮廷道化師」の叫びと嗚咽



「狂気のリア王」を熱演した男に迫る、老化衰弱の危機。

「疲れた。嵐はいつ収まるのだ・・・」

“サー”の嘆息が目立ってきた。

リア王を演じた絵画(イメージ画像・ウィキ)
“サー”と呼称させる男は、自らに忍び寄る死期を感じ取ったのか、出版予定の自著のタイトルに“わが生涯”という名をつけた。

“わが生涯”への献辞を、ノーマンに読んでもらう。

“この本を、以下の人々に捧げる”

ノーマンは、思いを込めて、献辞に書かれている者の名を読んでいく。

しかし、幾ら読んでも、そこに自分の名前がない。

今度は、ノーマンの嘆息。

失意が広がった。

その思いを、傍らの“サー”にぶつけようとして、視線を向けたら、そこに笑みを湛えるかのような“サー”の死顔があった。

驚愕するノーマンは、完全に理性を失っていた。

「一体、僕はどうなる?」

深い酩酊の中で、乱れた心の感情を吐露する男。

マージに向かって叫ぶ男。

「他所(よそ)では生きていけない。田舎町の下宿の管理人にでもなれと言うの?どうすればいい!」

叫びながら、身体を揺らすのだ。

更に、献辞の問題で無視された“サー”に向かって、ノーマンは叫ぶのだ。

「祭壇に小便をかけてやる!食事にさえ、ただの一度も誘われなかった。いつも後ろに追いやられていた。酒一杯奢らない。頭にあるのは自分のことだけ。僕はバカだった」

既に遺体となった「権力者」に向かって叫ぶ、無力なる「宮廷道化師」。

この罵倒に嫌気が差したマージが去っていく。

“サー”以外の誰もいない部屋で、彼はなおも吐き出していく。

「彼のことで言えるのは唯一つ。でも、誰にも教えない。悲しいのはあんただけじゃない。弱い者ほど悲しみは大きい。僕はどうなのよ。ここは死がくる場所じゃない。たった一人の友達が・・・“サー”・・・」

最後には、ノーマンの叫びは小さな嗚咽になり、遺体の上に自分の身を乗せていった。



4  拠って立つ安寧の基盤を喪失した者の深い悲哀



ノーマンが“サー” から献辞の問題で無視されたのは、何よりもノーマン自身が「宮廷道化師」だからである。

思うに、人間にとって賛辞の対象になるのは、相手を客観化し得る程度の距離感が存在するからなのだ。

「宮廷道化師」には距離感が存在しないのだ。

「宮廷道化師」は、どこまでも、「権力者」である対象人格の能力の発現を補完するに足る、限定人格の存在価値しか持ち得ないのである。

「宮廷道化師」は、「権力者」である対象人格によって相対化された、「宮廷道化師」としての、限定的な役割のうちにしか存在し得ないのだ。

座長の全てを理解し、その能力のの発現を補完するに足る仕事を遂行してきたノーマンにとって、時には他者との外交の一切を仕切ったり、時には「分身」の役割を果たしたりすることで、自らもまた、ステージで演じ切る「リア王」の役柄の一端を担うという誇りを享受していたのである。

以下のノーマンの言葉は、痛々しいまでに、その心情を吐露させるものだった。 

「ここには素晴らしい美がある。ここはいつも春。苦しみも苦しみではない。孤独でもない。あなたと共にここで血を流す。でも、生きがいを求めている。誰も知らないけれど、僕なりに求めている。虫けらでも自分を捨ててはいない」

これは、“サー”に愚痴を零されたときのノーマンのアピール。

ピーター・イエーツ監督
それは「宮廷道化師」であったとしても、その「宮廷道化師」が命を宿す虫けらの生命の価値を自己表現する 何かだった。

しかし、この献辞の問題は、単に「宮廷道化師」のプライドの問題に収斂されるものだろう。

ところが、彼にとって、それよりも遥かに深刻な問題が惹起されたのである。

ベッドに横になって静かに眠っていくような“サー”の死は、あってはならない事態であった。

この事態に直面したノーマンは、自我アイデンティティの危機に晒されたのである。

「一体、僕はどうなる?」というノーマンの叫びは、単に「宮廷道化師」としてのプライドの問題を超えて、己が自我の拠って立つ安寧の基盤を、一瞬にして喪失した者の深い悲哀を表現する何かだった。

ノーマンの叫びが小さな嗚咽になり、やがて自らの身体を、遺体でしかない“サー”の無機的な存在体に乗せていくラストシーンの哀切は、観る者の情感に深々と訴えていく括りとなっていった所以である。

紛れもなく、本作は一級の名画と呼ぶべき一篇だった。

(2011年1月)

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