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    1 日前

2011年1月6日木曜日

雨あがる('99)      小泉堯史



<「貧者」=「救済されるべき弱者」という、「スーパーマン」映画のファンタジームービー>



1  時として鬱々とした気分を拾い上げた心象風景の描写



「後味の良さ」を平均的に保証する、毒気ゼロの典型的な文部科学省選定映画。

それでも本作は、落ちついた完成形の構図による安定感が、観る者に丁寧な映画作りの印象を与えた佳作と言っていい。

「武芸の達人だが職につけない武士、三沢伊兵衛とその妻たよ。妻は、人を押しのけず人々に希望を与える夫の生き方が立派だと考えているが、職のない伊兵衛は日々妻に申し訳なく思っている。旅の途中、折からの豪雨が夫婦を宿場町に足止めさせる。やがてその雨があがる頃、城主に腕を認められた伊兵衛に、藩の剣術指南番に招かれるが……。現代に失われつつある“優しさ”を見事に表現した、心が晴れ晴れとする温かい感動作」(発売元角川書店 アスミック・エース エンターテイメント株式会社 ビデオジャケット解説より)

これが、本作の骨子だが、「現代に失われつつある“優しさ”を見事に表現した、心が晴れ晴れとする温かい感動作」という看過し難い物言いには、またしても、「やれやれ」という気分にさせられたので、本稿の最後に後述する。

何より、この国に特有の梅雨どきの「風景美」を映し出したという一点に限定すれば、映像は文句のつけようがないほど素晴らしかった。

長雨のシーンによって開かれる映画の清澄だが、どこか暗鬱な空気感は、それを特定的に選択したような浪人生活の延長上に形成された、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環によって成る、「日常性のサイクル」(私の仮説)に流れ込めない「非日常」の心象風景のうちに、時として、鬱々とした気分を噴き上げる主人公の内面を巧みに拾い上げていた。

そして、主人公の立ち居振舞いの美しさを表現し切った俳優の技巧を、自然に紡ぎ出す演出も悪くない。

何より、「無外流」(江戸時代に辻月丹によって開かれた剣術の流派で、本作で仲代達也が辻月丹を演じる)の剣術を特訓した俳優のプロ根性は、プロとして当然であるだろう。

本作を評価する点があるとすれば、以上の二点に留まるだろう。

正直言って、それ以外は、辛口の批評でまとめるしかないというのが、私の率直な感懐である。

ともあれ、本作の主人公は、極めて「優しい男」である。

何せ、浪人とは言え、武士でありながら、貧しい庶民のストレスを解消するために、「武士の威厳」を損なうような、賭け試合まで行う優しさを持つ男である。

そんな男を主人公にした本作の、基幹メッセージを支えると思われる「決め台詞」があるので、それについて言及するのが本稿の第1のテーマである。

以下、言及していく。



2  「椿三十郎」」からワイルド性を脱色させた「現代のスーパーマン」像



本作の基幹メッセージを支えると思われる「決め台詞」の一つ目は、以下の言葉。

「刀は人を斬るものではない。バカな自分を、いや、自分のバカな心を斬り捨てるために使うものです」

背景を説明すると、主人公の伊兵衛は、偶然、侍同士の果たし合いに遭遇して、自らその突沸(とっぷつ)した状況に身を投げ入れていく。

これは、そのときの「決め台詞」である。

思えば、江戸時代も享保期となれば、武士が戦場で命を賭けて戦うという事態は発生しなくなる。

要するに、人を斬る道具としての刀を持つ「武士」の存在は不要になったということだ。

しかし、戦場で戦うことなく、非生産階級としての「武士」という存在を堅持するためには、それを証明する物理的アイデンティティが必要となる。

それは、「武士」の「誇り」を表現するものでなければならない。

「武士」の「誇り」を表現するものとして特化された物理的アイデンティティの一つが、2本の刀を腰に差す帯刀である。

それは、支配階層としての「武士」のの証であったのだ。

時の幕府は、「武士」のみに帯刀を許可したのである。

だからと言って、刀の存在価値は、「いざ鎌倉」の際に駆けつけていく「武士」たちの、それ以外にない武器であることには変りはない。

当世具足を身に着けた侍(ウィキ)
従って、刀はどこまでも、「人を斬る」道具としての存在価値を失わないのである。

それ故、刀の存在価値が、「自分のバカな心を斬り捨てるために使うもの」という信念は、形而上学以外の何ものでもないという訳だ。

この「決め台詞」は、苗字帯刀が許可されていたという一点においてのみ、武士としての認知を得ていたに過ぎない一介の浪人である、主人公の伊兵衛の形而上学的信条の吐露でしかないのだ(注)。

本作の主人公は、自らの信条を、まさに「前線」での戦闘中の渦中に投げ入れたのである。

その描写に着目するだけで、主人公の伊兵衛が、「前線」での戦闘中の興奮状態にある侍たちに対して、形而上学的信条を投げ入れる行為の無意味さが読み取れるのだ。

この行為を見るだけでも、本作の主人公が、自分の信念を他者に押し付けるタイプの、喰えない男でであることが判然とするだろう。

正直、こんな意地悪な見方も可能にする「決め台詞」だったのである。

―― 「決め台詞」の二つ目は、以下の会話の中の言葉。

「勝った者の優しい言葉は、負けた者の心を傷つける。何だかからかわれているような気がして、腹が立つ!」
「本当にお強い方は、どんなに善良に生まれついても、誰かしらの恨みを買ってしまうでしょうに…」

御前試合①
伊兵衛の腕と人柄に惚れた城主が、藩の剣術指南番に招く際の御前試合でのこと。

伊兵衛の相手になった城主が池に落とされた際、伊兵衛から「つい、本気になって」と言われ、あろうことか、殿様である城主は一介の浪人に同情を寄せられたのである。

伊兵衛は、それ以前の御前試合でも、腕達者な相手の家臣に対して、「すいません。大丈夫ですか。手は痛くありませんか?」などと、労わるような言葉を洩らしていたのである。

この会話は、恥をかかされた城主と、その妻の言葉の遣り取りの一部である。

この「決め台詞」は悪くない。

人間の心理を的確に言い当てているからだ。

当の城主は、本質を衝いたこの正妻の言葉が、伊兵衛の仕官がしくじる原因であることを知るのである。

御前試合②
要するに、伊兵衛という名の「スーパーマン」が、階級の相違から庶民の尊敬を得ても、立場を最近接する同階級の恨みを買ってしまうことを説明するシークエンスになっているのだ。

何のことはない。

作り手自らが、黒澤流の暑苦しさを希釈させつつ、本作が「スーパーマン」映画であることを認知しているのだ。

観る者は、これを「優しい気持ちにしてくれる温かな映画」という風に受容することを前提に、不満を噴き上げる夜鷹の女のストレスをも吸収するシーンに象徴されるように、江戸庶民を「救済」対象の弱者としか描けない、相も変わらぬ類形的な庶民像に囲繞されられながら、「椿三十郎」、「用心棒」からワイルド性を脱色させたら、「優しさに飢える現代人」に睦み合うような、かくも温和で、柔らかで、爽やかな印象を決定付ける「現代のスーパーマン」像が立ち上げられたのである。

それだけの映画だった。


(注)江戸時代の侠客には、一本刀や匕首(あいくち)しか認可されていなかった事実と比較すれば瞭然とするだろう。



3  「貧者」=「救済されるべき弱者」という、「スーパーマン」映画のファンタジームービー



「決め台詞」の三つ目は、以下の言葉。

「大切なことは、主人が何をしたかではなくり、何のためにしたかということではございませんか」

伊兵衛の妻が、賭試合をしたことを理由に、伊兵衛の仕官が取り消しになった報告を藩家老から受けた際に、凛として放った言葉である。

「善きサマリア人の法」(善意の行動に基づくなら、結果責任を問わない)ではないが、動機が純粋ならば全て許されるという、日本人が好んで止まない「純粋動機論」に流れ込んでいったのである。

詰まる所、「スーパーマン」の妻もまた、「スーパーマン」を支えるもう一人の、「善き妻」という名の「スーパーマン」だったのだ。

それは、「夫唱婦随」という狭い概念枠を超え、「妻のスーパーマン」が「夫のスーパーマン」を補完することで、真に1つの「スーパーマン」像を形作るという、まさに典型的な文部省推薦の「現代のスーパーマン」像であった。

以下、それを検証する「妻のスーパーマン」のモノローグ。

ラストシーンである。

「これだけ立派な腕を持ちながら、花を咲かせることができない、何という妙な巡り合わせでしょう。でも私、このままでようございます。人を押しのけず、人の席を奪わず、機会さえあれば、貧しいけれど真実な方たちに喜びや望みをお与えなさる。このままのあなたも立派ですもの」

何という厭味で、傲慢な物言いなのだろう。

「貧しいけれど真実な方たち」とは、一体何なのか。

「貧者」=「弱者」=「真実な者」という、「スーパーマン」映画の類型的なカテゴリーに収斂されていく何かであることは間違いない。

「お与えなさる」とは、一体何なのか。

それもまた、「貧者」=「救済されるべき弱者」という、「スーパーマン」映画に収斂されていく、定番的な文脈以外ではないのである。

要するに、本作は、「貧者」の「救済」を趣味にする、「スーパーマン夫婦」の存在価値が、周囲の「貧しいけれど真実な方たち」の存在によってのみ検証される、一篇のファンタジームービーなのだ。



4  「現代に失われつつある“優しさ”を見事に表現した、心が晴れ晴れとする温かい感動作」という独善性



本稿の第2のテーマは、前述したように、「現代に失われつつある“優しさ”を見事に表現した、心が晴れ晴れとする温かい感動作」という物言いについて。

以下、簡潔に原理的な言及をしてみたい。

元来、「お互い様」という名の、一種のセーフティーネットが成立していた社会では、共同体の規範の枠内である限り、多少の羽目を外したり、その結果迷惑を及ぼしたり、更には、隣人に「お節介」を焼いたりすることも、全ては許容される社会だった。

そこに生まれる「甘え」の感情は、上手に迷惑をかけ合うスキルを学ぶことが「相身互い」の精神のうちに吸収され、「通過儀礼」として認知されるという黙契が成り立つことことで、共同体の基本ルールを大きく逸脱しない限りにおいて包括的に受容される何かだった。

しかし、この濃密な人間関係による共同体社会が、都市という「お伽話」の人工空間の中に雲散霧消されてしまった。

人々が他者の隣人の「お節介」を焼いたり、隣家にズカズカと上がり込んで来たりする、件の者たちとの交流が堂々と許容されていたコミュニティが、都市の「疑似コミュニティ」のうちに収斂されていく流れは必然的だったのだ。

従って私たちは、過剰に甘えられることで踏み込まれる事態を、「プライバシーの侵害」と考える社会を選択的に構築してきたということ ―― それ以外ではないのである。

その結果、国民のプライバシー侵害への危険性の歯止めとして、2005年に全面施行された、「個人情報保護法」(個人情報の保護に関する法律)が生まれたが、殆ど必然的な副産物として、「孤独死」の問題がメディアで取り上げられるようになった。

それは、現代人の優しさの喪失を意味するのか。

そうではない。

私権を拡大的に定着させてきた社会を作り出した私たちが、これも必然的に辿り着いたであろう、「相対主義」の価値観によって失われた優しさがあるとするならば、それは、私権を堅固にガードすることに関与する必要性がなくなった優しさであり、それぞれの人間が固有に保持する、一種の性格傾向としての優しさの喪失というものではないのである。

私たちは、挨拶を交わしたこともない集合住宅で発生した「他者の私的不幸」を、「自分の不幸」として共有する必要を感じなくなっただけなのだ。

小泉堯史監督
そこには、「相身互い」の精神のうちに吸収され得る、「お互い様」という精神も、「互酬性」の原理下で、義務としての贈与関係を常態化させると同時に、水俣病解決策における地域再生として注目された「もやい直し」のように、双務的に力を貸し合う「結い」のメンタリティが共有されていないのである。

ただ、それだけのことなのだ。


従って、「現代人が失った優しさ」という、独善的な決め付けの括りのうちに収斂されるものではないのである。


(2010年1月)

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