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    1 か月前

2011年5月27日金曜日

JUNO/ジュノ('07)    ジェイソン・ライトマン


<「非日常の9か月間」における、「胎児に対する責任」という「ジュノの学習」の本質>



  1  ヒロインの成長物語のうちに昇華させていく「戦略的映像」



 欲望の稜線を伸ばした結果、最悪の事態を招来しても、それを無化することなく、自分の〈生〉に繋いでいくとき、その状況下で選択し得るベターな判断を導き出し、それを身体化する。

 その身体化の過程でクロスした者たちとの関係を通して、他者と向き合い、自己を見つめていく。

 僅かスリーシーズンの間で凝縮された〈生〉の自己運動を通して成長する、一人の女子高生の物語 ―― それが、「JUNO/ジュノ」だった。

 何より本作が面白いのは、そこで提示された人間の根源的な問題を、アニメの導入で始まる軽いポップ系のテンポという衣裳に被せながら、ヒロインのほんの少しだが、しかし決定的な成長物語のうちに昇華させていく「戦略的映像」であったということだ。

 即ち、「生命の尊厳」の問題を、その能力の及ぶ範囲において内化する物語を構築し得たこと。

 それが、「戦略的映像」の内実である。

 
 具体的に書いていく。

 
情動系の推進力で、コンドームなしのセックスを愉悦した結果、ヒロインのジュノは、「プロライフ」(妊娠中絶の合法化に反対する立場)の運動をしている同級生の一言(「あんたのベビー、爪も生えてるのよ」)によって中絶を翻意し、産むことを決意した。


 この決断力の凄さがジュノの真骨頂であるが、彼女の自己運動は、その現実的で知的な判断によって開かれる物語を貫徹させていくのだ。


 ジュノはまず、米国に数多存在すると言われる、「養子縁組待望者」を探し出し、その対象を特定化した上で、弁護士と両親を随伴して、「養子縁組予定者」の若い夫婦に会いに行く。

 話はトントン進み、その事務的な進行に、さすがのジュノも驚かされる。

 以下、その時の会話。

 「幾らお支払いすれば?」とバネッサ。夫人である。
 「いりません。売り物じゃないわ。私は、赤ちゃんに愛情を注いで欲しいの。良い両親になって。私は高校生だから、育てるなんて無理」
 「産むと決めてくれて、ありがとう」とバネッサ。
 「妻は子供を望んでいた」とマーク。夫である。
 「ママになりたいの」とバネッサ。
 「なるほど」とジュノの父。
 「自分は何のために生まれたと?」とバネッサ。
 「エアコンの調整」とジュノの父。
 「私は母親になるためよ」とバネッサ。
 「マーク。あなたは父親になりたい?」とジュノ。
 「勿論。父親になって、子供にサッカーを教え・・・」

 こんな調子で、会話が円満に進行していったのである。

 この会話の中に、赤子の養育への最適環境に配慮する、16歳のジュノの思いが充分に読み取れるのだ。

 季節は秋。

 既に、体内に自分が宿した胎児への配慮が窺われるジュノは、彼女の心的過程の成長への第一歩を大きく踏み出していったのである。



 2  劇的に変容していく物語の風景



 
季節は冬。


 少しずつ腹ぼてになってきたジュノは、わざわざ2時間のドライブ行を要して、「養子縁組予定者」に超音波検査の写真を見せに行った。

 バネッサが未帰宅の中、マークの反応も心地良く、共に趣味が合っているせいか、ジュノとの関係は、まるで昔馴染みであったかのような良好な状態をキープする。

 帰宅して来たバネッサも大喜び。

 満足するジュノ。

 しかし物語は、「起床転結」の「転」の部分に入っていくことで劇的に変容していく。


 既に爛漫の春となり、ジュノの胎児も順風満帆の成熟を見せていた。


 またしても、マークとの二人だけの会話。

 まるで、恋人を彷彿させるかのような雰囲気の中で飛び出てきたマークの一言に、ジュノは凍りつく。

 以下、その時の会話。

 「別れる」

 マークは、唐突にそう言い出したのだ。

 聞いてはならない一言を耳にしたジュノは、成人男性相手に必死の説得を試みる。

 「赤ちゃんを育ててくれるという約束よ。あなたたちには、よそみたいに簡単に別れて欲しくない」

 真剣な表情の16歳の少女。

 「父親になる心の準備が・・・」

 成人男性は、そう洩らしたのだ。

 「大人でしょ!」
 「僕をどう思う?なぜ、訪ねて来るんだ」
 「私のことで喧嘩したの?」
 「いいや、愛が冷めた」
 「愛で結ばれたなら、また愛せるはずよ」
 「君は若いな・・・」
 「若くないよ。16歳だもん。何が間違いか分るって」

 マークは、大人に成り切れない米国男性の典型的人物のようだ。

 ここでバネッサが帰って来て、涙を見せるジュノ。

 「何があったの?」と妻。
 「考えたんだ。正しいことか、どうか。僕たちは準備ができてるかなと」と夫。
 「大丈夫よ。本や育児講座で学んだし」
 「学んだけれど、不安だよ。心の準備が」

 発展性のない夫婦の会話を聞いて、ジュノは突然、ドアをバタンと閉めて、そそくさと帰っていった。

 ジュノの運転するバンが、途中で止まった。

 狭いスポットで、込み上げてきたものを封印し得ない少女は、思いの丈を存分に乗せて、嗚咽し続けるのだ。

 「バネッサへ。あなたが望むなら、計画通りに。ジュノ」

 その夜、再び夫婦の家を訪ね、このメモを、玄関先に置いて帰ったのである。

 映像のクライマックスシーンである。

 映像の中で初めて見せる、ジュノの嗚咽のシーンは、まさに、このカットを狙った作り手の、「戦略的映像」の中枢の仕掛けであることが瞭然とする。

 
ジュノとブリーカー
既に、物語の風景は変容しているのだ。

 ジュノの内面世界の変容が、それを端的に決定付ける何かであった。



 3  「生命の尊厳」を限りなく謳い上げた「戦略的映像」の勝利



 「二人の人間が永遠に仲良くいられるか・・・」

 父に零す娘。

 「簡単にはいかん。パパは最高の手本ではないが、10年前に再婚し、とても幸せだよ。いいいか、パパが思うに、幸せになるには、本当のお前を愛する人に出会うことだ。明るい、暗い、ブサイク、可愛い、ハンサムとかより、お前を太陽だと思う人。一緒にいて、楽しいぞ」

 本当にこんな理解力のある父親がいるのか、と思わせる人物造形だが、しかし、「こんな父親がいるからこそ、ポジティブ思考の娘が育つ」という充分な説得力だけは保持されていた。

 「もう、見つけたかも」

 「太陽だと思う人」を特定化していると答えるジュノの、その相手の男が、彼女の胎児の実質的な父親であるブリーカーを指しているのは言うまでもない。

 「お前の前にいる。どんな時も、お前を愛し、守る」


 父の吐露を真剣な表情で聞くジュノは、その直後、「太陽だと思う人」への「愛の告白」を身体化するのだ。
 
 ジュノは、ミント100個をブリーカーの自宅ポストに届けに行くのである。

 翌日、「太陽だと思う人」と会って、言語による「愛の告白」をするジュノ。


 そして、初夏。(画像は、産気づいたヒロインと、サポートする家族)

 ジュノが、無事に男児を出産する。

 「今度、産まれる子は、お前が育てろ」

 孫を産んだ娘に、毅然と言い放つ父親像の凛とした態度のうちに、作り手の仮託されたメッセージが読み取れるだろう。


 力強く肯く娘もまた、ブリーカーとの赤ちゃんを産みながらも、以下のモノローグののうちに、精神的成長ばかりか、知的・理性的成長を裏付ける、「前向きに生きる青春像」の一端を検証して見せたのである。


 「彼は赤ちゃんに会わないと決めた。私もだ。二人の子供じゃない。バネッサの子供」

 
 まさに本作が、ヒロインの決定的な成長物語のうちに昇華させていく「戦略的映像」の勝利であることを、端的に証明し得る括りであった。


 物語に内包されたテーマの重量感において、本来は、もっと遥かにドロドロした関係性を晒すであろうと認知するのは吝(やぶさ)かではないが、そこだけは「映画の嘘」を存分に印象付けた物語構成という衣裳を纏(まと)いつつ、「自分のことは自分で解決する」と表現するヒロインの主体的な自己運動を通して、不必要なセンチメンタリズムを初めから擯斥(ひんせき)し、「生命の尊厳」を限りなく謳い上げた「戦略的映像」の勝利を、ここまで描き切った、一見、オフビート感覚の映像も稀有であろう。

 だからこそ、米国内で高く評価された一篇になったと言える。

 
但し、その成功の文化的背景に、「プロライフ」の静かな主張が脈動していることを無視する訳にはいかないだろう。



 4  「非日常の9か月間」における、「胎児に対する責任」という「ジュノの学習」の本質



 この映画は、ラストシーンを除けば、一貫して非日常の世界を扱っている。

 その「非日常の9か月間」の中で、ヒロインのジュノが学習したものは何か。

 その辺りに、作り手のメッセージと重なる部分がある思うので、本稿では、その点についてのみ考えてみたい。

 それは、一言で要約すれば、以下の文脈に収斂されるものだろう。

 即ち、セックスし、妊娠し、産み、育てるという、「産」に関わる一連のプロセスには、至要たる責任が伴うこと。

 そして、その主体には、相当の覚悟と能力が求められるということだ。


 まず、彼女にとって第一のステップは、中絶することができたにも関わらず、産むという行為を選択したという事実である。

 なぜ、彼女は選択したのだろう。

 「爪」の一件である。

 彼女が「爪」の一件に拘泥したのは、恐らく、そこに人間の存在の身体性のイメージを嗅ぎ取ったからであると思われる。

 これが、彼女の一連のプロセスの原点になった。

 しかし、「胎児もまた人である」という実感を未だ感じることのない彼女は、産むことを選択しても、あっけらかんに考えている節があった。

 「30週もすれば、何もなかったのと同じ」

 これは、両親に言い放った言葉。

 「搾り出して渡すだけでしょ。モーゼみたいに、赤ん坊を籠に入れて渡す。古き良き時代は、何でもぱっぱと片付ける」

 これは、初対面時に、バネッサとマークの夫婦に放った言葉。

 当然、そこには、非日常下に置かれた彼女の明瞭な意識の成熟は読み取れない。

 そして、冬が来る。

 冬が来て、超音波検査を受け、その写真を目視する彼女の意識の中から、「母性」とも思しき、胎児への強い関心が芽生えていくのだ。

 それは、わざわざ2時間も要して、養父母予定のミネソタの夫婦に、超音波検査の写真を見せに行ったことでも判然とする。

 そんな彼女が、劇的に変容していくのは春になってからである。

 
胎児の生命音を感受したからだ。

 だから、それを報告するためにのみ、彼女はミネソタの夫婦(バネッサとマーク)を訪ねるに至る。

 しかし、そこで彼女は衝撃を受けた。

 「心の準備ができていない」という、マークの本音を耳にしたからだ。

 その辺りから、物語は、ジュノに最近接する者たちの変容をも映し出していく。

 「大人でしょ!」と、マークに放った彼女の一言は、まさに、彼女の意識が第二のステップにシフトしたことを物語るものだ。

 彼女はこのとき、「胎児に対する責任」を明瞭に意識するのである。

 それが、本作のクライマックスシーンに繋がった。

 「ジュノの号泣」である。

 然るに彼女は、その夜、思い直して、再びミネソタに車を飛ばした。

 バネッサへのメモを届けるためだ。

 既に前述した通りだから言及しないが、彼女のこの目立った行動を支えていたのは、「真剣に子供を育てることを欲する人間がいる」という、そこだけは動かせない把握を保持していたからである。

 偶然だったが、ジュノは、子供と戯れるバネッサの姿を目視していたのだ。


 能力を持ち得ないばかりに子供を育てられないジュノは、そのとき、「バネッサの子供」を産もうと強く決意したのである。

 
「胎児に対する責任」という彼女の意識は、最後まで一貫していて、全くブレることはなかった。

 だから、自分が産んだ、「バネッサの子供」を抱くこともしなかったのである。

 彼女のこの経験的学習こそが、物語の中で描かれた、「ジュノの学習」の本質だったと言えるだろう。

 そんなジュノは、「非日常の9か月間」の中で、「大人に成り切れない大人」の存在を知ったり、或いは、「どんな時も、お前を愛し、守る」と吐露する、父親の自分に対する愛情の深さを知ったりする。

 更に、躾(しつけ)に厳しい義母もまた、青春期のジュノには煙たい存在であるに違いないが、そのような人物が存在しなければ、家族の秩序など保持されないだろうという感懐をも抱いたはずである。

 そして、もう一点。

 「非日常の9か月間」の中で、彼女が学習したもの ―― それは、「彼女なりに相応しい自己像」を構築したことである。

 自分が未だ、「社会的自立を果たしていない存在である」という自覚を、決定的に強化したことであると言ってもいい。

 自分は子供を産んだが、育てる能力がない。

 この認知を強化させたジュノは、その由々しき把握を、彼女にとって最近接する存在であったブリーカーと共有するに至るのだ。


即ち、「自分が、今、最も大切な異性」としてのブリーカーの存在の認知である。

 これが、ラストシーンに繋がっていく。


 
ブリーカーとジュノの関係は、映像冒頭での、「セックスへの誘(いざな)い」と対極的に描かれることで、既に彼女が復元した「日常性」は、「非日常の9か月間」の中で精神的に通過してきた果ての、装い新たに更新された「日常性」を表現するに至ったのである。


 最後に一言。


 この映画を評して、「産」の問題を軽薄に扱っていると断じる人たちの反応について。

 以上、縷々(るる)述べてきたように、私は、本作は決して「産」の問題を軽薄に扱っていないと考えている。


 例えば、「バベル」(2006年製作)のように、深刻ぶった物語を繋いだ結果、結局、問題の本質を拡散させるだけの凡作に終わったように、映像構成を深刻ぶったエピソードで繋ぐことが、必ずしも、そこで提示される問題の本質に肉薄するものではないと思うのだ。

 本作を、上質の「戦略的映像」として観る視座こそが重要ではないか。

 そう思った。

(2011年6月)

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