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    1 日前

2010年12月8日水曜日

父の祈りを('94)        ジム・シェリダン


<塀の中での「父と子の葛藤と和解」、そして「再生」の物語>



1  塀の中での「父と子の葛藤と和解」、そして「再生」の物語



原作にはない、父と子が獄中で同室になるという創作を仮構したことでも分るように、本作の作り手は明らかに、この映画の主題を「父と子の葛藤と和解」、そして冤罪でありながらも、看守に対しても律儀に対応する、その一貫して変らぬ父の誠実な生き方と、その死を些か眩く照射することで、「自堕落な息子の真の再生」に据えていることが了解し得るだろう。

それらは、父子の会話の中に、集中的に表現されていた。

父の名はジュゼッペ・コンロン。

息子の名はジェリー・コンロン。

拘置所での父と子。

「俺はワルだ。だから、皆に迷惑をかけるのさ。何もこんな所まで追って来ることはないだろう。わざと追って来たのか!」

父と出会って興奮する息子の右の頬を、父が打った。

「やれよ!もっと強く殴れ!」

今度は腹を打つ父。

その力は強くない。

「思い切り、俺を殴りつけろ!親父らしく殴ったらどうだ」

父は息子の頸を両手で押さえ、静かに宥(なだ)めた。

「もういい。気持ちを静めろ。心配するな。こんな所はすぐ出られる」

嗚咽し、父に抱擁を求める子。

仮に、この映画の主題を、「冤罪への糾弾」という限定的なテーマにのみ収斂されていたならば、長い刑務所生活を通して、落ち着いた振舞いを崩さない父の印象的な態度を、冤罪に至る公判のシークエンスの大部分を省略してまで、繰り返し、そこだけは眩いように見せる描写の挿入は存在しなかったはずである。

それは、父の死によって、息子の再審への戦いによる「再生」という、一連のシークエンスに繋がったことでも検証されるだろう。

ジュゼッペ
明らかに、この映画の推進力は父親である。

父の死後、家族を思う父の思いが息子を突き動かしているのだ。

カトリック教徒としての厳格な教えを守る父には、その教えを息子に対する厳しさのうちに身体表現したことで、息子が不良化していったことに責任を感じていたに違いない。

それは、先の会話の中で、少年期に味わった「父の冷淡さ」を非難する、息子の激しい物言いのうちにも拾われていた。

そんな息子に対する父の責任感が、最悪の事件(注)の首謀者としての獄中生活を強いられた、不運な息子へのアプローチのベースにあると思われる。


(注)IRA暫定派によって、ロンドンで遂行されたギルフォード事件がモデル。

因みに、原作の「父の祈りを」(グリー・コロン著)の訳者あとがきには、以下の報告あり。

「武力によってアイルランド共和国との統合をめざす、カトリック系過激組織アイルランド共和軍(IRA)が1969年からテロ活動を展開した。1991年2月には、1969年以降の一般市民の犠牲者は2千人に達し、兵士や警官を含めると3千人を越えている」(「父に祈りを」グリー・コロン著 水上峰雄訳 集英社文庫・「訳者あとがき」より)



2  「看守長放火事件(焼殺未遂)によるIRAとの訣別」→「父の獄死と弁護士のサポートによる、確信犯的な行為」という時系列のゾーン ―― ①



ジェリー・コンロンの人生の振れ方を大雑把に書けば、「コソ泥などの自堕落な生活」(事件以前)→「『恐怖前線』での虚偽自白」→「ドラッグ漬けの自棄的行為」(以降、刑務所生活)→「IRAの活動家との出会いと、洗脳による『確信犯もどき』」→「看守長放火(焼殺未遂)事件によるIRAとの訣別」→「父の獄死と弁護士のサポートによる、確信犯的な状況突破」→「再審での無罪獲得による、凛とした娑婆への生還」という流れで把握できるだろう。


特筆すべきは、ジェリー・コンロンの目立った航跡と比較して、この間、一貫して変らない父の生き方が、ジェリーの視線に捕捉されていくのである。

即ち、この父と子は物理的な最近接を果たしつつ、恐らく、人生で初めてであろう、心理的な交叉と葛藤を繰り返していくのだ。

 その稀有な経験の中で、ジェリー・コンロンは、「俺は非暴力で権力に抗議する」という境地に達することで、人間的には父の生き方のラインにまで届くと同時に、思想的には、「権力犯罪」を断じて許さないという揺るぎないスタンスを確保するに至ったのである。


一切は、父との物理的・心理的最近接の関係形成の中で達成された地点だった。

とりわけ、このジェリーの人生の振れ方の中で最も重要なのは、「看守長放火事件(焼殺未遂)によるIRAとの訣別」→「父の獄死と弁護士のサポートによる、確信犯的な行為」という時系列のゾーンである。

その辺りの物語の流れを、簡単にフォローしていこう。

「殴られ、父を殺すと言われ、やけくそで調書にサインをした」

これは、公判での被告質問におけるジェリーの証言。


まさに、冤罪事件の典型的な取り調べの風景が、そこに垣間見える。


後述するが、「『恐怖前線』での虚偽自白」の風景である。



そして、自白の持つ重量感は、陪審員のアイリッシュ差別とリンクして、「反逆罪で絞首刑にしてやりたい」」と裁判長が嘯(うそぶ)く重罰刑を受けることで、途方もなく続くであろう刑務所生活に拉致されていく。

ジェリー
 その絶望的な刑務所生活を通して、意志薄弱なジェリー・コンロンは、殆ど予約されたかのような「ドラッグ漬けの自棄的行為」に捕われてしまうのだ。

そこに、IRAの活動家が収監されて来た。

その名はジョー。

あろうことか、コンロンの父子らが蒙った冤罪事件の真犯人である。

確信犯である本人は、既にその事実を刑事に告げていた。

しかし、それを調書に記した担当刑事は、その調書を秘匿した。

この状態で、事件の本質は冤罪事件の枠組みを超えて、正真正銘の「権力犯罪」の性格を露わにしている。

「あんな奴らとの関わりは真っ平だ」

ジョー本人から真相を聞き知っても、IRAのテロを憎む父は、息子に吐き捨てた。

「父さんは立ち上がって闘ったか?」

父の言葉を受容しない息子は、逆に、父の非暴力主義を批判して止まなかった。

ペンキ工場で働いて、肺を冒された父の「非行動」を詰るのだ。。

父に対するジェリーの挑発的言辞には、明らかにジョーによる洗脳の影響がある。

それは、ジェリーの獄房に、ゲバラのポスターが貼ってあることからも自明であった。

「ドラッグ漬けの自棄的行為」から「IRAの活動家との出会いと、洗脳による『確信犯もどき』」への「跳躍」は、実はジェリーにとって、本質的なアウフヘーベン(止揚)を意味しない。

少なくとも彼の中において、それは単に、「理不尽な状況に捕捉された者の、『権力』への憂さ晴らし」でしかないのである。

リアルIRA のメンバー(イメージ画像・guardian.co.ukより
そんな男が、ジョーの先導によって看守を追い出し、刑務所内での乱痴気騒ぎを起こすのだ。

まさに、その乱痴気騒ぎこそ、「理不尽な状況に捕捉された者の、『権力』への憂さ晴らし」の証明だったと言えるだろう。



3  「看守長放火事件(焼殺未遂)によるIRAとの訣別」→「父の獄死と弁護士のサポートによる、確信犯的な行為」という時系列のゾーン ―― ②



乱痴気騒ぎの反動は、思いの外、甚大だった。

看守長のイニシアティブによって、ジェリー・コンロンやジョーらに、機動隊を刑務所に導入し、一方的な暴力を振るうという事件を惹起するに至るからだ。

今度はジョーのイニシアティブによって、看守長への「革命的鉄鎚」が下されるのは、その直後だった。

「看守長放火事件(焼殺未遂)」が出来したのは、刑務所内での映写会で、「ゴッドファーザー」を鑑賞している最中だった。

その大混乱の中、必死に看守長の命を救ったのはジェリー・コンロンだった。

彼は全身火だるまになっている看守長の身体に、撮影機の暗幕を被せたのである。

この事件は、ジェリー・コンロンが、根っからの悪人でないばかりか、IRAのテロリストの「資格」すらないことを検証したものだった。

そのジェリー・コンロンは、本物のIRAのテロリストに歩み寄って、皮肉を込めて吐き捨てた。

「さすがだな。ご立派だよ」
「うるさい。黙ってろ」
「俺の眼を見ろ。俺の眼を見られるか」

本物のテロリストのジョーに凝視され、ジェリーは存分の思いを込めて、再び吐き捨てた。

「人を殺したいと思う気持ちが初めて分った。大した勇気だ」

それは、ジョーに対するジェリーの訣別宣言だった。

ジェリーの「人を殺したいと思う気持ち」の対象が、罪なき人々をも殺害するIRAそれ自身に向けられていくという決定的な事態こそ、「看守長放火事件(焼殺未遂)」だったのである。



そして、この暴動で父の健康状態の悪化を目の当たりにしたジェリーは、父に「署名嘆願運動を手伝うよ」と吐露するに至った。

冤罪事件の「主犯」の視界が、父の人格の中枢を支配している風景に最近接したのである。

あとは彼にとって、再審で冤罪を勝ち取ることだった。



有能な女性の人権弁護士のサポートを得て、コンロン父子の、最も険しい戦いが開かれていく。

「意外なことに、父は私があなたと会い、再審運動にのめり込むことを少し妬いていました。あのジュゼッペに嫉妬心があったとは。とにかく、目標は再審の実現です。父の余命は、もう眼に見えていました」


「あなた」とは、女性の人権弁護士のこと。

これは、父との物理的・心理的最近接の関係形成の中で達成された内実の、その一端を検証する、ジェリーの内面の風景の変容を示すモノローグと言っていい。

「俺は死ぬ。俺は恐い。他人の中で死んでいくのが恐い。母さんを残して死んでいくのが恐い」

死期が迫っている現実を感受する父の言葉を、息子は全人格的に受容する。

「父さんは死なないよ。母さんの面倒は見る」

「父さんは死なないよ」という言葉を、「母さんの面倒は見る」という言葉が支え切っているのだ。

そして、父の死。

ジム・シェリダン監督(ウィキ)
「我々父子は無実なのに、父は獄死した。俺は非暴力で権力に抗議する」

ジェリーが、刑務所内の官吏に放った言葉である。

この言葉のうちに、ジム・シェリダン監督の思いが込められているのは言うまでもない。

事件から15年が経過し、ジェリーは遂に再審請求を勝ち取り、無罪放免になったのは、有名な話である。

「看守長放火事件(焼殺未遂)によるIRAとの訣別」→「父の獄死と弁護士のサポートによる、確信犯的な行為」という時系列のゾーンの重要性は、以上の言及によって明瞭だった。

―― 映像批評の最後に、本作で最も感銘深いシーンについて触れたい。

それは、父の死を伝えにくる官吏に対するジェリーの態度である。

「ありがとう」

しっかり腕を組んで、ジェリーはそう言ったのだ。

ここまで成長した男の内面を、映像はワンカットで提示して見せたのである。



4  「虚偽自白」の心理的風景



本稿では、拙稿の「「脆弱性」―― 心の風景の深奥 或いは、『虚偽自白』の心理学」から加筆・引用し、「虚偽自白」の心理的風景を考えてみたい。

以下、拙稿の加筆・引用である。

「自白」する者の自我の「脆弱性」である。


正確に言えば、未知の恐怖のゾーンの中で、ごく普通のレベルで武装しているに過ぎない自我が裸にされて、その「脆弱性」が露わにされたとき、もうそこには自らを守るべき手立てを一切失って、絶え絶えになった自我が拠る、その安寧の対象の何ものもなく、極限的な心身の疲弊の果てに自分が関与しない事件の供述を開くほどに内部統制が機能しなくなり、自我を覆う鍍金(めっき)の鎧(よろい)が破壊されてしまうという事実性の重量感である。

この心理状況を説明すると、以下の流れの中で把握されるだろう。

① 権力機関に捕縛された時点で、既にそこは、自分の意思で支配できない「箱庭」が形成されている。

② その「箱庭」で形成された人間関係は、紛れもなく「権力関係」以外の何ものでもないだろう。

③ 「箱庭」で形成された権力関係の内には、選択肢が一つしかない「事実」を強いる「状況支配者」と、それ以外の選択肢を持ち得ない「状況服従者」という単純な関係構図が成立する。

④ 「状況支配者」は自らが所有する余りある時間(日本の場合、最長勾留期間・23日間)を駆使して、「状況服従者」の身体の自由を拘束した上で、その心身が疲弊の極みに達するまで、その関係(「権力関係」)を恣意的に継続させていく。

⑤ 疲弊の極みに追い込んだ「状況支配者」は、「状況服従者」の自我を文字通り「完全服従」させる目的で、「状況服従者」に対して、身内や友人との関係途絶の現実を認知させることなどによって、置かれた状況における「精神的孤立感」を極限にまで高め上げていく。

⑥ 「状況服従者」の「精神的孤立感」がピークアウトに達したとき、そこで生まれた絶望感、即ち、「もうどうなってもいい」という気持ちを随伴した、「極限的な苦痛の終りの見えない恐怖」の感情が形成されていく。

それは単に、「苦痛の状況」それ自身ではない心理であるという認識こそが重要である。

⑦ 「極限的な苦痛の終りの見えない恐怖」の感情が形成されたとき、「自白すれば楽になる」(「安寧化のテクニック」)、「自白しないと起訴された際の罪が重くなる」(「最大化のテクニック」)等の硬軟織り交ぜた取り調べのテクニックによって、「状況支配者」は「状況服従者」の自我を「完全服従」し、「虚偽自白」に追い込んでいく。

⑧ 「虚偽自白」によって、「一時(いっとき)の解放感」を得た「状況服従者」は、情感を込めた「状況支配者」の同情的感情の吐露(落涙したり、感動したり、自分の気持を寄せたり、等々)などに対して、しばしば、自分の「虚偽自白」による「空洞感」を埋めるに足るケースも生まれる。

⑨ ここから、「供述書」という名の共同作業の過程が開かれていく。

以上が、「虚偽自白」への心理プロセスであると考えるが、勿論、このプロセスには個人差がある。それでも、「箱庭」、「権力関係」、「状況支配者」、「状況服従者」、「極限的な苦痛の終りの見えない恐怖」、「精神的孤立感」、「一時(いっとき)の解放感」等という言葉で表現される文脈には、多くの場合、相当の共通点があると言えるだろう。

 ジム・シェリダン監督
結局、以上のような状況下では、自我の「脆弱性」を晒してしまう確率が高くなり、自分の力の及ぶ範疇を越えた、「取調べ」という名の「権力関係」の堅固な「前線」にあって、「虚偽自白」以外の選択肢を持ち得ない時間の、その圧倒的な継続性によって分娩された「極限的な苦痛の終りの見えない恐怖」こそが、このような由々しき事態の心理的母胎になるということである。

自我の「脆弱性」を晒さずに極限状況を抜けていくには、「強靭な信念・信仰」などによる「恐怖支配力」=「胆力」の堅固な内部構築が不可欠であると思われる。

それほどに、以上のような状況に捕捉されてしまったら、「極限的な苦痛の終りの見えない恐怖」に搦め捕られてしまう確率が高いということである。

私たち自身が普通に考えている以上に、人間の心は合理的に動けず、信じ難き誤謬を簡単に犯し、その修正も困難であるほどに脆弱な生き物であるという外にないのだ。

だから、「虚偽自白」をするから悪いのだなどと、知ったようなことを軽々に言うべきではないのである。

(2010年12月)

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