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    4 か月前

2010年3月23日火曜日

告発の行方('88)   ジョナサン・カプラン


<「当事者熱量」と「第三者熱量」が無化されたとき>



1  現実の深い闇の躙り口の辺りまで肉薄して



本作の原題は、「the accused」。

刑事事件の「被告人」、「被疑者」という意味である。

レイプ事件の顛末を描きながら、映像は、極めて不利な立場に置かれた「被害者」の苦衷に肉薄しつつも、複数の「被告人」たちによる犯罪、または、その「被告人」の犯罪に間接的に加担した者たちの、犯罪性の濃度の深い闇の躙(にじ)り口に迫っていくことで、「被害者」の苦衷の心理的背景を炙り出していくのだ。

即ち、この映像は、直接的な犯罪に加担せずとも、「被害者」に苦衷を与えた者たちこそ、共同正犯としての「被告人」であるという主張を明瞭に提示した問題作なのである。

その問題作の内実は、二人の女の「苦闘の末の悪漢退治」という、如何にもハリウッドらしい安直な物語であったことは否定し難い事実。

だが、社会派映画のテーマ追求と、それをフォローしていく筆致は一貫して真摯であり、この国で多発するレイプ事件(注1)の忌まわしき現実の、その深い闇の躙り口の辺りまで肉薄しただけだが、それでも本作は充分に挑発的な作品であったとも言えるだろう。


(注1)「日本の人口10万人あたりの強姦の発生件数は1.2で、アメリカ合衆国37.0で日本の30倍、韓国11.0」(ウィキペディア・「強姦」より)というデータあり。

因みに、日本では、奈良県の女児誘拐殺害事件(2004年)を契機に、性犯罪に走る未成年者の矯正を目指す「性犯罪者処遇プログラム」が始まっている。更に、平成12年の刑事訴訟法改正により、セカンドレイプによる精神的苦痛の防止を目的に、別室でのビデオモニター証言である「ビデオリンク方式」を採用している。

また、性犯罪が多発する韓国の「化学的去勢」の現実について、AFP通信の記事を紹介しておく。

「韓国・ソウル南方約160キロの公州に15日、性犯罪者の化学的去勢を行う、同国初の国営医療施設が開設された。同国司法当局が明らかにした。韓国の法務省によると、司法精神医学研究所内に設置されたこの医療施設では、治療を受けることを選んだ性的暴行犯や児童性的暴行犯に対し、薬品やホルモン治療などを投与し性的衝動を抑えるというものだという。同省関係者によると、この治療の目的は再犯を防ぐためだとしている」(2009年1月16日 ・AFP通信)



2  暴行、教唆、そして半裸の逃亡 ―― レイプ裁判を再現して



自らが被害者となった、酒場におけるレイプ事件を告発した些かヤンキーな女性が、剛腕な女性検事補の助けを借りて、暴行犯・教唆犯の6名を刑務所に送り込むという話で、詳細なプロット説明は省く。

ここでは、映像後半のレイプ裁判に焦点を当てていきたい。

それこそが、映像の生命線であるからだ。

以下、レイプ裁判を再現する。

―― メディアを巻き込んだ、本人出頭によるレイプ裁判が開かれた。

「夜遅く、ボブと試合を見に行った後、彼がときどき行くその店へ、すごくセクシーな子が入って来ました。彼女は座り、僕らの後ろで友達と話し始めました。バーにかけていたダニーも彼女を見て、2人の席へ酒を」

キャサリン検事補(左)
映像説明の一切は、友人を暴行罪で訴える覚悟で悩んでいた、ケンのこの証言から始まっていく。

再現していく。

事件の現場となった酒場の名は、ミル。

「ラリーの前で、彼とやりたいわ」

これは、ミルの店内で、マリファナを吸引していて、些か気分が昂揚している状態のサラが、友人のサリーに話した内容。

サリーはミルの従業員で、その休憩時間を利用して、サラと一緒に寛いでいたのである。

また、ラリーとはサラの恋人であり、そのサラが、彼との痴話喧嘩の鬱憤を晴らすために、ミルに来ていたという経緯があった。

ともあれ、「彼とやりたいわ」と、サラが嘯(うそぶ)いた直後、彼女が取った行動は、是見よがしに上着を脱いで、店内にいる男たちを挑発するという危うさに満ちたもの。

サラが「指名」した「彼」とは、学生のボブのことで、ケンの親友である。

サラ
そんなサラの挑発に乗って、彼女の席にやって来たのは、「彼」ではなく、サリーと見知りのダニーだった。

ダニーもまた、マリファナを吸引していて、昂揚感のピークアウトの状態を露わにしていた。

「彼女は立って、奥の席へ。ボブも入って、酒を飲みながらゲームを」(ケンの証言)

ゲームとは、盤上のピンを当てて得点を得る、ピンボールゲームのこと。

やがて、サラと踊っていたダニーがキスしながら、彼女をゲーム盤上に押し倒し、スカートの下から手を入れた。(サラの証言)

抵抗するサラ。

しかし、力の強いダニーの手がサラのシャツを裂き、スカートを捲(めく)り上げて、パンティーを引き下ろしていった。(サラの証言)

「逃げようとしたけど、物凄い力で押さえ付けられていて、キスしながら、下から手を股の間に・・・周りでは、“押さえ付けろ!押さえ付けろ!”と。大男のカートが、私の腕を押さえ付け、男たちは拍手し、歓声を上げました。ダニーに手で口を塞がれ、顔を押さえられて、私は眼を閉じました。彼が私の中に入って来て、終わると、次の男が・・・皆は“やれ!やれ!大学生!”と。そしてボブが私の中へ。・・・男たちは笑ったり、手を叩いたり、大騒ぎを。“短小!短小!”と囃し立てられ、カートが私の中に。周りの者は声を合わせて、”プッシーに“突っ込め!・・・私は店の外に出て、通りがかった車で病院へ・・・」

それ以上言葉を繋げない衝撃的なサラの証言が、涙の内に閉じられた。

映像はそれ以前に、ケンの証言の前で開陳された、サラの証言を拾い上げていたのである。

再び、映像説明を随伴する、ケンの証言を再現していく。

以下の内容である。

ゲーム室で、ダニーの暴力を受けるサラが、逃亡するまでのプロセスを、時系列で追っていく。

懸命に抵抗するサラ。

ダニーはサラの喉を押さえて、暴行を継続していく。

それを面白がって見ていたクリフが、「突っ込め!」と囃し立てた。

ダニーが後ろの者たちに、「押さえろ!」と指示することで、飢えた男たちが占有する、密室のような危ういスポットは異様な興奮に包まれた。

ダニーの射精によるレイプが終わるや、「次は兄ちゃんだぞ、学生!」と囃すクリフの指示で、輪姦が強行されていく。

その濁った臭気の漂う空気の中で、学生のボブがサラをレイプし、囃された流れの中でのカートの暴行が続いた。

店の狭いスポットで、3人の若者による輪姦が強行されていったのだ。

店の中にいた者たちは、それに気付くが、注意することもなかった。

「いいぞ!もっとやれ!腰抜け!」

ここでも、クリフが囃し立てる。

「何だと!バカにすんな!」

男の沽券(こけん)に関わる心理圧を受けて、レイプ犯はより凶暴さを増していった。

ここで事態の異様さに気付いたサリーは、店の仕事を切り上げて、恐怖のあまり逃げ出してしまった。

このとき、サラがカートの指を噛んで、怯(ひる)んだ隙に半裸で逃げ出した。

ファーストシーンである。

以上のケンの証言の内容は、サラと重なるものだったが、映像はそれをリアルに映し出していった。

「サラがレイプを煽ったと思いますか?」

地方検事補キャサリンの問いに、ケンは「いいえ」と一言。

しかし弁護士は、被告が暴行犯でない弁論を展開した。

「サラの行った証言は、聞く者の心を強く揺さぶりました。しかし、その証言が事実で、同情を覚えたとしても、それは本件とは無関係です。3人の被告は暴行犯ではない!」

弁護士は、更に畳みかけていく。

無論、陪審員の心証を良くするための弁論術である。

「ケンの証言が事実なら、被告は有罪。しかし、彼は毎日自分を責めていました。彼は法廷で、その責めを洗い流した・・・あの部屋にいた全員が、ケンにとっては有罪に思えたのです。彼は自分が何もしなかったことを悔いて、他人にも罪を負わせようとしているのです。彼自身はそれで何の被害も受けませんが、被告たちは懲役に処せられます。賢明な判断を。無罪です」

これは、決定的な証言をしたケンの心理を、逆手にとった巧妙な弁論である。

これに対するキャサリン検事補は、説得力を持つ反論で切り返す。

「レイプを黙って見ていただけなら、教唆ではありません。しかし他人の暴行行為を唆し、煽り、けしかけることは、教唆犯と言われる行為なのです・・・被告たちは見ていただけではなく、囃し立て、手を叩き、暴行を唆したのです。サラが犯されることを望んだのです。それも何度も・・・」

この最終公判の結果、陪審員の評決は「有罪」となり、「教唆犯」が成立するに至ったのである。

公判での、丁丁発止(ちょうちょうはっし)と渡り合う場面の少ない「法廷映画」は、呆気ない幕切れを印象付けて、二人のヒロインの笑顔の内に閉じていった。

「米国で起こる暴行事件は、6分に一件。4件に一件は複数犯による犯行である」

あまり実感の湧かないこのキャプションが、消えた画面の後に残されていた。



3  「苦闘の末の悪漢退治」の映像的脆弱さ



前述したように、残念ながら、映像の出来は決して高く評価できる内実を持ち得なかった。

レイプに遭った主人公と、彼女をサポートする検事の心理描写を中心に物語が構成されていることで、肝心の「the accused」である刑事事件の「被告人」の状況的な心理描写が、殆ど確信的に捨てられてしまったのである。

それによって、「苦闘の末の悪漢退治」という、如何にもハリウッドらしい安直な「善悪二元論」の物語に終始してしまったのだ。

レイプの直接の被告や、彼らの犯罪を教唆する者たちは、「同情すべき余地のない悪漢」という把握が前提化されている部分において、本作は限りなく、「同情すべき余地のない悪漢」を糾弾するだけのプロパガンダ性を内包してしまったのである。

それを象徴するシーンが、孤立感を深めた主人公が、スーパーの駐車場で、事件の教唆に加担した男の車に衝突していった場面である。

「ピンボールどう?」

そう言った男こそ、事件の教唆をした「主犯格」たるクリフだった。

たまたま、スーパーで買い物をしていたサラを見つけたクリフは、自分を特定できない彼女に、ミロの店を想起させる言葉を使うことで、トラウマから脱却できない症状を呈しつつあったサラの「自爆」を惹起させたのである。

この重要なシーンによって、物語展開は、事件の教唆犯を追求する基幹ラインを描き出していくが、唯、この「起承転結」の「転」となっていく場面において、映像は、「孤立感を深める主人公」と「同情すべき余地のない悪漢」という、単純な二極的構図を作り出してしまったのだ。

そのことが、ドラマの奥行きを狭隘化させ、本作をして、深い人間ドラマの構築に届き得ない凡作に留めてしまったと言えるだろう。

「苦闘の末の悪漢退治」の映像的脆弱さ。

正直言って、それが私の本作への率直な感懐である。



4  「当事者熱量」と「第三者熱量」が無化されたとき



ここで、問題のレイプシーンを考えてみたい。

私の問題意識は、そこに集中しているからだ。

店の奥のピンボールゲームのある部屋に、サラとダニーが合意の上で入って行く。

そこには明らかに、サラの挑発に応じた男の快情動の昂揚があり、その時間の延長で二人は睦み合う。

ここまでは、普通の行きずりの性愛ゲームの範疇にある。

ところが、マリファナにの昂揚感によってもたらされた、単にゲームとしか考えないサラと違って、男の性愛感情はコントロールできない状態にまで上り詰めていた。

男は、相手の女を、商売女のイメージの内に軽視していたのであろう。

それ故、簡単にセックスができると考えたに違いない。

男は女をゲーム機の盤上に乗せ、一気に行為に及んでいく。

そこに、女の必死の抵抗がリバウンドしてきた。

ある程度の女の抵抗を予想していたであろうが、男は自分の行動圧力によって抑えられると踏んだのだろう。

だから男は、相手の合意が存在したと信じる、非日常な〈性愛〉の〈状況〉を突き抜けていくしかなかったのか。

問題は、その後から出来した。

二人の〈性愛〉の〈状況〉をキャッチした男たちが、その部屋に入って来て、暫くは囃し立てるようにして囲むだけだったが、性愛感情が高まった他の二人の男が、そこに加わっていったのだ。

その経緯は、ダニーがレイプのサポートを依頼したことに発していたが、既にその時点で、1対3という輪姦の構図が形成されていたのである。

そして問題なのは、直接、レイプに加わらなかった他の3人の男が、輪姦の現場にあって、彼らを囃し立てた事態の危険性である。

この構図は、極めて重要である。

私はかつて、「『当事者熱量』と『第三者熱量』の落差」というテーマについて思考したことがある。

以下、「短言集」に書いた件の拙文を引用する。

「他人の喧嘩に簡単に入れないのは、『当事者熱量』と『第三者熱量』に大きな落差があるからだ。

当事者同士は相手の僅かな態度の挑発に激しく反応し、相乗効果によって益々納まらないし、周囲はバックドラフトを回避しようとするので、そこに熱量落差が広がるばかりとなる。

しかし当事者の多くは、プライドが充たされるような第三者的調停を望んでいるから、熱量落差の中でクールな棒が挟まれることで、一気にリバウンドに向かっていく。

言いたいことを全部言って、且つ、プライドラインの補正が有効なら、あとはただ引け際のタイミングだけである。

『第三者熱量』の存在こそが、当事者を救うのだ。

熱量落差の状況こそが、多くの争いに様々な選択肢を導入するのである。

集団には、常に一定の熱量落差が必要なのである。

クールな棒もまた、簡単に捨ててはならないのだ」

以上の拙稿は、「他人の喧嘩に簡単に入れない」理由に言及したもので、当然の如く、本作における輪姦のケースと〈状況〉が全く異なっているのは百も承知している。

しかし〈状況〉の差異があっても、「当事者熱量」と「第三者熱量」という概念は有効である。

私が強調したいのは、多くの他者をインボルブした何某かの〈状況〉下にあって、〈状況〉の中枢にいる「当事者」と、その中枢にいない、それ以外の「第三者」が内に抱える「熱量」には決定的な落差が存在するということだ。

なぜなら、両者には〈状況〉との距離が存在するからである。

〈状況〉との距離が、両者の「熱量落差」を決めるのだ。

ここで、本作の〈状況〉を考えてみたい。

本作の〈状況〉の中で、輪姦の「当事者」と、その「当事者」を煽り、囃した「第三者」との〈状況〉へのには、決定的な落差が存在しなかったということ。

この事実が、何より重要なのである。

即ち、本作の〈状況〉の中で、「当事者」と「第三者」の「熱量」には、特段の落差がなかったのである。

「当事者熱量」と「第三者熱量」に大きな落差が存在しなかったという事実、これが、本作の〈状況〉を規定する基幹の文脈になったと言える。

「当事者」を煽り、囃した「第三者」が、教唆犯として裁かれたのもまた、心理学的に言えば、両者の「熱量落差」に根本的な相違が見られなかったことと大きく関与するものだ。

「当事者」を煽り、囃した「第三者」が裁かれたのは、あまりに当然の流れ方だったと言う外にない。

ところが、そこに例外が存在した。

事件の重要な証人であったケンである。

ケンのみが、〈状況〉に加われなかったのだ。

実は、彼こそが完璧に「第三者熱量」の主体であった。

恐怖感に怯えつつ、状況に翻弄されるばかりのケンだったが、それでも彼は、警察に連絡する「良心」と「熱量」を持ち得たのである。

このような〈状況〉で、一個人でしかない「第三者」が、沸騰し切った事態を鎮静することは殆ど不可能と言っていい。

これは、「傍観者効果」(注2)という心理学の範疇をも超えているからだ。

かつて、日本で出来した「グリーンアテンダントレイプ事件」(注3)を見ても分るように、東海道線グリーン車内に乗っていた何人かの乗客は、事件を認知しつつも、何も行動を起こさなかったと言われている。

「当事者熱量」と「第三者熱量」の圧倒的な落差の前では、人間の「勇気」、「良心」という倫理感覚が、内側で暴れる身体的・精神的「恐怖」を抑えるパワーを持ちにくいのである。

生存戦略の拠点としての自我が、自らの「勇気」、「良心」の身体的行使の機能をフリーズしてしまうのだろう。

このような〈状況〉下で、奇麗事の言辞が全く通用しない現実を認知しているからである。

映像に戻る。

ともあれ、あのような沸騰し切った〈状況〉下で、ケンが取り得る行動は、その〈状況〉を抜けて事件を警察に知らせるという行為のみだった。

当然である。

彼の「良心」がそうさせたのだが、人間の「良心」の行使が継続力を持ち得ないのは、キャサリン検事補に証言を求められたとき、「友情」を理由にそれを拒絶した行為によっても了解し得るだろう。

彼の「良心」が、「友情」を超えるほどのパワーを持っていなかったということだ。

ジョナサン・カプラン監督
要するに本作は、「当事者熱量」と「第三者熱量」が無化されたとき、震撼すべき事件が惹起する現実の怖さを描く映像だったということ。

それが私の把握である。


(注2)何をしていいか分らないという「多元的無知」、周りの視線が気になるという「聴衆抑制」、自分がやらなくても誰かがやってくれるという「責任分散」の3つである。


(注3)「グリーン車女性乗務員を連続強姦容疑 34歳飲食店員逮捕 

JR東海道線の電車内で女性乗務員を相次いで暴行したとして、川崎市川崎区桜本、飲食店店員今井卓哉被告(34)が強姦と強姦致傷の疑いで神奈川県警戸部署に逮捕され、両罪で起訴されていたことがわかった。 

客がまばらな早朝の時間帯が狙われており、JR東日本は在来線車内にも監視カメラを増設、車内を巡回する警備員を増員するなどの措置を取った。

同署幹部によると、今井被告は3月27日早朝、品川発の東海道線グリーン車近くのトイレに20歳代の女性乗務員を押し込み、首を絞めるなどして『死にたくなければ言うことを聞け』と脅し、強姦しようとして、首などに軽いけがを負わせたとされる。

また、4月2日早朝にも、別の20歳代の女性乗務員をトイレに押し込め、強姦したとされる」(2008年7月4日11時57分 読売新聞/筆者段落構成)



5  レイプとは、自分の体に加えられる性的暴力に対して「ノー」と言うことを認めさせないこと



本稿の最後に、レイプについての格好の定義を含む、事件の社会的背景に言及した評論があるので、それを紹介しておきたい。

日本の著名な映画評論家である、粉川哲夫のブログからの引用である。

「一九七〇年代になってフェミニズムが社会に浸透し始めてから、アメリカでは女性差別に対する一般の意識が急速に高まり、テレビや新聞で露骨な性差別を表現することは難しくなった。性表現も、表現の自由という見地からすると、制限を加えられないことになっているが、女性の身体に対する侵害というフェミニズムの観点から規制を受けることが多くなった。(略)

レイプとは、自分の体に加えられる性的暴力に対して『ノー』と言うことを認めさせないことであり、単に性器が侵略されたかどうかではないのである。

それを、キャサリンは、暴行の教唆罪と新たな証人の発見によって闘いぬくわけだが、この裁判の過程を見ていて、わたしはアメリカという国の特質つまり現状はどうであれ、言論の自由の保証ということが依然市民的権利の根底にある社会とそれを守る法律の存在を感じないではいられなかった」(ブログ・粉川哲夫「シネマ・ポリティカ」/筆者段落構成)

「レイプとは、自分の体に加えられる性的暴力に対して『ノー』と言うことを認めさせないこと」であるという把握に、私も同感する。

「セカンドレイプ」の問題の深刻さを考えるとき、レイプの犯罪の重大性は看過し得ないであろう。

だからレイプの定義に関しては、それ以外に有り得ないのだ。

(2010年3月)

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