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2010年10月2日土曜日

名画短感⑫      終着駅('53)


ビットリオ・デ・シーカ監督



愉悦するものの始まりが、終わりを避けられないときの苦しみに捕捉されるとき、その苦しみは、愉悦するものが大きいほど想像し難い苦しみを味わうだろう。

同時に、その「始まりの終わり」は、「終わりの始まり」として未知の時間に呑み込まれていくときの苦しみでもある。

「終わりの始まり」を意識する苦しみは、「始まりの終わり」を意識するときの苦しみと同質でありながら、失った愉悦への未練を時間が癒してくれるイメージに自我を預けられない分だけ、より深甚な重量感を意識する苦しみとしてイメージされる何かになる。

「終わりの始まり」とは、その終わりが見えないことへの恐怖であるからだ。

本作で描かれた不倫の恋の心理構造は、まさに、この文脈の範疇にある苦しみだった。

若いイタリア青年(米伊混血)が失った、年上のアメリカ人である既婚女性との別離の瞬間に立ち会ったとき、「始まりの終わり」の苦しみよりも、「終わりの始まり」の苦しみのイメージのうちに存分に捕捉されていて、その悲痛な叫びが観る者にひしと伝わってきた。

ローマ・テルミニ駅(中央駅)のプラットホームで、人妻との別れを告げる列車から捨てられた際に、足を挫く切なさに象徴される苦しみの集合点で、極点を味わい尽くす青年の「始まりの終わり」が、この瞬間から、その深い懊悩の世界の時間を開いていくのだ。

青年と分れた人妻もまた、「始まりの終わり」の苦しみに必死に耐えつつも、その瞬間から始まる、「終わりの始まり」の時間へと拉致されていくだろう。

旅先での不倫の恋の宿命をなぞる二人の近未来には、いつしか、「始まりの終わり」の「苦しみの逓減法則」に身を任せながら、少しずつ、彼らの本来の日常性を復元させていくだろうが、「今」、「このとき」の彼らの自我に張り付く懊悩は、まさに「終わりの始まり」の果てしない苦しみの時間が開かれていく悲痛の只中で、沸点に達したこの時間の、その辛さと切なさのシャワーを被浴し続けるのである。

ローマ・テルミニ駅の大時計の長針が、刻々と動く限定された時間に縛られて、「愛情交歓」を出し入れする男女の心臓の鼓動が忙(せわ)しく高鳴る緊迫感は、リアルタイムで進行する物語の仕掛けに因るものだ。

ネオレアリズモの巨匠の変容期に遺した名作は、ここでも人間心理の深い機微を70分のフイルムに鏤刻(るこく)する、淡々とした筆致の映像に結ばれた。

そういう映画だった。


(2010年10月)

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