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2010年7月2日金曜日

ザ・コミットメンツ('91)   アラン・パーカー


<「ソウル・バンドの大騒ぎ」―― 真っ向勝負の「青春映画」の一級の「爽快篇」>



1  「大カタルシス」の映像挿入を不要にした「青春映画」の醍醐味



アラン・パーカー監督の「ザ・コミットメンツ」は、彼の作品の中で、私が最も気に入っている映画である。

直球勝負の威力において、アラン・パーカー監督を超える映像作家はいないとも思える中で、彼の作品は主に、「本格的社会派」の分野で際立つ映像を世に放ってきたという印象が強い。

時には、「ミッドナイト・エクスプレス」(1978年製作)のように、作品のステージになった国を怒らせるビンボール紛いのボールを投球するものの、観る者に多大な訴求力をもたらすアラン・パーカー監督の「本格的社会派」の作品は、真っ向勝負の唸りを上げたストレートの威力において抜きん出ている。

然るに、真っ向勝負の唸りを上げたストレートの威力が増強されればされるほど、そのことによって観る者の情感系を過剰にさせたツケを支払わねばならない。

だから、アラン・パーカー監督の「本格的社会派」の作品には、「大カタルシス」の映像挿入によって声高になった分だけ、情感系を過剰にさせたツケを、多くの場合支払うに至るのだ。

ミッドナイト・エクスプレス」や「ミシシッピー・バーニング」(1988年製作)の作品は、その典型だった。

ところが、本作のような「青春映画」という限定的なジャンルでは、アラン・パーカー監督の作品に共通する「大カタルシス」の映像挿入が不要になる。

「大カタルシス」の映像挿入が不要になった「ザ・コミットメンツ」では、唸りを上げたストレートの過剰な投球も不要となり、そこには単に、ツケの支払いを反故にした真っ向勝負の「青春映画」の醍醐味があった。

ツケの支払いを反故にした真っ向勝負の「青春映画」の醍醐味は、「裸形の自我」がターゲットに向かうときの「不具合による足掻き」、「一時(いっとき)の成功に炸裂する情感爆発」、「人間関係の尖りや不調和」などが自己運動する、「ザ・コミットメンツ」という名のソウル・バンドの曲折的な航跡を、見事に写し取った一級の「爽快篇」に結実したのである。



2  「ソウル・バンドの大騒ぎ」―― 真っ向勝負の「青春映画」の一級の「爽快篇」



「ダブリンに本物のソウルバンドを作りたい」

これは、本作の主人公であるジミー(トップ画像の後方の青年)の夢であった。

この夢を実現させるべく、本作の中で、彼だけは必死になって動いていく。

前列右から二人目がジミー
その結果、形成されたソウル・バンドの名は、「ザ・コミットメンツ」。

「ザ・コミットメンツ」とは、恐らく、「仕事」(バンド活動)や「組織」(バンドのチームビルディング化)に対する「関与」と「愛着」を意味する概念としてイメージされたものと思われる。

然るに、このネーミングは、「ザ・コミットメンツ」の実際の曲折的な航跡への存分なアイロニーとなって、物語を必要以上に騒がせて進行していくのだ。

ともあれ、「ソウルミュージック」は、1940年代にアメリカの黒人たちによる「リズム・アンド・ブルース」をベースにしたもの。

その音楽を、アイルランドのダブリンに住む若者たちが立ち上げたのである。

この立ち上げの先頭に立って、獅子奮迅の活躍を示すジミーが、仲間に放った言葉が鮮烈だ。

「アイルランド人は欧州の黒人。中でもダブリン子は、黒人の中の黒人だ。だから、胸を張って言え。“俺は黒人だ”って」

差別の前線にあるダブリン市民には、同様に差別の前線にあり、なお温存されているアメリカの黒人たちが立ち上げた「ソウルミュージック」を、声高に歌っていく価値があると言っているのだ。

「ソウルは労働者のリズムだ。ソウルは人に訴える。シンプルだが、特別なインパクトがある。ウソっぱちではなく。真実の声だからだ。人間の裸の心が発する声だ。楽しいだけじゃない。がっちりとタマを掴んで、高みへ引き上げてくれる」

これも、ジミーの言葉。

まさに、この叫びこそ、彼らのマニフェストになっていく。

と言うより、マニフェストになっていくはずだった。

しかし、レコード会社との契約の可能性が成立する辺りまで、その実力と人気が沸騰しつつあったにも関わらず、肝心の12人のバンド・メイトの心はエゴ丸出しで、その果ての仲間割れによって、結局、自壊するようにして頓挫するに至る。

最初に問題を起こしたのは、聖歌隊出身のコーラスガールに手を出す、プロの中年のトランペッター、ジョーイの女癖の悪さ。

そして、殆どプロ級の歌唱力を持つヴォーカルのデコの傲慢な態度に、仲間の反感が集中し、トラブル続きの果てに、かつての用心棒の2代目ドラマーに半殺しの目に遭わされる始末。

「くたばれ、うんざりだ!」

ジミー(右)
マネージャーのジミーは、遂にギプアップ。

そして、「爽快篇」のラストシーン。

ファーストシーンのジミーの語りが自問自答であった事実を判然とさせつつ、円環的な自己完結を遂げていく印象的なラストシーンだが、映像の中で、そこだけは些か形而上学的な括りを挿入しているのだ。

鏡に向かって自問自答しながら、回想するジミーがそこにいる。

「バンドで、一番学んだことは何だい?」
「難しい質問だな。だが、こうだ。“ファンダンゴ(注)に乗せて、くるりと回転した。めまいを覚えたが、客はもっと要求する”」

要するに、こういうことだろう。

自らの意志で立ち上げたソウル・バンドの一過的な成功の中で、一時(いっとき)、得も言われぬ快感を覚えたが、「魂の歌」を叫ぶ自己運動が、いつしか世俗の熱狂に収斂されることで自己統制不能と化し、最後は「予定不調和」の曲折的な航跡をなぞっていった。

詰まる所、ジミーは、「ザ・コミットメンツ」のマネージャーというハードワークの経験を通して、「ザ・コミットメンツ」を作ることが如何に困難であるかということを学習したのである。

しかし、思いも寄らぬその経験を「一番学んだこと」と言い切るジミーには、何より貴重な人生経験だったのである。

その人生経験が、彼の「明日」に繋がるからだ。

女癖の悪い中年のトランペッター、ジョーイ(左)
そういう、何とも爽快な真っ向勝負の「青春映画」だった。

「ソウル・バンドの大騒ぎ」 ―― これが、本作への私の簡潔な把握である。


(注)スペインのアンダルシア地方の民俗舞踊で、3/4または6/8拍子の、明るく軽快なリズムを特徴とする。(Yahoo!百科事典参照)



3  「青春挫折篇」を、「青春爽快篇」にモデルチェンジさせたマジックの力技



「気障」、「欺瞞」、「無限抱擁」、「予定調和」、「純粋無垢」、「純愛」、「連帯」、「無償の愛」、「熱き友情」、「寡黙」、「服従」、「ナイーブ」、「清貧」、「清潔」、「理屈」、「屈折」、「抑制」、「曖昧」、「禁欲」、「信仰」、「和解」、「信頼」、「親愛」、「礼節」、「援助」、「依存」、「共有」等々。

半ばジョーク含みでまとめれば、これらの言葉を完璧に、或いは、その表層に張り付くシニフィエ(ソシュールの言うところの、言語のイメージや意味内容)を希釈化させる程度において剥ぎ取ると、「ソウル・バンドの大騒ぎ」という、本作の物語に「純化」すると言えるだろうか。

とりわけ、「信頼」、「親愛」、「礼節」、「援助」、「依存」、「共有」という概念は、私が「友情」の構成要件として考えているので、これらの要件を相当程度不足させていた「ザ・コミットメンツ」に、「熱き強い連帯」など構築できようがなかったのである。

「青春映画」の「爽快篇」とは、個々の仲間が「一つのゴール」へ向かって進んでいく組織作りとしての「チームビルディング化」とは全く無縁に、未成熟な自我がその剥き出しのエゴを衝突させ、結局、本来のソウル・バンドの成功という「一つのゴール」への思いを希釈化させてしまう、低レベルの内輪喧嘩に明け暮れる愚かさを晒すだけだったのだ。

本作の中で、最初のドラマーのビリーが、ヴォーカルのデコとの不和による喧嘩を恐れて、逸早くバンドから抜けて行った理由は、「保護観察の期間中だから」というものだった。

彼の判断は正解だったのだ。

アラン・パーカー監督
「ザ・コミットメンツ」という名の元で、最後まで「ザ・コミットメンツ」を構築できない映像の軟着点に、予定調和のハッピーエンドが待機している訳がないのである。

そのような映画を、アラン・パーカー監督は迫力満点のライブシーンをふんだんに盛り込みつつ、軽快に描き切ったのだ。

観終わった後の感懐に不愉快なイメージが全く残らなかったのは、やはり作り手の映像構築力の抜きん出た秀逸さにあると言える。

数多ある「青春挫折篇」を、「青春爽快篇」にモデルチェンジさせ、映像マジックの力技を垣間見せたアラン・パーカー監督の独壇場の世界が、そこに軽やかに踊っていた。

これほど爽快な気分で鑑賞できる映像は他にないだろう。

そう思った。

(2010年7月)

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